浦安はまだ眠そうに目をトローンとさせた。仕事に対する意欲というものが、この男には欠けている。この歌舞伎町でも負け組と呼ばれる人種に入る人間だ。
「あのー、だいたい仕事内容ってどのような事をやるんですか?」
「ここに座ってて、来た客に売るだけだよ」
「いや、それは分かりますけど、自分は初心者なんです。まずどうすればいいのかぐらい教えて下さい」
またうるさいのが来たなという感じで浦安は煙たそうに俺を見ていた。初対面で判断するのは間違っているかもしれないが、それでもこいつはクズだと言いたい。
「その辺、適当にどっか掃除でもしててよ」
「本当にそれでいいんですね? お言葉ですが、あとで北方さんに仕事の事でどうだと聞かれたら、困るのは浦安さんだと思いますけど……」
北方の名前を出したのが効いたのか、浦安の表情が切り替わる。その程度で自分の意思が変わるなら、最初からちゃんとやればいいのに…。「このクズめ」心の中で呟いてみた。
「うちはね、ビデオが八本で一万。DVDが四枚で一万」
「それはそこの壁に書いてあるから見れば分かりますよ。一つ聞いていいですか?」
「ん……?」
「ここにあるビデオやDVDって、全部モザイク掛かってないやつですか?」
「そんなの当たり前でしょ」
「自分、全然こういうの見ないからよく分からないんです」
「だからー、あとは来た客にそれを売るだけだって」
「そうですか。了解です」
これ以上、話しても無駄だという事に気付いた。教える気がないなら無理に聞く事もないだろう。どうせあとで北方にガミガミ言われるのは、浦安本人なのだから……。
掃除をしていると、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。入り口を見ていると、現れたのは中年の冴えないサラリーマンだった。ヨレヨレのスーツを着て、くたびれた顔をしている。
「いらっしゃいませー」
俺が挨拶しても、中年サラリーマンは無視して店内に貼ってある写真をジッと眺めている。横目で浦安を見ると、鼻クソをほじっていた。こんな場所で俺は約二時間も過ごさなきゃいけないのか……。
まるで人生の掃き溜め場だ。『ワールド』の頃が懐かしく感じた。
写真を食い入るように見ている中年サラリーマンは、壁に顔をくっつけそうな勢いだ。よく若い女が「キモイ」という言葉を使っているのを聞いて酷いと思うが、確かにこのオヤジはその言葉が本当によく当てはまる。あちこち色々写真を見ていたが、やがて俺たちのいるカウンターに近寄ってきた。表情を見て感じたのは明らかに普通とは違う目つきをしている点である。
「ねぇ、ちょっと……」
「は、はい。何でしょうか?」
「あれ、ないの?」
ボソッと小声で聞くデブサラリーマン。
「え、あの…。あれって言われましても……」
「ロリータだよ。ロリータ」
いきなりこいつは何を言っているのだろうか…。漫画やドラマの世界でしか見た事のない人種を初めて目の辺りにした。全身に鳥肌が立つ。
「浦安さん。浦安さん…、ちょっとっ!」
あれだけ北方に怒られているにもかかわらず、浦安はうたた寝していた。
「うーん…、何だよー」
「お客さんですよ。お客さん」
「あー、いらっしゃい。何か?」
「ロリータは……?」
「はいはい、ちょっと待ってて下さい」
浦安は店の奥にある棚に行き、青いファイルを手に持ってくる。中年オヤジの生唾を飲む音が聞こえた。
「どうぞ。ただし、こちらの作品は少し高いですよ、お客さん」
そう言ってニヤける浦安の顔を見て、再び俺は鳥肌が立ってしまった。
信じられない光景だった。
いい年こいた中年のサラリーマンが右手に紙袋を持って鼻息を荒くしながら店を出て行く。あの紙袋にはさっきのロリータビデオが二十本入っている。あんな物に六万円も払うだなんて……。
「どうだ。まとめて買ってくれたとはいえ、一気に六万だぜ、六万!」
