2025/01/30 thu
前回の章
今日でキャバクラ『ルベス』生活が終わる。
長屋店長を始め、工藤副店長、主任の阿久津、吉本、小坂、岡部、小林と男子スタッフ勢揃いで「お疲れ様でした」と労をねぎらってくれた。
またタイミングよく『ルベス』の箱から、インカジ『ボヤッキー』のゴリラビルの隣の店舗へ引っ越しをするそうだ。
新しいキャバクラの店名は『リュアーグ』。
キャバ嬢も男子スタッフもすべてそのまま移動と言うので、とても大掛かりな引っ越しである。
「いやー、一ヶ月と短期間でしたが、岩上さんが来てとても助かりました。ありがとうございます」
「こちらこそありがとうございました。おかげで楽しく仕事させて頂きました」
これで俺は池袋の新店へ向かう。
たった一ヶ月間という期間であるが、俺の終わりと『ルベス』の終わりが同じというのも不思議な感じだ。
「こんなね、短い期間で一生懸命やってくれる人なんて、いなかったですよ」
顎が少しシャクれた小坂が握手を求めてくる。
「またいつかラーメン屋誘いますからね、岩上さん」
吉本はいつも笑顔を絶やさない。
「今度、肉奢るんで行きましょう」
相変わらず会話が苦手な阿久津らしい台詞。
「また機会あったら、いつでもうち来て下さいね」
副店長の工藤は、総合格闘技をやっているらしい。
ただ俺に比べるとかなり小さい。
ヘビー級の俺に対して、彼はミドル級といったところ。
「岩上さーん、今度自分もインカジ連れてって下さいよー」
賭博ですぐ熱くなる岡部。
「岩上さん、また飲みに連れてって下さいね」
相方の小林はまだ都会に慣れていないのか、どこかオドオドしている。
誰一人衝突する事無く、温和に辞められるなんて想像もつかなかった。
いや、裏稼業があきらかに異常なのだ。
普通に仕事をしていれば、そこまで変な奴はそうそういない。
いつか俺が金をまた持てるようになったら、今度は客として再会しよう。
この『リュアーグ』へ。
一日ゆっくり休み、ミーティングで池袋へ行く。
以前酒井さんと『ルベス』に来てくれた番頭の高星、名義社長の坂本、そしてインカジ未経験の為『ボヤッキー』と『牙狼GARO』の早番と遅番を各一ヶ月ずつ入った高田の四人で集まる。
池袋新店の名前は『バラティエ』。
変な名前だなと思ったが、高田曰く人気漫画『ワンピース』に出てくる海上レストランの名前らしい。
オーナーは酒井さんともう一人の共同経営。
トキワ通り沿いにあるトップ池袋ビル最上階。
皮肉なもので、以前島村が四千万円の穴を開けたインターネットカジノは、このビルの地下にある。
その後、地下の店の名義の大室から連絡あり、萩元という従業員が五百万円の金を持ち逃げしたという事件も、その店だ。
まさか池袋へ初めて来て、いきなりそのちょっとした因縁ある店の入ったビルの最上階とはな。
狭いとは聞いていたが、実際に中へ入ってみると、本当に狭い。
入ってすぐ右手がトイレ。
左手にあるホールは八畳も無いような広さで、右奥には人一人がようやく通れるほどのミニキッチン。
席数は壁にテーブルをつけ、木の板で仕切りを作った五席が、背中合わせに全十席。
『ボヤッキー』よりも狭いじゃないかというのが第一印象。
どちらにせよ、俺はこの新しい店舗を流行らせなければならない。
酒井さん系列の店をモチーフに作るので、当然フリードリンク、フリーフード。
高星は銀色の楕円形な皿を用意し、料理はこれに盛って客へ出すよう指示する。
料理となると店内メニューを作って決めるのも、自然と俺の役目になってしまう。
『牙狼GARO』のような失敗はしたくないので、この辺を考慮しながらメニューを開発した。
ドリンクの中でもミキサーを使い、一番手間の掛かるバナナジュース。
それに加え、高星はミルクセーキも出そうとアイデアを出してくる。
俺は混雑時を考え、ミキサー一台しかないのに、それを使うドリンクが二種類ある事を理由に反対した。
