岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

小説、各記事にしても、生涯懸けても読み切れないくらいの量があるように作っていきます

群馬の家 01

2023年07月12日 20時44分30秒 | ブランコで首を吊った男/群馬の家

 体中の血液が上昇していくのを感じる。俺は目の前で偉そうに立っている坂本に対し、思い切り睨み付けた。

「だってさー、しょうがないじゃん。上が決めた事なんだしね。」

 俺には何の責任もないと言っているような軽い声のトーン。髪の毛を真ん中に掻き分けながら、坂本は悪びれもせずに淡々と話し続ける。

「いくら何だって急過ぎますよ。上が、上がって言いますけど、それで済むんですか?」

 声を荒げながら話してはいるが、俺の目頭はどんどん熱くなり、涙を堪えるのに大変だった。一体、どれだけの犠牲を払って、この仕事を続けたと思っているのだ。怒りはこみ上げるばかりだった。

「しょうがないよ。しょせん従業員なんて使い捨ての時代だしさー。」

「だったら俺が前に辞めるって言った時に、何故、あれだけ止めたんです?あの時の時点で俺はこうなるの分かっていたから辞めるって言ったんですよ。」

「だって伊達君が辞めたら話にならないでしょ?みんなパソコンなんて誰も使えないんだし…。あの時はさー、辞められたら困ると思ったからだよ。」

「だから俺が言いたいのは、そこまで人を止めといて、それでいて一ヶ月もしない内に店を辞めるとか言ってるじゃないですか?それでしょうがない?使い捨て?そんな陳腐な台詞で納まりますか?」

 怒涛の勢いで坂本に迫ると、さすがにひるんだように見える。

「き、気持ちは分かるけどさー、こればかりはしょうがないし…。」

「ふ…。」

 ふざけんなと、言いかけて思いとどまる。現実問題として、明日でこの店は潰れるのだ。それまでに自分自身、やらないといけない事が山ほどあった。軽く深呼吸をして心を落ち着かせてみる。

「わ、分かりました…。それではこれから業者に対して手を打たないといけないんで、勝手にやらしてもらいます…。」

 怒りはすべて右手の拳に集中させるように強く…、ひたすら強く握り締めた。こんな裏稼業で働いた俺が馬鹿だったのだ。坂本は何かをしきりに俺に話しかけているが、何も聞こえない。

 

 ガールズコレクション…。俺が今現在働いている風俗店の名前だ。内容はホテルヘルス。客に対し店の女の子を紹介して、契約しているホテルでプレイをさせるという因果な商売である。俺は準備段階の前から誘われていたが、いまいち気が乗らないでいた。自分自身の性格を考えると、女がメインの商売などした事がないのでまず向かないと思っていた。何をしても裏方。そういった思いが強かったのかもしれない。ただ、ホームページを作って欲しいと頼まれ、好きなパソコンをいじれるのならと、安易に引き受けてしまった。このガールズコレクションは、まだオープンして三ヶ月ちょいの店だった。その僅かな期間で俺は二回辞めたいと伝えた。それはこうして潰れるのが目に見えて分かっていたからである。

最初はオープン準備期間の時に伝えた。準備期間の約一ヵ月半、給料はおろか、電車賃すら出なかった。普通に考えたら当たり前の話だ。ボランティアや慈善事業でやっている訳でもないのだから。みんな誰もがそう思うであろう。しかし、俺には責任があった。店のホームページや広告関係、パソコンに関する事などは、すべて最初の時点で俺が責任を受け持つ事になっていた。自分だけならともかく、周りの人間まで色々この仕事に係わらせていた。まさか俺も準備段階で給料が何も出ないとは思っていなかったので、懸命に動いていた。そこの部分を指されると、辞めるというのが出来なかったのである。当たり前だが、彼女の優奈には散々責め立てられた。それでも自分自身の生き方を考えると、途中で物事を投げ出すという事が出来なかったのだ。プライド…、俺のとった小さなプライドのせいで、一生消えないであろう深い傷を負ってしまうはめになるとは…。

二度目に辞めたいと伝えたのは、店が始まって一ヶ月ほど過ぎてからだった。どの商売であっても最初に金が掛かるのは当然である。数ヶ月経った時点で収支が赤字なのもよくある事だ。しかしガールズコレクションは、その赤字になっている原因が明確に理解出来た。こっちが経費を少しでも削減させようとあれこれ考えていても、坂本ともう一人の従業員である若松が意味のない無駄遣いばかり繰り返していた。俺は散々注意したし、店で働く女の子に格好をつけようと無駄な経費を使うのはやめろと言ったが、二人とも何一つ代わってくれなかった。実際金持ちのボンボンが何も考えずにドブに金を捨てているようにしか見えなかった。これ以上、俺がここで働いても意味がないし、すぐに潰れるだろうと感じたので、辞めようと判断をしただけの話だ。しかしオーナー自ら反対にあったので、正直に原因と意思を伝えた。このままじゃ、潰れるのは目に見えて分かると…。それでもオーナーは俺に辞められたら困るの一点張りで、店を自分のやりやすいようにして構わないから頼むと懇願された。そして店の女の子たちにも散々止められた。

「伊達さんがここを辞めたら、私たちはどうなるの?坂本と若松の馬鹿じゃ、本当にこの店が終わっちゃう…。」

周りの人間たちの事を考えると、途中で投げ出せないところまできていた。常に葛藤しながら、出来る限り店を黒字にするよう頑張った。ある程度まで引っ張っていければ、店は起動に乗る。そうすれば俺自身が辞めても大丈夫になるだろうと、そう思いながら休まず仕事に出続けた。すべて暗闇の中でも少しだけ光が見えたような気がした。人間、目標を決めればそれなりになんとかなるものなのだ。

