2024/12/25 wed
前回の章
トーイック…、アルファベッドでTOEIC。
Test of English for International Communicationの略で、日本語では国際コミュニケーション英語能力テストと言われているようだ。
世界百六十ヵ国で実施されている英語のコミュニケーション能力を判定する世界標準の基準テスト。
要はビジネス英会話って事か。
すべてマークシートによるらしい。
俺は音声データ付きの教材を買ってきて、早速トーイックに向けて勉強を始めてみた。
「……」
は?
何、これ?
何を話しているのか、まったく聞き取れない……。
一ちゃん、これを最低六百四十点とか言っていたよな……。
絶対無理でしょ、これ。
俺の場合、得意科目としたらやっぱり国語だもん。
英語は昔から苦手。
まあそもそも歌舞伎町で英語なんか役に立たなかったしね。
俺はウガンダにいる一ちゃんへ、メールを打った。
英語がほとんど分からないので、今回の話は難しいんじゃないかなと自分では思いました。
六百四十点という点数ですが、運が良くない限り難しいと思います……。
やはりある程度の英語能力がないと、話にならないですよね。
岩上 智一郎より。
一ちゃんからすぐメールが届く。
今の俺にとって鬼のようなメールだった。
智ちゃんへ
次回の募集は十隊でネット検索してみて下さい。
次回の選考から語学試験がTOEICの形式になるようです。
TOEICの公開テストを受けておくと、形式が分かるのでいいと思います。
TOEICは、慣れてないとスコアが取り難いテストです。
逆に言えば、テクニックで得点が上がります。
まずは、一度、受けてみるといいです。
九百九十点満点で、七百三十点以上だと、派遣前語学訓練が免除です。
六百四十点で、だいたい合格ですが、職種によって違いがあります。
応募者の多い日本語教師、村落開発、青少年活動は、高得点が必要です。
四百点以下だと、どの職種でも合格は難しいです。
ただ、TOEICは、対策を教えてくれる学校があるので、準備ができます。
今のうちに、準備をして下さい。
乗松一久
一ちゃんは期待して俺を待っていてくれている。
でもさ…、無理なものは無理だよ……。
確かに無理だってものに挑戦して、俺は色々頑張っては来ましたよ。
プロのリングに上がる。
小説を世に出す。
これは俺にたまたま適性があったから、何とかなっただけで、トーイックは絶対に無理。
だって何を喋っているのかさえ、何一つ理解できないんだもん……。
俺は一ちゃんへ丁重に断りのメールを入れた。
諦めが早いとか、智ちゃんなら頑張ればできると言ってくれるけど、これだけは絶対に無理なんだ。
だってあの会話を聞いていると、頭が痛くなってくる。
人には得手不得手ってものがあるのだ。
プロレスや小説、ピアノは得手だったのである。
トーイックは不得手。
海外に行きたかったけど、潔く諦めよう。
そういえばミクシィで地元を離れるなんてあんな記事書いちゃったけど、どうしよう……。
確かあのあとも変に格好つけた記事を書いたよな。
読み返してみる。
三十八年間染み込ませた自我を捨て、初心に戻る。
ギラギラしたあの頃。
マイペースでいい。
かつての自分を取り戻す。
未知なる世界への身投げ行為は、何を産むのだろうか。
歌舞伎町にいた頃のように、不思議とワクワクしている自分がいる。
岩上智一郎
何をこんな格好つけているのさ?
あのさ、俺って本当に馬鹿なの?
何がかつての自分を取り戻すだよ?
未知なる世界へ身投げしようとして、一日で後悔したよ……。
ああ、こんな記事まで書いちゃってさ。
いいや、しばらくミクシィは放置。
すっかり海外へ行く気満々だったからな……。
働こう。
とりあえず働いて金を手にしよう。
俺は色々な求人広告を見た。
すぐ金になるのは、やはり裏稼業。
家から出たいというのもあった。
俺は新宿のソープランドへ面接へ行ってみた。
即採用。
俺の履歴書を見たオーナーは喜び、吉原にも店があるからそこへ行けと命令される。
高級店だが、時たま暴力沙汰になるケースも多いらしく、用心棒代わりにいてほしいようだ。
ただ、トラブルが遭った時は俺の出番で、それ以外は普通に他の従業員たちと共に働く。
住み込みで四畳半ない狭い部屋が用意され、風呂もついていない。
途中休憩というものがあり、四時間くらい中抜けして、また戻り夜遅くまで働く。
日払いで二千八百円の金を最初に渡され、これで食事などを自分で何とかしなければならない。
残りはまとまって給料日に支給。
二日間で働くところを間違えたと感じる。
業務中、何をする事なく待機していても、携帯電話に出る事すら許されない。
さっきからポケットに入れた携帯電話のバイブが、頻繁に振動を伝えてくる。
俺はトイレへ行くふりをして、携帯電話を見た。
中学時代の友人ゴリからだった。
あいつ、何度も着信しやがって。
俺は『どうした?』と短いメールを送った。
『お袋が倒れた 岩崎努』
ゴリママが倒れたって?
