学校に行きたくない。家に帰ると、その事ばかり考えていた。深刻そうな僕の顔を見て、おばあちゃんが声を掛けてくる。
「龍一、どうしたんだい?」
僕は学校の給食の話をした。おばあちゃんは相槌を打ちながら真面目に聞いてくれた。
「そうかい…。確かに食べ物を粗末にするのは、良くない事だよ」
「うん……」
「私らが龍一ぐらいの年は、戦時中でね。食べるものだって、ろくすっぽなかったんだよ。お米だってまとめに食べられない」
おばあちゃんは遠くを見つめるような視線で、静かに話していた。
「じゃあ、何を食べたの?」
「うーん、そうだね…。芋をおかゆみたいにして作る芋粥とかね」
「それ、おいしいの?」
「食べるものなら、私らにとって何でもご馳走だったねえ。今みたいに裕福な時代じゃなかったんだよ。好きなものなんて、とてもじゃないけど食べられない時代だったんだ」
戦時中の様子を想像してみたが、うまく浮かんでこない。でも大変な時代だったというぐらいは理解できた。
カーブーがまだ、家にいた頃…。家はどちらかというと、裕福な部類に入るのに好きなものを僕は食べられなかった。お腹一杯ご飯を食べる事もできなかった。
思い出すと悲しくなってくる。笑う事も制限され自由に笑えなかったあの頃。戦時中のおばあちゃんたちと、どっちが大変だったのだろう。比べたくてもそれは無理な話だ。
確かにあの頃を思い出せば、ちくわの天ぷらぐらい我慢して食べられるはずだ。食べ物を大事にしないといけない事ぐらいは、僕にも分かる。
「そうだね、僕が悪かったんだ」
そう言うと、おばあちゃんは優しく微笑みながら、頷いてくれた。
「うんうん。いい子だね、龍一は」
僕は、そのあとの太田先生の発言を話した。優しかったおばあちゃんの表情が、険しい顔に変わった。それからしばらくしておばあちゃんはいつもの笑顔に戻った。
「龍一の言い分はすごい分かるよ。でもね、その先生も家の事…、まだ知らないんだよ。新しく来たばかりの先生だろ? けっして悪気があって言った訳じゃないんだよ」
「そっかー」
「確かに龍一のお母さんは、もう家にいない。でも、寂しいかい?」
「ううん…。全然…。だって、おばあちゃんや、おじいちゃんがいるもん」
「そうかい」
そう言って、おばあちゃんは僕の頭を優しく撫でてくれた。
おばあちゃんの作ったご飯を食べながら、僕は今日の給食の件を思い出していた。誰でも苦手なものはある。それを強引に食べさせるのはどうなんだろう? いくら考えても答えは出ない。何故なら先生の言い分も分かるからだ。昔の戦時中の話。僕もその時代に生まれていたら、好き嫌いなんて言っている場合じゃないだろう。確かに食べ物を粗末にするのはいい事ではない。
「お、龍ちゃん。おいしそうなもの食べてるね」
うちのクリーニング屋で働く住み込みの大ちゃんが居間を通り掛かる際、声を掛けてきた。
「うん、いいでしょ?」
「大奥さんの作った料理、おいしいもんね」
「うん、おいしい」
その時玄関のチャイムがなった。おじいちゃんが席を立ち、玄関へ向かう。こんな時間に誰だろう? とっくにお店は閉まっているのにな。
特に気にせず、僕は弟の龍也と龍彦にちょっかいを出して、ふざけあっていた。
「龍一、ちょっと追いで」
おじいちゃんの声がする。何だろう? 僕は呼ばれるまま、玄関へ向かった。
廊下に出て玄関先を見ると、僕はビックリしてしまった。
「お、太田先生……」
こんな夜に太田先生が家の玄関先にいる。何故だろう? 僕には理解できないでいた。
「はじめまして、神威君のクラスを受け持つ、太田と申します」
学校とは幾分違う、よそ行きの声を先生は出していた。妙に声が甲高い。
「こんな時間にどうしたのですか?」
「いえ、実は謝らないと、いけないと思いまして……」
「え?」
「今日、学校で給食の時間なんですが……」
「ええ」
太田先生の顔は真剣だった。何で僕に、先生が謝らないといけないのだろう。