「いいかい、世の中は君たちを卑下する人もいる。でもね、どう転んでもこの世界に片足突っ込んでしまっているんだ。だったら金を稼ぐよう頑張ろうよ。誰かが職業に貴賎はないと言った。もちろん俺もないと言いたい。だけど実際はあるんだ。色眼鏡で見る奴は、所詮他人事だから適当に言うさ。そんなのは相手にしなければいいだけの話だ。俺ら男は君たちのやっている事は真似出来ない。知らない人間は金の為だとか簡単に言う。だけど偉そうに物事抜かすなと俺は言いたい。八千円もらえるからって、他人のチンコをくわえるのがどれだけ辛いか。そんな事を喜んでやっている子なんて誰一人いないだろ?本当に大変な事をやっているなっていつも感心してるんだ。だからその分、金を稼いでほしい。その為にもっと真面目に出勤してきてくれ。俺ならちゃんと稼がせてやる。俺を信じてついてきてほしい。」

 今まで内部の事だけだったのが、初めて営業のほうにまで口を出すようになった。自分で仕切ってやるしかなかったのだ。だから店の商品である女の子には、誠心誠意でぶつかった。女の子たちが働きやすいように最善の気配りをしつつ、出勤率を上げ、どうにか形になってきた。様々なイベントやキャンペーンを打ち、客足が次第に増えていった。この辺にきて、初めて店が軌道に乗りかけた手ごたえを感じた。しかし自分自身の待遇といえば、毎日休み無しで十二時間働いているにも係わらず、一日一万円のみの給料。それ以外には交通費も保険も何も無しという条件に不満はあった。それでも歯を食い縛りながらやり続けた。

ちゃんと出勤してくれている子には、四、五時間働くだけで平均一日辺り三万から五万の金を稼がせた。女の子も仕事に対して、どんどん真面目で積極的になりだした矢先の事だった。いきなり坂本が悪びれもせずに淡々と口を開いた。

「あ、伊達君、この店さー、あと二日で潰す事になったから…。」

「は?今、何て言ったんです?」

「いや、あと二日でここは潰す事が決定したから。」

「え、あと二日って…。」

「だから明日、明後日でこの店を潰すって事。」

「いきなり何を言ってんです?それに女の子たちには言ったんですか?」

「ああ、それはまだ言わないよ。明後日になって言えばいいんじゃない?」

「……。」

「じゃないとさー、今日でみんな辞めちゃうじゃん。」

「実際にここが潰れるのは分かります。黒字になっていないし…。でも、そんな辞め方ってあります?簡単にあと二日でいきなり終わりなんて…。せめて一ヶ月でとか、今月いっぱいでって言い方なら納得できますけど。」

「だってさー、しょうがないじゃん。上が決めた事なんだしね。」

 

 仕事から帰ってもやるせなさでいっぱいだった。怒りで体が震えてくる。優奈が心配そうに大きな瞳で覗き込んできた。

「修也…、こんな酷い目にあってまで明日も仕事に行くの?」

「まーねー…。実際、俺がやらないと話にならない部分があり過ぎるしね。」

 半分投げやりで呟いた。確かにあの仕事は辞めたかったが、望んでいたのはこんな形ではない。

「そんなの分からないよ…。」

 今まで見た事がないくらいの鋭い視線を優奈は俺に向けてきた。いや、俺に向けてではないのだろう。ガールズコレクションに係わる人間すべてへの鋭い視線だった。

「優奈、俺だって嫌だよ。本当に馬鹿にしている。でも、あの腐った店はどうでもいいけど、それに携わる印刷屋やホームページの業者とかは何の罪もないだろ?特にインターネットを使って契約してるとこは、俺が解約しないと誰にも出来ない。」

「分かんない…。分かんないよー、そんなの…。」

「優奈、一体どうしたんだよ?」

「わ…、私たちの子供までおろしておいて…、何でそんなところに修也が親身になってやらないといけないの?それとも修也はもう私との子の事、忘れちゃったの?」

 俺と優奈の子…。忘れる訳がない。ガールズコレクションのオープン準備期間中におろしてしまった我が子…。心が暗闇に覆い被されていく。

「あの時点で辞めれば良かったんだよ。ううん、最初からあんな仕事なんか、しなきゃ良かったんだよ。」

「優奈…。」

「修也があの時…。」

 子供をおろした時の光景が浮かんでくる。手術が終わり、幽霊のような生気のなさでゆらりと歩いてくる優奈。

「優奈!」

「怒鳴らないでっ。」

 二人の仲が険悪になった時、俺の携帯が突然鳴った。店の子である今日子からだった。

「電話だ。ちょっと静かにしてくれ…。あ、もしもし…、今日子ちゃん?」

「もう勝手にしてよ!」

 長い黒髪を揺らしながら、優奈は怒って帰ってしまった。無理もない。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。でも、今の俺には時間がない。明日であのガールズコレクションは潰れるのだ。自分が係わった事だけはちゃんとケリをつけたかった。坂本の奴は店長だと踏ん反り返っているだけで、何の責任もとろうとしていない。いつも一生懸命やってきた人間だけ損をしている。それが今の現代社会なのだろうか。それでも、おろした子供の為にも、自分自身の信念の為にも正々堂々と生きていきたかった。

「伊達さん?もしもーし。」

「あ、ごめんごめん。」

「さっき伊達さんから着信あったから、どうしたのかなと思って。」

「ん…、いや…。」

 この子は店で一番頑張って出勤してくれた子だった。だから最初に店が無くなる事を伝えておきたかった。ショックを受ける事は予想出来るが、現実を受け止めて欲しい。

「今日子ちゃん…。」

「何?」

「落ち着いて聞いてほしい。」

「どうしたの、伊達さん。」

「明後日でガールズコレクションは終わるんだ。」

「え、嘘でしょ?」

「俺も今日、急に…、さっき聞いたばかりなんだ…。」

「……。」

「今日子ちゃん?」

「伊達さん…、私、一生懸命頑張ったよね?ちゃんと努力して頑張ったよね?」

「ああ、それは俺が一番分かってる。今日子ちゃんは本当によくやってくれた。俺が保障するよ。君がいなきゃ、あの店はもっと早く潰れてたって断言出来る。」

「伊達さん、私、泣いていいかな…。」

「あ、ああ…。」

「うわ~ん…、今日子、頑張ったよね…。」

「うん、頑張った…。ほんとによく頑張った。」

 しばらく今日子の鳴き声を電話越しに聞いていた。彼女も今回は犠牲者の一人だ。遠くで子供の泣く声まで聞こえてくた。そういえば以前、彼女には別れた旦那との子供が一人いるというのを聞いた事がある。

