岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

9 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編)

2019年08月01日 18時40分00秒 | 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編)


 俺の嫌いな担任の倉橋先生。
 朝のホームルームで、自分の尊敬する先生の話をしていた。
「私の尊敬する先生はね。国語を専攻している方でね、素晴らしいのよ。どう素晴らしいかというと、職員室で他の先生がお茶をどうですかって言ったの。すると、その先生は、はい、お茶の葉を五グラム、八十三度のお湯で、湯飲みに入れて下さい。入れる前に湯飲みは、ちゃんとお湯を一度入れて、温めて下さい…。そんな適切に言葉を話す人なのよ。私はこのような先生になりたいですね」
 相変わらず阿呆な先生だ。そんな偉そうに注文をつけるなら、自分で入れればいいじゃねえか…。俺はそう思う。そんなのは、ただ、嫌味な奴ってだけだ。
 授業が始まり、従兄弟の洋子ちゃんは積極的に手を上げて、問題に答えていた。
 相変わらず他の生徒に、俺の母親をよってたかって家から追い出したと言い触らしているようである。何故、こいつはわざわざ関係のない人間にまで言うのだろう。いい加減、疎ましい。
 倉橋先生は、常に洋子ちゃんを贔屓していた。
 あまりの露骨な贔屓に、クラスメイトから文句が出てぐらいだった。

「内海洋子さんを私が贔屓しているという意見。最近多くなったと思うので、ハッキリ言っておきます。私は内海さんを贔屓しています。それは当たり前の事です。何故なら、みんなよりも内海さんは努力し、成績もいい。先生の言う事もちゃんと聞く。贔屓して、初めて平等です」
 クラスの中でざわめきが起きた。よくこいつ、先生になれたものだ。ブーイングが起きても、倉橋先生は平然としていた。洋子ちゃんも澄ましている。お似合いのコンビだ。
 ある日、隣の席の平本秀美が休み時間に話し掛けてきた。
「ねえ、神威君。聞いてくれる?」
「なに?」
「倉橋ってさあ、酷いんだよ」
「あいつはそういう奴じゃん」
「そうだけどさあ。とにかく聞いてよ」
「ああ」
 話の内容は酷いものだった。家庭訪問の時の事だったらしい。平本秀美の家は、焼鳥屋をやっている。
 クラスで仲がいいのは、米田佳子。六年間ずっと同じクラスで、いつもこの二人でいるのを見かける。米田の家は普通のサラリーマン家庭で、お互いの家をよく行き来していたらしい。
 家庭訪問で倉橋先生は、平本の親の前で、堂々と失礼な台詞を言い放ったようだ。
「あのですね。米田さんの件ですが、彼女の家は普通のサラリーマンの家なんです。平本さんの家みたいに、スナックって言うんですか? まあ、焼き鳥屋さんですけど、夜遅くまでってご商売とは、生活のリズムが違うんです。なので、あまり米田さんを遅くまで、一緒に引っ張りまわして遊ぶというのは、感心できませんね」
 平本は、話しながらその時の屈辱を思い出したのか、怒っていた。一体、倉橋先生は何を考えて、そんな台詞を言ったのだろう。まともな神経の持ち主ではない。何故、あえてそれを平本の親父さんの前で言ったのか。
「米田が、先生に何か言ったの?」
「ううん…、佳子もビックリしてた。信じられないって…。お父さんも、先生にかなり怒ってた。ふざけんじゃねえって……」
 こんな奴が先生でいいのだろうか。まだまだ一年間、この先生と一緒に過ごしていかないといけないのだ。
 そう考えると、憂鬱な一年になりそうである。

