~静香の章~
スヤスヤと眠る隆志。
寝顔を見ていると、昼間駄々をこねて困らせているのが、嘘のように感じる。
この子は、私が生んだ子供。
お腹を痛めて産んだ、ただ一人の息子。
この子がいる限り、私は何があっても生きていかないといけなかった。
だって、それが私の使命なんだから…。
主人のところを家出して、十日間が過ぎようとしている。
今は親元に身を寄せている。
あの場所に引っ越してきてから、嫌な印象しか残っていない。
隣に住む住民の亀田。
「悪い人だ」
隆志が亀田を指差し言った台詞。
あの時は怒ったけど、この子は幼いながら直感で感じたんじゃないかなって思っている。
本能的に、この子は守ろうとしたんじゃないかな、私を……。
私は優しく微笑みながら、寝ている隆志の髪を撫でた。
「ママ……」
ゆっくり隆志は目を開く。
「なあに?」
「パパは?」
隆志の言葉が私の胸を打った。
あの人と私は、夫婦でも他人同士。
でも、この子は違う。
私とあの人の遺伝子、両方が流れている。
いくら母親寄りと言っても、やはり父親は必要だ。
あの人の浮気疑惑……。
私は確認もせずに、隣の住民の意見を聞いただけで、飛び出してしまった。
あの時は、確かに限界でおかしくなりそうだった。
でも、よくよく考えてみると、所詮、私のエゴなんだって気付く。
この子の為にも戻らないと……。
「今日、帰るわよ」
「ほんと?」
「うん、パパにすぐ会えるよ」
「わーい」
隆志の喜ぶ顔を見て、今まで一人で悩んでいたのが馬鹿らしくなってきた。
夫婦なんだから、もっと体当たりで話し合おう。
もっと私は頑張らないといけない。
「ねえ、隆志。何であのおじちゃん、悪い人って言ったの?」
私は以前、唐突に言った隆志の言動が気になっていた。
実際に亀田はとんでもない男だった。
思い出すと、全身鳥肌が立ってくる。
「だって、あのおじちゃんさー…、いつも後ろで、おじいさんが怖い顔で睨んでいるんだもん」
「おじいさん?」
「うん、灰色の服着たおじいさんだよ」
私は言葉を失った。
あのビデオに写った霊の事をこの子は言っているのかしら……?
今、私はアパートの前にいる。
隆志はアパートが見えるなり、一目散に階段を駆け足で上っていった。
よほど父親が恋しかったのだろう。
でも、主人は仕事で、まだいない。
電話の一本でもしておけば良かったかな。
あの人、ちゃんとご飯食べているのかしら?
私が二階に上り終わると、隆志が駆け寄ってきた。
「あら、ママを待っててくれたの?」
「ママ、隣のおうち、くちゃい」
「え?」
「くちゃい」
隆志は臭いと言いたいのだろうか?
我が家に近づくと、妙な臭いが鼻をついた。
「何、これ……」
私がハンカチを取り出している間に、隆志は隣の亀田の部屋のドアの前まで歩いていた。
「隆志……」
背伸びしてドアノブに触れる隆志。
「勝手に触っちゃ駄目よ」
隆志はドアを開けようとしている。
「隆志……」
言っている最中にドアが少し開き始めた。
私はため息をついた。
できる事なら、亀田とは顔を合わせたくなかったのに……。
「キャーーーー……」
ドアが三分の一ほど開くと、私は大声で悲鳴を上げていた。
亀田がドアノブに縄を括りつけ、首を吊っている姿が、目に映る。
最後に見てからまだ十日しか経ってないのに、亀田は腐り始めていた。
私は気絶しそうになるのを懸命に堪えた。
亀田から湧き出る異臭で、呼吸すらままならない状況だ。
泣いている息子の隆志を抱きかかえると、一目散にその場から逃げ出した。
~隆志の章~
何で最近、パパとママは笑わなくなったんだろ。
僕と一緒にいる時、ママは笑ってくれる。
パパは、いつも疲れてそうな顔ばかり。
前の家の時は、もっと笑っていたのにな。
あそこのデパートのオムライス大好きだったのに、最近、どこにも連れてってくれない。
こっちに来てから、近所のみよちゃんとも会えなくなっちゃった。
隣の家の大ちゃんとも、遊べない。
いつもお菓子をくれた髭のおじさんにも会えない。