「給食を残さず食べないさいという教育方針の件で、神威君を今日、かなり怒りました」
「何を言ってるんです。当たり前じゃないですか」
「いえ、それで彼にお父さんや、お母さんに感謝するんだよと、説教してしまいまして…。あとでクラスの生徒から、聞いて知ったのですが…。お母さんの件です。かなり神威君を傷つけてしまったなと、ずっと反省しておりました。ごめんな、神威…。先生が悪かった。事情も知らんと、好き勝手に言ってごめんな。すまんかった」
必死に僕へ謝る太田先生。確かにカーブーがこの家にいないのは事実だけど、そんなに謝らないでもいいのに……。
でも、細かい事まで気にしてくれた先生に、僕はいい印象を受けた。あれだけ怒られたのに、そんな事などどうでもいいような気がする。
「いえ、僕が給食を残したりするから、駄目だったんです」
「先生な、これからも給食の件はうるさいぞ。ただ、お母さんの事まで持ち出したのは、本当に悪いと思っているんだ。ごめんな……」
「気にしてませんよ、先生。これからもよろしくお願いします」
僕は心から笑顔でそう言えた。先生の行動が嬉しく感じる。もしかしたら、福山先生と似たタイプの先生なのかもしれない。僕はこの先生とも、うまくやっていけるかもしれないんだ。心の中の暗雲が、どこかへいったように感じる。
「よーし、明日からもビシビシ、先生はいかせてもらうぞ」
「お願いします」
僕は今後給食で、二度とあのちくわの天ぷらが出ない事を必死に祈った。福山先生が辞めたショックも、この先生となら癒せるかもしれない。素直にそう思った。
福山先生は当時俳優の『水谷豊』が主役のドラマ『熱中時代』を夢中で見ていたと言っていた。案外、太田先生もその口なのかもしれないな……。
起きたら朝、頬が膨らんでいた。急にデブになったみたいだ。
気のせいか熱もある。体もダルい。風邪にしてはこの頬の腫れ、おかしいと思う。
僕はおかしいと思いながらも、普通に学校に行った。
普通に授業を受け、普通に給食を食べて、普通に掃除をして帰ってきた。そのままダウンした。
原因はおたふくだったらしい……。
なのでクラスのみんなに移したらしく、学級閉鎖になったみたいだった。
治ってから学校へ行くと、ブツブツ文句を言う生徒もいたが、大人になってからおたふくになると大変らしいので逆に感謝しろと太田先生は不思議な説得の仕方をしていた。
もうあんなに頬が膨らむ事もないだろう。
僕は、鏡に写った自分の顔を思い出してニヤッと笑った。
そんな状況の中、授業参観日の日がやってきた。
みんな、自分のお母さんの話をしてニコニコしている。まだ教室には誰も来ていないが、誰のお母さんが最初に来るかと、みんなは勝手に予想していた。
少なくても僕のママじゃない事だけは確かである。僕の家にママがいない状況を知っているのは、クラスの中でも純治君だけだった。みんなが楽しみにしている感情は僕の中にはない。もし、家にママがいたとしても、来てほしくはなかった。
以前、授業参観日があった時、家へ帰ってママに怒られた記憶が蘇る。声が小さい。元気がない。姿勢が悪い。怒られる事はたくさんあっても、誉められる事など何もなかった。先生の質問にはちゃんと答え、真剣に授業を受けていたのに怒られた。
それ以来、授業参観日などなければいいのにと思っていた。でも、もうそんな怒られる事はないのだ。
一番初めに入ってきたのは、純治君のお母さんだった。みんなの視線が注がれる。純治君もお母さんも照れ臭そうにしている。こうして次々にクラスの生徒のお母さんが登場した。担任の太田先生は少し落ち着きがないように見えた。坊主頭なのに、必死に髪の毛を手で何度も整えているような素振りをした。僕はその様子がおかしくニヤニヤしていた。
いつもの授業風景とは明らかに違っていた。母親の来ている生徒たちは、どこかしらそわそわしているように見える。途中で後ろを振り向くと、純治君のお母さんが僕を見ていた。視線が合うと、優しそうに微笑み、軽く手を振ってくれる。僕は慌てて黒板のほうを向く。
