2024/12/01 sun
前回の章
あれだけ頑張ったはずの大日本印刷の突然の終焉。
生きているのでどんな節約しても、日に日に金は目減りしていく。
また望に会い、触れて癒されたかった。
岩上整体時代に患者として知り合ったプロレスラーのミスター雁之助からよく連絡が来る。
用件は有明で『鬼神道』というプロレス興行をするので観に来て欲しいとの事。
チケット代もいらないし、友達をできる限り連れてきてもいいと言う。
新日本、全日本、プロレスリング・ノアのように観客が放っておいても集まる訳では無いようで、招待券で金にならなくても席を少しでも埋めたいようだ。
俺は知り合いへ声を掛けてみた。
おぎゃんと三枝さんの二人が呼応し、来てくれる事になる。
試合当日、有明まで三人で向かう。
無料とは言われたが、三人で行ってタダは申し訳ない。
金欠だったが、俺は一万円札を封筒に入れ会場の入口で雁之助へ手渡す。
「先生、本日はご足労頂いてすみません……」
「何を言ってんですか。それにもう先生でも何でもないですよ」
ミーハーなおぎゃんは「あ、売り場にTAKAみちのくがいる!」と、興奮しながらサイン入りTシャツを買っていた。
雁之助の試合を初めて観たが、彼のテクニカルな技『雁之助クラッチ』は観客からどよめきが起きるほど見事な技だった。
また頭を下げて伯母さんのピーちゃんから食事を恵んでもらう生活。
小言を言われながらの食事は惨めだったが、人間空腹には堪えられない。
黙って食べながら、嵐が通り過ぎるのを待つしかなかった。
考えてみたら、ピーちゃんはずっと家に居るのだ。
俺ら三兄弟が生まれる前に、若い頃OLで二年ほど都内で一人暮らしをしたと昔聞いた事がある。
しかしそんな短期間のものは、経験にほとんど入らないだろう。
天皇陛下から勲章を数回もらったおじいちゃんの娘という肩書だけ。
しかも今は働いてさえいないので、社会経験などゼロに等しい。
立場的に注意をする人間など、おじいちゃんと親父を除けば誰一人いないのである。
考え方がねじ曲がっていても仕方がない。
「おまえはそんなんだから駄目なんだ」
必ず言われるこの言葉。
聞き慣れるなんて事は無い。
言われる度に心に一つずつ、小さな傷を受けていく。
早く仕事を決めないと、俺がおかしくなってしまう。
それだけは自覚できた。
黙々と食べ、食器を台所へ下げる。
階段を上がろうとすると「自分の食べたものくらい洗ってけっ!」と罵声が飛ぶ。
俺はロボットのように感情を殺し、黙って皿を洗う。
俺に誰か活躍の場を……。
出版社サイマリンガルからは、未だ印税の話すら何も来ない。
せめて次の職場を決めてから大日本印刷を辞めれば良かった。
そう何度思った事か。
しかし現状ではすでに辞めてしまっているし、次の働き口が中々見つからない。
何でいつもこんな風になってしまうのだろうか。
川越の職安で以前世話になった二件の会社。
花園新社にSFCG。
両方ともロクな会社ではない。
花園新社は労働基準法をまったく無視した安賃金の酷い会社だった。
うんちくを垂れながら人にタカる事しか考えない上司。
あれならまだ裏稼業の人間のほうがマシだ。
同じく労働基準法を完全に無視した横暴な会社SFCG。
国会で名前を出され、あの会社のせいで金融法が変わったほどである。
年利十八パーセントと国で定められたのは、SFCGの暗躍によるものだ。
職安じゃ、いい仕事なんて無いよな……。
インターネットが世間で流通した今、それを利用した就職活動が必要なのかもしれない。
時間だけは腐る程ある。
手当たり次第調べてみよう。
リクルートスタッフィングという派遣会社を見つける。
とりあえず登録しておいて、自分の希望する職種や給料など選んでおくのか……。
俺は自身の経歴や希望する条件を記入していった。
この頃からいつの間にか親父の妻になり、家に住み着いた物の怪加藤皐月の嫌がらせが、気付けば始まっていた。
近所に俺とピーちゃんというパラサイトが住み着いていると謳うだけでなく、実質的な迷惑行為をするようになってきた。
俺が寝ているとワザと掃除機を掛け、廊下の前を何度も往復する。
ドアへぶつけ、ワザと音が出るようしているのが分かった。
風呂も自分たちが湯船に浸かると、風呂栓をどこかへ隠す。
まだ夏前だから気にならなかったが、俺を湯船に浸からせないつもりなのだろう。
この家に生まれ、当たり前のように生活していたものが、気付けば当たり前じゃなくなっていく。
普通、湯船の風呂栓まで隠すか?