「いや、岩上さん、牛乳と卵の黄身、バニラエッセンスとガムシロを入れるだけで、簡単に作れるんですよ」
そう高星は意味不明の理由を挙げ、ドリンクメニューにミルクセーキも強引に付け足した。
この人、従業員がホールだけでなく自ら料理までしなきゃならない地獄の忙しさを理解していないのだろう。
店内システムの説明書きや、利用規約書の作成。
バカラなどギャンブルの遊び方の簡単な説明文も作り、各テーブル毎へ整理して貼っていく。
従業員の手間暇を少しでも減らす為に……。
番頭の高星の提案で、早い時間帯は高田一人。
メインになる夜の時間帯は、俺と坂本でやる事になる。
坂本は名義をやるくせに住む家も無い状態で、近くのビデオ鑑賞の一室を昼間借りて出勤してくるようだ。
よくこんなんで物件を借りられたものである。
三人しか従業員がいないので、二十四時間営業は不可能。
昼の三時から店をオープンさせ、朝八時に営業終了とヘンテコな形の船出となった。
六月中旬。
こうしてインターネットカジノ『バラティエ』の航海は始まる。
歌舞伎町の『牙狼GARO』でも苦労した新規オープン。
何のツテも無い状況での立ち上げ。
池袋周辺の誰も、このビルの最上階にインターネットカジノがある事をまだ知らないのだ。
賭博法で警察に捕まる商売ではあるので、派手に宣伝もできない。
三時からいる高田一人では何もできないので、俺がとりあえず夕方の六時から朝六時までのシフトに変え、二人になったら何かしらの客引き活動を考えねばならない。
ゲーム屋時代のように電信柱にチラシを貼る電バリはもうできないので、一階へ降りてティッシュ配りや、風俗店の入った郵便受けにティッシュを入れていく。
そんな事くらいしか現状では無理である。
まだインカジ経験の浅い高田は、不安そうな表情でいた。
「大丈夫ですよ。俺がわざわざ新宿から池袋へ来たんです。その内この箱を客で満タンにしますから」
十名分くらいのカレーを作る。
せっかくだから料理の腕前をまかない飯作るがてら披露しておくか。
炊き込みカレーピラフを作り、カレーを掛けて出す。
「うおっ! 何ですか、これ。凄い豪華ですね」
「まかない用で作ってみた。食べてて、俺はちょっとこの周辺の地理を把握しておく」
「旨いっすよ! 自分が『牙狼GARO』にいた時、客も従業員もみんな、岩上さんは凄いって噂は聞いていたので、一緒に働けるの楽しみだったんですよ」
「猪狩のボンクラの下じゃ、苦労したでしょ?」
「いえいえ、猪狩さん、色々頑張って仕事していましたよ」
「へー、あの猪狩が? 前田は少しはマシになりましたか?」
「前田さん、凄い仕事できますよ。自分も彼にはたくさんお世話になりました」
怒鳴られてばかりだった前田の成長。
そして俺がいなくなったあとの猪狩の舵取り。
あの店はあの店で、成長しているのかもしれない。
とりあえず周辺の風俗店を探し、ティッシュを配るエリアの地図を作ってみる。
賭博系の商売は、客を待つだけ。
やれる事さえやれば、あとは待つしかないのだ。
ティッシュを郵便受けに配ったあとは、店頭にてティッシュ配り。
一時間ずつ立ってティッシュを配るが、考えてみたら夜の人通りが多くなってからのほうがいいかもしれない。
オープン初日、まだ一人も客は来ていない。
「あ、高田さん、ちょっとティッシュ行ってくる。一階の萌だっけ? 多分あそこ開いてそうだから、店員が外に出ていたら声掛けてみるよ」
「分かりました。よろしくお願いします」
エレベーターで一階へ降りる。
時刻は夜の八時十分前。
一階のお触りパブ『萌』のドアが開き、従業員が出てきたので声を掛けてみた。
「はじめまして。このビルの一番上十階でインターネットカジノを本日からオープンしました『バラティエ』です。よろしくお願いします」
まだ二十代の茶髪の従業員は、ティッシュを受け取りながら頭を下げてくる。
「へー、今度仕事終わったら遊びに行かせてもらいますね」