太田先生の声もいつもと違っていた。妙に甲高い声になっている。黒板を書く手が、小刻みに震えていた。
そんな感じで、授業参観は無事終了した。
親子で帰る生徒。恥ずかしそうに突っ張って、自分で勝手に帰るという生徒もいる。
僕はそういった風景を見ていて、少しせつなさを感じた。でも家でみんな、仕事をしているのだから仕方ないと納得させた。
「龍ちゃん、うちの純治と一緒に帰ろうか?」
純治君のお母さんが声を掛けてくれる。こんな僕に気を使ってくれたのだろう。気持ちはとても嬉しかったけど、少し惨めな感じがした。僕は無理に微笑んで話した。
「い、いえ…、大丈夫です」
自分で言っておきながら、何が大丈夫なのかと考えた。教室にいるのが居辛く感じ、僕は廊下に向かった。
「あら、龍一ちゃん」
急に声を掛けられ、その方向を振り向く。
視線の先には一人の女性の姿が見えた。
ママのお姉さん、僕にとっては洋子ちゃんのママが立っていた。当然その横には従兄弟の洋子ちゃんが立っている。いつものように僕を睨んでいた。
「久しぶりね、龍一ちゃん」
「はあ……」
仕方なく僕は近づいた。
「今日、校門のところで、龍一ちゃんのお母さんが待っているのよ。これからみんなで、ご飯でも食べに行こうよ」
その台詞に僕は一瞬、目の前が真っ暗になった。
ママが来ている……。
何でだろう……。
頭の中は一気に混乱した。
頭の中は疑問から、次第に恐怖に変わっていった。
「ほら、一緒に行こうよ」
洋子ちゃんのママが、僕に触ろうとした手を自然と跳ね除ける。
一緒に行ったらママに捕まってしまう。
昔の恐怖が刻々と蘇ってきた。
体が震えだす。
まぶたの傷が疼きだした。
「龍一ちゃん?」
「お母さん、こんな奴、別に無理して誘わないでもいいよう」
洋子ちゃんの冷たい声が聞こえてくる。僕はその場から逃げ出した。
急いで家に帰りたかった。周りの様子など、何も気にならない。
もし、捕まったら殺される……。
それだけを考えながら、僕はひたすら走った。
校門が見える位置まで近づいた。僕はその場に止まり、辺りの様子を伺った。
ママが学校に来ている。その恐怖がいつまでも体を震わせていた。
絶対に見つかる訳にもいかない。
その時、後ろから肩に誰かが手を掛けてきた。
「りゅ、龍一……」
聞き覚えのある声。
体がすくむ。全身に鳥肌が立つ。
後ろをわざわざ振り向かなくても、誰かはすぐに分かった。
いつの間に僕の後ろにいたのだろう。心臓は、音が聞こえるぐらい高鳴っていた。
「げ、元気だったかい……」
僕は強引に後ろを振り向かされる。
目の前には想像通り、ママが立っていた。
僕を見て、涙を流している。まぶたが細かく痙攣しだした。
怖い…、このままでは殺される。
過去の虐待が何度も頭の中で繰り返し、映像化される。どのくらいママと会っていなかったのだろう。出て行ってからの幸せな日々が、これで終ってしまうのか。
「龍一……」
精一杯の勇気を振り絞れ……。
僕は一気に肩の手を振り切り逃げた。
捕まったら殺される。
懸命に走った。
何も余計な事は考えず、ただひたすら逃げた。
怖かった。逃げるという事しか考えられない。
どのくらい走ったかは分からない。息が苦しかった。でも、止まる訳にはいかなかった。後ろを気にする余裕もなかった。
「ビッ、ビーーーーーーーー……」
突然、クラクションの音が聞こえる。僕の視界に、バイクが向かってくるのが映った。一瞬、目の前が真っ暗になる。体中が痛かった。自分が今、どうなっているのかが、理解できないでいた。
景色がボンヤリ映る。いつもみたいにハッキリと見えない。気付くと、地面に手をついていた。左肩が痛い。
「坊や。坊や、大丈夫かい? おい、坊や」
「聞こえるか?」
「おい、しっかりしろ」