また少しずつ心に傷がついていった。
部屋で黙ったまま怒りを溜める俺。
勝手に家へ住み着き、親父以外の家族全員から嫌われているのに涼しい顔。
こんな女に嫌がらせを受ける俺。
全身が殺意に包まれていく。
突然部屋の電球が切れた。
パソコンの画面はついているので、電球の芯が消えただけだろう。
深夜近所にある二十四時間スーパーマルエツへ、電球を買いに行く。
電球を変えると部屋は明るくなった。
こんな生活が日常でいつまでつづくのだろうか。
親父は俺の事を心底憎く、また嫌いだろうな。
だから加藤の所業を止める気も無いはず。
また明日も湯船の風呂栓を隠され、寝ていると掃除機で起こされるのだろう。
本当大人しくしてりゃあ図に乗りやがって。
再び殺意が増幅していく。
「……」
拳が震える。
震えは伝染し、身体中が震えた。
廊下から親父の部屋のドアを睨みつける。
いつの間にかのほほんといやがって……。
このままではいつか、加藤皐月を殺してしまうかもしれない……。
惨めな人生。
それでも自分がそう選択した結果が、現状なのである。
加藤皐月をどうにかするには、殺すしかない……。
やるのは簡単だ。
背後から忍び寄り、頚椎を捻り壊す。
叫び声を出されると厄介だから、まず声帯を潰し、滅多打ちで息の根が止まるまで続ける。
こっちのほうが、きっとスカッとするだろう。
馬鹿…、少しは考えろ。
俺が殺人者になって、残されたおじいちゃんはどうなる?
憎しみの連鎖。
ずっと続く悪循環。
本当にウンザリだ……。
己の人生を呪い、身体に流れる血を憎んだ。
何故こうなってしまったのか。
憎悪に満ちた人生をこれまで送り、たくさんの人間を傷つけてきた。
俺は凄い。
ずっとそう思いながら毎日を必死に生きてきたつもりだった。
しかし気つけば孤独で、周りには誰もいない現状が待ち受けていた。
孤独は非常に寂しいものだ。
携帯電話など、ほとんど連絡ない掛かってこない。
俺はこの世から忌み嫌われ、家族からも必要とされていない。
くらだらない人生を送ってきたものだ。
誰かの為にといい加減ながらも、誠心誠意尽くしてきたつもりなのに。
このまま俺は、朽ち果てていくのだろうか?
誰からも愛されず、誰からも必要とされずに、一人孤独に生涯を……。
俺をうまく利用してきた人間を憎んだ。
俺を相手にしない人間を恨んだ。
成功して常に笑顔の人間を疎ましいと思った。
俺などこの現世では、もう必要ないのかもしれない。
クソみたいな時間を過ごしながら、無駄に生き、人々に迷惑を掛けてしまう公害のようなもんだ。
深夜、家族が寝静まるのを待ち、一階へ降りる。
台所にある包丁を右手に持つ。
喧嘩で武器など持った事ない俺が、最後は包丁に頼るか。
それもいいんじゃないか。
手首に包丁を横にして、ゆっくり当てた。
鈍い冷たさが皮膚から伝わってくる。
思わず身震いした。
何の為の身震い?
もうこれから存在自体、いなくなるんだぞ。
おかしいじゃないか。
このままじゃ手首は切れない。
縦に刃を立てる。
そう…、あとはスッと力強く引けば、簡単に人間の皮膚など切れてしまう。
「……」
生きている事さえ嫌なんだろ?
さっさと引いてしまえばいい。
血が吹き出して、あっという間に楽になれる。
ゴトッ……。
上から物音が聞こえた。
思わず見上げてしまう。
俺にはもう何もない。
死ぬのはいい。
しかし、ここでこんな死に方をしたら、残された者がいい迷惑だろう。
馬鹿な…、死ぬのにそんな事をいちいち気にしてどうする?
