岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

新宿セレナーデ 3

2019年07月19日 12時31分00秒 | 新宿セレナーデ

 

 

新宿セレナーデ 2 - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

浦安はまだ眠そうに目をトローンとさせた。仕事に対する意欲というものが、この男には欠けている。この歌舞伎町でも負け組と呼ばれる人種に入る人間だ。「あのー、だいたい...

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 北方の経営するグループに入って、一週間が過ぎた。
 いつもなら朝七時から昼の三時までだが、今日は中番の小阪が休みをとるので、夕方の七時までぶっ通し働くようになる。従って、いつも二時間だけ働く地下一階の裏ビデオ屋『マロン』には行かなくて済んだ。
 ハレンチなものを売る商売に恥を感じていた俺は、気が楽になった。ゲーム屋でホール内を駆けずり回るのも好きではないが、裏ビデオを売るほうが苦痛なのだ。
 それにしても現在の仕事は、自分のプライドがどんどん削られていくような気がする。こんな事になるなら、『ワールド』をもう少し続けておけば良かったという後悔が大きくなってきた。金を受け取って、INを入れるだけの仕事。客のドリンクを聞き、灰皿を交換して、あとは掃除ぐらいしかする事がないのだ。ストレスが徐々に溜まっていくような感じである。
「神威さんにとって、今日は初めての十二時間ですか?」
 早番の責任者、山田が聞いてくる。
「そうですね。中番の人が休む時は、毎回十二時間働けばいいんですよね?」
「ええ、そうしてもらえると助かります。あ、三時頃になると、北方さんが店に来ますよ。あの人がゲームやりだすと、かなり不快に感じるでしょうけど、あまり気にしないで下さいね」
「不快感?」
「いつも各番の時間が来ると、ゲーム台のメーターをとって計算するじゃないですか?」
「ええ、締めの事ですよね?」
「はい、その時の数字を見てINOUT差のある台を探したり、ロイヤルが近い台がないかと回転数をチェックしたり、かなり卑劣なんですよ」

 あくまでもゲームはOUT率という確立の問題である。OUT率八十パーセントの台に百万入れたらからといって、必ず八十万出るとは限らない。百万INを回して五十万しか出ない時もあれば、百二十万出る事だってあった。つまりINOUT差をチェックして、OUTが極端に低い台。それはこれから帳尻合わせで一気に吹く可能性が高いとも言えた。俺のいた『ワールド』では、最低でもそのパーセンテージが安定するのは一千万ぐらいINが回ってからである。
「確かに台の設定を知っていて、INOUT差が分かれば、勝てる台が分かるますからね」
「北方さんは一人の客が帰る度、INOUT差を教えろって言うんです。それが分かっていれば、勝つの一目瞭然じゃないですか」
「なるほど、そうですね。でも、北方さんがここのオーナーなんだから台の数字を見て、何がいけないんです?」
 俺の言葉に、山田は面食らった表情になった。
「え、北方さんがこの店のオーナー? 誰から聞いたんです、そんな事?」
 何を山田は言いたいのか、よく分からない。
「誰って、北方さん本人ですよ」
「はぁ~…、ほんとあの人は……」
 ドッと疲れたように山田は言った。
「あの…、どういう事なんですか?」
「ここのオーナーは、渡辺さんって人ですよ。北方さんはこの下でビデオやっているし、店の監視役や台の設定をいじるって名目で、売上の十パーセントを月々もらってるだけですよ」
 渡辺…。全然そんな名前、北方の口からは出てきてないぞ……。
「そ、そうなんですか?」
「ええ、この店のオーナーは渡辺さんです。滅多に来ないですけどね」
「……」
 山田が嘘をついているようには思えない。第一そんな事をしたとして、何のメリットがあるのだろうか。一方的に北方の話を鵜呑みにすると、とんでもない目に遭うような気がした。
「それでこの店の管理をしている北方さんがですよ? その人が、うちでINOUT差を見ながら、客がいるのも構わず普通にゲームしちゃうんですから」
「そうなんですか?」
「はい。うちの客は北方さんがここのオーナーだって思ってますよ。そんなニュアンスでいつも常連客と話をしてますからね。神威さんだって誤解したように…。渡辺さんにとっても自分がオーナーだっていうのは、あまりバレないほうがいいですからね」
「何でです?」
「だって裏の仕事じゃないですか。いくら慎重にやっていたとしても、警察に捕まるケースだってあります。だから渡辺さん自身は、出来る限り表舞台には立ちたくないんですよ」
 オーナーが慎重になるのは当たり前だ。その為名義人というパクられ要員だって確保している。実際に捕まる現場に来るという行為は、通常避けるものだ。
「それはそうですね。でも北方さんがゲームをやっていて、客は誰も文句を言わないんですか?」
「あの人、至るところに色々なコネあるじゃないですか。だからみんな、内心煙たがっていますけど、誰も目の前では文句を言わないんですよ」
 サウナで会った時の印象は、面倒見のいい人と思ったが……。
 山田は、ロイヤルストレートフラッシュの画面がプリントされたものが貼ってある壁を指した。
「うちの店、ロイヤルが出ると、何日の何卓で誰が出したかを書いてあるじゃないですか。北方さんの名前が書いてあるのはもちろんそうですけど、この『仲村』とか『杉浦』、それと『橋本』って書いてあるロイヤル、これも本当は北方さんが出したやつなんですよ」
「えー!だって結構ありますよ?」
 パッと見、貼ってあるロイヤルのプリントの三分の一は北方が出したという事になる。
「あの人は面倒見てやるだよって言いながら、渡辺さんが店に来ないのをいい事に、好き放題しているんですよ。本当ならビデオ屋の経費なのに、うちに領収書を持ってきて、この金額を出せってよく金を取っていくんですよ」
 表面上は穏やかそうに見えたこの職場。しかしそれは見せかけのものだった。