耳元で色々な人の声がする。誰に言っているのかは分からないけど、うるさいなあ……。
「おい、坊や」
「大丈夫か、坊や?」
辺りは相変わらず騒々しかった。次第に僕の視界がハッキリしてくる。何人もの大人の顔が見えてきた。みんな、僕を覗き込んでいる。僕は道路で転んでいた。
「お、気がついたみたいだぞ」
「大丈夫かい、坊や?」
僕は怖くなって立ち上がり、その場から一目散に逃げた。真っ直ぐ家に向かって走った。ママに捕まってしまう。それだけを考えていた。
後日、分かった事だが、僕は授業参観の帰りに道路へ信号無視で飛び出し、同じ学校のPTAの会長の運転するバイクに轢かれたらしい。
家にPTAの会長のおじさんが何度も僕に謝りにきた。おじいちゃんが丁寧に応対して、この件は何事もなく済んだ。
僕はどこも後遺症はなく、肩に転んだ時の擦り傷があった程度だった。
あれ以来、僕は学校に行くのが怖くなった。休む訳にはいかないので、仕方なしに通ったが、帰り道は辺りを警戒しながら用心するようにした。
授業参観で起きた事は、家族の誰にも言えないでいる。
僕はママが家を出て行ってから、口に出してママと言った事がない。
弟の龍也も龍彦もママを恋しがってはいなかった。前よりもまして、楽しく笑って過ごせるようになったのだ。ママのいない日常など、何も気にならなかった。
最近になって僕は思う。
僕はママを嫌いというか、憎んでいる。
鏡を見る度に、そう思った。
まぶたの上についた二つの傷。
そんなものより、心をエグられた傷のほうが痛かった。
自由を奪われていた日々。操り人形のように生活を繰り返していたあの頃。僕はちゃんとした人間で、意思だってあるのだ。
そう思うと、ママという表現を使いたくなくなっていた。お母さんや母親といった類の言葉も嫌だった。兄弟で僕たちはその事について話し合った。
「なあ、龍也、龍彦。おまえたちさ、ママに会いたいか?」
「全然」
以前、理不尽な件でぶたれた事のある龍也はすぐに即答した。
「分かんない」
物心がまだついていない時代で、恐ろしさをそこまで知らない龍彦はそう答えた。前にべランダで足首を持たれ、引きずられた事など覚えていないのだろう。
「そうか。俺はもう、ママって言葉を使いたくない」
「じゃあ、何て言うの?」
「うーん、そうだなあ……」
「何かいい言い方ってある?」
一応、お母さんという言葉を連想させるキーワードが必要だ。
「そうだ、お母さんの『か』の字と、ムカつくから『ブー』を足してさー」
「うん」
「カーブーと呼ぶのはどう?」
「カーブー」
「龍彦は?」
「カーブー」
「よし、じゃあ、これからはカーブーと呼ぶ事にしよう。それでいいな」
「うん」
「いいよ」
それから僕たち兄弟の中でママという言葉は消えた。
新しいカーブーという固有名詞になったのだ。
今まで恐ろしい思い出しか残っていないカーブー。
「ねえ、そういえばさー…、ペットのみゃうって最近見ないよね?」
「……」
あの件から一年以上は経つだろう。僕の忌々しい記憶。思い出すと、鳥肌が立ってきた。
「うちのちゃけと一緒にいたら、仲良しさんなんだろうけどねー」
何も知らない龍也は、無邪気にそう言って笑う。
僕は何も答えられなかった。あのような残酷な事件をどうやって弟たちに伝えるのか。とてもじゃないが、伝えられない。
どの家のお母さんもみんな優しかった。
でも、カーブーは違った。みゃうをあんな風に扱ったカーブーが許せなかった。
授業参観日の時、学校に来たカーブー。
あの時はただ恐ろしく思うばかりで何も考えられなかったが、おかげで僕は事故に巻き込まれた。
カーブーと名づけたこの日から、僕は自分を生んだ母親に対し、完全に憎しみを抱くようになったのだ。
デパートでいつものレストランへ行ったり、ちょっと遠出して遊園地に行ったりと…。僕たちは、毎週日曜日になるのをワクワクしながら待っていた。