つまらない事など気にするな。
親父やピーちゃん、徹也に貴彦。
俺がここで倒れたところで、馬鹿な奴だと思われるだけ。
包丁の柄を持つ右手に力が入る。
もう引いて楽になっちゃえば?
そんな声が頭の中で響く。
中途半端でろくでもない人生。
手首を切って終わり。
俺にはお似合いかもしれない。
ゴト……。
おじいちゃんの部屋のほうの二階の天井から、軋む音が聞こえた。
馬鹿だな、俺は……。
第一発見者は、朝早起きのおじいちゃんになるんだぞ?
孫の自殺を見せる気かよ?
何故、おじいちゃんの存在を真っ先に思い出さない!
親父たちなど、どうでもいい。
おじいちゃんだけは、特別だろうが!
せめて、これ以上自らおじいちゃんに迷惑を掛けるなよ……。
俺は音を立てないよう包丁を戻し、忍び足で部屋まで戻る。
それから膝を抱えて泣いた。
家でパートとして働く伊藤久子が、親父の逆鱗に触れて急遽クビになったらしい。
岩上整体の時、祝い金を持ってきてくれ、何度も施術を受けに来てくれた伊藤久子。
俺は連絡を入れて、近所にある彼女のマンションを訪ねた。
これまでの経緯を聞く。
おじいちゃんへ金の無心をする親父。
あまりにもおじいちゃんが困っていたので、間に入ったそうだ。
横暴な親父は「おまえなどクビだ」と怒鳴られ、さすがに堪忍袋の緒が切れたそうだ。
「だから最初に家に入る前に、親父となんてやめたほうがいいですよって、俺何度も言ったじゃないですか」
「そうだよね。あの家に入って本当に色々分かったんだ。駐車場で働いている時は、本当社交性あっていい人なんだなって思っていたからね」
伊藤久子の愚痴をできるだけ聞いてあげた。
夜遅くまで残業をさせ、そのすべてはサービス残業として処理。
親父と加藤はトンカツ早川へ連れて行き、それで伊藤久子を誤魔化しているつもりらしい。
徹也の同級生でもあり、俺の後輩でもある店。
後輩のオヤジさんの店をあいつらが使うなと怒鳴ってやりたかった。
働かせるだけ働かせ、気に食わねばクビ。
親父は何様のつもりなのだろうか?
「伊藤さん、これって不当解雇だから、俺も協力するから親父と加藤から金を取ってやりましょう!」
「うーん…、私はあまり揉めたくないから、新しいところを探すからそれでいいよ。智ちゃんの気持ちはありがたいけどね」
「でも、それじゃあ……」
「今度ご馳走作るから、ご飯食べにいつでもおいで」
家の中で働いていただけあって、実情を知る伊藤久子。
俺とピーちゃんが合わないのも、当然熟知している。
嫌味をいつも言われながら食事をする俺を仕事する傍ら眺めていたのかもしれない。
以前俺の小説を卑下され、人間性を疑った事もあった。
ただ文学というものに若い頃真剣に取り組んだからこそ、厳しい意見を当時の俺に伝えたかっただけなのかもしれない。
俺に何かできる事があれば遠慮なく連絡するよう伝え、家へ戻った。
久しぶりに望から連絡があった。
協会の神父である旦那とは、離婚を決めたらしい。
時間を作るので会いたいと言われ、久しぶりに会って抱く。
望も、こんな無職で金の無い男のどこがいいのだろうか?