 最近、弟の龍也と龍彦の生意気な態度が目につく。
 口論になると、すぐに親父のところへ言いつけにいく。いつも一方的に殴られる俺。
 無性にイライラが溜まっていた。やるせなさもあった。
 一冊の漫画本。この本は俺が以前買ったものだったが、龍也は自分の本だと主張して、譲らなかった。どうでもいい口論。馬鹿馬鹿しいが、俺も譲りたくはない。
「おまえよ、これは俺が買ったんだぞ」
「俺のだ」
「買ったのは俺。いい加減にしろよ」
「違う、俺のだ」
 こんな口論がしばらく続き、俺は龍也を殴っていた。大袈裟に泣く龍也。泣きながら、階段を駆け降りていく。
 マズい、親父がくる……。
 殴ってから俺は考えた。しかし、何もいいアイデアが浮かばない。しばらくすると、大きな足音で、ガンガンと階段を駆け上ってくる音が聞こえてきた。
「龍一ー」
 部屋のドアが勢いよく開く。怒った顔で親父が入ってきた。
 髪の毛をつかまれ、強引に立たされる。最初に右の頬に痛みが走ったかと思うと、体のあちこちに痛みが走る。俺はメチャクチャに殴られていた。
 泣きながら謝り、許しを請うても、全然攻撃の手は緩まない。フローリングの冷たい床の感触を頬で感じた。やがて足音が聞こえ、部屋には俺一人だけとなる。
 憎い…。親父に言いつけた龍也が憎かった。
 俺をこんなに殴る理不尽な親父が憎かった。
 いずれ、絶対に仕返ししてやる。心に誓った。その為の強さがほしかった。
 何時間ぐらい、こうして床に突っ伏し、このままでいただろう。
「あ、兄ちゃんが泣いてる」
 一番下の龍彦の声で、現実に戻されたような気がした。顔を上げると、龍彦が俺を見て笑っていた。いや、笑っているように勝手に見えたのかもしれない。
「龍彦、何を見て、おまえは笑ってやがんだ」
「笑ってないよう」
「笑ってるじゃねえかよ。そんなに俺が殴られてるのが面白いか」
 全身に狂気がみなぎるような気がした。すべてが気に入らない。
 ただの八つ当たりだった。気がつけば俺は、まだ小学校二年生の龍彦を殴っていた。必死に抵抗する龍彦。俺は構わず殴った。
 数分後、荒い苦しそうな息遣いをしながら、龍彦は床に倒れ、全身を痙攣させていた。騒ぎを聞きつけて、親父がまた上がってきた。俺を冷たい目で睨みつけると、龍彦を抱きかかえて、家の目の前の病院に連れて行った。
 勝手に自分で理不尽な暴力を振るっておきながら、龍彦の無事を願った。
 それと同時に、親父が病院から帰ってきたらと想像すると、恐怖心でいっぱいになる。
 数時間後、俺はまた親父にメチャクチャに殴られた。
 泣きながら許しを請うだけで精一杯の俺。
 母親といい、親父といい、みんな好き勝手に自分のしたいようにしている。
 俺の心は、両親に対する憎悪でいっぱいだった。

 おばあちゃんと一緒に、東京へ行った。
 体があまり丈夫ではないおばあちゃん。千代田区にある病院へ定期的に通っていた。
 一緒におばあちゃんと、東武東上線の電車に乗って池袋まで行くと、いつも駅ビルのところで売っていたチョコボーを買ってくれた。細長いクッキーみたいなものが、チョコで包まれたチョコボー。俺は大好きだった。
 医者におばあちゃんが診てもらっている間、俺は病院の中で一人ポツンと待っている。早く具合良くならないかな。いつもここに来るとそう思う。
 病院の帰り道、おばあちゃんは笑顔で話しかけてきた。
「龍一や、お腹減ってるかい?」
「うん、減ってる」
「じゃあ、今日はここに寄ってこう」
 俺は、初めて寿司屋というものに入った。いつも家で寿司の出前を取った時や、回っている寿司は、食べた事がある。おばさんのユーちゃんが、回転寿司に連れてってくれた事がある。
 でも、ちゃんとした寿司屋はこれが初めてだった。
「ほら、座りな」
 二人でカウンター席に腰掛けると、捻り鉢巻を巻いたおじさんが、元気よく挨拶をしてきた。
「へい、らっしゃい。まず、何にしましょ?」
 元々母親がいた時から、ちゃんと魚料理を食べた事のない俺は、寿司屋にせっかく来てもあまり嬉しくなかった。玉子とかっぱ巻きぐらいしか、食べられるものがないからである。内心、回転寿司のほうが良かったなあと思った。
「龍一、まぐろ食べてみなよ」
「えー、魚、食べられない」
「これだけでいいから食べてみな。ね? 板前さん、まぐろ握ってくれるかい」
「へい」
 俺は捻り鉢巻のおじさんの手に、集中して見つめていた。ご飯を片手にとり、赤い魚を魔法のように手早くまとめる。見ていて、不思議な気分になった。
「はい、坊ちゃん。お待ち~」
 目の前におかれた赤い魚の寿司。回転寿司の寿司とは、見ていて違うのが分かった。おじさんが魔法を掛けたからだろうか。
「ほら、食べてみな。そしたら玉子やかっぱ巻きも頼んであげるよ」
「う、うん……」
 まぐろと呼ばれる赤い魚を恐る恐る口に運ぶ。ぬめっとした嫌な感触。我慢して噛んでみた。
「あ、おいしい……」
「そうだろ」
 おばあちゃんは、満足そうに頷いていた。
 この日からまぐろが、自分中の好物リストに加わった。
 茄子には及ばないけれど……。
「今に見ていろ僕だって……」
「え、な~に、おばあちゃん?」
 俺は不思議そうにおばあちゃんを見つめた。
「いいかい、龍一。今に見ていろ、僕だってって、いつも負けない気持ちを持つんだよ。負けるのは恥ずかしい事じゃない。おまえのお母さんは、家を出て行っちゃったけどね、でも、おばあちゃんやおじいちゃん、ユーちゃんだっているだろ? 広龍だってね」
「あんなのがいなくたって、へっちゃらだよ」
「おばあちゃん、龍一には何くそって頑張って生きてほしいな」
「当たり前だよ」
「そうかい、そうかい」
 今に見ていろ僕だって……。
 俺はまぐろの赤身を食べながら、頭の中で繰り返し呟いてみた。