 時計を見ると昼の二時。いつもならあと一時間でゲームの仕事は終わる。今日はあと五時間も働くようだ。
 早番の時間帯は、ほとんど暇である。客が一人もいないので、山田と話をして時間を潰すしかない。これだけ暇ならノートパソコンを持ってくれば、いい暇つぶしができるのになと思う。ここ最近はそれぐらい家に帰るとパソコンにハマっていた。一応仕事中だから、さすがにそれはまずいか……。
 駄目元で山田に聞いてみる。
「山田さん、早番って暇じゃないですか。今度、ノートパソコン持ってきてもいいですか?」
「ええ、いいですよ」と、予想外の返事が返ってきた。普通の仕事なら、ふざけるなと怒られているところだ。この辺が、裏稼業独特のいい部分なのかもしれない。
 ピンポーン……。
 入口のインターホンが鳴る。リストの近くにモニタつき電話があるので、誰が外にいるのか一目瞭然だ。来たのは客ではなく北方だった。
「何だ、客はいねえのか」
 入ってくるなり、ホールを見渡す北方。先ほど山田から聞いた話が影響しているのか、顔を見ているだけで何ともいえない気分になってくる。
 山田が、「十時ぐらいで客は全員帰りました」と答えると、「誰がいたんだ。締め用紙は?」と北方は偉そうに言った。
「いたのは吉岡さん、飯野さん、益子さん、鹿倉さん、それとミンミンですね」
「ほら、さっさと締め用紙をよこせ」
 北方はひったくるように用紙を奪い、丹念に各台のINOUT差をチェックすると、「四卓と十卓、それと十二卓をキープしとけ」と命令する。キープとは、客が入ってきても、その台をやらせないよう遮光板を縦に置く事だ。
 キープさせたはずの四卓に座ると、北方は財布を取り出し二千円を出した。
「おい、神威。早く伝票よこせ」
「え、伝票って?」
「新規だよ、新規」
「あ、はい……」
 まさか自分でキープさせた台をやるのだろうか? 新規伝票を置くと、北方は『橋本』と偽名を使い、「早くINしろ」と命令した。
 この店の新規サービスは二千ポイント。二千円分と合わせてクレジットを四千入れる。
「山田、いつものな」
「はい」と、言いながら、山田はすでに砂糖とクリームをたっぷり入れたコーヒーを造っていた。
 コーヒーを台の上に置くと、山田は俺の背中を軽く叩き、リストのほうへ歩いていく。俺もあとをついていくと、山田は小声で「多分あの台、もうちょいでロイヤルが出ますよ」と言った。
 北方がゲームをしている姿を見ていると、最初のINのクレジットをだらだらとテイクしながら遊んでいる。役が揃ってもまったくダブルアップをしないので、しばらくINに行かなくてもよさそうだ。
「お、ロイヤル!」
 北方が一人ではしゃぎだしたので、画面を見るとロイヤルストレートフラッシュが揃っていた。これで五万円の金が確定である。
「山田、オリなし先付け」
 普通、初回サービスのオリなしは禁止じゃなかったかな…。山田は、不服そうな表情で財布から五万三千円を取り出すと、北方へ手渡した。
「じゃあ、俺は下にいるけど、何かあったら言ってこいよ」
「はい」
「神威はそろそろ下に来る時間だろう?」
「いえ、今日は小坂さんが休みなので、夜の七時までこっちですが」
「分かった」
 それだけ言うと、北方はとっとと店から出て行ってしまった。
「あの山田さん…。北方さん、何をしに来たんですか?」
「金を毟り取りに来ただけですよ。だから言ったじゃないですか。あの人は金に関して本当に悪魔ですよって」
「でも、いきなりロイヤル出してオリなし、しかも先付けでって酷くないですか?」
「普通なら出禁ですよ。北方さんにはオーナーの渡辺さんもあまり強い事を言えないみたいなんですよ。日頃、店の面倒を見てもらってるから。まあ、ここまでエグイ事をしてるなんて知らないんでしょうけどね」
 北方の人間性を少し垣間見たような気がした。