「よろしくお願いします」
通常のティッシュ配りに戻り、通行人へティッシュを手渡す。
「岩上さん、おはようございます」
「あ、坂本さん。おはようございます。何ですか、それ?」
手には大きなビニール袋二つに、漫画本が詰まっている。
「漫画本です。良さげなやつを店用に買ってきまして」
坂本が経費で漫画本をカラーボックスいっぱい買ってきたので、一緒に上へ運ぶ。
ここまでの準備の説明をして、坂本はティッシュ配りへ向かう。
未だ客数ゼロ名。
暇潰しに漫画を読む。
高田が突然吹き出したので、振り向く。
「どうしたの?」
「いえ、このジャニオタっていうのが面白くて」
彼が読んでいる漫画を見ると『闇金ウシジマくん』だった。
ジャニオタというホモが、確か金に困りながら借りてとか、そんな内容だった気がする。
あまりにもウケているので俺は「ほら、高田さん、ジャニオタの真似」とカメラを構える。
「にゃん!」
悪ノリした高田は、ジャニオタのポーズをした。
「坂本さんが戻ってきたら、次は高田さんがティッシュ配り行こうか」
「そうですね。早く客が来てほしいなあ……」
本棚に並べられた漫画本を眺める。
お、『シグルイ』があるじゃん。
中々坂本の奴、センスあるな。
数ある漫画の中で、俺は一番『シグルイ』が好きだった。
武士道とは何か?
そして狂気とは何か?
閉鎖された狭い空間の中で、繰り広げられる異質な日常。
主人公藤木源之助のひたすらストイックな性格に、俺は感銘を受けた。
暇なので俺も本を取り出し読み出した。
まだ彼が隻腕になる前のシーン。
酒場で虎眼流の悪口を聞いた道場の弟子が、浪人たちと揉めるところがある。
そこでリーダー格の丹波蝙也斎がアップで笑うコマを見て、妙にツボにハマり、俺も吹き出す。
「どうしたんですか、岩上さん?」
「これ見て…、凄いシリアスな部分で、これから刀で切り合うのに、いきなり丹波蝙也斎の笑みとか出てくるからさ……」
高田もそれを見て大笑いする。
「ほら、高田さん。ジャニオタ」
「にゃん!」
新宿と違って、池袋の店は楽しく仕事ができそうな気がした。
坂本がティッシュ配りから戻ってくる。
「どうでした?」
「うーん、中々厳しいですね」
「まあ、オープン初日だし、焦ってもしょうがないですよ。じゃあ高田さん、ティッシュお願いしていい?」
「行ってきます!」
高田が出て行くと、店の方針を坂本と話す。
『バラティエ』で扱うサイトは、マイクロゲーミング、クルーズ、ブルーフラミンゴの三種類。
インターネットカジノは各サイトのポイントを安く買い、それを等価で客へ渡す。
マイクロなら百万円分のポイントの一万ポイントを二十五パーセントの現金で買う。
客が百万円のINを入れた場合、キャッシャーにあるポイントが一万ドル減る。
キャッシャーにポイントが無いと、客からINが来た場合、送る事ができないので事前にタイミングを見てポイントを買う必要があった。
客が負ければポイントは無くなり、勝てば店のクレジットは増える。
マイクロで客が百万円負けたとして、店のポイントの消失は一万ドル。
なので一万ドルのポイントをマイクロから買うようなので、現金で二十五万円が必要になってくる。
最近のインカジ業界の流れで、どの店も負けサビというものを出すようになった。
『牙狼GARO』の時で三パーセント。
過当競争で負けサビのパーセンテージは徐々に上がり、今では平均五パーセントの負けサビが出る。
客が負けた場合、負け額に対して五パーセントのポイントが次回出るので、二万負けたら次回千円分の負けサビが出る事になる。
ここ『バラティエ』ではその負けサビは同じだが、他の店ではあり得ない事ができた。
酒井さんと共同経営の片割れが、マイクロの元社員らしく、ポイントを買う際かなり安く入れられるようだ。
そのおかげか、初回IN三万以上で、三十ドルのサービスが一日一度つく。