「ほら、そんな泣いてないで、子供だって傍にいるんでしょ?」

「うう…、私が泣いてるから、子供まで一緒になって泣き出しちゃった。うわ~ん。」

「とりあえず今日子ちゃん、現実を見ようよ。明後日になったらもう店は無いんだ。それよりも今後をどうするか考えないといけないだろ?」

「私、あそこでずっと頑張るって思ってたから、何も考えてなかったよ。」

 この子が俺の感覚に一番乗ってくれて頑張ってくれた。何も考えず俺を信じてやってきたのだ。心が痛む。自分の力のなさを痛感する。

「今日子ちゃん、俺の知り合いにヘルスやってる奴がいるんだ。そこで良かったら明日紹介するから面接だけでも行ってきたら?これ以上、泣いても仕方がないだろ。気持ちは分かるけどね。」

「う…、うん。」

 俺に比べたら彼女は偉い。旦那と別れようと子供を自分の体ひとつで育てて生きているのだから。

「子供の為にもしっかりしなきゃ、ね?」

「あ、ありがとう。うわ~ん。」

「とりあえず明日はいつも通り出勤してさ、そのまま面接に行こうよ。坂本とかには内緒でね。あと、奈々ちゃんとかも頑張ってやっていたから、一緒に俺が言っておくからさ。今日は明日に備えて早く寝ちゃいなよ。」

 今日子との電話を切っても、やらなきゃいけない事は増えるばかりだった。今、この現実から逃げられたらどれだけ楽だろう。そう思っても自分の生き方を曲げる事は出来ない。こういうのを不器用な生き方というのであろうか。

 

 しばらく部屋で、ただボーっとしていた。今までの様々な事が思い出してくる。優奈の事、おろした子供の事、ガールズコレクションの事。やるせなさが積もるばかりである。だが、現状を考えると色々と動かなくてはいけなかった。何から片付けるか、頭の中で整理をしていると、携帯が鳴った。

「はい、伊達です。」

「夜分遅くにすみません。」

 非常に人懐っこい親しみ感のある声が聞こえてくる。電話の主は知人の紹介で知り合った掛川だった。歌舞伎町で裏ビデオ屋を経営しているオーナーだ。

「いえいえ、問題ないですよ。」

「以前から話していた件なんですが…。」

 二ヶ月ほど前から俺は、この掛川から仕事での誘いを受けていた。話し声を聞いているだけで、この人はいい人なんだなと感じる。

「今まで待たしてしまってすみません。明日で…、すべて明日で、けじめをつけられそうなので…。それが済み次第、掛川さんのところへ行けます。本当にすみませんでした。」

「大丈夫ですよ。今のところがスッキリしたら、連絡待ってますから。」

「ありがとうございます。」

 電話を切って、煙草に火を点ける。どうせこのような形になるのなら、何故もっと早く決断を出来なかったのであろう。今のガールズコレクションなんてさっさと見切りをつけ、掛川さんのところで働けば、どれだけ大事に俺を扱ってくれただろうか。自分自身がけじめというものにこだわったおかげで、どれだけの犠牲を払ったというのだ。

「くそっ。」

 壁に拳を叩きつける。途端に白い壁が赤く滲みだす。確かに痛みはある。しかし、心の痛みはこんなものではない。涙があふれそうになるのを懸命に堪えた。いや、泣いてなんかいられない。とにかく今はやらなきゃならない事をやろう。それしか今の俺には方法がないのだから…。

 

 結局、次の日になるまでに、出来る限りの事は片付けるよう動いた。まずは店の女の子の今後。ホームページの件。印刷屋に注文していたチケットのキャンセル。ダスキンやヤクルトなど店での備品関係の業者に対する報告。インターネットで広告を出していたところとの業務停止。歌舞伎町の情報館に出していた広告の停止。その他にも雑誌で店の女の子を載せるように企画していた広告代理店に対する報告と謝罪。ガールズコレクションと提携していたホテルやレンタルルームに対しての謝罪。頭が痛くなるばかりだった。

 仕事場にいつも通り向かうと、今日子と奈々が先に出勤していた。さすがに二人とも不安そうな表情は隠せていない。今日子は一晩中泣いたのか、目が真っ赤だった。

「おはよう、伊達さん。」

「ああ、おはよう。もう知り合いには今日の三時に面接って話を通しているから、その時間までに渋谷へ行けばいい事になっているよ。」

「私、伊達さんとこの店でやっていきたいよ。」

 もともとガールズコレクションはパソコンを使った業務で仕事するという条件で入ったので、女の子と係わりにならないでいいという気軽さはあった。それが月日が経つに連れて、俺の仕事はどんどん増えていく一方だった。女を扱う商売は俺には無理と、自分で思っていたのでこの三ヶ月あまり、本当に大変だった。自分が動かない事にはどうにもならなかったこの店。女の子には誠心誠意で接していたが、中にはこうして理解してくれる子もいる。俺のやってきた事は、まったく無駄じゃなかった訳だ。

「ありがとう。もうちょっと自分に力があったらなって、本当に思うよ。何だかとても悔しいね…。」

「伊達さん、今までほんとにありがとう。今まで働いたお店の中で、一番やってて楽しかった。ほんとに色々お世話になっちゃって…。」

「いや、こちらこそ。奈々ちゃんも俺に協力してくれて、本当にありがとね。すごい助かった。君たちが頑張ってくれたから、俺は腐らずに頑張れた。とりあえず時間になったら、面接に行っておいで。」

「はい。」

 その日は残務整理に追われながら、マイペースに自分の出来る事をこなした。この分じゃ、店は明日で終わりだが、俺自身は今日で辞められる。そう思うと、幾分気持ちも楽になってくる。そうすれば掛川さんのところで楽しく仕事が出来るんだ。俺はそう考え、気持ちを切り替えた。