 おばあちゃんとユーちゃんが作った晩ご飯のすき焼きを食べてから、部屋でリラックスして本を読む。
 夜、テレビを見ていると急にお腹が痛くなった。最初は気のせいかなと思ったけど、ジンジンする痛みは一向に治まらない。龍也と龍彦が心配そうに眺めていた。
「兄ちゃん、大丈夫?」
 返事もできないぐらい痛みが激しくなった。こんな時親父はいつもいなかった。また、お囃子の仲間と飲みにでも行っているのだろう。
 ユーちゃんが、部屋で倒れてうんうん唸っている俺のところに来てくれた。
「龍一、どうしたの?」
「痛い、お腹が痛いよう……」
 薬を飲まされ、大人しく布団で寝かせられた。食中毒という訳ではないみたいだ。だって俺以外の家族は全然平気だったから……。
 夜中に痛みが増加し、トイレに向かう。いくら便器で座っていても、便はでなかった。
 目の前はボーっとして、背景が霞んで見える。ズキンとするお腹の痛みで満足に寝られない。
 意識が薄れる中、家族の声が聞こえた。
「龍一の症状は、盲腸じゃないだろうか」
「急いで病院に連れて行かないと……」
「でも手術で、腹に傷がつくのもどうか……」
 車の後部座席に運ばれ、横たわる俺。運転席と助手席に、おじいちゃんとおばあちゃんがいるのだけは、何となく分かった。
 お腹を中心に、体が捻れる感覚がする。痛みを堪えるだけで精一杯だった。
 少しだけ痛みが引くと、睡魔が襲ってくる。まぶたが重い。
 ズキンとする痛みと車の揺れで、突然現実に引き戻される。
 俺は病院に着くまで、それの繰り返しだった。
 おじいちゃんが、俺の体を抱きかかえて走っている。
 再び、俺は意識を失った。

 まばゆい光……。
 こうこうと照りつける真っ白な光で、俺は目を覚ます。
 一体、ここはどこだろう。
 頭から白いものをかぶり、マスクをつけた知らない人たちが、俺を覗き込んでいる。
 誰…。そう言いたくても口を開けなかった。
 お腹の辺りが、急に熱くなる。体を動かそうとすると、たくさんの手に押さえつけられた。手で触ろうとするが、腕さえも自由に動かせてもらえなかった。
 熱い…。無数のまばゆい光が、俺のお腹目掛けて集中している。
 額からこぼれる無数の汗…。妙に息苦しくなってきた。
 お腹の痛みよりも、光の熱がまさる。
「もうちょっと我慢してね」
 マスクの一人が、優しく声を掛けてきた。早く終わってほしい。それだけを願った。
 全身から吹き出す汗。目に入りそうになる前に、誰かが汗を拭き取ってくれる。
 突然、目の前のまばゆい光がフッと消え、辺りは暗くなった。
 あれだけ熱を感じていたお腹が、次第に冷えていく。
 手でお腹を触ってみた。まだ暖かい。今度は誰にも止められなかった。
「よく頑張ったね」
 覗きこむように女の人が、声を掛けてくる。マスクで口元は見えないが、優しく微笑んでいるのが分かった。
 あれだけ痛かったお腹の痛みが消えている。不思議な気持ちだった。
 安心した俺は、まぶたを閉じた。
 再び目を開けたら、家の中にいた。
 すっかり熟睡していたみたいで、病院からどうやって帰ってきたかも覚えていない。目覚めた俺の顔を見て、おじいちゃんやおばあちゃんは嬉しそうにしていた。
 我が家って、こんなに安心するものなのか。そうしみじみ感じた。
「もう、お腹痛くないかい?」
「うん、痛くないよ。おばあちゃん」
「そうかそうか……」
 そう言っておばあちゃんは涙ぐむ。こんな事ぐらいで泣くなんて、変なおばあちゃんだ。でも、心の奥底がくすぐったかった。
「おばあちゃん、心配かけてごめんね」
「傷がつかないように、光で盲腸を散らしたんだよ。おばあちゃんのよく行く病院でね。ほんとに良かったよ」
 本当なら右下腹部を切って、悪くなった盲腸を取り除く。しかし、家族的には手術の傷跡を残したくないという思いが強かったみたいである。
 何故、そんな事をあえて気にするんだろうか。不思議でたまらない。
 すでに俺の左まぶたの上には二本の傷があるというのに、今さら腹に傷が一つ増えたところでどおって事ないんだけどなあ。