ゲーム屋の新規サービスのような事ができた。
これはどの店も真似ができない大変なアドバンテージである。
高田がティッシュ配りから戻ってきた。
次は俺が行く番だ。
夜の十時過ぎ、池袋のトキワ通りは酔っ払いも多いが、人通りも増えている。
新宿時代の客にでも連絡してみるか……。
携帯電話を取り出して、池田由香へ連絡してみる。
「あ、岩ちゃん、元気ー? 前の店辞めちゃったの?」
「あ、ごめんごめん、由香さん。今ね、俺は池袋の新しいインカジにいるんだ」
「えー、早く言ってよ! 岩ちゃんがいた店で、かなり負けちゃって今月ピンチなんだから」
「あんな店なんかで、俺がいない時使っちゃ駄目じゃん」
「だってー…。あ、あみには言っておくよ」
「ありがとう。ゆのゆのにも伝えといてよ」
「あー、あの子さー、私とあみは仲悪くなっちゃってさー」
「うーん、そうなんだ。じゃあ、あみさんだけでも伝えといてよ」
「分かった。またねー」
由香は厳しいか……。
まあ新宿から池袋の店まで来いというのも、考えてみれば難しい話だよな。
俺は通行人を見ながら、酔っ払いを避けてティッシュを渡す。
「へー、新しいインカジできたのね」
三十代前半の綺麗な女性が受け取りながら話し掛けてくる。
「ええ、このビルの一番上なんですよ。今日オープンしたばかりで」
「忙しいの?」
「いえいえ、忙しかったらここでティッシュなんて配っていないですよ」
「そうなんだ。じゃあちょっと顔出してみようかな……」
「本当ですか? お姉さんのような綺麗な方が、当店第一号のお客様なんて、大変光栄の極みであります」
「え? 私が初めてなの? 行く行く」
「お名前のほうだけ聞いていてもよろしいですか?」
「私? 真澄よ」
「では真澄さん。店まで案内致しますね」
こんな形で、俺は『バラティエ』一人目の客を拾えた。
真澄を連れ十階へ。
俺が女性連れで戻ってきたので、坂本と高田は驚いていた。
「さあ真澄さん、お好きな席へお座り下さい」
「んー…、じゃあラッキーセブンで。五万…、いや…、六、七…、えーい、十万入れちゃう!」
「七卓様、マイクロ千ドル。七卓様、マイクロ千ドルは、新規サビ込み千六十ドルお願いします」
「え? 岩上さん? 新規サビは三十ですよ?」
焦っている坂本は、驚いた顔で声を出す。
客の前で馬鹿だな……。
俺はキャッシャーへ小走りで向かい、小声で「新規の三十とマイクロ初回IN三十て六十でしょ?」
「え……」
「もう、いいからお客さん待ってんだから先にINして!」
インターネットカジノは、店の初回登録時のみ新規サービスで三十ドルのポイントがつく。
そこへこの店の特典ともいえる初回三百ドルINにより、さらに三十ドル。
「え、凄い! サービスで六千円も入れてくれるんだ?」
真澄は大喜び。
「新規サービスは初来店時だけですが、毎日初回IN三万円以上で、三十ドルのサービスがうちの店はつくんですよ」
「それも凄いよね。どこの店もそんな事してないもん」
初見も客にも分かるサービス内容。
これはこの店の大きな武器になりそうだ。
俺は高田に真澄の接客を任せ、坂本に断り電話をしに行く。
池田由香に連絡したから、佐藤あみが近々来てくれそうだ。
他にも客をこの店に呼ぶ為に、池袋まで来れそうな人間へ電話してみるか。
俺は『餓狼GARO』時代の同僚の伊達に連絡をして今日オープンした事を伝える。
「今日からなんですか、良かったですね。ちょっとうちの裏スロが、オーナー代わっちゃって、もう一人新しい人が入ってくるそうなんですよ」
「伊達さん一人でずっとやっていたから、人数増える分にはいいじゃないですか」
「そうですね。落ち着いたら岩上さんの店、顔を出しに行きますよ」
「ありがとうございます。お互い頑張りましょうね」
次はそうだな…、キャバクラ『ルベス』時代の帰りの車で一緒だった谷口へ電話してみるか。
コール音は鳴るが出ない。