「浦安さんて、すごいっすね」
とりあえず心にもない事を言ってみた。
「いやー…、そうでもないけど、まあこれで北方のオヤジにも文句は言わせねえよ」
浦安は得意気な顔で語っている。ロリータのビデオを変態相手に沢山売ったからって、何を自慢してやがんだ、このうじ虫野郎が……。
表面上は仕方なく合わせて笑っていたが、苛立っていた。内心、こいつをぶん殴りたくてウズウズしている。
「まず売り方のコツだけどな……」
仕事する場所を少し軽はずみに決め過ぎてしまったか。そんな考えが頭の中を行き来する。
「おい、俺の話、ちゃんと聞いてるのかよ?」
ボーっとしている俺に浦安が怒鳴りつけてくる。別にもう北方の所は辞めてもいいか…。そんな投げやりな気持ちになっていたので、俺は浦安を睨みつけた。
「な、何だよ…、怒ったのか? 別に俺、そんな強い言い方してないだろ?」
情けない典型的な小判鮫野郎。外見を見ただけで小心者だと感じたが、ちょこっと睨みつけただけで、ここまでビビるとは……。
「別に俺は怒ってないですって。たまたま上目遣いにしたのがそう見えたんじゃないですか?」
「なんだ、あんまり驚かせんなよ。せっかく同じ職場で働くんだし、もっとフレンドリーにいこうよ。分からない事あったら何でも聞いてくれればいいよ」
調子のいい奴だ。しかし向こうが仲良くしようと言っているのをわざわざ俺から突っぱねてもしょうがない。ここは話題を変える為にも、仕事の件で素朴に感じた事を聞いてみるか。
「ええ、よろしくお願いします。壁とかに色々と写真貼ってありますけど、これって全部裏なんですか? モザイクの入っていない……」
「ほとんどが裏だけど、薄消しもあるよ」
「裏とか薄消しとかって、初めてなんでよく分からないんですよ。客としても、こういうビデオ屋って一度も来た事がないので」
「簡単に言うと裏はモザイク無しで、薄消しは少しモザイクが残ってるって感じだね。ハッキリとは見えるけど」
「それだとみんな裏のやつしか買わないですよね?」
「みんなそれぞれ好きなAV女優っているだろ? その女優が出ているDVDを探して、もし見つかったとしても、薄消しの作品はあるけど裏はないって言ったら、やっぱ客はそれを求めるし買うだろ?」
「うーん、そうですね」
「だから品揃えを出来る限り多くして、あとは客が来るのを待つだけの商売なんだよ」
「そういうもんなんですか」
「そういうもんだ」
俺も男だから、エロビデオに興味がまったくないという訳ではない。やっぱり自分好みの女優が出ている物があったら見てみたいというのが男の性だ。
レンタルビデオに行けば沢山あるし借りられるけど、いちいち返すのが面倒臭い。それにモザイクなんて、ないほうがいいというのが人間の心理だと思う。人間の欲望が見える商売。そう考えるとゲーム屋より、面白い商売かもしれない。
「例えばさー、表のAVで有名な立川奈央美の裏があるなんて言ったら、みんな男だったら絶対見てみたいだろ?」
「うーん…、その名前を聞いた事ぐらいはありますけど、自分ほんとに見ないんで…。そういうのよく知らないんですよね」
「えっ、立川奈央美を知らないの?」
「そんな俺が悪者みたいな言い方をしなくても……」
「だって去年の人気AV女優ナンバーワンだよ。知らないってほうがおかしいじゃん」
何故、彼がこんなに熱く語るのか俺には分からないが、余程のお気に入りのAV女優なのだろう。
今、俺がいるビデオ屋は思ったより暇な店だった。もう五時になろうとしているのに、あれから客が二人しか降りてこない。
「そろそろ時間でしょ? 明日も『マロン』に来るの?」
「『マロン』って何ですか?」
「何って、ここの店の名前だよ」
ヘンテコな名前だ。もし俺がここで電話をとったら、「お電話ありがとうございます。『マロン』ですとか言わなければいけないのだろうか……。