 二時頃になるとオーナーの一人である東が店にやってきた。パンチパーマに釣り上がった細い目。醜く突き出た腹。人相は性格の悪さがそのまま滲み出ている。男として絶対にこうはなりたくないものだ。俺は挨拶をまともにするのも嫌なので、軽く会釈をする程度にしておいた。

「おう、昨日、坂本から聞いたか?」

 今日明日でこの店を潰すと言った張本人の一人が、まったく何て言い草だろう。呆れてものも言えない。申し訳ないという、素振りさえ何も見えなかった。

「坂本は?」

「まだ、寝てんじゃないですか?いつもと同じで、ここには俺しかいませんよ。」

「そうか…。そうそう、おまえが組み立てたパソコンあるだろ。」

「はい、それが何か?」

「最初に確か八十万ぐらいの価値があるって言ってたじゃねーか。それ、売ればいくらになるんだ?」

「は?」

「だからそのパソコンを売れば、いくらになるんだ?」

 金、金、金…。こういう人種の頭の中身は金の事しかないのだろうか。俺がどれだけ苦労して、このパソコンを組んだと思っているのだ。店を急に閉める事に対し、謝罪するなら分かるが、こんな台詞しか出てこない。神経を疑うばかりだ。

「ええ、あの組んだ時点で価値は八十万ぐらいあるって確かに言いました。ただ、それはパソコンのCPUやメモリーなど、基本的なもので経費を使い、OSや中に入っているマイクロソフトオフィスやアドビのフォトショップ、ノートンのウイルス防止ソフトなどは、自分が持ってるのを入れているから、十八万ぐらいで作れただけなんです。」

「そんな細かい事は聞いてねーよ。これを売ればいくらになるんだって聞いてるんだ。」

「どこに行っても自作のパソコンはどこも買い取ってくれません。バラしてパーツごとに売るか、もしくは知り合いに売るぐらいしかないですよ。」

「何だ…、何が八十万もするだよ。全然、金にならねーじゃねーか。」

 一体、東は十八万円しか使っていないこのパソコンで、いくらの金を欲しがっているのであろうか。このクズ野郎が…。心の中で叫んだ。パソコンの事が分からないだけならいい。それをこっちがかなり経費削減して金ももらわずに苦労して作ったのに、礼も言わずにそれどころか文句ばかり…。こんな馬鹿の下にはいるのはもう耐えられない。一秒でも早くおさらばしたかった。掛川さんの優しい声を思い出す。

「大丈夫ですよ。今のところがスッキリしたら、連絡待ってますから。」

 心なしか少し落ち着く。もうちょっとの辛抱だ。俺は掛川さんに感謝した。

「とりあえず知り合いに聞いてみるから、今日中には店のデータとか消して、買った時の状態に戻しとけよ。」

 言いたい事だけ抜かして東は去っていった。憎悪が更に濃くなるのを感じる。こんなパソコンは、インターネットぐらいしか出来ないようにしてやる。俺は苦労して入れた様々なプログラムをほとんど消した。

 

 夕方頃には自分が係わった仕事がすべて終わった。今日子や奈々たちも渋谷の知り合いの店で、明日から働く事が決まったみたいだった。もうホームページもなくなった。あと、やる事といったら、この店の片付けぐらいである。そんなものは何もしなかった坂本や若松にやらせればいい。

 ようやく坂本がいつものようにやってきた。客商売なのに寝癖で頭はボサボサだ。よれよれのだらしない茶色のスーツ。見るたび神経を疑ってしまう。呑気というのか遅刻して、悪びれもしないのは今に始まった事ではない。ただ、店が急に閉まるという現実に対し、他人事のように済ましている顔を見ていると、グーで殴りたくなってくる。

「今日、どうしたの?……なんだよ。全然、客が来てないじゃん。女の子は?」

 店の帳簿を覗き込むながら、不機嫌そうに言う坂本。俺は上から睨みつけた。

「悪いけど、俺が面倒見てた子は他の店に移させてもらいましたよ。」

「あ?」

 それまで寝惚けた感じだったが、少しは驚いた表情をした坂本。見ていて滑稽だった。

「それと俺が出来る限りの残務処理はすべてやっておいたので、今、この場でもう辞めさせてもらいますから。」

「ちょ、ちょっと待ってよ。明日まではここ、ちゃんと営業するんだよ?それに伊達君には店の片付けだってしてもらわないと…。それが本来のけじめでしょ?」

 よくもまあ、ここまで言えるものだ。俺自身、けじめをちゃんとつけろと言われるような事は何もない。

「冗談じゃないですよ…。けじめ、けじめって、俺にこの店は何をしてくれたんですか?最初の準備段階で給料一銭も出ずに、あんたが店の内装やるのに一ヶ月半も掛かったから、ずっと無給で働かされ、挙句の果てに俺は、自分の子供をおろしてんですよ!そりゃー、一ヵ月半も給料入らなきゃ、女に色々文句だって言われますよ。これから子供が生まれてくるのに、どうやって生活すればいいんですか?電車賃すら出ない。新宿に毎日来るんだって金が掛かるんですよ。俺だって好きで子供をおろした訳じゃない!もうボロボロじゃないですか!」

 ずっと抑えていた感情が一気に口から溢れ出る。自分自身の不甲斐なさ…。それは嫌ってほど自覚している。それを差し引いても坂本は許せなかった。

「子供おろした。子供おろしたって言ってるけど、それなら俺なんか過去三回も四回もおろしてるよ。そんなに自分の事ばっか言われてもさー。」

「ふざけんなよ。子供を三回も四回もおろしただと?女と一緒に病院へ立ち会った事あるのか?あんな思いするのは一度だけで充分だ。おまえの感覚と一緒にするな!だから俺はここがこう潰れるのが分かっていたから、散々辞めるって何度も言ったんじゃねーか。」