おばさんのユーちゃんはいつも優しかった。おばあちゃんと一緒に食事を用意してくれたし、遊びにも色々連れて行ってくれた。
勉強を夜になると付き合って見てくれた。おかげでテストは相変わらず百点満点ばかり。
僕は茄子を普通に油で揚げて、生姜醤油でシンプルに食べるのが好きだった。
茄子さえあれば、これだけで僕は一生やっていける。そんな風にも思った。
ヘタを取った茄子一本を縦に切り、半分になったものを油で揚げる。見ているだけで楽しかった。毎日茄子が出てくれたらなとも感じた。茄子は僕のライフワークになりつつあった。
一日の小遣いが百円の僕は、大抵インベーダーゲームを一回やって終っていた。お菓子に使うのは、月に一度あればいいぐらいだった。
そんな僕が、道を歩いていて八百屋の前を通過しようとした。ハッと足が止まる。僕の目は、八百屋のかごに入った茄子に注目していた。
たくさん陳列される茄子の山。値段を見ると、『一山 百円』と書いてあった。
ポケットに手を突っ込む。百円玉の感触を感じる。
インベーダーをやらなければ、このたくさんの茄子を買えるんだ……。
僕は八百屋の前で考え込む。茄子は一山で、八本ぐらい入っている。これだけの茄子を油で揚げて、全部一人で食べられたら痛快だろう。
「あら、龍ちゃん、お使いかな?」
八百屋のおばさんが笑顔で出てくる。この時に、僕の決心は決まった。
「な、茄子…、その茄子を一山下さい」
「偉いわねー。うちの子なんて頼んだって、お使いなんて行ってくれないのに……」
「い、いえ……」
個人的な用なだけでお使いではないと、さすがに言い出せなかった。僕は小遣いの百円を渡すと、一目散に家へ向かった。
これでインベーダーができなくなった。確かに後悔も少しだけあったが、僕の胸は茄子を腹一杯食えるという事でニヤけていた。
美術の時間、今日は不思議な方法で太田先生は絵を描けと言う。教壇の上にテープレコーダーを置き、『鶴の恩返し』という話を朗読したテープを流し始めた。
「みんな、この話は聞いた事あるだろう? 今日はな、先生がこのテープをずっと流すから頭の中で情景を思い浮かべ、そのあと絵を描いてほしい。いいな?」
自分で想像したものを描く? 風景を見ながらとか、果物を見て描くじゃない新しい方法。僕はちょっと興味を覚えた。
「分からないよ~」
「先生、鶴の写真とかないんですか?」
「声を絵になんて無理だよ」
「本物の鶴をここに持って来て下さいよ」
みんな、好き好きに勝手な事を言い出す始末。
「うるさいぞ。はい、みんな静かに。自分の頭の中でこの話を聞いて、何のイメージも浮かばないのか? 下手くそだっていい。先生は怒ったり叱ったりしないから、好きなように自由に描け。分かったな?」
仕方なくうな垂れたように「はーい」とみんなは返事をする。
僕は想像を膨らませ、絵にするなら鶴が羽を傷つけて落ちていくところを二羽の鶴が助けに行くイメージをした。羽しか持っていない鶴がどうやって仲間を助けるのか? そういう細かい事なんて気にせず、一生懸命羽ばたきながら駆けつける姿を描きたかった。
鉛筆で下書きをして丁重に薄い色から塗っていく。羽ばたく時、必然的に取れる羽一枚一枚の色使いにも最新の注意を払う。筆では大き過ぎてしまうので、僕は楊枝を使って取れた羽の部分に少しずつ色をつけた。
意識を失いながら落下していく鶴の色は白がベースだけど、全体的に薄く黒い色を添えていく。駆け寄る鶴二羽は、取れる羽の多さを増やし全力で仲間を救おうとする様子を描いた。
数日後、僕の絵は太田先生に選ばれ、上野美術館に貼られた。
おばさんのユーちゃんが、弟の龍也と龍彦を連れて一緒に見に行く。
「へえ、龍一は絵の才能あるのかもねえ」
褒められるなんて滅多になかったので、僕は胸の奥がムズムズした。
