深夜、公園の赤いベンチで、自分のすぐ隣で座る四十歳の気持ち悪い男が、肩に手を置いている現実。そんな状況すら彼女は把握できていないのであろう。それほど疲労しきっているのだ。
「気にしないで下さい。だって旦那さんが助けてくれなくて、心細いんじゃないですか?」
「……」
「こんなに美しい女性が悩んでいるなんていけない事です」
「女性だなんて……」
僕の台詞に静香は頬を赤らめた。
「結婚してからは女としてなんて……」
「何、言ってんですか。お子さんだって綺麗なお母さんで絶対に喜んでますよ」
「そ、そんな……」
「ご主人だって帰ってくるのが、楽しみでしょうがないんじゃないですか?」
「い、いえ……」
「そんな謙遜しないで下さいよ」
「謙遜だなんて……」
もう我慢の限界だった。気がつけば、僕は彼女の両肩に手を掛けていた。
自然と向かい合う格好の二人。
静香は何が起こったのかも分からず、キョトンと目を丸くしている。彼女の甘い体臭が鼻をくすぐる。
理性が吹っ飛んだ瞬間だった。
「か、亀田さ…ん……」
自然に顔を近づけた。静香の顔がどんどん近づいて見える。僕のささくれた唇が彼女の優雅な唇に迫った。頭の中が真っ白だ。
「い、いや……」
悲鳴に近い声を出しながら、静香は立ち上がった。
ふと、現実に引き戻された瞬間だった。
今さらながら後悔しても遅い。
僕は焦り過ぎた。
静香は、虚ろな顔でその場に立ちすくんでいた。
「す、すみません……」
「……」
彼女は何も答えてくれなかった。まともな女性経験のない僕が馬鹿だった。
一瞬だけ触れた静香の柔らかい唇。それだけで僕は射精をしていた。精液が下に向かってゆっくりずり落ちている感覚。ズボンを見ると、股間が湿っていた。
「ごめんなさい。静香さんが、あまりにも魅力的だったので……」
言い訳にも何もならない滑稽な台詞。もう、何を言っても彼女には届かなかった。
「静香さん、本当にすみません。失礼な真似をしてしまい……」
僕の言葉は何も聞こえてないかのように、静香はゆっくりと歩き出した。
まずい、このままでは絶対にまずい……。
頭が混乱してきた。
「静香さん……」
公園の入り口に向かって歩く静香。反対に精液をズボンに滲ませながら、あとを追う僕。最悪の展開になってしまった。
何度、声を掛けても無言の静香。微塵も後ろを振り返ってくれない。
愛しさ、せつなさ、絶望感……。
色々な感情が僕を渦巻く。アパートの階段に差し掛かろうとした時、僕は駆け足で静香を追い越した。
階段の前で立ち塞がる僕。
まるで犯罪者のようだ。
静香は何のリアクションもせずに、ゆっくり歩くのを止めた。
何故、僕はこんな事をしているのだろう。静香の表情からは何の感情も見られなかった。まるで人形のような冷たい視線を僕に送っている。
果たして彼女には僕の姿が映っているのだろうか。いや、映っているからこそ、立ち止まったのだ。
「本当にすみません!」
目をつぶって、勢いよく頭を深く下げる。もう、謝るしかない。それしか道はないのだ。足音が僕の横を通り過ぎる。顔を上げると、静香は階段を上ろうとしていた。
瞬間に芽生えた殺意……。
彼女の背中を睨みつける。
自然と両手を挙げながら近づいた。
僕の両手が彼女の首に迫る。
本当にこれは、僕が自分で命令しているのだろうか?