考えてみれば、彼はまだ仕事中か。
着信履歴を見て、あとで谷口から電話があるだろう。
うん、時間を見ながら知り合いへこうして連絡するだけでも、かなりの客を集める事ができそうだ。
夜の二時過ぎになり、店のインターホンが鳴る。
モニターを見ると、このビル一階にあるお触りパブの『萌』の茶髪の従業員だった。
夕方のティッシュ配りの時点で話し掛けたが、社交辞令でなく本当に来てくれるなんてありがたい。
彼は、同じ店の従業員たちまで連れてきてくれる。
真澄に『萌』の従業員三名。
まだたった四名だが、初日でちょっとした手応えを感じた。
三時になり、昼間から来ている高田が上がる時間が来る。
「高田さん、こんな夜中で帰れるの?」
「ええ、ここから徒歩十分くらいのところを借りていますからね」
俺はあと三時間で仕事が終わるが、客入り状況を見て残るかどうかだな。
「何か岩上さん、色々とすみません。ありがとうございます」
坂本が頭を下げてくる。
「何を言ってんですか。これから共にこの店を流行らせるんでしょ」
「そうですよね」
「とりあえず求人も出して、早く新人入れて育てて、まずは二十四時間体制にしないと」
一刻も早く『バラティエ』を池袋の人間たちに認知させ、このクソ狭い店を満席にする。
インカジはまず客を入れて何ぼ。
『餓狼GARO』のように千円しか使わない乞食客をたくさん集めたところで意味は無い。
その為には初回のINの金額を最低五千円からじゃないと受けられないと、そのような決め事もしたほうがいいだろう。
結局客足はそれ以上伸びず、朝の六時になる。
坂本へ挨拶して俺は店を出た。
携帯電話が鳴る。
谷口からだった。
俺は池袋の店へ移った事を話すと、彼は近い内『バラティエ』に来てくれると嬉しそうに言った。
帰り道は東武東上線で川越市駅まで一本。
池袋川越間だと、三十分ちょいで到着する。
新宿川越だと、一時間は掛かった。
西武新宿線というのは、新宿へ向かうまで一直線でなく回り道をしながら行っているのだなと思う。
とりあえず初日が無事終わる。
一つだけ気になったのが、坂本だ。
彼は常にキャッシャーから動かず、一切ホール仕事もしなかった。
接客しながら調理もドリンクもするのがホール。
キャッシャーの後ろに流し台があるので、坂本がグラスぐらい洗えばいいのに、彼は本当にまるで動かない。
グラスがどんなに溜まろうとも、洗おうという素振りすらない。
同じ店で働く仲間なので、できれば温和に行きたいが、一癖も二癖もありそうな感じだ。
まあまだ店は始まったばかり。
おいおい色々と決め事を作っていけばいい。
ビル最上階の十階にある『バラティエ』。
店が本当に狭いので、従業員の休憩スペースすら取れない状況だった。
幸いベランダがあったので、下にビニールシートを引き、簡易的な休憩スペースを作る事にする。
十階からの眺めは中々の見晴らしである。
夏前で蒸し暑くなってきたのでベランダでの休憩はちょうどいいが、寒くなったらまた別の場所を考えねばならない。
池袋を新宿と比較すると、人口密度の違いだろう。
世界一の繁華街とも呼ばれる歌舞伎町へ来る人数と比べると、どうしても池袋は閑散としたイメージがある。
オープンしてまだ数日の『バラティエ』の入客状況は、まだまだ前途多難。
それでも営業電話が功を奏したのか佐藤あみが来てくれ、昨日はキャバクラ時代の谷口が、わざわざ新宿から池袋まで来店してくれた。
池袋はキャッチの数がそう多くない。
店で新規客を連れてこれるよう契約したキャッチは、たった三名。
それでも一日に一人二人の新規客を紹介してくれる。
当店第一号の真澄も、週に三回は顔を出してくれ、どうやら気に入ってくれたようだ。
新規客の中では、吉田という五十代半ばの寡黙な男性が毎日来ては五万円負けていく。
五回に一度程度しか勝てないので、いいお客さんだ。
一階の『萌』の従業員たちも、毎日のように来てくれ、徐々にではあるが形になってきた。