「何だか面白い名前ですね」
「もう今年でこれでも十年目を迎えるんだよ。俺はまだここ十ヶ月ぐらいしか働いてないけどね」
『マロン』は歌舞伎町でも辺ぴな場所にあるのに十年もやっているのか。少し驚きだった。浦安は時間潰しの話し相手ぐらいになりそうだ。時計の針が五時を過ぎると、北方が『マロン』に入ってきた。
「おう、神威。今日はもう上がっていいだよ」
「あ、お疲れさまです」
「北方さん、俺、さっき一人の客にロリータ六万円分売りましたよ」
両手を擦り合わせて媚びる浦安。傍から見ていてまるで犬が飼い主の機嫌をとるように見えた。俺が年をとったとしても、こうはなりたくないもんだ。
「何、六万? 俺ならもっと売っただよ」
厳しい北方の発言に浦安はしょんぼりとなっている。
「それより財布よこせ」
浦安はテーブルの一番上の棚を引き出し、売り上げが入っている財布を渡す。北方は中の金を念入りに数え、一万円札を一枚一枚これでもかというぐらいチェックしている。
「神威」
「はい?」
「おらっ」
何故金を渡すのにこんな威張っているのだろうか? 北方は一万円札を一枚、俺に手渡してくる。今日の日払いの金だろうか。そういえば俺は、まだ給料をいくらもらえるのかすら何も聞いていない。
財布に金をしまう時に、浦安がジッと見ているのが妙に気になった。まあこんなクズの視線をいちいち気にしてもしょうがない。北方へ疑問に思った事を聞いてみる事にした。
「えーと、すみません。このお金は何のお金ですか?」
「何って今日の給料だよ。ゲーム屋風に言えば『デズラ』だ。残りの端数は月末な」
「あのー…、自分の給料って、日払いだといくらになるんですか?」
「日払いじゃないだよ。時間給で千二百円だ。朝七時から働いてるんだろ? だから通常十時間働くから一日一万二千円。今、一万は渡したから残りの二千は月末にまとめてって事だ。何も問題ないだろ?」
「ええ、分かりました」
内心、結構ショックだった。時間給千二百円っていったら、歌舞伎町にある松屋の深夜アルバイトの時給よりも低いからだ。俺はゲーム屋や、今いるビデオ屋もすべて裏稼業だと思っている。何故なら警察に捕まる可能性があるからだ。その裏稼業が表のファーストフードみたいな所より時給が安いのはおかしいような気がした。
「じゃあ、今日はもう帰っていいぞ」
「はい、お疲れさまです。それでは失礼いたします」
「あのー、北方さん……」
「何だ?」
「自分もできたら、あとちょっと…、少しでもお金を回してもらえたら……」
「バカヤロー! おまえは俺に、まだ借金が残ってるだろが? そんなの我慢しなきゃあしょうがないだよ」
「は、はい…、すいません……」
今のちょっとした会話で浦安は北方に借金があるのが分かった。聞いていて非常に嫌な会話である。
俺は暗い気分のまま、『マロン』をあとにした。地下の階段から表に出て一階『グランド』の入り口を見る。看板も何もないので、誰もそこにゲーム屋があるとは思わないだろう。早番の責任者の山田の台詞が浮かび上がってくる。
「北方さん、金に関しては悪魔ですから気を付けて下さい」
この台詞といい、ビデオ屋『マロン』の浦安の借金といい、仕事初日なのに何だか少し不安になってきた。でも何が起こっても仕方ない、俺はやとわれの立場なのだから……。
明日もまた早い時間から仕事だ。こんな朝五時半起きの生活がいつまで続くのだろうか。一日の内、ゲーム屋で働き、ビデオ屋の仕事もこなす。どっちつかずの状況で一体、俺はどうなっていくのだろう。先のことを想像すると精神的に暗くなってしまう。
揺れる電車の窓に写っている自分の顔をボーっと眺める。非常にシケた面をしていた。普通のサラリーマンみたいに真っ当な職でも探すとするか……。