夢でも見ているような感じだ。彼女は僕の行動に何も気付いていない。首に手が掛かる寸前に、自分の精液の悪臭が鼻を通った。
目を覚ますと、明るい日差しが差し込んでいた。どこだここは……。
起き上がり、辺りを見回す。
ヤニのこびりついた色の白い壁。
見慣れたパソコン。
僕の部屋だった……。
夢だったのか。いや、そんなはずはない。昨夜の事は現実なのだ。まだ疲れが、全身に残っていた。疲労感からか立ち上がるのも面倒だった。
パソコンのスイッチを入れ、煙草に火を点ける。今はパソコンにあるヤバいデータをすべて削除しなくてはいけない。
起動するまでの時間が、非常に長く感じ苛立ちを覚える。パソコンが立ち上げるまでの間を利用してトイレに向かった。途中でくわえ煙草の灰が床に落ちる。僕は何の気にもならなかった。
トイレでズボンを下ろすと、嫌な悪臭が鼻をつく。昨日、射精した状態のパンツのままだったからである。僕はパンツもズボンも脱ぎ捨て、憎しみを込め、ゴミ箱に放り投げた。
自分の理性のなさを呪った。
もう少しであの女を抱けたのに……。
節操のなさがすべてを台無しにしてしまった。もうこんなチャンスは二度と来ないだろう。後悔してもしきれない。すべて過ぎてしまった現実だけが、僕に重くのしかかる。
用を済ませ、パソコンの前に座る。モニターにディスクトップの画面が写っていた。僕はマウスを握り、『静香』フォルダと『公園』フォルダを消去した。
最悪のケースを考えなくてはいけない。
まず、昨日の夜の事を静香がどう対処してくるかだ。
彼女の性格を思えば、何も行動を起こさないかもしれない。しかし、それは都合のいい考えだ。
旦那に昨日の事を話しているかもしれない……。
警察に通報するかもしれない……。
そうなったら僕はどうなる?
体が勝手に震い出してきた。あれだけ謝っても口を開いてくれなかった静香。
もう、ここは引っ越すべきである。どうやって、これから隣と顔を合わせろというのだろうか。毎日ビクビクしながら生きるのは嫌だ。
ハッとして静香の黒ずんだパンティを探す。マスターベーションの最高のおかずとして活躍したパンティ。僕の手垢と唾液にまみれ、おぞましいものになっている。これもゴミ箱に捨てる事にした。これで、彼女との接点は何もない。
あとはゴミを捨てればいいだけだ。目に涙が滲んだ。とりかえしのつかない事をしてしまった自分が情けなかった。でも、あの状況で自分を抑える事ができる男はいただろうか?
僕には到底考えられなかった。
ふと時計を見ると、朝の五時だった。あれから疲れてすぐに寝てしまったのだ。時間的は三、四時間ほど寝たのか……。
必死に昨日の事を振り返った。
あの時、僕は自分の精液の臭いで我に帰る事ができた。その点だけは本当に助けられた。人殺しにならず済んだのだ。
それから静香が部屋に入ろうとした時に、僕は口を開いてしまった。
「ご主人…、昨日、浮気してますよ」
咄嗟に出た台詞だった。
切り札として温存していたものを自分のドジで言いそびれていた台詞。
その時だけ彼女は反応した。汚いものを見るような視線で僕を睨んでいた。可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものだ。僕は静香の目を見た瞬間、さらに酷い言葉を浴びせ掛けた。
「昨日、僕が打ち合わせと言いましたよね。あれは大嘘です。実は駅前の風俗に行っただけなんです。まあこんなに醜い僕ですからね。お金でも払わないと誰も相手してくれないんですよ。でもね…、その時、僕は見てしまったんですよ。あなたの旦那がそのヘルスから出てくるのを…。外でじゃないですよ。当然、店の中でです。自分が待合室のソファで座っていたら、プレイを終わった旦那が出てきたんですよ。旦那、何て言ったと思います?」
「……」
「どうも、すごい良かったよって、風俗嬢相手にとても嬉しそうに言ってましたね」
無表情だった静香の目から、涙がゆっくりと零れ落ちた。はたから見ていると、魂が抜け、抜け殻だけになったような気がした。
そんな状況の中、僕はその姿を純粋に美しいと感じた。彼女はどこまでいっても崇高で神々しかった。
彼女は、ゆっくりと無言で隣の部屋に消えていった。僕はしばらく立ち尽くしていたが、やがて自分の部屋に入った。
それから力尽きたかのように、そのまま布団に倒れ寝てしまったのだ。
何故か脳裏には、あの公園で首を吊った男の姿が、鮮明に映し出されていた。
突然、玄関のチャイムが鳴る。
僕はビクッとして恐る恐る振り返る。静香だろうか……。
こんな朝の五時にドアのチャイムを鳴らすなんて、常識では考えられない。何かあるからこの時間に鳴らしているのだ。
ひょっとしたら警察だろうか……。
冷たいものが体の中を走る。
無視しよう……。
そしてタイミングを見計らって、この部屋を出て行こう。
もうここで住むには無理がある。
今はとにかくやり過ごすしかない。
全身、汗まみれになった。
しばらくしてから、再度、チャイムが鳴り響く。しつこい奴だ。こうなったらこっちも徹底的にやり過ごすしか道はない。
息を殺し様子を伺った。
待てよ…、パソコンが、もしメール受信などで、音を立てたらどうするんだ?