太田先生が僕の絵を選んでくれたからこそ、こうやって美術館にも並べられたのだ。僕は先生があの時家まで来て謝ってくれたからわだかまりなどないけど、クラスの人間はまだ打ち解けていない生徒もいる。そろそろそんな真似もやめさせないとなあ。逆に今まで太田先生に接していた態度を辞めた福山先生が聞いたら、悲しそうな顔をしながら怒るかもしれない。
僕は仲のいい洋介君や純治君らに、もうちょっと太田先生へ歩み寄るようにしないかと相談を持ち掛けた。
「そうだよね。福山先生だって喜ばないか」
「じゃあさ、今度太田先生の好きなものは何か聞いてみようよ」
「うん」
「それにさ、福山先生の家って神社だったけど、太田先生の家はお寺さんなんでしょ? 今度遊びに行っちゃおうよ」
「そうだね」
この日、僕たちは放課後になるのを待ち、授業が終わるとすぐ太田先生のところへ駆け寄った。
斜め右にいるクラスメイトの神谷君が、しきりにアゴのところにある大きなホクロを指先でホクロをいじっていた。
何をしているのか気になった僕は、授業に集中できない。
太田先生の授業が終わり、トイレへ行くと神谷君はアゴを上に向けながら、ホクロを眺めている。
「神谷君、どうしたの?」
「ん、いやー、このホクロがさ、昔から嫌だったんだ」
「確かにデカいよね。一円玉ぐらいあるのかな」
「そこまではねえよ。でもさ、『沢田研二』みたいに目の下にあるちっちゃいホクロなら、俺も格好いいけど、こんなデカくちゃなあ……」
そう言って神谷君は爪でガリガリと引っかいた。
「益田に引っかいてもらえば? キーちゃんなんて言われているぐらいだしさ」
女子生徒の益田清子は得意技の引っかきで、クラス一のノッポである深沢史博を泣かせた実績を持つぐらいだ。
「嫌だよ。あいつにやられたら血が出そうだ」
「そっかあ」
「何とかこのホクロ、取りたいなあ……」
「あっ、いいアイデア閃いたよ」
「ほんと? どうすんの?」
「一回教室まで戻ろう」
「ああ」
僕と神谷君は教室へ戻る。休み時間なので、みんな仲のいい友達のところに行き、それぞれ楽しそうに話している。
机の中から僕はハサミを取り出し、神谷君に渡す。
「これで切っちゃえば、ホクロなんてなくなるよ」
「そっか。神威君って頭いいなあ」
僕たちは再びトイレに向かい、鏡を見る。神谷君はアゴを上に向き、ハサミの刃をホクロに当てる。そして指先に力を入れた。
「あーっ!」
アゴから血を流しながら神谷君は両手でホクロの辺りを押さえ、大きな悲鳴を上げた。もの凄く痛かったのだろう。
授業開始を告げるベルが鳴る。それでも神谷君はずっと呻きながらアゴを押さえていた。
「授業始まっちゃうよ? ほら、早く行こうよ」
「いてーよっ! いてーっ!」
僕は彼の手を引いて教室に戻る。ずっと「いてー」と繰り返す神谷君を見て、みんなが注目した。指先から血がしたたり落ちるのを見た女子生徒の一人が悲鳴を上げる。それでクラスは大パニックになった。
騒ぎを聞いて駆けつけた大田先生は事情を聞くと、僕の頬を叩き、すごい勢いで怒られる。尋常じゃない痛がり方をした神谷君を見て、本当に悪い事をしたんだと反省した。
翌日学校へ行くと、神谷君はバンドエードをホクロのところに貼っていた。
「大丈夫なの?」
「まだヒリヒリはするけどな。そうだ。ちょっとこれからトイレ行って、ホクロがどうなったか見てみようよ」
トイレに着くと、神谷君はそっとバンドエードを剥がす。その瞬間鏡に映った彼の顔を見て、僕は大爆笑してしまう。何故ならホクロの真ん中辺りだけ取れ、ドーナッツ型のホクロになっていたからだ。
「余計にみっともなくなったじゃねえかっ!」
大笑いする僕の頭を思い切り叩かれたが、今回は自分が悪いので素直に謝っておいた。
最近の僕はパパと似てきているみたいだ。
何故って道を歩いていると、近所の人から「お父さんに似てきたね」って笑顔で言われる回数が増えたからだ。言われる度、妙にくすぐったい感覚になってくる。
僕はパパをどうなんだろう。