いや、それでは何の為に歌舞伎町へやってきたのか、まるで意味がなくなってしまう。それにこの街が、一番俺には合っているような気がした。ここへ来た時の初心を忘れるな。
再び窓に写る自分を見ると、さっきより幾分かは表情が締まって見えた。まだ今の仕事は始まったばかり…。働きやすくなるもならないも、すべて自分次第なのだ。どんな形であれ俺はあの街で成り上がり、金を稼げるようになってやる。
朝五時半に目覚ましが鳴る。昨日と同じように眠気を我慢して嫌々起きる。
熱いシャワーを浴びながら目を覚まし、準備を着々と進めた。
電車に乗って新宿へ向かう途中、高校生ぐらいのガキが電車内にもかかわらず、でかい声でベチャクチャと携帯で通話していた。明らかに他の乗客も迷惑そうな顔をしている。車内の人間全員の非難の視線を受けているのに、ガキは平然と話していた。
見ていてだんだん苛々してくる。席を立ち上がり、うるさいガキの横に腰掛けた。それでもガキは周りなど何も視界に入っていないかのように会話を続けている。
「おい、うるせーよ」
「でさー…、そーそー…。ギャハハッ」
「聞いてんのかよ、おいっ」
俺がガキの頭を引っ叩くと、一斉に車内の視線が集まる。
「…ぃてーなぁー」
俺はこの常識の無いガキの髪の毛を鷲掴みして、上から見下ろしながら脅した。
「おい、いいか? ここにいる誰もよ、テメーの話なんぞ聞く為にいるんじゃねーんだよ。さっきからうるせーから、とっとと電話切れや」
「す、すいません……」
脅しが効いたのか、そのガキは次の駅で逃げるようにして降りてしまった。一人残った俺は、さすがにその場に居づらかったが、通勤途中なのでしょうがない。
しばらく外の景色をボーっと眺める事にする。
今、何時ぐらいだろう。携帯をポケットから取り出し、時間を確認しようとした。
「ちょっと、お兄さん」
その時、向かいに座る四十後半のおばさんが声を掛けてきた。
「はい?」
「あのね、ここはそういう場所じゃないから」
「は?」
このおばさんは、一体何を俺に言いたいのだろうか。不思議そうに首を傾げると、おばさんは睨みを利かせてくる。
「だ・か・らー、ここはそういうの駄目だから」
ひょっとして携帯の事を言っているのだろうか…。しかし俺は電話をしている訳でもない。ただ携帯を手に持っているだけだ。
「あのー…、ひょっとしてこれの事ですか?」
「そう、だからここはそういう場所じゃないから」
周りの壁を見ても《優先席付近では携帯の電源をお切り下さい》と書いてあるが、俺が座っているのは電車の真ん中辺りだから問題はない。もちろん音が鳴らないようバイブにもしている。
携帯電話を手に持っているだけなのに、何故このおばさんはこんな事をしつこく何度も言ってくるのか理解できなかった。
「あのー、すみません。お言葉ですが、自分は携帯を手に持っているだけで通話してる訳じゃないんですよ。何が駄目なんですか?」
「あのね、ここは違うんだから。早くそれをしまいなさい」
「時間すら確認しちゃいけないんですか?」
「いいからとっととしまいなさい」
だんだん、このおばさんがムカついてきた。さっきから訳分からねえ事ばかり抜かしやがって…。軽く深呼吸をしてからおばさんの目を見て、ゆっくり口を開く。
「一ついいですか?」
「何?」
「ハッキリ言ってうるさいです。それに大きなお世話です。もし、気に入らないなら隣の車両にでも行って下さい」
おばさんは顔を真っ赤にして立ち上がり、隣の車両へと消えていった。新宿に通勤する電車の中だけで二回もトラブルがあるなんて、今日はまだまだ何かありそうな予感がした。
車内にいる乗客は、どんな目で俺の事を見ているのだろうか。電車は高田馬場を過ぎ、もうじき新宿に着く。
ゲーム屋『グランド』に到着すると、昨日とは打って変わってか客が六人ほどいた。大方の客が夜からやっていて、そのまま朝まで熱くなってゲームをやめられないパターンだろう。