 病院から帰ったその日は、どこも痛みを感じなかった。
 あれだけ痛かったのに、不思議だ。あの熱い光で俺の悪くなった盲腸は、すっかりと体の中から消えたのだろうか。体の中の想像をリアルにすると、気持ち悪くなる。
 もうあんな痛い思いはごめんだった。できれば二度と味わいたくない。
 珍しくおじいちゃんが、親父に怒鳴っているのを偶然見てしまった。
「広龍、おまえは…。息子の龍一が唸って病院に行っているのに、仲間と一緒に飲んでいるほうが大事なのか?」
 黙ったまま、口を開かない親父。この場にいてはいけない。何故かそう思った。
 俺を抱えて病院へ連れて行ってくれたのは、おじいちゃん…。薄れゆく意識の中でも、それは覚えている。その時、親父はどこで何をしていたのだろう。
 龍也と龍彦も、心配そうな顔で俺のところに来てくれた。いつもは言い争いをして、時には殴ってしまう弟たちだが、こうしてみると可愛いものだ。
 従業員の大ちゃんや、お手伝いのせっちゃん。みんなが俺に、優しく接してくれる。
 おばさんのユーちゃんまで、笑顔一杯で俺に接してくれた。
 残念だったのが、ピアノのレッスンを休むハメになってしまった事である。まあ、レッスンといっても、まともにピアノに向かう訳ではない。実際は遊びに行くといった感覚しかない。その帰り道、先生と一緒に行くゲームセンターが楽しみなだけだった。
 まだ今日は、食事を控えたほうがいいらしいので、お腹が減っても我慢した。
 夜になって空腹感に耐えながらも、自然と眠る。今日だけは、おじいちゃんとおばあちゃんの部屋で寝る事にした。
 何時になったかは覚えていない。
 お腹の中から、何かが飛び出そうな強烈な痛みで、俺は悲鳴と共に目を覚ました。
「ギャー」
 両手でお腹を抱えながら俺は、おじいちゃんの畳の部屋を転げ回った。
 大袈裟にでも何でもない。ただ、痛みから逃れようとして、大声を出しながら転げまわるだけだった。この間の痛みなど、比じゃなかった。
「龍一?」
 おじいちゃんが、俺の悲鳴で起きて近づいてきた。
 返事もできずに、ただ転げまわるだけの俺。三十分ほど経つと、自然と痛みも治まった。あれだけの痛み。中から何かが飛び出してくるんじゃないかって思ったぐらいなのに……。
 そのあとおじいちゃんと、おばあちゃんの間に挟まれるようにして、俺はゆっくりと眠った。
 朝になって、トイレに行く。嫌な痛みを感じたと思った瞬間、水分だけの便が出た。下痢で柔らかい便なら何度もあるが、まるでおしっこをするみたいな感じで便が出た。
 一体、俺の体はどうなってしまったのだろうか。得体の知れない恐怖感を覚える。
 これが悲劇への序章でもあったのだ。