今の俺は賞を取って本を出し、格闘技のリングに上がって負けた無職という肩書きしかない。
ついこの間まで自殺を考えていた俺。
望に救われた気がする。
ドス黒い闇の中、一筋の光が伸びてくるような……。
俺の腕枕の上に寝る望の顔を見て、本当に死ななくて良かったと感じた。
「まだ随分先の話になるかもしれませんが、私の人生にとって、智さんはかけ街のない存在です……」
離婚する理由を聞いてみる。
不倫騒動というよりは、協会の神父というのが年数の決まっている制度なようで、旦那がもうじき牧師の役目を終えるらしい。
それまで自由に生きてきた旦那は金を残してなく、望がコツコツと貯めていた貯金を勝手に使い込みだしたと言う。
この十年、手を上げる暴力は無かったものの、気分次第で罵倒され、恫喝するような生活を送ってきたようだ。
「智さんはよく自分を卑下するけど、私は智さんのその優しさで、何度も救われてきました」
俺は優しく望を壊れないようソっと抱き締めた。
家に帰り、パソコンを起動する。
少しは望のおかげで前向きになれた。
どんな惨めでも、まだ頑張って生きてみよう。
リクルートスタッフィングのマイページを見てみると、何件かの仕事依頼が来ていた。
俺は一つ一つ丹念に眺める。
金をまた稼がないと……。
パソコン操作ではまどろっこしい。
電話番号が記載されているのを見つけ、電話してみた。
面倒な注文はつけない。
とにかく早く働きたい。
それを先方に伝える。
数日後連絡をくれるとの事で、通話を終了した。
通話中、望から着信があったようだ。
俺は彼女へ連絡をする。
他愛ない意見交換。
望無しの今後の生活を考えられなくなっていた。
仕事が何とか決まりそうだという事で連絡し、深夜時間の許す限りとにかく話す。
待っていたのは高額な電話代の請求だった。
無職文無しの俺に、携帯電話代五万は高過ぎる。
だが何とかしないと望と連絡が取れなくなる。
それだけは嫌だった。
自ら招いた種。
承知の上で金策を考えなければならない。
俺は親父の姉である三進産業の京子伯母さんを訪ね、金を貸してもらえないか頼みに行く。
優しい京子伯母さんは「まったく智一郎はしょうがないねえ」と五万円を貸してくれた。
「ほら、もう一万円渡しておくよ」
「え、何でです?」
「電話代払っても、食事もできないくらい困ってんだろ」
俺は深々と心から頭を下げて合計六万円の金を借りた。
リクルートスタッフィングからの仕事ももうじき決まりそうだし、新天地で頑張らなきゃ。
明後日行く会社名を伝えられ、働き場所が判明する。
これは情報漏洩の為と説明されていた。
これから新しい何かが始まろうとしている。
家のパートを理不尽にクビになった伊藤久子から連絡があった。
何でも今すぐマンションへ来て欲しいとの事。
急いで準備して向かう。
部屋へ招かれると、知らない年配の女性がいた。
「智ちゃん、紹介するね。こちら野村路子先生」
「あ、はじめまして」
伊藤久子の説明によると『テレジンの小さな画家たち』で、産経児童出版文化賞大賞を受賞し、著書は多数出版、大御所の作家らしい。
「岩上さん、あなたの本を読ませてもらいました。あなた、まだ全然書けるでしょ?」
「え……」
俺の本を読んだって『新宿クレッシェンド』だけだよな、読んだの……。
何故まだ書けるって分かるんだ?
「あなたの本を読んでてね、あー書きたい事全然書き足りていないんだなあって思ったの」
「……」
この人、千里眼でも持っているのか?
俺より三十四歳の年上の小説家。
プラハでテレジンの子供たちの絵と出会い、チェコ大使館やユダヤ博物館と交渉し、数少ない生き残りの人々へインタビューを重ね、展覧会や執筆、講演活動を続けているようだ。
俺とはまるで規模が違うが、実戦型タイプ。
パフォーマンスなどでない本当の社会正義に満ち溢れている。
「野村先生ね、腰が悪いのよ。だから紹介ついでに、智ちゃんに見てもらったらいいかなと思ってね」
「俺の腕で良ければ、いくらだって診ますよ」
これまで数々の行動による蓄積か腰の周りの部分が、相当凝り固まっている。
岩上整体で使っていたエアーコンセラーを家へ取りに戻った。
「兄貴、そんなもん持ってどこ行くんだよ」
弟の徹也が興味津々にあとをついてくる。
今までのイザコザでいい印象を持っていないが、今は野村先生の治療が最優先。