慌ててパソコンの音声ボリュームをミュートに設定した。早朝なので辺りはまだ静まり返っている。
まだ、ドアの外に誰かいるのだろうか?
耳を澄ませても、鳥のさえずる泣き声が小さく聞こえるだけであった。
五分は経過したであろうか。あれからチャイムはならない。僕は忍び足でドアに近づき、覗き穴を覗いた。
「ピンポーン……」
覗いた瞬間、チャイムが鳴ったので心臓が口から飛び出しそうな衝撃を受けた。おかげで僕は、ドアに強く頭をぶつけてしまった。今ので外にいる人物に気付かれてしまっただろう……。
仕方なしに、腹を決めてドアを開けた。
「……」
しかし、外には誰の姿も見えなかった……。
立地条件的にありえない光景だった。僕の部屋は二階の角部屋で、隣には静香のいる香田家が住んでいる。状況的に見て、隣の誰かがチャイムを鳴らし、すぐ自分の部屋に戻らない限りありえない。
でも、誰がそんな事をして得すると言うのだ?
気のせいで、三回もチャイムは鳴らない。目の前で起きた光景がまったく理解できないでいた。
しばらく辺りの様子を見てから部屋に戻る。何もかも投げ出して、この場から逃げたかった。
原因不明の出来事に混乱している。
おかしい……。
何かがおかしい。
落ち着け……。
昨日静香に、僕が散々言った台詞だ。自分がこういう時、落ち着かないでどうするんだ。
深く息を吸い込み、大きく息を吐き出す。少しは落ち着いてきた。
しかし、パソコンのモニターを見て、再度、仰天してしまった。
ディスクトップの壁紙……。
普段は作業を円滑にさせる為、壁紙は、無しにして真っ黒な状態にしてある。
それがこの画面は一体……。
メガネを外し、目を強めにこする。
疲れているのだ…。
僕は、再び画面を覗き込む。
「……」
ディスクトップの画面には、あの公園で首を吊った男の画像になっていた。
そんな馬鹿な……。
さっき削除したはずなのに……。
息が止まりそうだった。
「落ち着け…、落ち着けって……」
今度は口に出して言ってみた。
冷静に分析しろ。
さっきは急いで削除した。
だから多分どこかに触れて、たまたまディスクトップの背景にしてしまっただけだ。自分で必死にそう言い聞かせた。
霊などいない。
すべて科学的に証明されているはずだ。
ディスクトップの開いている適当な場所で右クリックを押し、プロパティを選択する。上記タブのディスクトップを選び、背景なしを選択した。一瞬にしてバックの色は真っ黒になる。僕のケアレスミスだったに違いない。
少し横になって休もう。
きっと疲れているんだ。
僕は布団に横たわり目を閉じた。
頭の片隅にブランコで首を吊った男の映像がハッキリ映りだす。
あの時、目の前で見たように映像がクリアで綺麗だった。目を開けると、現実の自分の部屋が映る。
「な、なんだよ…。なんだよ、これは……」
これだけ進化した世の中だ。なのに何故、こんな思いをするんだ?