「それとこれは別の話でしょ?今は店を閉めたあとの片付けの話をしてんだからさー。」

「うるせー。黙れ、このクズが!」

 溜まっていた憎悪をすべて目に込めて、坂本を睨み付けた。財布を取り出して、中にある札を全部手に掴んだ。

「片付け?そんなもんはなー…、頭の悪いおまえと若松がやれ。今まで何をしてきた?無駄に経費を使い、店には全然プラスにならない事しかしてねーじゃねーか。ちょっと可愛い子が面接来ると食事に行こうと誘い、たった二人で二万円の領収書…。でも、おまえが馬鹿みたいにベタベタ気安いから、誰も面接以降は来なくなっている。女の子がおまえと若松の苦情を俺に、いつも滅茶苦茶言ってきてんだ。経費で三万あげるから、俺とホテル行こうよだとかな。三ヶ月で九百万の赤字って、偉そうに抜かしてたけど、全部おまえと若松が意味のない遣い方しただけじゃねーか?俺が経費を削減するのにどれだけ苦労したと思っている。スキャナー一つだって経費で買ってくれないから、俺はいつもデータを家に持って帰って、仕事が終わってからやってたんだ。もう俺がこの仕事で関係したものはすべて片付けた。ゴミ掃除だとか、おまえみたいな馬鹿でも出来る事だけは残しといてやったから、そのぐらいはちゃんとやっとけ。」

「……。」

「俺が言いたかったのはそんなとこだ。もう帰るぞ。」

「ちょ、ちょっとさー…、今、帰られてもちゃんと働いている訳じゃないから日払いの金を出せないよ。」

 悲しいぐらい空気の読めない人間。そんな台詞しか言えないのだろうか。

「そんな金、いらねーよ。それとな、あとで文句言われちゃ嫌だからここでもらった給料、今現在財布にある分はいらねーよ。欲しけりゃ拾え。」

 俺は手に持っていた金をその場でバラ撒いた。札がゆっくりと宙を舞うのを坂本は呆気にとられて見ていた。

「おい、坂本。金輪際、二度と俺に係わるな。今度はテメーを潰すぞ。」

 すべての鬱憤をぶつけ、俺は店をあとにした。少しはこれで俺のおろした子もスッキリしただろうか…。いや、結局はどうしたって自己満足に過ぎないのだ。それと、優奈にはキッチリと謝ろう。男と女じゃ、やはり女のほうが受けた傷は深いのだ。精神的な傷は同じでも、向こうは体まで痛めている。違う…、肉体的にも精神的にも女のほうが男とは比べ物にならないぐらいダメージはでかいのだ。怒りをぶつけても、虚しさしか残らない。何をしたって、俺が我が子をおろした事実は永遠に消えないのだ。自分の馬鹿さ加減を呪う。いくら最後に怒りを爆発させても、何もならない。すまなかった。まだ名前も付けていなかった我が子よ…。そして優奈…。俺は二度と同じ過ちは絶対繰り返さない。そして精一杯俺らしく生きよう。

 

 店を辞めてから数日は、女の子たちから毎日のように連絡があった。無事にうまく新しい職場に馴染んでいる子もいれば、愚痴ばかりで店を転々としている子もいる。最初の内は話に付き合ったが、もう今の俺には責任はない。それよりも優奈に対して、償わないといけない。

 新しい職場もすぐに決まった。以前から誘いを受けていた掛川さんのところへお世話になる事になった。職種は裏ビデオ屋。実質現状ではビデオよりもDVDがメインではある。内容はアダルトなモザイクが入っていないDVDを客に売るだけである。相場は一枚だと三千円で、一万円買えば五枚になるといった感じで、非常にアバウトな商売である。

所詮、裏稼業ではあるが、俺のやる内容はデザインが主な仕事だった。以前、俺は歌舞伎町で裏ビデオ屋をやっていた時期があった。当時は店の中に入っての売り子であったが、俺の誠心誠意を込めた接客態度に喜んでくれた客もたくさんいた。いまだに連絡があるぐらいである。今度は売り子という外ではなく、内部で作業する中の仕事になる。畑は全然違うが心配はなかった。好きなパソコンをいじりながらの仕事は実際に楽しい。パソコンと向かい合うのが俺の仕事だから、必要以上な人間関係もない。優奈とも元通りになり、ようやく新しい方向に進んでいくのだろうという実感が湧いてきた。

 掛川さんは自分で想像した通りの人だった。俺を大事に扱ってくれているのを実感するばかりである。給料自体は一日で一万二千円だったが、勤務時間は八時間だった。いや、実質のところ、八時間も働いていなかった。出勤時間が昼の三時から四時の間に来てくれればという形で、帰りは夜の十一時前には事務所を出ていた。

 現在、歌舞伎町浄化作戦の余波で営業している店は一軒もなかったが、これから秋葉原という新しいエリアで新規オープン予定であった。俺は売り物である裏DVDのジャケットのデザインを毎日のように作っていた。俗にいうオタクが集結する街、秋葉原。アニメとかのラインナップも揃えれば、うまくいきそうな気配はある。それより何よりも接客の仕方ひとつで店は違ってくる。プラス、俺が客の見やすいように店を作れるかだ。

「伊達さんって本当に黒のスーツ似合いますよね。」

 色々考えているところに突然、掛川さんが声を掛けてきた。

「え、そうですか?」

 建前上、そう答えたが内心嬉しかった。高校を卒業して以来、ずっと黒のスーツにこだわり続けて今まできた。このスタイルできて、十五年ぐらいはもう経つだろうか。

「なかなか似合う人っていないですよ。歌舞伎町にいるホスト連中なんか、流行りでただ着ているって感じじゃないですか。」

「まあ、確かにああいった連中と一緒には、されたくないですけどね。」

「それはそうですよ。でもこの業界じゃ珍しいですよ。」

「え?」

「こういう業界の人間を見ても分かる通り、どうしてもみんな、ラフな格好しちゃってますよね。そういう私なんかも実はそうなんですけど…。なかなか伊達さんみたいにスーツを着こなすなんて出来ませんよ。」