好きか嫌いかと言えば、好きなほうに入る。ハッキリ好きと言えないのは、カーブーからあまり守ってくれなかったからだ。過去、理不尽な暴力を振るわれる度、何度パパに心の中で「助けて」と叫んだ事だろう。
でも、そんな僕をカーブーから守ってくれたのは、おじいちゃんでありおばあちゃんだった。いつもパパはそのような状況だと家にいない。
パパは街の人気者だった。色々な人がパパを笑顔で誉めてくれる。その事については、嬉しく思っていた。
誰だってそうだろう。自分のパパを誉められて嫌だって言う子はいるのだろうか。
強制的に、七つも行かされていた塾。
今では自分の意思でピアノしか行っていない。学校が終ればすぐに塾で、遊びに全然行けなかったあの頃。
家族や親戚に微笑む事すら禁止され、殴られた日々。
あやつり人形だった僕は、カーブーが家を出て行ってから本当の意味で自由になれた。弟たちも自由になれ、僕らは心から笑顔で過ごせるようになったんだ。
一時その部分を履き違え、女の子をたくさん苛めた。でも辞めた福山先生が、僕の性根を叩きのめしてくれたんだ。
おばあちゃんやおじいちゃんは、いつも優しい。家の従業員の人たちも優しい。パパの妹であるおばさんのユーちゃんも優しかった。
だから今は幸せ。
もちろんパパも優しい。でも、接する機会があまりにも少なかった。
ある日、学校から帰ると、近所の床屋さんへ行った。僕のいきつけの床屋さん。モジャモジャパーマでいつもサングラスを掛けたおじさんは、笑顔でハサミを持っている。
「おう、龍一ちゃん。どんどん大きくなっていくなあ」
「ヘヘヘ……」
「今日も前ぐらい切るのかい?」
「うん」
細かい指示など聞かず、モジャモジャパーマのおじさんはテキパキと僕の髪を切り出した。
「おっと、動いちゃ駄目だよ」
「だって、くすぐったいもん」
「動くと耳切っちゃうぞ。前に動きすぎて、耳を切り落としちゃった子したんだから」
「え、ほんと?」
「その子、耳を押さえながら、泣き喚いて帰っちゃったよ」
僕は、その姿を頭の中で想像した。絶対にそんなの嫌だ。多少、くすぐったくても我慢して、僕は動かないように心掛けた。
「うんうん…、いい子だ。ジッとしてるんだよ」
「う、うん……」
三十分ほど経って、髪を切り終わると、今度は髭剃りだ。
どこもヒゲなんて生えてないけど、僕は髭剃りが大好きだった。顔に真っ白く温かいクリームが塗られる瞬間。僕は少しだけ頭を起こし、鏡で見るようにしていた。サンタクロースのように白いヒゲが生えた僕の顔。いつも笑いそうになってしまう。
シャンプーを済ませ、ドライヤーで乾かしていると、おじさんが話しかけてきた。
「龍一ちゃんは、本当にお父さんに似てきたなあ」
「に、似てないよ」
反射的にそう答えた。恥ずかしかったのだ。
「そんな事ないって。おじさんはお父さんと小さい頃から一緒だけど、本当に龍一ちゃんはそっくりだよ。瓜二つだ」
「似てないったら」
「ははは、そうか。ごめんよ」
ムキになって否定していた。嬉しいという気持ちも、もちろんある。でもいまいち素直になれないでいた。
大きな鏡で、自分の顔を見てみる。
そんなに似ているのだろうか。
カーブーにつけられたまぶたの傷に視線がいく。
パパはこんな傷なんてついてない……。
小学校四年生になってからきた新しい担任の太田先生は自然とクラスに溶け込んでいた。持ち前の元気さ、熱心な教育姿勢がクラスのみんなにも理解できたのだろう。いつも口癖のように「福山先生にはかなわないけどな」と申し訳なさそうに言っていた。
三年生の時の福山先生と、今の太田先生。どっちが好きかといったら、僕は福山先生と答えてしまうだろう。でも、家に太田先生が来てくれた時から、この先生も僕は好きになっていた。
クラスの中でも、どっちの先生が好きかという話題は絶えない。洋介君や純治君は、福山先生派で、ちゃまや栄子といった女子連中は太田先生派といった具合にバランスよく分かれている。