「お、新顔だ」
「何だか真面目そうだぞ」
客は俺を見て好き勝手な事を言っている。一応頭を下げながらカウンターの方へ行き、従業員に挨拶を済ませる。早番の山田と目が合ったので話し掛けた。
「朝なのに結構お客さん残ってますね」
「ええ、そうですね。神威さん、少しは慣れましたか?」
「うーん、今日で二日目だし、まだまだですね」
「頑張って下さい」
「はい、よろしくお願いします」
よほど夜の時間帯が忙しかったのか、遅番の秋本と醍醐もやっと帰れるといった感じの安堵の表情を浮かべている。
「入れてー」
客がINを要求しているので、俺は素早くホール内を駆け回る。やがて遅番の人間も帰り、俺と山田の二人になる。客はまだ四人ほど残ってゲームをしていた。
「お、新しい人は中々動きがいいね」
「気が利くなー」
客が俺の事を褒めてくれる。人に褒められて嫌な奴はいない。俺は新しい職場というのもあって張り切っていた。忙しい時、時間の進みは早い。チラッと時計を見ると、昼の十二時を過ぎていた。
「神威さん、そろそろ腹減ってないですか? 自分がやるから飯喰って下さいよ」
「すいませんね」
出前で『まる平』というそば屋のカツ丼と天婦羅うどんを頼む。朝起きてから食べてないので、腹が減っていた。
「神威さん、『まる平』で頼んだんですか?」
「ええ」
「あそこのカレーがうまいんですよ」
「へー、そうなんですか」
山田は突然吹き出すように笑い出した。今の会話で一体何がおかしかったのだろうか。
「どうかしたんですか?」
「まる平で出前とったんですよね? これから面白いもの見られますよ」
「……?」
彼の言う面白いものというのが妙に気になる。その時、チャイムが鳴った。モニターを見ると出前持ちが立っていた。山田が鍵を開けると出前持ちの小柄なおじさんは、「毎度」と言いながら店内に入ってくる。
カウンターの上に注文したカツ丼と天婦羅うどんを置き終わるのと、缶ジュースの入ったガラス張りの冷蔵庫を見ていた。
「あの、どうかしましたか?」
あまりにも冷蔵庫をジッと無言で見ているので、俺はおじさんに声を掛けた。
「ここのお茶、おいしいんだよね~」
「え……?」
「ここのお茶、特別うまいんだ……」
冷蔵庫に入っているのは、ただの烏龍茶の缶だが……。
「おじさん、喉乾いてんでしょ? お茶、持ってけば」
山田がおじさんに笑顔で言った。
「おう、悪いねぇ…。お、俺、ここのお茶好きなんだよなー……」
おじさんはそう言いながら、右手に烏龍茶、そしてちゃっかり左手にもう一本持っていた。随分ちゃっかりしたものだ。それにしても缶の烏龍茶なのに、ここのお茶も何もないと思うが……。
「ね、神威さん。あのオヤジ、受けるでしょ」
「随分と調子いいオヤジですね」
「毎回そうなんですよ。物欲しそうに缶ジュースを見て、こっちが声を掛けるまでずっと待ってんですよ。あげると、ちゃっかりもう一本持ってくんですよね」
山田の言う面白いって事が何となく分かった。
俺が飯を食べている間に客は全員帰ってしまい、一気に暇になる。そういえば俺がここの仕事に入る前に、一ヶ月ぐらい休みとっているという従業員がいるって言っていたな。山田に聞いてみるか。
「山田さん。自分が最初に来た時、早番で誰か長い休みをとっていると言ってましたけど、その人はどうしてそんな一ヶ月も休みとったんですか?」
「ああ、須田さんの事ですか。須田さんって結婚してて子供が生まれたから、今、実家に帰っているんですよ」
「それはおめでたいですね」
もし俺が結婚して子供がいたら、こんな世界で仕事をしているだろうか。つい自分の事に置き換えて考えてしまう。
誰も客がいないので、椅子に座ってタバコを吸っていると、山田が話し掛けてきた。
「昨日、北方さん、金に関して悪魔ですって言ったじゃないですか?」
「ええ」