俺のシフトを客がたくさん入りやすい夜の八時から朝の八時へと微調整する。
朝方になればある程度の客は引くが、たまに帰らず満席近い事もあった。
伊達から連絡が入る。
「どうしました?」
「岩上さん、パソコン詳しいじゃないですか。ちょっと頼みたい事がありまして」
「俺でできる事があれば」
「うちの裏スロを新しく新店としてオープンするんですが、店内の作り物って言うんですか? 印刷物でお願いしたいものがあるんですよ」
「構いませんよ。俺はどうしたらいいです?」
「一度お店に来てくれたほうが、話早いと思うので。岩上さん、何時頃来れます?」
時計の針はもう少しで朝の八時。
本来なら上がる時間であるが、今日は店内に客が五卓いる。
食事の注文があるかもしれないし、坂本一人残して行くのは難しいだろう。
今日は俺が残業しないと無理だ。
「伊達さん、明日状況を見て朝方電話しますよ。まだオープンしたてで、こっちもスタッフ足りていないんですよ。休みもまだ取れない状況でして」
「分かりました。忙しいところすみません」
彼の話しぶりだと、オープンまで時間無いから焦っているようだな。
流し台を見ると、グラスが山積みに溜まっている。
坂本は相変わらず洗う様子が一向にない。
こっちは残業してまで料理したり、接客したり、ドリンク作ったりと動き回っているのだから、溜まったグラスぐらい洗えよな……。
ここ数日見ていて、流し台の水捌けが妙に悪い。
グラスを三つ洗う間で、シンクに水が溜まってしまうのだ。
「コーラもらえますか」
「畏まりました」
洗わないとグラスが無かったので、仕方なく洗い物をする。
「すみませーん」
「はい」
俺は洗い物を中断し、濡れた手をタオルで拭きながらホールへ向かう。
「入れて下さい」
「十卓様マイクロ二百ドル、十卓様マイクロ二百ドルお願いします」
キャッシャーの坂本へ二万円を渡し、再び洗い物を始めた。
チラッとキャッシャー画面を見ると、坂本は暇を持て余しインターネットでどうでもいいサイトを眺めている。
「あ!」
グラスを五つ洗っている途中、また水が詰まりシンクいっぱいになる。
こうなるとしばらく時間を置かないと、洗い物すらできなくなってしまう。
「岩上さん…、もう少しうまく洗ってもらわないと」
その様子を見た坂本が意味不明な責任転換をしてくる。
「はあ? だったらグラスがこんなに溜まるまで放置してんなよ!」
「自分はキャッシャーですから……」
「知らねえよ! おまえが常にキャッシャーに入り、それ以外何もしてないだけだろ。こっちは客に頼まれた料理だって、ホールだって全部一人で動いているんだよ。グラスくらい、洗えよ!」
こんな奴に同情して残業しようと思った俺が馬鹿なのだ。
それでも客に罪は無いので、残り二卓になるまでは居残り、仕事はキチンとした。
翌日出勤すると、とうとう念願の求人で履歴書持ってきた新人が来た。
俺は八時出勤なので履歴書しか見ていないが、面接した高田にどんな感じの奴かを聞く。
「うーん…、ちょっと癖があると言うか…、難しい人ですね……」
「…と言うと?」
「高星さんは早く人を入れて、二十四時間体制にしたいと言ってたじゃないですか」
「うん、それはそうだね」
「区切りを十時切り替えにするとしたら、十時からの十二時間働くようなのに、その人『自分は不眠症で国から生活保護をもらっているから、働くのは八時間にしてほしい』と……」
「は? 何その自己都合過ぎる理屈は?」
「ですよね…。なので、一応坂本さんの意見も聞いてから採用するかどうか決めようかと。岩上さんは反対ですね?」
「うん、いらないと思う」
「ですよね…。自分も彼はいらないかと」
再度履歴書を見てみる。
父親が日本人で、母親がタイ人のハーフ。
自分から勤務時間を八時間にしろとか、本当にふざけた奴だ。
そういえば『牙狼GARO』を辞めた渡辺はどうしているだろうか?