 漫画雑誌週刊少年ジャンプで人気連載中のキン肉マン。
 その待望のアニメ化が決定した日でもあった。俺ら兄弟は、キン肉マンを楽しみにしていた。俺は夜中の腹痛の事などすっかり忘れ、キン肉マンが始まるのをひたすら楽しみにしていた。
 当時流行ったキン消し。キン肉マンに出てくる超人たちが消しゴムとなってカプセルに入っていた。
 消しゴムといっても普通の消しゴムではない。キン消しでノートを消そうとしようものなら大変な事になる。ノートは汚れるは、キン消しまで汚れるはで、何一つ、いい事がない。ただのコレクションにしか過ぎない。
 そのキン消しをとにかくガチャガチャでいっぱい集めた。三兄弟、全部のキン消しを集めると、バケツで五杯分はあった。
 時間が来て、テレビの前でキン肉マンの初放送を見ようとした時だった。
「……!」
 始まる……。
 夜中に味わったもの凄い腹痛が、再び俺を襲った。エイリアンがお腹の中で暴れているようだった。
 龍也と龍彦は、ビックリして俺を見ているだけだった。
 何かが、俺の中で暴れまわっている。そんな表現がピッタリくるような痛み。嗚咽を洩らしながら、部屋の中で転げまわった。
 必死に立ち上がり、トイレに行こうとした。クソをすれば、痛みも軽減するんじゃないか…。とにかくこの痛みをなくしたかった。
 その時だった……。
 立ち上がった状態のまま、今朝と同じ状態の水みたいな便が我慢できずに噴き出した。ケツの穴を締めればいいとか、そんな問題ではない。自然と立ち上がった瞬間、クソが垂れ流れたのである。
 弟たちは呆気にとられるしかなかったようだ。俺はその状態で、何度も水のような便を垂れ流していた。
 正直、キン肉マンどころではなかった。
 それから、おじいちゃんの部屋で安静にして寝ていた。
 痛みが少しだけ引いたようだ。
 誰かの話し声で目を覚ます。
「どうなっているんですか? うちの龍一、あれじゃあ前より酷くなってますよ。本当に大丈夫なんですか?」
 声の主はおじいちゃんだった。
「……。しかし、痛がり方が尋常じゃないです。ええ、安静にですか……」
 電話を切ったあとのおじいちゃんの表情は、いつもと違って厳しそうだった。俺が起きたのを確認すると、いつもの笑顔に戻る。
「龍一、大丈夫かい?」
「うん、今は平気だよ」
 出来る限り精一杯、俺は笑顔で答えた。
 夜になって、またあの悪魔のような痛みが襲う。食べ物を食べる元気もなく、俺は弱っていた。ただ、黄色い水のような便を垂れ流すだけだった。
 このまま俺は終わるのだろうか。
 死んでいくのだろうか。
 そんな事が頭によぎった。

 気がつくと、深夜、俺はおじいちゃんの腕に抱えられて、地元の病院に運ばれていた。
 すぐに手術室に運ばれ、緊急手術になった。
 盲腸なのに、背中に全身麻酔を打たれる。舌まで痺れるような感覚がした。
 ボーっと天井を眺めている内に、手術は終わったようである。
 その日から入院生活が始まった。非常に退屈である。
 でも、何度も頻繁に訪れる地獄の痛みから、これでようやく開放されたのだ。
 初期の病院食は酷いものだった。
 重湯に、味噌汁の味噌が沈んだ状態の上の部分だけの汁。これは激マズだった。マシなのは、オレンジジュースだけだ。
 早く茄子が食べたかった。
 ハンバーグが食べたかった。
 ミートソースが食べたかった。
 ピザも…、お餅も……。
 餅で思い出した。
 昔、かびた餅をそのまま焼いて食べて、三兄弟プラスおばあちゃん、みんな食中毒で病院送りになった事があったのだ。まあ、どうでもいい事だが……。
 普通の盲腸は、急性と呼ばれるものらしい。しかし俺のは慢性型だったようで、手術で取り出したときは、腐って破裂寸前だったみたいだ。
 あの光を当てて盲腸を散らすという病院。そこの先生は、安静にしていれば大丈夫ですと、自信満々でおじいちゃんに電話で言っていたらしい。
 だけど、あまりの俺の痛がりようで、近所の医者に連れていったようだ。
 おじいちゃんの素人判断がなければ、俺は盲腸が破裂して、命を落としていたかもしれないのだ。
 そんなおじいちゃんは、二日間に渡ってずっと泊り込みで看病してくれた。
 親父が見舞いにきたのは、二日目だった。相変わらず陽気で、外では笑顔を絶やさない親父。看護婦さんに笑顔で元気よく挨拶をしている。
 そんな親父も、俺のパンツを履き替えさせてくれた。尿瓶を持って下の世話もしてくれた。その時、俺は親父の手に、クソを洩らしてしまった。
「なんだよ、おまえは…。まあ、どんどんしろ。クソが出るのはいい事だ」
 俺のクソが手に掛かりながら、親父は笑顔で言ってくれた。
 この時ばかりは親父を見直した。同時に申し訳ない思いでいっぱいだった。
 担任の倉橋先生がやってきた。クラス全員、原稿用紙で俺宛の作文を書かせ、持ってきた。なかなか粋な事をしてくれるものである。素直に感謝した。
 しかし、俺の下腹部に手の平をかざし、病院でもハンドパワーをやりだした。
「どう、神威君。暖かくなってこない?」
「まあ、言われてみればそんな気が……」
 とりあえず今回だけは先生に合わせておいた。
 義理を欠いては男じゃないからだ。様々な漫画の主人公たちを見てきて思ったのが、格好いい主人公は義理堅いという点だった。だから俺も、そういう風になりたかったのだ。男なら死ぬ時は、前のめりに倒れたい。誰かの為に倒れて行く。非常に格好いい生き方だと思った。真似をしてでもいいから、そうありたかった。
 病院というのは、本当に暇で退屈な場所だった。クラスメイトの作文や、お見舞いにくれた漫画本を何冊も読み返した。
 看護婦は、俺を可愛いねと非常に可愛がってくれた。まだ小学六年生の俺から見ても、ここの病院の看護婦は美人揃いだった。
「おい、俺の世話をキチンとしろよ。そしたら退院する時、すぐそこのうなぎ屋さんで、うなぎを奢ってやるよ」
「ほんと、嬉しいな」
 自分の金もないのに、格好をつけて俺は一人の看護婦に言った。まあ、あとで家族に言えば、何とかしてくれるだろう。簡単に思っていた。