 さすがに居心地が悪くなってきた。掛川さんの褒め殺しがすごくなってきたので話題を方向転換される事にしよう。

「そういえば掛川さん、もうじきお店のほう、やっとオープン出来ますね。」

「いやー、本当に伊達さんに来て頂いて助かりましたよ。」

「とんでもないです。」

「やっぱりこういう業界じゃないですか…。パソコンを俺は使えるって偉そうに言う人間は腐るほどいるんですけど、実際やらせてみると何も役に立たない。この繰り返しばっかりだったんですよ。」

「確かにこの稼業、口先だけの奴っていっぱいですよね。」

 そう言いながら、俺は坂本や若松の事を思い出す。

「伊達さんの作るジャケットのセンスの良さ。本当に素晴らしいですよ。」

「い、いえ、そんな…。」

 お世辞でも自分の作った作品を褒められて嬉しくない人間はいないだろう。掛川さんの人柄のせいか、そう言われて素直に嬉しかった。

「これからもよろしくお願いしますね。」

 掛川さんが俺を見て、優しく微笑む。俺は持てる能力を全開に駆使して頑張ろうと決心した。ここへもっと早くきていれば良かった。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 新しい生活の滑り出しは、かなり順調だった。

 

 思えば新宿歌舞伎町で働くようになって十年の月日が経っている。嫌な事が多かったのも事実だが、自分自身の成長には少なからずプラスにはなっている。あのガールズコレクションでさえ、二度と戻りたくはないが、反骨心というものを芽生えさせてくれた。俺の場合、特定の人物を恨む事でそれが生まれ、恨みをうまく方向転換されてきたつもりだ。人間はどのような状況においても勉強になる。自分の心の在り方一つでどうにでもなるものだ。ただ、金に汚い人間だけはどうしても好きになれなかった。多分、金よりも大事なものがたくさんある事を知っているからであろう。だから金、金と目先しか見えていない人間は、嫌な気分にしかならないし苦手だった。それにプラス、坂本のように心の髄まで腐りきっている奴は本当に一番嫌な存在だ。この街にきてから坂本を含め、どうしても許せないという人間が三人いた。北方、坂本、吉川…。この三人は俺にとって許しがたい存在で在ると同時に、二度と俺の人生に絡んでほしくない人間でもあった。でも、もう俺には関係のない人間たちなのだ。後ろを振り返らず、前向きに歩いていこう。

「最近の修也ってさ、見ていて思うんだけどピリピリしなくなったよね。」

「当たり前じゃん。あんな腐った店で身動きとれずにやっていたから、必要以上にピリピリしてただけだ。もう坂本や若松みたいなあんな馬鹿とは働かないで済むんだ。本来の地はこっちだろう。」

「新しい職場のオーナーさんも、すごくいい人そうで良かったわ。何歳ぐらいの人なの?」

「うーん、ちょうど四十歳とか言ってたな。まあ、掛川さんは今まで接してきたオーナー連中の中でも、群を抜いていいね。」

 俺がニッコリ微笑むと、優奈は嬉しそうにピンクの口を開いて笑った。

「やっぱ修也は笑っているほうがいいよ。掛川さんに感謝しなきゃね。」

「ほんと、足を向けて寝れないよな。」

 今の俺は希望に満ち溢れていた。生活は急転したが、こうまでいい方向に転がるとは…。

「そうそう、俺さー。今度、この前の件とか生かして小説を書こうと思うんだよな。」

「小説…?何でいきなりまた…。」

 坂本や若松らへの怒りや恨み。彼らに対する反骨心をうまく小説として生かしたかった。

「坂本だとか今まで酷い奴って、いっぱい接してきたでしょ?」

「うん…、その名前を聞くと、すごい嫌な気分になる。」

 優奈の表情が一瞬にして曇る。まだ全然傷は癒えていないのだ。

「ああ、もちろん俺だってそうだ。いまだに憎悪あるもんな。だからああいう腐った奴らとかをそのまま書いても、他人からみれば面白い小説になるんじゃないかなってね。」

「……。」

「もちろん多少の脚色はするにしても、ありのままを書くだけでしばらくネタには困らないだろうし。俺は完全な正義の味方として、小さい子供らに人気者って設定でさ。」

「……。」

「優奈、どうした?」

 相変わらず優奈の表情は暗いままだった。

「ごめんな、嫌な事を思い出させちゃって…。」

「ううん…、大丈夫…。」

 無理に作り笑いをしているのが、見ていて痛々しかった。実話に基づいて書くという事は、優奈の傷口を再度えぐるようなものなのだ。

「こんな事を小説にするって、俺が馬鹿だよな…。」

「何、言ってんの。頑張ってよ。修也がどんな小説書くか、見ものだしね。」

 明らかに自分の感情を押し殺しているのが手に取るように分かる。正直、迷う。このままあの時の事は俺たち二人の間でそっと留めておくべきなのか。それよりも前向きに考え、小説という媒体を使い、過去の傷を癒すようにしたほうが正解なのか。