 三時になって中番の従業員であるタイ人のブンチャイが来た。同じ歌舞伎町でも俺がいた一番街通りと違い、この辺の店は普通に外国人が一緒に働いている。ブンチャイは、片言の日本語を話せるし、普通に理解もできた。
 各台のメーターをとり、早番の締めを終わらせると、山田は「お疲れさまでした」と帰っていく。
 タイ人のブンチャイとはあまり話をする機会がない。客もいないので、何かしら話し掛けようと思うが共通の話題が分からないので困っていた。ブンチャイはブツブツと独り言を言いながら、パチンコ雑誌を熱心に読んでいる。
「ブンチャイさん。ブンチャイさんって日本に来てどのくらいになるんですか?」
「んー、二年。私、タイならとても優秀。いっぱい勉強してきた。でも日本、仕事ない」
「そうなんですか。すごいですね」
 何でそこまで優秀な人間が、こんな場所で裏稼業をしているんだと突っ込みたかったが、やめておく。
 ブンチャイはロイヤルの貼ってある壁を見ながら、「また北方さん、ロイヤル出したか?」と聞いてきた。
「ええ、四卓で」
「あの人、いつもいつもだよ」と、ブンチャイは不満そうな顔で吐き捨てるように言った。
 北方がいつもどのように酷い事をやってきたかという愚痴を延々と話していたが、片言なので半分ぐらいしか意味が分からない。
 何となく理解できた北方の所業。
 客がたくさんいるのにも構わず、負けが込むと平気で台に蹴りを入れたり、テーブルの上を叩いたりする事。
 一日で一回しか入らない新規サービス。北方は名前を変えて偽名を使い、その度何度も新規サービスを強引にさせている事。
 あとは山田が言っていたような類の事だった。
 何となく分かった事。北方はこの店の従業員全体から煙たがられているという事である。
 ひと通り話し終わると、ブンチャイは「ちょっと、外出てくる」と言い、店を出て行ってしまう。誰もいないからいいが、客が来たらどうするんだ? かなりいい加減な人間なのかもしれない。
 インターホンが鳴り、見た事のない顔がモニタに映る。この店は常連客以外、入れない営業スタイルをとっているので、迂闊に入れて警察だったなんて事だとまずい。
 しばらくモニタを見ていると、知らない男はカメラに目を近づけてその場から動こうとしなかった。ひょっとして常連客だろうか? いつも自分がいない時間帯なので、何ともいえない。五分ほどして諦めたのか、男は去っていった。
 二時間が経過し、ようやくブンチャイが帰ってくる。「客、来たか」と聞いてきたので、「一人知らない人が来たから入れなかった」と言うと、「何故、電話しない」と怒ってきたので、「ブンチャイさんの携帯番号を知らないから」とだけ答えた。
 このタイ人と俺は、あまり相性がよくないなと感じる。
 暇な時間を何もせず、過ごすのはかなり苦痛だった。誰でもいい。客来ないかなと思っていると、飯野という常連客が来た。
「お、見た事ない顔だね。新人さん?」
 五十台前半の割腹のいいオヤジといったイメージの飯野は、気さくに話し掛けてくる。
「神威と言います。まだ入って一週間なので、よろしくお願いします」
「真面目でいいね~。あれ、十卓と十二卓は誰かやってんの?」
「え、ええ…。お客さんが今、外に出掛けていまして……」
 北方の為に、俺は苦しい言い訳をしなければならない。 
「四卓もロイヤル出たばっかか……」
 ロイヤルプリントが貼ってある逆側の壁には、昨日今日のボードが掛かっている。このボードは、台ごとに、一気やフォーカード、ストレートフラッシュなどが出たのを色違いのマグネットで表示している。しかし常に暇なこの店では、客のいない時適当にマグネットをつけているのでいい加減なものだった。前の店『ワールド』では考えられないカルチャーショックな事が多い。
 熱心にボードを眺めながら飯野は、「おっし、今日は五卓で勝負だな」と腰掛ける。
「ドリンクは何にしますか?」
「う~とね~…。コーラちょうだい」
「かしこまりました」
 リスト奥に座っていたブンチャイに、「コーラお願いします」と頼む。ブンチャイは、「あの客、ケンちゃんだから、サービスよくするな」と言ってきた。
 タダでさえ客のいない状況なんだから、多少の事は目をつぶるしかない。それに基本的なサービスはしないとおかしいのだ。俺は返事もせずコーラを飯野の座る五卓まで運んだ。
 この現状を振り返ると、やるせない気持ちになってくる。ついこの間まで、月に百万以上稼いでいた俺が、今ではたった一万の金の為に我慢して働いているのだ。
 また、俺が金をつかむ日は来るのだろうか?
 その時が来るなら、今度は自重しながらちゃんと金を貯めなきゃいけないと感じた。