寝ろ、とにかく寝るんだ。
何も考えるな……。
何も気にするな……。
目を閉じると、相変わらず僕の脳裏には、あの男が映っていた。
静香の事を考えた。ひたすら思い返した。
彼女の性格なら、それに今のあの夫婦仲なら、いちいち言わない可能性が強い。彼女の事だ。自分の胸の内に留めておくというのが一番イメージ的に似合う。
もし仮に、旦那が抗議しにやってきたとする。
どこに証拠があるのだ?
別に静香を抱いた訳でもない。相談事をたまたま聞く羽目になって、しっかりしなさいと、両肩を抑えたら彼女が勘違いした……。
うん、この言い方なら自分をうまく弁護できるだろう。逆にこっちが文句を言いたいぐらいだと開き直れば、向こうもそれ以上、僕を追及できないはずだ。
睡魔に襲われているからか、眠くなってきた。自分にとって都合のいい展開しか想像できなくなっている。
まあ、いい。寝よう……。
何か声が聞こえる。夢うつつの状態なので、夢かもしれない。起きているのか、寝ているのか……。
自分でもよく分からないでいた。
非常に気分が悪い。
目を開く。
見慣れたいつもの部屋。
目を閉じる。
また、あの男の姿が見える。
僕は目を開けた。
そして、体を起こそうとした。
「……!」
体がまったく動かない。
声も出なかった。
これが金縛りというやつか……。
しかし、恐怖心はまったくなかった。
何故ならば、金縛りというのもは医学的に証明されているからだ。
睡眠麻痺と呼ばれる金縛りは、レム睡眠と言われる状態時に起きる現象だからである。レム睡眠とは浅い睡眠の事を指し、意識だけが覚醒した時に金縛り現象となる。夢を見るのも、このレム睡眠状態だと言われているのが定説であった。
つまり、金縛りは睡眠の中の一形態なのだ。
原因がハッキリしているので怖くない。最近の精神的な疲れが蓄積していたのだろう。僕は気にせず、再び目を閉じた。
「ピンポーン……」
今、またチャイムが鳴った。
またか……。
ひょっとしたら、先ほどのチャイムもすべて僕の夢の中での出来事だったのかもしれない。
どうせ金縛りの最中なのだ。どっちみち動きたくても動けやしない。居留守になるだけの話である。
「亀田さーん」
聞き覚えのある声。隣の香田家、静香の旦那の声だ。
「朝、早くすみませーん。亀田さーん。すみませーん。起きて下さい」
旦那は僕の部屋のドアをガンガン叩いていた。
あのクソ野郎め。一体、どういうつもりだ?
しかし、声のトーンを聞く限り、怒っている訳ではなさそうだ。
「亀田さん、すみませーん」
朝っぱらから近所迷惑な奴だ。僕は面倒臭そうに起き上がった。
「あれ?」
いつの間にか金縛りも解けていたようだ。
自由に体が動く。
相変わらずドアを旦那は強く叩いていた。
静香が昨日の事をあいつに言ったのだろうか。一瞬考えた。いや、それならあんなに温和な声をしているはずがない。
しばらく旦那はドアを叩き続けていた。
仕方ない。
開けてやるとするか。
僕はドアを開いた。
「あ、すみません、亀田さん。こんな朝早く……」
横目で時計を確認すると六時半だった。まったくだ。
「何でしょうか?」
いつもキチンとした身なりをした印象の強い旦那。それが今は髪の毛もボサボサのまま、パジャマ姿で立っていた。もう、とっくにいつもなら出勤している時間帯のはずだが、何かあったのだろうか?