 退屈な日々はさらに続く。
 病院は学校から見れば、一駅分以上離れていたので、小学生にしては遠い距離にあった。それでも日に二、三名のクラスメイトが、わざわざお見舞いに来てくれた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎ去るのも、病院で学んだ。みんなが帰ると、寂しい気持ちでいっぱいになる。
 おばさんのユーちゃんが弟の龍也と龍彦を連れて見舞いに来る。ユーちゃんは俺の好きな『山中恒』の本『カンナぶし』を買ってきてくれた。
「おまえは最近漫画ばかりだからなあ。本ならしばらく時間を潰せるだろ?」
「ありがとう、ユーちゃん」
 それから僕は同級生が来ると、図書館で何か本を借りてきてほしいと頼み、日々本を読むようになった。
 夜、寝ていると、化粧品のキツい匂いが鼻をつく。誰かが額に手の平を乗せている。一瞬薄目を開けると、親父の姿が見えた。素直に目を開けられなかった。
 何故なら、横にはあの三村というおばさんまで一緒にいたからだ。
「あら、まだ眠いみたいね。広龍さん、そっとしておきましょうよ」
 三村はそう言って、親父と一緒に病室から消えた。
 一体、親父はどういうつもりで三村をここに連れてきたのだろうか? いい気分はしない。化粧品の匂いだけが病室に残っていた。
 ゲームが無性にやりたかった。もう二週間以上やっていない。まるでジャッキーチェンの映画『酔拳』に出てくる師匠格のおじいさんが酒が切れたような感覚で時間を持て余していた。あのおじいさんのように俺もその内、指先がふるふると震えてくるんじゃないか?
 そう思うと我慢できずに病院を脱走した。車がビュンビュン走る大きな道路を歩いき、ゲームセンターを探した。
 気付けば結構遠くに来ていた。西武新宿線の本川越駅の次の駅『南大塚』まで歩いていたのだ。その甲斐あってゲームセンターはすぐ見つかった。
 おじいちゃんが、多少の小遣いは置いていってくれていたので、有り金全部をほとんどゲームにつぎ込む。
 満足いくまでゲームをすると、自分のとった行動に戸惑いを覚えた。今頃、病院はどうなっているだろう? あの看護婦も大騒ぎしているんじゃないか。
 俺は駆け足で病院に向かった。お腹が痛い。でも、気にせず懸命に走った。
 病院につく頃は、全身汗だくになっていた。
「龍一君、あなた何をやってたの?」
 お気に入りの看護婦さんが、俺の姿を見つけてくれる。やっぱり俺を最初に見つけてくれたのは、このお姉さんだった。
 目の前が次第に暗くなり、俺はそのまま、廊下で倒れた。
 まだ手術した傷口がちゃんと閉じていないのに、脱走して走ったりしたから、再度、傷口の縫い直しになった。病院に帰ってきた俺は、お腹から出血していたらしい。
 おかげで入院する日にちが、延びてしまった。
 この事は家族にもバレ、散々怒られた。怒られたくないという思いで頑張ったつもりが、自分で自分の首を絞めていたようである。まあやってしまった事は仕方がない。
 そんな感じで後半期は、大人しく真面目に入院生活を送った。
 退院の日が来て、一番可愛がってくれた看護婦さんは涙目で見送ってくれた。こういう美人の人を将来は嫁さんにほしいなあなんて、ませた事を考える。そうだ、この看護婦さんと約束があったっけ……。
「ねえ、お父さん」
「なんだ?」
「あの看護婦さんにさあ、あそこのうなぎ奢ってやってよ」
 そう言った瞬間、頭を思い切り叩かれた。
 俺は泣きながら、看護婦さんに謝って詫びた。もっと大きくなってお金を稼げるようになったら、この人にうなぎを奢ってあげよう……。
 そう思いながら、俺は現在に至っている。今頃どうしているだろう。あれだけ美人で優しい人だ。きっと幸せに子供を産み、心の豊かな生活を送っているのだろうな。