 北方の系列グループで働くようになり、一ヶ月が過ぎた。初めはいい人だと思っていた北方も、実は酷い人間だと思うようになっている。
 裏稼業であるゲーム屋と裏ビデオ屋を兼業しながら、何とかして俺はもっと上に這い上がらなきゃいけない。そして、自分らしくいよう。それだけはいつも胸に秘めながら、毎日の生活を過ごしていった。
 慣れていなかった職場も、今では普通に接する事ができるようになり、少しは働きやすくなっている。ゲームの早番ではいつも暇なので、ノートパソコンを持ち込む事にした。
 俺のパソコンに入っている昔懐かしのアーケードゲームを見て、山田は興味を示したようだ。
「このパソコンすごいっすね、神威さん。このゲーム、どうしたんですか?」
「自分の先輩でパソコンのスペシャリストがいるんですよ。最初に色々教えてもらいましてね」
「今度、俺のノートも持ってくるので、ゲームできるようにしてもらえませんか?」
「別に構いませんよ」
「本当ですか! じゃあ、明日持ってきますので」
 山田は今年二十八歳なので、俺の二つ年下になる。ゲームを彼のパソコンに入れ、設定してあげると飛び跳ねて喜んだ。
 珍しく北方が、早い時間に『グランド』へ来た。
 あと二日後に、本来の早番である須田が帰ってくるらしい。例の子供が生まれ、北方から二十万の借金をした男である。そんな訳で、俺の『グランド』の仕事はあと二日で終了となった。
「そしたら神威は、『マロン』専属になるな。出勤時間、かなり楽になるだよ。昼の十一時から店を開けるからな」と、北方は言った。
 毎朝五時半に起きの生活。朝の弱い俺にとって辛かったので、その部分に関しては良かった。
「ちょっと俺は用事で歌舞伎町にいないから、時間になったら『マロン』を頼むぞ」と、言って北方は店を出て行った。
 三時になり、地下の『マロン』へ向かうと、見た事のない人がいて笑顔で話し掛けてきた。年齢は四十台後半で、小太りのおっとりした感じの人だ。浦安の姿は見えなかった。
「顔を合わせるのは初めてですね。はじめまして、上の『グランド』のオーナーの渡辺と言います。いつもうちの店を手伝っていただきすみません」
「あ、はじめまして。神威龍一と申します」
 口調も柔らかで感じのいい人だなという印象を受ける。言葉遣いも丁寧だ。
「一度は神威さんのところに、顔を出さなきゃと思いましてね。お会いできて良かったですよ」
「いえいえ、こちらこそです。早番の山田さんからお話しは聞いていましたので」
「神威さんって、一番街の『ワールド』の店長をやっていたそうですね。行った事はありませんが、名前を聞いた事ありましてね」
「私の力不足で、駄目になってしまいましたけどね」
「とんでもない。あれだけ人気のある店の店長なんて普通できませんよ。そんな人とお知り合いになれて良かったです」
 随分と人を持ち上げる性格だなと思ったが、悪い気はしない。
「そういえば、いつもここにいる浦安さんはどこか行ったんですか?」
「先ほど北方さんから聞いた話なんですが、浦安さん、飛んだらしいんですよ」
「飛んだ? …って事は、逃げたって事ですよね?」
 浦安は北方に借金があった。いくらかまでは知らないが…。毎日キツい思いをしながらやっていたが、嫌気が差したのだろう。北方に年中頭を叩かれていた印象しかない。
「何だか、連絡つかないって言っていましたよ」
 どっちにしても何故、北方は俺に報告をしないのだろう。先ほど『グランド』へ来た時にいくらでも話す機会はあったはずである。
「じゃあ、今日は私一人でビデオ屋をやれって事ですかね?」
「多分、そうじゃないかと…。北方さん、神威さんに言ってなかったんですか。あの人も、相変わらずいい加減だな~……」
「そうですよね……」
「でも、浦安さん。あの人も可哀相な人でしたからね。北方さんに金を借りたばっかりに…。失礼ですけど、神威さんも北方さんから借金をしているのですか?」
「はあ? 借金? 何ですか、それは?」
「あ、これは失礼しました。北方さんのところで働く従業員って、ほとんどが金を借りて返せなくなり、それで二束三文で働かされるんですよ……」
「え、そうなんですか……」
「ええ、多分初めてじゃないですか、神威さんが…。借金もしないでまともに働いている人って」
「……」
 思わず言葉を失う。驚愕の事実を聞いた俺は、今後の身の振り方を考えなければいけないと感じた。