その事は何故か聞いておきたかった。
「今、休みとっている須田さんの件なんですけど、帰る時に北方さんから金を借りたんですよ。二十万円。そしたらずっと自分に、愚痴を言ってくるんですよね」
「何でですか?」
「最初に二十貸してくれって言ったら、北方さんが次の日に用意するって言われて、次の日、下の事務所に行ったんですよ。渡された金を数えたら十八万しかなかったんです」
「え、変じゃないですか? それとも数え間違いとか……」
「違うんですよ。須田さんが言われたのは、月一の利息だからって最初に利子分の二万を引いて渡したらしいんです」
「月一って何の事ですか?」
「月に一割利子がつくって意味です。須田さんは二十万を借りたから、その一割の二万を利子として引かれた訳です。従業員から利子をとるなんて酷いと思いませんか? 自分で面倒を見ている従業員にですよ。そのあと何て言ったか知ってます?」
「いえ……」
「『いいか、須田。今月の終わりには四万持って来いよ。そしたら利子が二万の、元金が二万減るだよ。その次は三万八千で済むだよ。そうすれば、元金が減っているから毎月二千円ずつ減っていくんだぞ』って言ったんですよ。他人ならともかく、よくテレビでCMやっている金融屋よりも利子が高いんですよ。鬼ですよね」
山田の言う台詞はもっともだと思う。仮に利子をとるとしても、もうちょっとやり方ってもんがあるはずだ。
「昨日、下で働いていた浦安さんっているじゃないですか?」
「はい」
「浦安さんも北方さんに借金があって、働いた金のほとんどを回収にされているみたいですよ。いつも金がないってボヤいていますよ」
浦安に借金があるのは、昨日北方とのやり取りで知っている。しかし、あえて黙っておく事にした。
「給料からどのくらい、借金返済に当てているんですか?」
「どのくらいもらっているか分からないですけど、いつも天引きされて五万しか残らないって、泣きそうな顔して愚痴っていますよ」
少しだけ北方ワールドの片鱗が見えたような気がした。とても嫌な気分だ。できれば聞きたくない内容だった……。
ただ、北方だけが一方的に悪い訳ではない。ちゃんと働いているのに、金を借りる方もだらしない。そう思うと、北方もあえて心を鬼にして利子をとっているのかもしれないと感じる。それは俺の思い過しだろうか……。
「そういえば『グランド』って、看板とか一切出していないようですけど、それで営業大丈夫なんですか?」
「ああ、前はこれでもちゃんと看板出して営業していたんですけどね。一度警察が警告に来ちゃったんですよ」
「警告だけで済んだのですか?」
「ええ、そうなんですが、その時も北方さん、酷かったんです」
「酷かったって?」
「うちも警察を警戒して看板をしまって今のように営業していたんです。とある客二人が地下の『マロン』へ行き、北方さんに聞いたらしいんですよ。『ゲーム屋はどこ?』って。すると北方さんは『案内するだよ』って、うちに来てインターホンを鳴らしたんです。こっちは北方さんの顔しか見えない訳ですからね。普通にドアを開けると見た事のない客がいる。そしたらいきなり客二人は警察手帳を出して『警察だ』って」
「でも警察も客のふりしていたんだから、分からないケースだってあるじゃないですか」
「それがですね、北方さんに警察が聞いてきたんです。『おまえがここのオーナーか?』って。すると『俺は関係ないだよ』って『マロン』へ逃げてしまったんですよ。自分で警察を連れてきといて……」
「あらら」
「まあ、その時うちも客が誰もいなかったので警告で済んだ訳なんですけどね」
「それ以来、看板は出さないような方針に?」
「ええ、そうです。俺、あれで思いましたよ。あの男は信用ならないなって」
山田は当時の様子を思い出したのか、カリカリしていた。