「うちの家内が朝起きるといなくなっていたんです。しかも息子の隆志まで……」
「え?」
「亀田さんなら隣同士なので、何か知ってるかなと思いまして……」
まさかこんな展開になるとは、予想もしなかった。
静香は昨日の一件で確かに限界になったのだろう。切り札を出すタイミングさえ間違えなければ、あのまま抱けたかもしれない。悔しさがじわじわと体を侵食する。
「え、本当ですか?」
「ええ、さすがに取り乱してしまいまして…。息子までいなくなっていたので……」
「お気持ちは分かりますが、僕は分からないです。静香さんでしたっけ?彼女とは挨拶と簡単な世間話ぐらいしかしませんでしたしね。何かあったんですか?」
「育児ノイローゼからの極度のストレスが溜まっていたのかもしれません。すみません、こんな朝早く起こしてしまいまして……」
「いえいえ、そんな状況じゃ仕方ないですよ。もし、僕に気付いた点とかありましたら、連絡しますよ」
「ご丁寧にすみません」
一礼して旦那は隣に戻っていった。
僕は部屋に戻ったのを確認すると、思わずニヤりとした。この展開なら僕がここを出なくても済みそうだ。
静香を抱けなかったのは非常に残念だが、あのかすかに触れた唇の感触。あれだけで、しばらくマスターベーションのおかずに事欠かないであろう。
部屋に戻ると、唇の感触を思い出し何度も繰り返しマスターベーションをした。静香を抱けなかった悔しさをかき消すように何度も飽きることなく続けた。
あの時、静香にもっと慎重に接していたら、今頃、あの体を「ひぃひぃ」と、言わせていたのにな……。
自分の節操のなさが恨めしく思う。
例えばだ。例えば、例のDVDの件でもっと不安になるように煽って、「実は僕、霊的な事に詳しいんですよ。あまり声を大にして言えるもんじゃないですけどね……」とか、うまく言えば良かったのだ。
心細い静香は、絶対に食いついてくるはずなのである。
さらに日にちを空けてから、「先日、僕の先生といえばいいのでしょうか…。ちょっと相談してみたんですよ」と、うそぶく。
「そ、相談ですか?」あの可憐な静香が、僕に救いを求めるように聞いてくるだろう。
そこで「ええ、ちょっと他の人には聞かれたくない話なので、僕の部屋でお話しましょう」と……。
戸惑う静香。仮にも人妻なのだ。しかし、本来は女。しかも息子の隆志の件でなので、興味はあるはず。そこを優しく、そして狡猾に突いてやるのだ。
「いいのですか、このままで?」と……。
目線を下に落としながら彼女は、きっと僕の部屋に来ざるおえない。
この部屋に連れ込んでしまえば、いくらだってやりようがあるのだ。
あの『静香』フォルダを慌てて削除なんてすんじゃなかった。
卑猥な妄想が、頭の中を駆け巡る。僕は、その想像だけでマスターベーションを猿のように繰り返した。
「チクチョー!」
もっと僕が、うまくやってさえいれば……。
あのボリューム満点の体を自由自在にできたのにな……。
悔やんでも悔やみきれない。
僕は人生最大の失敗をしてしまったのだ。
それから一週間が経った。
僕の日常は変わりないと言いたいが、その正反対であった。
パソコンのモニターには、常に消したはずの首吊り男が写るようになっていた。
今まで生きてきて四十年。
霊など信じた事すらなかった。
でも、そんな僕も霊を否定できない状況に立たされていた。
毎日のように起こる金縛り。
しかも、夜になると部屋の隅で、首吊り男が常に天井からぶら下がっていた。
そしてある事実に気付いた。
僕が目をつぶる度に、首吊り男は徐々に近づいてきていた。怨めしそうな怨念の籠もった表情で、僕の顔を見ていた。
今も一瞬、閉じただけなのに一センチほど近づいてきている。
距離は徐々に縮まっていく……。
首吊り男は両手に縄を持っていた。
僕の首にそれを掛けるつもりなのだろう。
多分、僕がこの男の自殺の件を面白半分に利用したから、怨んでいるのだろう。
顔を見ているだけで、全身に鳥肌が立った。
恐怖心で頭がおかしくなりそうだった。
だから逃げたかった。
でも、無理なのだ。
僕はこの一週間、ずっと金縛り状態で、指の先まで何も動かせないのだから……。
僕に待っているのは絶望だけだった。
今では首吊り男の顔が、目の前に迫っている。
体の腐った臭いが鼻をつくが、何もできないでいた。
男はまばたきもせずに、僕をずっと睨んでいる。
目をつぶると、首に何かを巻きつけられた。
もういい……。
確認すらしたくなかった。
また目を開けても、怖い思いをするだけだ……。
僕は懸命に目をつぶっていた。
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