前に聞いた時は、池袋のインカジに行くとか言っていたような気がしたが……。
最悪仕事がまだ決まっていなかったら、ここへ誘ってみてもいい。
店内は客がいなかったので、渡辺へ電話を掛けてみた。
「あー、岩上さん、お久しぶりです。元気でしたか?」
「ナベリンさ、あの店辞めて、今はどうしているの?」
「自分は今、池袋のゴリラーマンってインカジで働いていますよ」
場所を聞くと、この店から本当に近くだった。
「仕事終わるのは何時?」
「自分は朝の九時ですよ」
「じゃあ近い内、飯でも行こうよ」
「ええ、是非! 楽しみにしてますね」
渡辺をここに引っ張れたら良かったが、さすがにもう働いているよな。
伊達といい渡辺といい、同じ店で働いていなくとも繋がる人間はまた繋がっていく。
インターホンが鳴る。
「誰?」
「吉田さんですね」
俺は入口のドアを開け、吉田を迎い入れた。
夜十時になり、名義の坂本が出勤。
「おはようございます、坂田さん」
ん、高田の奴、名前を間違えてやがる。
俺が指摘すると高田は笑いながら「本名は坂田って言うんですよ。ここでは坂本さんと名乗っていますが」と言った。
何故従業員同士で、あえて偽名を名乗っているのだ、あの男は?
今回集まった『バラティエ』メンバーで俺を除く高星、坂田、高田の三人は、元々池袋のゲーム屋で一緒に働いていたらしい。
高田は当時先輩だった坂田には、いまいち頭が上がらないと話していた。
俺は新人岩佐の履歴書を見せ、採用は難しいんじゃないかと伝える。
「いや、うちに初めてきた新人だから取りましょう」
「え? だって八時間しか働けないとか言っているんですよ?」
「とりあえず八時間でも入れてみましょうよ。早速電話してみますよ」
「……」
坂田の行動や言動をこれまで見ていると、どうもワンマンプレーが目立つ。
まあ俺が目くじらを立てたところで、従業員間の仲がおかしくなるだけ。
とりあえず今回は黙っておく。
「岩上さん、早速岩佐、今日の十一時から来れるそうです」
「八時間で?」
「ええ」
「早い時間帯、高田一人なんだから、どうせ使うなら早番が先じゃないの?」
「次また新人来たら、早番に回せばいいじゃないですか」
後先考えずに突っ走るタイプか。
数名の客が来店し、俺はホール内で接客しながら注文の入った料理を作る。
インターホンが鳴る。
「はい」
「あ、今日からここで働く事になった岩佐ですが」
ドアを開け、中へ招き入れる。
簡単に店の説明をそようとすると、岩佐は「あ、自分、本チャンもインカジも経験あるので、ある程度分かっています」と話を中断させてきた。
「経験あるのは履歴書見て知ってるけど、それぞれ店のシステムの違いがあるんだから、ちゃんと聞いて」
「あ、分かりました」
店内の料理の仕込みから、材料の買い出しも俺の役割りになっていたので、簡単な流れを説明する。
「何だか面倒臭い店ですね」
「おい! おまえ、今日からここで新人として働くのに、何だその偉そうな態度ほ?」
「あ、すいません…。そんなつもりじゃ……」
「すいませんじゃなくて、すみませんだ」
コイツには厳しく鬼軍曹モードで教育したほうが良さそうだ。
だからこんなの採用しなきゃいいのに……。
「岩上さん、新人なんだからもっと優しく言わないと……」
坂田が中途半端に口を挟んでくる。
「じゃあ坂田さんが色々教えてやって下さいよ! 採用したのも自分なんだし」
「いや…、自分はキャッシャー担当なので……」
「何が担当だよ? 料理も自分は苦手だからできないとか言い出して、勝手にキャッシャーやってるだけじゃん。採用きたのは坂田さんなんだから、責任持って教えてくれ」
「いや…、あのですね…。自分は買い出しとかも分からないので、やっぱりここは岩上さんが教えるべきかと……」