人との隙間に入り込むのがうまい徹也は、あっという間に治療中の野村先生と打ち解けている。
帰り際、野村先生は出ている著書三冊をくれたが、徹也が「読んだら兄貴の部屋置いとくからよ」と全部持っていってしまう。
俺は小説を書くようになってから、本がまるで読めなくなっていた。
本の内容よりも先に、句読点の打ち方や改行の仕方。
そちらのほうが気になってしまい、内容が頭に入らなくなってしまう。
俺がいつか書く事を諦めた時、初めて野村先生の本を読める機会がやってくるのかもしれない。
それにしても伊藤久子には感謝である。
貴重な出会いを体験させてもらったのだから。
リクルートスタッフィングから仕事の紹介が決まり、場所は新宿にあるKDDIだと言う。
携帯電話初期の頃だと、第二電電。
現在は三大携帯電話の会社の一つとなったau。
面接時、auについて聞かれたが、俺は正直に思っている事を伝えた。
過去に携帯電話会社の理不尽な請求や対応へ、不満を持った事があり、そういった顧客の一人一人を自分は救いたいと答える。
俺はKDDI新宿事業所ビル二十八階へ勤務となった。
場所は新宿都庁の横の横のビル。
これまで新宿といえば、東口の歌舞伎町だった俺。
それが今や逆側の西口オフィス街へ行くのだから、人生どう転ぶかなどまったく分からない。
まず出勤時、人の多さに圧倒される。
もうサラリーマンとOLだらけ。
駅にある自動改札口のようなゲートを通るには、支給されたIDカードをかざさないと入れない。
エレベーターも非常に混み合うので、一階からいきなり二十階へダイレクトに行くものなどがある。
自分の部署へ行くまでに、何度IDカードを出すのだろうか。
ロッカー室ですべての私物は、置いておく決まりが徹底されていた。
情報の漏洩に関して、当たり前だがかなり厳しい状況を作っている。
部署へ持っていける飲み物は、蓋付きの飲み物のみ。
従ってプルタブ形式で開ける缶コーヒーなどは持ち込み禁止。
そういったものは休憩室でないと飲めないようになっていた。
職場から見える風景。
俺にとっては懐かしく思う。
浅草ビューホテルの時も、同じ二十八階。
妙な縁を感じた。
映る景色は変われど、浅草とそう変わらないからである。
このフロアーはエレベーターが六基あり、廊下から左右に分かれた二つの大きな部署、そして大型の休憩室。
休憩室だけで、一体何人の人間が入れるのだろうか?
共用の冷蔵庫は四つも置いてある。
地下一階には社員食堂が三店舗、そして喫茶店が数軒あるようだ。
一番安いメニューはカレーライス二百八十円。
始めの一ヶ月間は、個人情報保護に関する法律の勉強と、ボイスコミュニケーショントレーニング。
研修期間に当たる。
これからここで、俺の新しい生活が始まるのだ。
研修が始まる。
ボイスコミュニケーショントレーニングの講師は、富岡香織。
聞いたところによると、アナウンサーなどの講師などもしているらしい。
個人情報とはどういうものかと皮切りに、法的な要素、そして情報を漏洩させない為にはどうするかを逐一説明していく。
個人的に面白かったのが、早口言葉だった。
代表的なもので言うと、生麦、生米、生卵(なまむぎ、なまごめ、なまたまご)などが有名だろう。
青巻紙、赤巻紙、黄巻紙(あおまきがみ、あかまきがみ、きまきがみ)。
すももも、桃も、桃のうち(すももも、ももも、もものうち)。
様々な早口言葉があるが、中でも気に入ったものができる。
おあやや、おははうえに、おあやまり。
おそらく綾とという子に対し、母上に謝りなさいという意味合いなのだろうが、この早口言葉が妙にツボに入り、一人で研修中笑っていた。
それが伝染し、真面目でシーンとした空間が一気に賑やかになる。
講師富岡も、始めの内は注意をしていたが、その内我慢できなくなり吹き出す。
「富岡さん…、今度から富岡さんの事をおあやの先生と呼びます」
そう俺が言うと隣にいた同期の松本怜二はまた吹き出した。
女子社員は横を向き、知らん顔して澄ましているが、肩は震えている。
最初の研修で、同期の松本や目の大きな幸、そしてメガネを掛けた地味な佐藤と仲良くなった。
俺が配属された課は総勢六十人以上いて、毎日三十名から四十名ほどの社員が出社する。
様々な部署が一つのフロアーにぶち抜きで集まっているので、二百名近い職員が同じ空間で働いているのだ。