 渡辺が『マロン』から帰ると、俺はテーブルの上にノートパソコンを開いた。
 ビデオの仕事は、今までほとんど浦安に任せっきりだったので、この状況を悔やむ。簡単な仕事ではあるが、ビデオに関してはほぼ素人同然なのだ。
 幸い客もいないので、俺は店に置いてあるたくさんのファイルの中から一つを見てみる。
 そのファイルは『熟女』と書かれ、ハガキサイズで四分割された写真が載っている。一ページで二作品ずつあり、ぎっしり写真は詰まっていた。
 最初のタイトルは『ゴージャス・マダムリン」という四十台ぐらいの女たちが、破廉恥な行為をしていくという作品だった。次は『人妻の匂い・その二」だった。何故、『その一』がないのかと疑問に感じたが、そんな事よりも、俺はある程度の作品を把握しなければなるまい。
 店内に置いてあるファイルの数は、全部で七冊。一冊で七十二作品分あった。しかも、このファイルはあくまでもビデオ用である。DVDは、タイトルジャケットをコピー機でそのままコピーした状態の紙が、五十種類ぐらい貼ってあった。
 だいたいこの店の総作品数は、五百五十ぐらい。いや、例のロリータものまで入れれば六百作品ぐらいある。
 まず、種類の少ないビデオから見てみる事にした。
 ジャンルや女優別になっている訳でもなく、無造作に貼られているだけのDVD用の紙切れ。今まで興味があまりなかったので、ここまでじっくり見るのは初めてである。
 ビデオ用のファイルは『熟女』『洋物』『和物1』『和物2』『和物3』『SM・スカトロ』『レイプ・盗撮』と表記してある。ひと口に裏ビデオといっても、様々なジャンルがあるものだ。妙なところで感心していると、客が階段を降りてきた。
「いらっしゃいませ」
 愛想良く挨拶したにもかかわらず、天然パーマで髪の毛の薄い男は、視線も合わさず黙々とファイルを見だした。ビデオを買いに来る客のほとんどはこのように愛想がない。羞恥心を誤魔化す為にそのような態度をとっているのだろう。
 男の手に取ったファイルは『和物3』だった。いきなり『和物1、2』を通り越しているから、何度か来ている常連客なのかもしれない。いや、考え過ぎかな……。
 今まで二時間しかビデオでは働いていないから、客が来ない事のほうが多い。確か、客が勝手にタイトルを紙に書いて渡してくるんだったよな? 浦安と一緒の時に、もうちょっと真面目に仕事内容を覚えておくんだった。
 俺は浦安が客にしていた対応を思い出しながら、頭の中を整理した。
 まずビデオ一本なら二千円。三本で五千円。八本で一万円……。
 確か浦安は客の書いたメモ用紙を見ながら、電話で配達人に頼んでいたよな……。
 他のビデオ屋は知らないが、個々『マロン』では、店内にビデオやDVDの現物を一切置いていない。従って客の注文したものを倉庫と呼ばれる場所へ電話をして、店まで持ってきてもらうのである。まだ四、五回しか会った事がないが、愛想のない太ったメガネを掛けた人がいつも持ってきていた。客に挨拶する訳でもなく黙って品物を置き、そのまま行ってしまうイメージしかない。鼻が悪いのか、いつも「ブフブフ」と豚のように鼻を鳴らしていた。
 先ほど入ってきた客はタイトル写真へ顔を近づけ、ジッと凝視している。俺の事など、まるで視界に入っていないような熱心さだ。
 メモ用紙に何かの作品名を書いてはまた写真を見直し、すでに一時間以上経過していた。まあ下手にマニアックな質問をされるよりはいいだろう。
 店に来てから一時間半。ようやく男は買いたい物が決まったようで、メモを一枚破り、黙ったまま俺のいるテーブルの上に置いた。
「作品は三本でいいですね?」
 声に出さず、少しだけ頷く男。一見、サラリーマンらしい服装をしている。何をしているか分からないが、よくこれで仕事が成り立っているものだ。
「では、三本で五千円になります」
 男は無言で財布を出し、五千円札を一枚手渡してきた。
「では商品が届くまで、あちらの椅子に座ってお待ち下さい」
 俺は受話器を持ち、倉庫とだけ書かれたボタンを押す。二回コールが鳴り、すぐに配達人は出た。
「はい」
 名前も何も名乗らず、感情のない無機質な声。
「あ、あの注文いいでしょうか?」
「何?」
「『パラダイス・モンブラン』と、『今すぐプリーズ』…。それと『もう我慢できないよ、奥さん』の三本です……」
 自分で言っていて非常に恥ずかしくなってきた。配達人は何も答えず電話を切る。礼儀のない奴だなと改めて思う。
 二日後には、この『マロン』の専属になるのだ。
 こんな仕事を俺は続けられるのだろうか……。
 自分の居場所をと思い、頑張っていたホテルバーテンダー時代が懐かしく思えた。