気がつけばもう三時五分前。『グランド』での仕事が終わり、下に降りてビデオ屋の仕事の時間だ。
今日で仕事二日目だったが、早くも少しうんざりしていた。多分、ビデオ屋の仕事内容が、俺にとって恥ずかしい仕事だという意識があるからだろう。
「神威さん、もうそろそろ下に行く時間じゃないですか?」
「ええ、そうですね」
「もう行ってもこっちは大丈夫ですよ、客もいないですしね」
「山田さん、ギリギリまでここにいちゃ、駄目ですか?」
「え、べ、別に構わないですけど…。どうかしたんですか?」
「さっき北方さんのあんな話聞いたじゃないですか。従業員に金貸して利子とったとか、金に関して悪魔だとか…。さすがに下に行くの、ちょっと気が重いですよ」
「でも北方さん、神威さんの事すごく期待していましたよ。いつも夜になると『グランド』に寄ってゲームするんですけど、その時に『今度入った神威はいいだろう」って言っていましたよ。あいつは俺が入れたんだって、自慢げにしていました。ちょっと何かあるとすぐに自分の手柄というか自分のおかげだって、威張るのが好きなんですよね。実際ここの客にもかなり嫌われてますしね」
何て答えたらいいのか返答に困る。何故山田が北方をこうまで悪く言うか、理由が分からなかった。相当ストレスが溜まっているようにも見える。
あくまでも北方は社長でありオーナーでもある。一介の従業員がそこまで言うのは、ちょっと筋違いのような気がした。どんなに嫌なオーナーだとしても、自分たちはそこで給料をもらい稼がせてもらっているのだから……。
社長が多少の無茶言うのは、当たり前の話である。
「でも北方さん、面倒見は良さそうじゃないですか?」
まだ山田は何か言いたそうだったが、俺の台詞に一瞬呆れた表情を見せた。
「まあ、その内、神威さんも分かりますよ」
気分が悪くなるような言い方だ。落ち着け、今は仕事中だぞ…。感情に身を任せてもいい事は何もない。俺はまだここで働いて二日目の新人なんだ。一生懸命、心の中で冷静にいるように、自分に言い聞かせる。
ちょうどその時インターホンが鳴った。モニタには女性の顔が映っている。
「あ、ミンミンだ。神威さん、開けてもらえますか」
「はい、誰なんです?」
「北方さんの女ですよ」
俺はドアを開け、ミンミンを中へ招き入れる。彼女は俺の顔をジロジロ見ていた。顔立ちからして中国の女性のようだ。奇麗な顔をしているが、年齢は俺より十歳ぐらい上に見える。四十歳ぐらい。そんな感じだ。
「あなた、知らない顔ね」
「あ、はじめまして。神威と言います。まだ入ったばかりですので、これからもよろしくお願いします」
「ああ、あなたが神威さんね。うちのパパ、いい人が入ったって言ってたよ」
パパ? 山田は北方の女と言っていたが……。
「山田。どこ、いい台ね?」
「ちょっと待って下さい。え~と……」
山田がミンミンの相手をしていたので俺は「そろそろ時間だし、下に降りますね」と声を掛けた。
「あ、もうそんな時間か…。お疲れさまです」
「明日もよろしくお願いします。それでは失礼します」
店を出てからゆっくり深呼吸する。先ほどの山田の言い方に、まだ苛立ちを覚えていたが、冷静になるように心掛けた。最近の俺って怒りっぽくなっているのかな。ピリピリした状態で仕事するのは何にもプラスにならない。時計を見ると三時を回っていた。早いとこ下に行かないと…。俺は急いで階段を駆け下りた。
地下に降りると事務所のドアは変わらず開きっ放しになっている。覗くと北方は椅子に座りながら居眠りをしていた。
「お疲れさまです、神威です。上の仕事終わりましたけど……」
俺が声を掛けると北方は目を開いてこっちを見る。寝ぼけているのか、焦点が定まっていない。
「お、おう。『マロン』行って五時までやってくれ」
「はい」
それだけ言うと、北方は再びそのままの体勢で眠りに落ちた。この状態で誰か入ってきたらどうするのだろうか? 歌舞伎町のこんな場所で無用心過ぎる。