 俺のおじいちゃんが天皇陛下に勲章をもらったのも、小学六年生の頃だった。
 勲五等瑞宝章…。当時の俺には、難しくて意味が全然分からなかった。
 ただ、近所の人や家の中でも、大騒ぎになっていたのだけは覚えている。
 遠くからみんなに祝福されるおじいちゃんを眺めた。親父に集まる人の輪とは、少し違うような気がした。
 ホテルでお祝いパーティーが開かれ、歓喜の声を上がる。
 俺たち三兄弟は、目の前のご馳走を色々食べるのに忙しく、話もロクに聞いていなかった。
 別におじいちゃんが天皇陛下に勲章をもらったからといって、俺まで偉くなった訳じゃない。
 ただ、従兄弟の洋子ちゃんが、これを知ったら悔しがるだろう。彼女だけには教えてあげたかった。
 いつも人の家を小馬鹿にして、わざわざクラスメイトや先生に内部事情までわざわざ話す神経の持ち主。頭がいくら良くても、あれじゃあ何の意味もない。
「あの家は、よってたかってお母さんを追い出したんだよ」
 洋子ちゃんの口癖の一つ。新しく知り合う子には、絶対に言う代名詞的な台詞の一つだろう。
 あえて、俺は肯定も否定もせず、ただ言わせていた。
 本音を言えば、グーで思い切り、洋子ちゃんの顔面を殴り飛ばしたい。
 しかし、女は殴るものではない。
 ユーちゃんを殴った親父。夜中に、折れた鼻を押さえながら苦しんでいたユーちゃん。いかなる理由があろうとも、男が女を殴るものではないのだ。これを反面教師というのだろうか。
 俺は、照れくさそうに笑うおじいちゃんの顔をしっかり見た。
 つい、親父と比べてしまう。おじいちゃんは、身をもって自分の背中を見せてくれた。勲章をもらった事じゃない。生き方という点でだ。
 いつも俺たち三兄弟を優しく見守り、俺の命まで助けてくれた。感謝してもしきれない。母親が家を出て行っても、全然寂しくなかった。
 親父が俺たちに構ってくれないても、へっちゃらだった。
 おじいちゃんの横にひっそりと立ち、笑うおばあちゃん。幸せそうだった。ずっとこの二人はお互いを支え合ってきたのだ。
 何故、こんな両親を持ちながら、親父と母親はああなってしまったのだろう。
 いくら近所で俳優と女優と持て囃され人気があっても、あれじゃ何の意味もない。
 今、親父はどんな顔をして、自分の親を見ているのだろうか。
 あえて俺は、親父の顔は見ないようにしていた。