 この日は地元のスナックに行き、酒を飲んだ。
 裏ビデオ屋『マロン』での仕事。そして暇なゲーム屋『グランド』。少し頭を整理しないと、あの場所の空気に染まり飲み込まれてしまう。
「久しぶりだね、神威さん」
「色々忙しかったからな」
 金のあった頃はよく飲みに来た。あの当時はここだけでなく、キャバクラなども合わせると十軒ぐらいをハシゴしていた。
「グレンリベットでいいんでしょ?」
「ああ、ストレートでな」
 店はあまり忙しくなく、三人の女がカウンターへ入り、俺の相手をしていた。
「私、神威さんのお店、一度行ってみたいな~」
「もう辞めちまったよ、とっくに……」
 現状を思うと、酒がまずくなる。もう金を稼いでいたあの頃とは違うのだ。俺は酒を一気に飲み干した。
「神威さんって、ほんとお酒強いですよね」
「酔っ払って記憶がなくなるっていうのが嫌だから鍛えたんだ」
「どんな風に?」
「自衛隊の頃、まだ俺が十八の時だけどさ…。飯ごうってあるだろ? キャンプファイヤーとかになると、ご飯を炊く」
「うんうん」
「それにビールを飲んで一気飲みしたり、同期が五十人ぐらいいたから、飲み会の時、みんなから注いでもらったビールを連続で一気飲みしてみたりとかかな」
「よく体、壊さなかったねえ……」
「運が良かったんだろうな。プロレスに行く時だって、体重六十五キロしかなかったのを二年間で三十キロぐらい上げたけど、何ともなかったしね」
 飲み屋の女たちは、興味津々に俺の会話に耳を傾けている。
「ねえ、お兄さん何かやってたの?」
 カウンター席に座る隣の男が声を掛けてきた。見た目は俺と年も変わらない。
「いや前の話ですよ」
「俺は何をしてたんだって聞いてんだよ」
「昔がプロレスで、一年ぐらい前に総合格闘技ですね」
 妙に刺のある言い方が気に障ったが、笑顔を絶やさず言った。
「は~ん、そうなんだ」
 こっちが初対面で敬語を使っているのに、この男の態度は何なのだろう? 俺が下手に出ていると、こうやってつけ上がる人間も多い。
 隣の男を放っておき、女と話が盛り上がっていると、「どのぐらい強いの、あんた?」と聞いてくる。
「最近は試合してないから、何とも言えないですね」
「じゃあ、過去の栄光にすがっているだけか」
 大人しくしていたが、男の態度にカチンときた。できれば落ち着いて飲んでいたかったが、このままだと邪魔である。俺は目を見開いて男の髪の毛を鷲掴みした。
「おい、兄ちゃん…。何を余裕こいて抜かしてるのかしらねえけどよ。こっちが敬語使っているのに、何でおまえはそんな偉そうな口を利いてんだ? 舐めてっと髪の毛、頭から毟っちまうぞ、おい」
「す、すみません……」
 シーンとなる店内。男は逃げるようにチェックをして店を出て行った。
 一線を退いたとはいえ、素人相手に少し言い過ぎだったかなと反省する。
「あー、スッとした。神威さん、偉い!」
 店の女の一人が笑顔で言った。
「はあ?」
「あの客さ、いつも他のお客さんに絡んじゃってウザかったの。誰かガツンってやってくれないかなって思ってたんだ」
「いや、店に迷惑を掛けて悪かったよ」
「いいのいいの、あんなの来ないほうがいいしね」
「そうそう、神威ちゃんが言ってくれたから、みんなすっきりしてるわ」
 ムカついたから怒っただけなのに、そう言われると照れてしまう。
「ほら、神威さん。飲もう飲もう」
 この日の酒は久しぶりにうまく感じた。