たまにお寺のお坊さん時代を語る先生。話が難しくてよく理解できないけど、大変なんだという事ぐらいは分かった。
学校が終り道を歩いていると、知らないおじさんが僕に声を掛けてくる。
「ねえ、僕さー」
「はい?」
「間違ってたら、ごめんね。僕は、神威さんの子供でしょ?」
「は、はぁ……」
何でこんな見ず知らずの人にまで分かるのだろう。僕はとても不思議だった。
「あ、おじさんは僕のお父さんの一つ後輩でね。昔、本当にお世話になったんだよ」
「パパの?」
「うん、いいお父さんで良かったね」
おじさんが微笑むと、僕までつられて微笑んでしまう。知らない人からも好かれているパパ。僕は鼻が高かった。ここまで言われると少し恥ずかしいけど、やっぱり嬉しかった。そんなパパに僕は似ている。
「お父さんにそっくりだね」
「に、似てないよ……」
照れ隠しでつい言ってしまう僕。
「そんな事ないよ。そっくりだよ」
そのおじさんに笑顔で挨拶してから、僕は家へ向かう。心はウキウキしていた。何かいい日だなと思ってしまう。
「あれ?」
家の前で何人かの人だかりができていた。六、七、八…、九人も人がいる。僕は早足で近寄った。おばさんのユーちゃん顔が見える。なんだか泣いているように見えた。
「ユーちゃん、ただいま」
僕はおばさんに声を掛けた。おばさんの名前は神威由紀子。名前の一番上だけとって、みんなユーちゃんと呼んでいた。
その人だかりは円のような感じで、何かを取り囲んでいるようだった。いつも僕ら三兄弟を映画館にタダで入れてくれるおじさんの姿も見える。
「……」
ユーちゃんは一瞬僕のほうを見るが、返事を返してくれない。ユーちゃんは泣いていた。何で泣いているんだろう。
「あ、龍ちゃん。駄目よ、こっち来ちゃ」
近所のおばさんの一人が、僕に大きな声で言ってくる。何が起きたのか、全然分からないでいた。構わず僕は、人だかりの中へ入った。
「……」
ユーちゃんの泣いている訳がすぐに理解できた。家で飼っていた猫のちゃけ。三毛猫で可愛かったちゃけが、ボロボロの姿で道路に横たわっていた。
「ちゃけー……」
僕は目を閉じたまま動かないちゃけを覗き込んだ。一体、どうしちゃんたんだよ。必死に頭や背中を優しく撫でた。
「ちゃけ……」
撫でた右手に赤い血がついていた。
「何があったの? ねえ、何があったんだよう……」
僕はみんなの前で泣いていた。何でこんなに可愛いちゃけが、こんな無残な姿に……。
「落ち着いて、龍ちゃん」
「何があったんだよう……」
僕の大粒の涙がちゃけの鼻に落ちた。でも、ちゃけはピクリとも動かなかった。
「さっき、前の道路で車に跳ねられたの。急に飛び出したところを……」
何度、呼びかけても、ちゃけは目を開けてくれなかった。家に帰っても、ちゃけとの思い出ばかりが蘇ってくる。
以前、飼っていた猫のみゃう。カーブーにダンボールに押し込まれ、川に投げ捨てられたみゃう。僕は必死に抵抗したが、どうにもならなかた。あのみゃうの生き写しのようだったちゃけは、そんな僕をいつも癒してくれた。存在そのものが、僕にとって大事だったんだ。それが何でこんな無残な形にならないといけないんだろう。ちゃけが事故で亡くなったのを知り、弟の龍也や龍彦も大泣きしていた。
夜になって、みんなでちゃけのお墓を作った。血だらけだった体を綺麗にしてあげた。もうあどけない顔で擦り寄ってくるちゃけは、二度と見られないのだ。ユーちゃん一番泣いて大粒の涙をこぼしていた。無理もない。誰よりもちゃけを可愛がっていたのだから。
その日、僕はちゃけと一緒に遊んでいる夢を見た。ちゃけは幼く小さい時のままで、僕の姿も幼い時のままだった。そこにみゃうが、いつの間にか来ていて擦り寄ってくる。僕は二匹の猫を撫でる。楽しい夢だった。
目が覚めてから現実にはもう二匹ともいない事を実感し、また泣いた。
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