基本的にシフト制で、出勤時間の種類は二つ。
朝十時からの出社か、十二時かである。
十時からの場合、基本の仕事時間は八時間。
間に取る昼休み一時間はカウントに入れないので、夕方七時終業となる。
十二時勤務なら就業は夜の九時。
KDDIはビルに到着しても、自身の部署へ行くまでが大変だ。
入口を通り、エレベーターで二十八階へ。
ロッカー室で私物などを置いてから、三ヵ所ほどIDカードをを提示してセキュリティーの掛かったドアを開けて行く。
ようやく自分の席へついてパソコンを立ち上げるが、ここで自身のIDとパスワードを入力しないと立ち上がらない。
キチンとパソコンができる状態になって初めて内蔵のタイムカードに記録される。
よくどの仕事でも、ギリギリ職場へ到着すればセーフと考える時間にルーズな人間がいるが、このシステムでは間違いなく遅刻扱いにされるだろう。
タバコを吸いに行く時はパソコン上にある『離席』ボタンをマウスでクリックしてから、喫煙室へ行く。
戻ってきたら『離席』ボタンをもう一度クリックして解除する必要がある。
この自分専用のパソコンに搭載されたタームカードも含む自身の情報。
これがすべて記録され、成績などに反映していくようになっていた。
驚いたのがちょっとした業務で、帰りが十八時五分にパソコンを消したとすると、五分単位で残業代がつくところである。
会社自体が労働基準法に乗っ取ってすべて業務を行っているので、社員が働きやすい環境は整っていた。
あの暗黒のSFCGとは凄い違いだ。
業務はその日によって若干変わってくるが、基本的にはKDDIの顧客の電話対応。
相手から掛かって電話を受ける受電。
こちらか相手に電話を掛ける掛電。
世間一般でいうコールセンターというやつである。
シグマという独特のシステムが各パソコンに入っており、そこへ顧客と話した主な内容を打ち込んでいく。
一度打ち込めば、その情報は全社員で共有できるようになるので、次回同じ顧客がKDDIへ連絡してきても、会社側はシグマを閲覧しながらの対応になるので誰でも応対可能という訳だ。
当然契約したこれまでのデータが中にすべて詰まっているので、顧客の検索も可能。
仮に有名な芸能人が実名でKDDIへ登録していれば、簡単に住所、電話番号などの個人情報など分かってしまう。
これはうちだけでなく、ドコモやソフトバンクなども一緒だろう。
従って情報を漏洩しないようセキュリティー管理は徹底している。
筆記用具など部署へ当然持ち込めないし、自分の携帯電話も禁止だ。
パソコンのUSBにメモリースティックを差した時点で、即シャットダウンする仕組みになっている。
こんな日々を送りながら俺は誕生日を迎え、三十七歳になっていた。
古木栄大から久しぶりに連絡が入る。
最後に彼を見たのが総合格闘技の試合の時。
二股がバレてどうのこうの言っていたから、一人にしろと言ったら、岩上整体に連れてきた牧田順子と一緒に試合の観戦に来ていたのをリングの上から見た以来だ。
「久しぶりに飲みませんか?」
「いいですけど、まだ新宿なんですよ」
「え、また裏稼業に?」
「いやいや、今は西口なんですよ」
「え、西口? 何でまた……」
「まあ会ってから話しますよ。これからちょうど帰るところなんで、川越着くのは九時前くらいになるかと」
「じゃあ、本川越駅にその頃伺いますね」
古木が俺に会いたいなんて時は、ほぼ女の相談だろうな。
これまでJAZZBarスイートキャデラックや岩上整体の時も、すべてが女絡み。
俺もちょうどKDDIの事を誰かに伝えたかったので、いいタイミングだ。
ひょっとしたら牧田順子と結婚しますとか、そういういい知らせかもしれない。
KDDIで働く事を教えたら、きっと驚くだろう。
それにしても新宿駅西口から、西武新宿駅は結構距離があるな。
新宿事業所ビルから西口まで約五分。
西口から西武新宿まで十分くらいか。
小汚い店が集まった思い出横丁を通りながら、タバコに火をつける。
思い出横丁なんて小綺麗にしたつもりでも、元は小便横丁だからな。
古くから歌舞伎町で働く人たちは、みんなそう呼ぶ。
一度火事になったから、ついでに都合良く一新したのだろう。
大ガードを潜り、西武新宿駅ビルぺぺの前に出る。
俺は特急小江戸号に乗って、川越へ向かった。