まあ俺がとやかくいう事でもないので、隣のビデオ屋の『マロン』に向かう事にした。
中に入ると、従業員の浦安もよだれを垂らしながら眠っていた。夏のこの時期でだらけるのも分からないでもないが、少し緊張感がなさ過ぎる。この状態でいても仕方ないので声を掛ける事にした。
「お疲れさまです」
「ん、うぁ……?」
「神威です。おはようございます」
「はい…、ご注文の品はDVDですか? ビデオですか?」
どうしようもない奴だ。まだ寝惚けている。北方がここに来たら、また頭を引っ叩かれるだろうに。いくら叩かれたところで懲りないような気もするが…。正にクズ野郎だ。
「俺ですよ、神威です。ちゃんと起きていますか? もうすぐ北方さんが来ますよ」
浦安は北方という言葉に反応したのか、バネ仕掛けのように飛び起きた。こんなクズでも叩かれるのは嫌みたいである。しきりにキョロキョロして辺りを見回し、北方がいないのを確認すると俺を睨んできた。
「何だよ、ビックリさせんなよなー」
人がせっかく起こしてやったのに何て言い草だろうか。
「だって横に北方さんいるんですよ。いつ来てもおかしくないのに寝ていたら、ヤバイじゃないですか? また怒られますよ」
「う、うう……」
俺が正論を言うと、浦安は途端に口籠もってしまう。この負け犬が…。「何も反論できねえならハナッから黙ってろよ、ボケッ」と、ハッキリ口に出して面と向かって言えたらどんなに気持ちいい事だろう。
「浦安さん、それよりもビデオ屋の仕事内容を早く教えて下さいよ。俺、まだ分からない事だらけなんですから」
「ああ、分かったよ。一体、何が分からないんだい?」
「この仕事は自分、初めてなので何も分かりません。まず、DVDやビデオの値段さえ分からないです。あと種類というか、ジャンルって言うんですか?そういうのも全然分かりません」
「壁とかに書いてあるでしょ。DVDは四枚で一万円。一枚だと四千、二枚で六千だよ。ビデオは八本で一万円。あと細かいのは書いてあるでしょ」
言われた通り見てみると、壁に紙切れが貼ってあり、手書きで値段表示がしてあった。浦安がこれを書いたのだろうか。酷く汚い字で書いてあり、非常に読み辛い。それにしてもDVDが一枚で四千円に対し、四枚で一万なんて少しどんぶり勘定過ぎないだろうか。一万で四枚買うのと、一枚ずつ四回に分けて買うのじゃ、六千円も誤差がある。
「あ、あとね。昨日ロリータを買っていった客いたでしょ? あれは普通のと違って高いからね」
まだ普通の裏ビデオなら我慢できる。しかしいくら仕事とはいえロリータまで売るというのはどうにかならないだろうか。
「あれ、聞いてる?」
「あ、はい…。聞いてますよ……」
「ロリータは一本だと五千円。二本でも一万円」
「昨日、確か二十本で六万じゃなかったでしたっけ?」
「ああ、あれはたくさん買ってくれたから二本おまけしてあげたってだけ」
「……」
この仕事、俺に勤まるだろうか。不安になってきた。
「簡単な仕事だよ。上のゲーム屋とは違って、客に負けただ何だって言われる事もないしね。ゲーム屋って客ウザいし、ストレス溜まるでしょ?」
初めてゲーム屋で働いた時、負けて帰る客に「ありがとうございました」と言って、睨まれた事を思い出す。
確かに客はみんなエロビデオを望んで買いにくるのだから、ポーカーゲームのような賭博場よりは働きやすい環境なのかもしれない。ロリータだけは勘弁してもらいたいが……。
「まあ、気分的にはこっちの方が確かにいいですよね」
とりあえず俺はどんな仕事内容であれ、頑張ってやるだけだ。それが自分の評価へと繋がるのだから…。それにしても本当に客の来ない店だ。
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