 こうして俺は、特に刺激もなく平凡な毎日を送りながら小学校生活を終える。
 結局母方の従兄弟の洋子ちゃんとは、最後の最後まで和解する事などなかった。別に俺はからは何も仕掛けていない。向こうがデマを都合よく流しているだけなのだ。だから放っておくしかない。中学へ行っても、彼女とはまだ三年間同じ校舎で過ごさなきゃいけないのが憂鬱だった。
 担任の倉橋先生も最後まで好きになれなかった。俺は変わらずテストになると、オール百点と次のテストはオール八十五点を繰り返した。先生が自分で得意だと自慢した国語の授業になると、俺は手をあげて先生の質問に答え、どうでもいい事をワザと言いながら二十分ぐらい意味のない事を話した。当然クラス中から「なげーよ」と文句の声も出たが、これは俺の先生に対するただの嫌がらせだから、すべて無視して自分の信念を曲げなかった。
 そんなクラスの半分は、僕の行く富士見中学とは別の中学へ行ってしまう。仲の良かった淳治君や洋介君は同じ中学。腐れ縁みたいな関係の神谷君は別の中学へ行くからお別れだ。卒業する頃は、神谷君のアゴにある大きなドーナツ型のホクロは、いつの間にか普通のホクロに戻っていた。
 俺の事が好きだったという『ちゃま』は、途中でどこかの学校へ転校していなくなった。寂しさなどまったくなく、これで泥棒なんて呼ばれる事もないなとホッとしている自分がいた。
 大した感動もなく五、六年生を終え、三年桜組の福山先生時代を懐かしく感じた。今頃どうしているのだろう?
 この六年間を振り返ると、印象に残っているのがやはり母親の件と福山先生だった。
 母親は俺に暴力という怖さを教え、俺の顔に傷を残していなくなった。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
 未だおもちゃの電話をぶつけられた時の笑い声は忘れられない……。
 それだけじゃない。可愛がっていた猫のみゃうをダンボールに詰め込んで、川に投げ捨てた。
 表面的な傷だけでなく、母親は俺の心に深い傷を負わせていたのだ。
 俺は親父を憎んでいると感じたけど、まだ目の前では笑って普通に話ができる。多分、本当に心の奥底から拒絶し憎んでいるのは母親なのだろう。
 目の前の映画館『ホームラン』で見た松本清張原作の『鬼畜』。あれに出てくる女の人よりも、母親は酷かったのだから……。
 クラスのほとんどの生徒は、みんな両親がいる。俺は片親になってしまったけど、嬉しいぐらいだった。自由を手に入れる事ができたから。
 自由とは何かを考えてみた。自分の感情の思うまま笑える事。そしてお腹いっぱいにご飯を食べられる事。
 その自由を履き違えていたからこそ、俺は福山先生に小学三年生の時、みんなの前でやっつけられたのだ。
 あの福山先生は、人間としての生き方を色々教えてもらったような気がする。本当ならもっとあの先生に教えてもらいたかった。まだまだ分からない事がたくさんあるし、できれば俺がこうして母親を憎んでいる事は正しいのか? それを一度聞いて答えてもらいたかった。 
 福山先生は、どんな答えを出してくるのだろう……。

―了―

題名 『鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~』 一章 幼少編
作者 岩上智一郎

2010年2月21日 ~ 2010年2月25日 原稿用紙換算で444枚
本編全体 2010年1月10日 ~ 未完成 原稿用紙4588枚

 

 

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1 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章幼少編)「この子はとても面白い」「ん、まだ赤子じゃないか」「そうだよ」「がさつな君が言ったところで何の説得性もないぞ」「ははは、...

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2 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

「おいおい、ちょっと酷くないか?」「何が?」「君はこの映画を根底に植え付けようというのか?」「う~ん、まあそういう形になるかな」「この子が白いと言っていた事は何...

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3 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

走っている間、僕はずっと泣きながらママに、箱から出すようにと何度もお願いした。ママは聞き耳ををまるで持ってくれない。途中でダンボールからみゃうの手が突き出した。...

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4 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

日曜日になると、おばさんであるユーちゃんは近所のデパートに連れて行ってくれた。僕だけじゃなく、弟二人も一緒にである。僕たちの目が五階のレストランのショーウィンド...

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5 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

それから僕の学校生活は非常に有意義なものとなった。クラスはあの件以来、一体感を出すようになっていた。男は女を殴るものではなく、逆に守るものなのだ。そんな教訓が僕...

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6 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

三学期の終わり頃になると、ちゃまが可愛い鉛筆をあげると僕に言ってきた。僕はその鉛筆のデザインが気に入り、素直に受け取った。ちゃまは喜んで、次の日も僕に違う鉛筆を...

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7 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

学校に行きたくない。家に帰ると、その事ばかり考えていた。深刻そうな僕の顔を見て、おばあちゃんが声を掛けてくる。「龍一、どうしたんだい?」僕は学校の給食の話をした...

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8 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

週に一度のピアノのレッスン。僕は真面目に通っていた。真面目にといってもピアノのレッスンに行くまでというだけで、遊びに行っているようなものだった。ピアノは弾かず、...

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