「修也がそう思ったんなら、書いてみれば。」

 無理に明るく振舞う優奈の表情を見て、俺もそれに答えないといけない。もうおろした時のあんな表情はさせたくなかった。

「ああ…。じゃあ、いっちょ頑張ってみるとするか。」

 俺も無理に明るく表情を作って言った。自分たちの犯した過ち、当事者たちへの憎悪を小説に込めよう。それで前向きに生きていければいい。

「あ、そうそう…。今度さ、私の妹の家に行く?」

「何だよ急に?突然、そんな事を言い出して…。小説を書こうかなって言ってるのに…。」

「修也って、小さい子大好きでしょ?」

「そうだねー。ゲーセンで小さい子がいると、UFOキャッチャーで何か取ってあげちゃうぐらい好きだね。」

「でしょ?」

「ああ、本当は保父さんか何かやりたいぐらいだね。」

 話題が変わったせいか、優奈も先ほどとは打って変わり、楽しそうに目を輝かせた。

「おい、ひょっとして…。」

「そう、そこで妹の家に、二歳の諒って男の子がいるんだよ。」

「へー、ゴマシオかー…。」

「ゴマシオって何よ?」

「別に悪い意味じゃねえって…。俺、小さい子の事をゴマシオって呼ぶ事にしてんだよ。」

「ゴマシオねー…。分かるような分かんないような。」

「それでその子は可愛いの?」

「すごい可愛いよ。目もパッチリしててね。修也の今の仕事って、毎週日曜は休みとれてるじゃない?だからもし良かったらどうかなと思ってさ。」

「いいねー、是非行ってみたいね。でも、俺の小さい時だって殺人的に可愛かったんだよ?今度、写真見せてやるよ。」

「はいはい。じゃあ、今週の日曜日にって言っておくね。」

 やっぱり優奈は明るいほうがいい。しんみりした話題はやめて元気良くいこう。

「ああ、それとさー、その子って特撮ものとか見るかな?手ぶらじゃなんだし、昔の特撮DVDでもオリジナルのやつを作って持っていこうかな?」

「多分、喜ぶんじゃない?でも、何で昔のなの?」

「イヒヒ…、近所の子に話しても誰も分からないところがいいでしょ?俺ぐらいの世代の人間じゃないと、会話が噛み合わないようにするのって良くない?僅か二歳児にして。」

「さー、どうかしらねー…。まー、今週行くって伝えておくよ。」

「じゃあ、今週の日曜な。」

「はーい、修也も小説とやら頑張ってみてね。」

「何だよ、ひでー言い方だな。」

 早速、俺は家で昔の特撮ものをピックアップして、DVDを作り始めた。子供の…、いやゴマシオの喜ぶ顔を見るのが、俺は大好きなのである。それと先ほど優奈に話した小説。あいつは冗談程度にしかとっていないのであろう。そう思われるのも癪に障るので、これもすぐに取り掛かりたかった。タイトルはあとで決めればいいとして、まずはパソコンのワードを起動して、思いつくまま文章を書き出した。憎悪を込めながら…。

 

 翌日、いつのもように仕事で電車に乗って新宿へ向かった。外の景色を眺めていると、もうじき春がやってくるのを感じる。俺は退屈しのぎに雑誌を手にとった。

ふと気づくと、俺の座席のすぐ傍で一匹の蜂がいた。何故、こんな電車の座席に蜂がいるのだろうか。奇妙な感覚で蜂を見ている内に、幼い頃の記憶が蘇る。

 小学校五年生の夏に林間学校へ行った時の話だ。帰りの山道を歩いていると、前の方から多数の悲鳴が聞こえてきた。

「なあ、伊達。向こうで何かあったんじゃないか?」

 同じクラスの奴が話し掛けてくる。

「さあね、でもこれだけ人数がいるんだ。何かあったとしても平気だろ。」

全四クラスで人数的には百二十名以上いるせいか、何があってもそんなに不安を感じなかった。少し進むと先ほどの悲鳴を出させた正体が分かった。寂れたぼろい休憩所の屋根に大きな蜂の巣があり、その周辺を十数匹の蜂が飛び回っていたのだ。蜂というものにあまり恐怖を感じなかった俺は、ただ巣の周りを飛び回っているだけの蜂に悲鳴を上げている同級生が情けなく見えた。

「一組の連中、何をそんなにビビッているんだよな。情けねー。」

「馬鹿、あんだけの蜂の大群だぜ。あんなとこ通って大丈夫かよ?」

「先生だって一緒だし、今、二組の奴らだってビビリながらも歩いているじゃん。何も問題ないだろ?平気だよ。」

「だって、蜂に三回刺されると死んじゃうって聞いた事あるぜ?」

「そんなの迷信だよ。だいいち、そんなのニュース流れた事あるかよ?」

「ま、まーな…。」

 話しながら歩いているうちに、とうとう俺らの三組が蜂の巣の下を通る事になった。頭上では蜂がブーンと派手な音を鳴らしながら飛んでいる。クラスの大半は足をガクガク震わせながら、半泣き状態で歩いていた。何故みんな、こんな小さな虫ケラにここまで恐怖を感じるのだろうか。俺は巣の下を通り掛かった時に蜂を睨みつけた。ふざけやがって…。俺は右手に持っていたジャージをムチ代わりにして、蜂の巣を思い切り引っ叩いた。その瞬間、ブーンという音は何倍にも増してすごくなり、頭上で飛んでいた蜂が俺たちのクラスに攻撃を仕掛けてきた。右耳のすぐ後ろでブーン、ブーンという音がより一層激しくなり何かが触れる。びっくりした俺は無造作に手を伸ばし、耳の後ろにいる何か払いのけた。だが、ひっきりなしに、その何かはブーンという音と共に耳元にしつこく止まってくる。俺は払いのけるだけでなく、滅茶苦茶に腕を振り回した。あちこちで泣き声に近い悲鳴が聞こえてくる。その時、右耳の後ろ辺りにジーンとした痛みを感じた。俺は右手をギュッと握り締め、必死に右耳を抑えながら一目散に走った。

気がつくと、ほとんどの同級生らが様々なところを手で抑えながら泣いていた。俺も右耳の後ろが妙に熱く、そして激しい痛みを感じていた。

「おい、大丈夫か?ジッとしてるって…。」

担任の先生の声が聞こえる。俺の無知な行動がクラスのみんなに大惨事を起こさせた。固く握り締めた右手の中に違和感を覚え、恐る恐る手を開いてみた。

「うわっ…。」

右手の中には数匹の蜂がグチャグチャになった状態でつぶれていた。手にこびりついた黄色い変な液体…。発狂寸前だった。それからというもの、俺は蜂に対して必要以上の恐怖を覚えるようになった。

 

昔を思い出しながら、すぐ傍にいる蜂を見て一瞬ビクッとしたが、冷静に見てみる事にした。変にビビる事はない。あれから何年も経っているのだ…。大方、どこかの車両の窓が開いていて、風に流されてたまたまこの場へ迷い込んだのだろう。どこかにぶつかったのか分からないが、蜂はとても弱々しく、かろうじて歩いているのがやっとという感じだ。飛ぶ力も無さそうである。少し気の毒に思いながらも俺は放っておき、雑誌に目を通した。