電車の中から待ち合わせ場所を天下鶏に指定する。
どうせどこかで飲むなら、岩上整体時代世話になった店で金を落としたい。
店に入るとオーナーの田辺が嬉しそうに「岩上さーん」と抱きついて来る。
「また整体やって下さいよー。腰が限界なんですよ」
「今度個人的に診ますよ。今日、自分の連れが先に来ているはずなんですが…、あ、カウンターにいました」
「テーブル席用意するんで、あちらへ移動して下さいよ」
俺は古木に声を掛け、田辺の好意に甘える事にした。
ウイスキーのロックとレモンサワーがテーブルに置かれる。
「智さん、これでいいんですよね」
「よく覚えてますね、ありがとうございます」
天下鶏、俺にとってとても居心地のいい店だ。
「そういえば敦子先生は元気ですか?」
「元気ですよ。週に三、四回は顔出してくれますよ」
俺の幼少時代のピアノの先生。
二十数年ぶりに再会し、現在もいい関係を築けている。
この天下鶏の入るビルのオーナーでもあるのだ。
娘の友美ちゃんは、バトントワリングで金メダリスト。
そう…、俺は悲観的に落ち込む前に、幸せな材料が一杯あるじゃないか……。
新たな仕事の開始。
俺の事を評価してくれる周り。
望はどうなるか分からないが、いい方向へ行けるよう前向きに考えたい。
「岩上さん…、実は相談がありまして……」
古木が申し訳なさそうな表情で話し掛けてくる。
悪い方向での女関係の相談なのは分かった。
「牧田順子でなく、もう一人のほうへやっぱり行きたいとか?」
「いや…、あのですね…。その……」
妙にハッキリしない古木。
「いやいや古木君、ハッキリ言ってよ」
「前に岩上さんへ二股がバレてって話をしたじゃないですか」
「どっちか切れって話でしょ? だから俺の試合の時、牧田順子を連れて来たと。俺、リング上から二人の姿見えたし」
「あの試合の最後、観ていてほんと感動しました」
「え、あんな試合のどこに?」
「最後フロントチョーク極められて、岩上さんそれでも一分ぐらいギブアップしなかったじゃないですか。順子も先生が死んじゃう、死んじゃうって、大声で叫んでいたんですよ」
そんなに俺、タップをせずにあの時踏ん張っていたのか。
いや、本題をズラされているような気がする。
「古木君、俺の試合の事はとりあえず置いといて、相談のほうは?」
「えー…、その……」
「分かった! 古木君、二股の片側のほうと別れていなかったんでしょ?」
「あー…、はい……。仰る通りです」
「それで相談とは?」
「順子ではない片割れのほうなんですが、何を言っても聞き分け悪くて……」
「それで?」
「岩上さんからも説得してほしいんです……」
何か凄い面倒臭い事を頼まれているぞ……。
「こんな事を相談できるの、岩上さんしかいなくて……」
身から出た錆なんだよな。
だから試合前に連絡来た時、俺は両方切れと伝えたはず。
それが無理だと言うから、片方は絶対に切れと仕方なく言った。
俺の中で試合へ牧田順子を連れてきたから、とっくに片付いているものだと思っていた。
古木には岩上整体の時、雷が落ちたパソコンを直してもらった恩があるしな。
流れを大事に……。
うん、群馬の先生もそう言っていたし、ここは流れに沿うか。
「分かった、古木君。そのもう一人の子に俺が直に会って説得すればいいのね?」
「は、はい…、そうしてもらえると、本当に助かります……」
何か随分歯切れが悪いな。
「古木君は牧田順子を選ぶ。そして俺はもう一人の子に会って、引導を渡す。もちろん古木君も同席するけど…。これでいいのね?」
「ええ、お手数お掛けします!」
深々頭を下げる古木。
本来夫婦喧嘩、犬の食わないと言うが、二股のもつれなんて、ゴキブリも食わないだろ……。
これまで女に縁が無かった古木が突然モテ始め、調子に乗り過ぎた結果だが、始めに煽った俺の責任も少しはある。
「ほんと今回だけだよ。牧田順子と結婚を考えているって言うから、あの時協力したのに」
「はい、これに懲りて真面目に順子と生きようと思っています」
まさかここに来て、岩上整体の時の出来事が、ここまで続くとは思いもよらなかった。
まあ人助けだ。
俺は古木とその子を踏まえた会う日の調整を話し合う。
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