 今まで休みをとっていた須田が、一日早く『グランド』に戻った。本人の希望で働くのは二日後がいいというので、当初の予定と変わりはない。
 どっちにしても二日後、俺は『マロン』のみで働く事になる。出勤時間は十一時になるので楽になるが、気が重い。裏ビデオを売って給料をもらうという行為が、どうしても格好悪く感じた。
 まだプライドを捨てきれていないのだろう。
 あれだけ稼いでいたのをほとんど競馬や遊びで使い切ってしまった俺は、また一から出直さなければと思い、北方の元で働く事にした。
 INを入れ、客の機嫌をとるゲームの仕事も本来好きではない。しかし今の仕事はさらに嫌悪感がある。
 ここで嫌だからと辞めるのは簡単だ。だけど、そのあと俺に何ができるのだろうか?
 テーブルに置いてあるノートパソコンが目に入る。
 新しく何かをつかまないと、俺は駄目になってしまうんじゃないか……。
 せっかく先輩の最上さんから教えてもらったパソコン。このままただゲームしかしないというのは勿体ないような気がした。
 でも、今の俺に何ができる? 何でもパソコンはできると言われているが、俺にはゲームぐらいしかできない。
「パソコンは頭のいい赤ん坊と同じだから、これをこうしなさいって教えてあげれば完璧にこなすんだよ」
 最上さんが以前、こんな台詞を言っていた。頭のいい赤ん坊……。
 一人では何もできないけどこっちが補助さえしてやれば、パソコンはどんどん吸収していくもの。
 また、頭を下げて最上さんにパソコンを教わろう。
 ゲーム屋の仕事を三時までして、ビデオを五時まで。このパターンもあと二日で終わる。一日一万の日当をもらい、不足分の数千円はまとめて月末にもらう生活。
 これを続けるかどうか悩むよりも、今はパソコンのスキルを伸ばす事を考えよう。裏ビデオの仕事は、テーブルに座って来た客の相手をする以外、ほとんど暇だ。ならこれをチャンスと考え、自分のスキルを延ばす場所と思えばいいんじゃないか。
 人間、思い方一つでまったく変わるものだ。嫌々仕事をするよりも、発想の転換一つでいくらだって変われる。
「神威、一日早いけど、明日からは『マロン』だけになるぞ」
 オーナーである北方が、帰り際になって言ってきた。
「…って事は、明日の出勤、十一時でいいって事ですか?」
「そうだ。今後は『マロン』がメインで、『グランド』は従業員が休む時だけ出ればいいだよ」
 冷静に考えてみると、『グランド』は二十四時間営業のゲーム屋。シフトも三交代制である。従業員が休みの日と簡単に言うが、あの店の人数は全部で六人。六人が月に何日休むと思っているんだ……。
「それじゃ、ほとんど出るようじゃないですか?」
「いや、山田とか小坂、それと店長の醍醐が休みの時は、それぞれがカバーしあうから、月にあってもせいぜい十回ぐらいだよ」
「でも、その十回ってそれぞれ出勤時間が違いますよね?」
 早番なら朝の七時出勤。中番なら昼の三時。遅番なら夜の十一時……。
「おまえなら、若いからまだまだ大丈夫だよ」
 そりゃ北方から比べればまだ三十歳だから若いけど、そういう問題じゃない。
「そういう問題じゃないですよ。通常十一時にここなのに、この日は朝、何日は夜の十一時に出勤なんて無理です」
「わがままな奴だな」
 自分じゃ絶対にそんな事をしないだろうがと、言ってやりたかったが我慢しておく。所詮、他人事だから簡単にそう言えるのだ。