「だったら余計な口挟むなよ」
「す、すみません……」
先日のグラスの件といい、何か勘違いしている坂田。
変に気遣うと、図に乗るタイプなのは理解できた。
俺は食料品の買い出しをする店を教える為、岩佐を連れて外へ出る。
「岩佐君、池袋は詳しいの?」
「ええ、西口の繁華街エリアでしたら」
「じゃあまずタバコの買い出しは別にとこでもいいんだけど、このタバコ屋が種類は一番あるかな。一応覚えておいて」
「あ、あの……」
「ん、どうした?」
「タバコ切れたんで、買ってきていいですか?」
「そこの自動販売機で買えばいいじゃん。タスポもあるよ」
「いえ、駅のほうで買いたいんですが……」
「何でタバコ買うのに、わざわざ駅まで行くんだよ?」
「現金を持ってなくて、スイカの中しか無いんですよ」
そんなの出勤する前に買ってくればいいだけの話だろうと思ったが、あまり怒るばかりも良くはないか。
時には飴と鞭も必要。
俺はポケットの小銭入れから五百円玉を取り出し「ほら、これでタバコ買っていいよ。タスポもこれ使っていいから」と渡す。
「あ、ありがとうございます」
「……」
何だ、コイツ?
岩佐は四百円のタバコを買い、お釣りをごく当たり前のように自分のポケットへ入れた。
「次は食料品を買う店ですね?」
「あ、ああ……」
コイツ、やはりかなりヤバい奴じゃないのか?
「肉はだいたいここで買うよ。野菜は二軒先のこのお店。品数少ない時は、ちょっと歩くけど、この先に肉も野菜も扱う店あるから、そこで全部の品数を揃えるからね」
「は、はあ……」
「覚えられなかったら、メモ用紙にちゃんと書いてね。次からは岩佐君一人で買い物行くようだから」
「は、はあ……」
何とも情けないというか、頼りないというか。
「分からない事あったら、今の内に質問して」
「だ、大丈夫です」
あまりうちの店、続かないだろうなと思いながら『バラティエ』へ戻る。
深夜三時で高田が上がり、俺、坂田、岩佐の三人になった。
「岩上さん、人数も増えたし毎日休み無しの十二時間勤務じゃないですか。一時間の休憩時間を作りませんか?」
坂田からの提案。
確かに中々いいアイデアかもしれない。
「いいんじゃない」
ただ岩佐は八時間しか働かないのだから、一時間もあげる必要は無いだろう。
「じゃあ岩佐さん、一時間休憩どうぞ」
何でいつも坂田は勝手に先走るのかな……。
すると岩佐はモジモジしだす。
「何だよ、休憩行くなら早く行けよ」
「いや…、漫画喫茶行こうと思うんですが、手持ちが無いので、今日の日払いから千円だけ先にもらってもいいですか?」
「……」
俺が無言で千円札を渡すと、岩佐ら嬉々陽陽と出て行く。
そこそこの客入りだったので時間を忘れていたが、時計を見ると朝方四時をとっくに過ぎている。
「坂田さん、岩佐の奴、休憩入れたの三時ちょうどくらいですよね?」
「そうですね、高田が帰ってすぐでしたから」
時計の針は四時半を指している。
そこでインターホンが鳴る。
ようやく岩佐が店に帰ってきた。
「おい! おまえは初日から何をしてんだよ?」
俺が怒鳴りつけると、岩佐はキョトンとしながら「休憩ですが?」と悪びれずに答える。
「何で一時間半も休憩取ってんだよ? 一時間って言ったろうが!」
「え、一時間しか漫画喫茶入ってないですけど……」
そう言って岩佐は漫画喫茶のレシートを見せてきた。
「おまえなー…、誰が漫画喫茶で一時間休憩入れなんて言ったんだよ? 勝手におまえが行っただけの話で、漫画喫茶込みで一時間以内に戻ってこいよ!」
「まあまあ岩上さん、落ち着いて」
「何でこんなの採用したんだよ!」
俺はこう見えて、腐るほど様々な業界の人間だけはたくさん見てきたつもりである。
断言できた。
岩佐はどう教育しても、話にならないという事が……。