「次の停車駅は田無…、次は田無でございます。」

 所沢駅を出て車内アナウンスがなる。雑誌から目を離し、先ほどの蜂がいた方向へ視線を向けると、もうそこに蜂はいなかった。一体、どこに行ったのやら…。

「うっ…。」

危なく叫びそうだった。あの弱々しい蜂がいつの間にか、俺のズボンの上にいたのだ。瞬間的に雑誌で蜂を遠くに飛ばした。蜂はドアの方まで跳ね飛ばされた。幼い頃、蜂に刺された恐怖が蘇りつつあった。冷や汗で濡れた額を手で拭い、三メートルほど離れた蜂を凝視する。元々弱っていた蜂はピクリともしなかった。乗客の視線も気になるので、俺は何事もなかったように雑誌に目を向けた。心臓が音を立てて鳴っているのが分かる。

「田無―…、田無に到着です。」

 何人かの新しい乗客が電車に乗り込んでくる。蜂が踏み潰されたりしないだろうかと、自分で跳ね飛ばしておきながら変な心配をした。

 さっきまでドアの前にいた蜂がいない…。一体どこへ…。周辺を見ても見当たらない。まさか、踏み潰されたんじゃないだろうか。妙な罪悪感に駆られながら、再び雑誌に目を向ける。気のせいか左腕が重く感じた。

 小学五年生のあの件で、一クラス半ぐらいの同級生たちが蜂の被害にあった。いつも男女問わず、からかって苛めていた苛めっ子でさえもあの時は泣いていた。夏休みが終わり、学校が始まってから、俺はクラス全員に責められ続けた。ジャージで蜂の巣を引っ叩き、多くの人間が仕返しに刺されたのだ。責められても仕方のない事をしたのだから当たり前の話だが、とてもきつく、そして寂しかった。忌々しい記憶。唯一、優しく接してくれたのは隣近所の幼馴染だけだった。そういえば今頃、あいつはどうしているかな…。

「……。」

 ふと、足元に視線を落とすと、先ほどの蜂が視界に映った。さっきほどの驚きはなかった。それどころか、奇妙な縁すら感じる。蜂は一歩一歩弱々しくも、ゆっくりと俺の足に向かって近づいていた。

「何で俺にそうまでして近づくんだよ…。」

 心の中で蜂に向かって呟いた。絶対に人を刺す力など残っていないであろう。しかし、昔のトラウマがあって、いまだに俺は蜂に対して恐怖心を抱いてしまう。常に足元を気にしている内に、何事もなく電車は新宿へ到着する。

 

 約束していた日曜になり、優奈の妹の家におじゃまする事になった。前に漠然と話していた小説もすでに書き始めていた。タイトルは『はなっから穴の開いていた沈没船』。

今のところそのタイトルで書き上げるつもりだ。同時進行で俺は張り切り過ぎて、諒君にプレゼントする用のDVDを四枚も作ってしまっていた。今日は執筆活動を出来ないが、たまの息抜きとしてゆっくりするのも悪くない。優奈の妹の新居に着き、ドアをノックして開けると、小さな足音がトコトコ音を立てて近付いてくる。

「あー。」

 玄関にまで二歳の諒君がわざわざ迎えに来てくれたのだった。

「すごい可愛いねー。」

 優奈は横で嬉しそうにニコニコしている。

「あら、姉さん。いらっしゃい。」

「久しぶりね、のぞみ。おじゃまするね。」

 一通りの紹介を済ませると、俺は諒君に掛かりっきりになる。

「諒君、おにーちゃんが諒君にDVDを作ってきたんだよ。」

「あー。」

 小さな手でDVDを受け取る諒君。こんなに喜んでくれるなんて、俺は果報者だ。

「おにーたん。おにーたん。」

 初対面でも諒君は俺に懐いてくれた。外に食事に行く時も諒君を肩車しながら、一緒に行った。本当に保父さんになっていたら、俺の人生、もっと幸せだったかな…。もし、諒君が優奈と俺の間に出来た子供だったら、どのぐらい可愛がっているか想像もつかない。何故、あの時おろしてしまったのだろう。いくら後悔してもあの子は帰ってこない。こんなにも小さい子の面倒を見るのが大好きなのに、俺は何故あんな事をしてしまったのだ。胸がギュッと苦しい。俺は自分のエゴの為、一つの大事な生命を奪ってしまった大馬鹿野郎だ。

「修也…。修也ってば…。」

「ん…、あ、ああ。」

「何かすごい思いつめた表情してるよ。どうしたの?」

「いや、何でもないよ。気のせいだろ。」

「そう、ならいいけど…。」

「あ、諒君が俺を呼んでるよ。ちょっと行ってくるな。」

 誤魔化すようにその場から逃げた。俺以上に優奈はもっときついはずだ。体の中まで傷つけさせてしまい、精神もズタズタになっただろう。手術のあとの優奈の表情を見た時、俺は自然に涙が溢れ出てしまった。心の底から自分たちのとった行動を悔やんだ。俺はもう二度と優奈にあんな表情をさせたくない。その意味でも今、執筆している小説は絶対に完成させよう。

「おにーたん。」

「あ、諒君ごめんね。肩車しよっか?」

「うん。」

「じゃあ、向こう向いて手をバンザイって上にあげてね。」

「うん。」

「ほーれ。」

 諒君を持ち上げ、肩に乗せてやると大喜びだ。

「修也、デジカメ持ってきたから、みんなで写真撮ろうよ。」

「いいねえ。でも、俺と諒君のツーショットで撮る。」

「別に一枚しか撮れない訳じゃないんだから、そんなに慌てないでよ。」

 俺は諒君と色々なポーズをしながら、写真を撮りまくった。小さい子と一緒になって遊ぶのは、精神的にとてもリラックスする。しばらくこういった安らぎを味わってなかったような気がする。たまにはいいもんだ。

 

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