ジュースを買ってくれる太ったおばさんにも会えない。
いつもママと一緒。
それは嬉しいけど、他の子とも前みたいに遊びたい。
夜になると、パパとママは喧嘩をしていた。
前は二人ともニコニコしてたのにな。
一回だけパパとママと一緒に、ハンバーグを食べに行った。
シマシマの洋服を着た大きいお兄ちゃんが、ハンバーグの上に日の丸の旗を差してくれた。
家でもママが、ハンバーグを作ってくれるといいな。
アイスクリームの乗った緑色のジュースも、また食べたいな。
こっちに来て良かったのが、公園ですぐ遊べるところ。
公園に来ると、ママはニコニコ笑ってくれる。
僕は、大好きな砂場で遊んで、ブランコも乗る。
みよちゃんや、大ちゃんたちと、ここで一緒に遊びたいな。
太ったメガネのおじちゃんが、ママに話し掛けてきた。
何でこのおじさんの後ろに、怖い顔をしたおじいさんがいるんだろ。
みんな、半袖なのにおじいさんだけ、いつも灰色の服を着ている。
太ったおじちゃんの後ろで、いつもピッタリくっつくようにしているおじいさん。
一回だけ僕と目が合った事がある。
とっても怖かった。
だって、僕、何もしてないのに、おじいさんが睨んでくるんだもん。
でも、ちょっとだけ僕を見たあと、いつも太ったおじちゃんを睨んでいた。
この間、隣に住んでいるメガネを掛けた太ったおじちゃんと、公園に行く時、すれ違った。
とっても臭かった。
パパと同じ男なのに、このおじちゃんの匂いは臭い。
ママはいい匂い。
パパもいい匂い。
ホッペが怪人のようにガザガザなホッペで、いつも指でポリポリ掻いている。
このおじちゃん、いつもママの事をジーって見ている。この太ったおじちゃんの顔を見ていると、何かの虫に似ているなあと思う。
まだ灰色の服を着たおじいさんが、後ろでピッタリとくっついていた。
「このおじちゃん、悪い人だ……」
そう言うと、ママは怒る。
だけど、パパがたまに怒った時の目と、灰色のおじいさんの目が同じなんだもん。
だから太ったおじちゃんは、悪い人なんだ。
僕の事をおっかない目で見てくる。
でも、太ったおじちゃんは、気付いていないみたいだけど、後ろで今だって灰色の服を着たおじいさんが睨んでいるよ。
公園でママと遊んでいたら、格好いいお兄ちゃんと可愛いお姉ちゃんが腕を組んで入ってきた。
とても仲が良さそうな二人。よく分からないけど、お姉ちゃんは僕に気がつくと、ジッと僕の顔をしばらく見ていた。
僕もそのお姉ちゃんをジッと見ていたら、お兄ちゃんが「おい、美和。何してんだよ?そろそろ行くぞ」と声を掛けて公園から出て行っちゃった。
公園を出てからもお姉ちゃんは、僕のほうを何度か振り返って見ていた。
ママとパパがまた喧嘩をしている。
朝起きると、僕はママに連れられて、お外に行った。
「隆志、ママのお母さんに会いたいでしょ?」
「うん」
「ママのお父さんは?」
「会いたい」
「そう」
ママはとても嬉しそうに笑った。
パパに会ってない。
どこに行っちゃったんだろ。
朝起きると、ママが僕の髪の毛を撫でていた。
「ママ……」
「なあに?」
「パパは?」
僕がそう言うと、ママは黙っちゃった。
しばらくしてからママは優しそうな顔で言った。
「今日、帰るわよ」
「ほんと?」
「うん、パパにすぐ会えるよ」
「わーい」
もうじきパパと会えるんだ。
パパのところに行くと、臭かった。
太ったおじちゃんの匂いより臭かった。
この匂いは、なんだろ。
隣の太ったおじちゃんの部屋のほうに行くと、ママが大声で僕を呼んだ。
「勝手に触っちゃ駄目よ」
ドアを開けようとしたら、すごい臭い匂いがした。
「隆志……」
何の匂いだろ?ママが僕を呼んでいる。でも僕は、気になってドアを開けた。
「キャーーーー……」
ママの大声。
ドアの向こうから太ったおじちゃんが、灰色の服を着たおじいさんに首を絞められていた。
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