 そんなバラバラなシフトを計画性もなく組まれたら、俺の体がおかしくなってしまう。高額の給料をもらえるならまだしも、一日一万程度の金でそこまではできない。
「せめて中番ぐらいにして下さい。それならいいです」
「しょうがない奴だな。じゃあ、今、上に行って、それを従業員に伝えてくるだよ」
「分かりました。でも、もうじき五時だから、仕事上がってから行きますよ」
「じゃあ、もういいぞ。上がっても」
 北方は、売上の入った財布から財布をテーブルの上に並べ、一番汚い一万円札を渡しながら、「ほれ、今日の『デズラ』だ」と渡してきた。
「ありがとうございます」
 俺はパソコンの電源を切り、カバンにしまうと『マロン』をあとにした。
 階段を上がり、一階の『グランド』のインターホンを押す。しばらくして鍵の開く音が聞こえ、ドアが開く。タイ人のブンチャイが面倒臭そうな顔をしていた。
 中は六名の客がゲームをしている。見覚えのある飯野が、「お、神威ちゃん」と声を掛けてきた。北方の女であるミンミンは、気難しい顔をしながらゲームに熱中している。俺が「こんばんは」と声を掛けると、ミンミンは不機嫌そうに「この台、食いしん坊ね。パクパクお金食べてばかり」とブツブツ言っていた。
 本来の中番は小坂とブンチャイだったが、店内には早番の山田がいる。聞くと、小坂がまた遅刻をして居残りらしい。
 ブンチャイがホールでINをしているので、邪魔にならないようにリストの奥へ向かう。
「もう下は終わったんですか?」
「ええ、それで北方さんに言われたんですけど……」
「シフトの件ですよね?」
「ええ……」
「あの人、うちに来て、『これからは休みの日、神威が入るから大丈夫だぞ』っていきなり言い出したから、さすがにそれは無理ですよって言ったんです」
「ええ」
「そしたら『若いから問題ないだよ。俺が言っとくから大丈夫だ』って…。相変わらず酷いなあと思いました……」
 あのクソ野郎…。俺は段々北方が嫌いになってきた。
「ええ、その件で言ったんですよ、北方さんに。昼以外はできませんって」
「ちゃんと言ったほうがいいですよ。自分も神威さん大変だなって思ってましたので」
 一体、人を何だと思っているのだろう。
「そうですね。黙っていると、いくらでも要求してくる人なんだなって感じましたよ。ところで戻ってきた須田さんはどうです?」
「ああ、あの人ですか…。どうしょうもないぐらいのグズなんですよ」
「グズ?」
「店が暇だと、すぐにどこか遊びに行ってしまうし、監視していないと店の金も抜こうとしますからね。自分の住むアパートもないぐらいですから」
「じゃ、どうやって生活をしているんですか?」
「仲のいい友達のところを泊まり歩きしながら、どこも泊まる場所がないとサウナですね」
「……」
 思わず言葉を失ってしまう。結婚していて子供が生まれたばかりだというのに何を考えているのだろうか。一体、どんな人なんだ? 想像もつかない。
「そんな須田さんから利子をとる北方さんって、悪魔だと思いません?」
「確かに……」
 あまりこの系列グループの人間とは、関わり合いにならないほうが賢明だなと思った。

 

 

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