ただの過労とかでではないだろう。
尋常ではない何かが起きたのだ。
「すみません…、家族が倒れたみたいでして……」
俺は嘘をつき、二日目にしてソープランドを退職し、川越へ戻った。
まずゴリへ会いに行く。
状況を聞くと、ゴリが仕事を終え家に戻るとゴリママが倒れて鼾を掻いていたそうだ。
何をやってんだよと、近付くと下半身は水まみれ。
おそらく尿も漏らしていたのだろう。
すぐ救急車を呼び、病院へ。
病名脳溢血。
意識は戻っていないが、下手したら植物人間のままかもしれないと告げられる。
ゴリの家は親父さんが二十歳くらいの時に病気で亡くなっていた。
母親も倒れ、残るはゴリと一回り大きな身体の兄貴ウッシーだけ。
不器用な二人は料理一つできない。
俺は金もそんな無かったが、小麦粉を溶いて冷蔵庫にある野菜などを勝手に使いチヂミを作った。
途中叔母さんのピーちゃんが台所へ降りてきて「また勝手に使いやがって、この泥棒野郎が!」と怒鳴られたが、どうでもよかった。
作ったチヂミを持って、ゴリの家まで持っていく。
「何も食ってないんだろ? 出来合いのものしか作れなかったけど、これ食え。兄貴の分もあるから」
俺がそう言って手渡すと、ゴリはお袋の症状を伝えてくる。
説明している途中、ゴリの目から涙が流れだした。
「あれ…、何だろ…。おかしいなあ」
懸命に涙を拭いながら、ゴリは話を続けた。
「俺にできる事があったら言え。腹減ったら言えよな」
家へ帰り、ミクシィで記事を更新する。
現時点での結論
二千十年五月三十一日。
もうちょっとで三沢さんが亡くなって一年になる。
鶴田師匠が亡くなって先日で十年の時が過ぎた。
この十年間で色々やってきたつもりだったけど、一つ今になって気付いた事がある。
俺は『小説』というものに甘えてきたのだ。
たまたま書き始めたものに対し、つまらないプライドを持つようになり、毎日のように様々な事を考えていたつもりだった。
だけどそれは単なる自己防衛と甘えに過ぎない事を痛感した。
もう一度、裏社会へ……。
そう思い、地元を離れ、歌舞伎町へ向かった。
吉原で用心棒の仕事。
胸の奥が高鳴っていたが、やってみて分かったのが、執筆する時間など何も取れないという事実だった。
そして昨日、仕事中に中学時代の友人から着信があった。
しかし仕事中なので、当然電話に出れない。
隙を見てメールでシンプルに『どうした?』と返す。
するとお袋さんが脳溢血で倒れ、運ばれたらしい。
とても心細かったのだろう。
だけど仕事中の俺は、電話で話をする事さえ許されなかった。
終わるのが夜中の二時近くだったので、朝になってから電話を掛けてみる。
今まで当たり前のように思ったいた事が、突然当たり前でなくなってしまったという現状。
俺は三沢さんが亡くなった時の一年前を思い出していた……。
鶴田師匠の時もそう。
人間、亡くなった、そして倒れてしまってからでは、もう何もかも遅いのだ。
格好つけるとか、プライドを持つとか、そういう事なんかじゃなくて、日々を必死に一生懸命生きる。
それこそが本来人間が生きる意味合いなんじゃないだろうか?
『鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~』を執筆しだし、己の過去を振り返り、日々葛藤していた。
もちろんこれからだって大いに葛藤しながら書くつもり。
でも、本当に大事なもの。
一生懸命生きる。
そんな初心を忘れ、言葉で自分を取り繕っていた。
そんな事を考えながら、チヂミを作って友人のところへ持っていくと、とても喜んでくれた。
俺たちは生きているのだから、共に苦楽を分かち合い、そして共に泣き、共に時を過ごす。
グダグダとつまらない事なんて考えず、毎日を必死に生きてみよう。
そして患者が求めてくれるのなら、また一から整体をやり直せばいいじゃないか。
執筆をしながら……。
リングへ復帰するしないとかじゃなく、身体もまた鍛え始めよう。
つまらない打算的なものなんかじゃなく、生きているのだから、そうやって頑張りたい。
無職のままじゃ駄目だ。
アルバイトでも派遣でも何でもいい。
とにかくまずは働こう。
金も何も無ければ、知人が困っていても何一つできる事など無い。
俺は求人雑誌からインターネットを使った求人募集から、色々調べた。
結果御徒町での仕事が決まる。
上野の隣か。
ゴリのお袋さんはどうなったのか?
何かあれば、あいつからすぐ連絡はあるはず。
俺は今、できる事をやらなければ。
過去働いた場所の従業員から、「岩上さんって凄いですね~」、「何者なんですか?」と散々言われてきた。
これはどこに行っても、ほとんど言われる台詞。
履歴書を見れば、自衛隊⇒ 探偵⇒ 広告代理業⇒ 全日本プロレス⇒ 浅草ビューホテル⇒ 歌舞伎町裏稼業全般⇒ 総合格闘技⇒ ピアノ発表会⇒ SFCG⇒ 岩上整体⇒ 賞受賞⇒ 総合格闘技DEEP⇒ 大日本印刷⇒ KDDI⇒ 現在。
何を指して口にしているのかは、個人個人違う……。
でも、それってしょせん昔やった事に過ぎない。
過去、舐めた口を利いてきた馬鹿に「俺は昔はな……」というフレーズぐらいで同じレベルに立とうとするなと散々言ってきたし、小説でも書いてきた。
すごいのは過去とかじゃなくて、今の俺自身が凄くなきゃ、何の意味も無えじゃねえか!
全日本時代、怪我をしてすべてを失ったつもりでいた。
だから居場所を探してバーテンダーを必死にやった。
でも、居場所なんかなくて、気付けば新宿歌舞伎町へ流れていた。
俺は、「全日本にいた奴ってこんなものなの?」と言われないよう、毎日が必死だった。
気付いたら上の立場になっていて、多額の金を稼げるようになっていた。
じゃあ、今の俺って何だよ?
小説はまだまだ書くさ。
書き足りない事が多過ぎるしね。
でもさ、友人が困っているのに、力なく指をくわえている自分なんて、もう真っ平ごめんだ。
もっと必死に生きよう。
もっともっと頑張ろう。
楽なんて誰だって、いつだってできるんだし。
もっと今の自分自身を凄くしようよ。
師匠が亡くなって十年経った。
ちょっとでも追いつけたのかよ?
全然じゃねえか。
DNAにちょっとは関わったんだろ?
じゃあ、これ以上あの人の名前を汚すなよ。
やるしかねえじゃねえか!
賞?
まだまだこれからだってチャレンジしていっぱい獲ってやるよ。
獲るように最善の努力をするよ。
じゃなきゃ、応援してくれる読者に申し訳ねえ。
何よりいじけている俺自身が嫌でしょうがない。
ギネス?
これからだってまだまだ向かわせてもらうよ。
俺、生きているんだし、健康だしね。
本当に記録を更新できたら、そしたらちょっと自慢させてもらうわ。
ありがとう、歌舞伎町……。
失っていた何かを思い出させてくれて……。
師匠、まだ遅くないっすよね?
三沢さん、あなたが亡くなってからのこの一年、本当にすみませんでした。
どんなになっても、俺はまだまだ生きますから。
偉大なる背中を見せてくれて、ありがとうございました。
俺、凄くなれるよう頑張ります。
上野アメ横。
俺がここへ来るのは久しぶり。
古くは浅草ビューホテルバーテンダー時代と、秋葉原で店をやった頃だから、もう四年ぐらい前だったかな?
まあ明日からここら辺りが、俺の戦場となる訳だ
過去裏稼業は引退したので、やっぱ健全に行かないと。
ゴリは兄貴とこれからお袋さんの掛かる医療費を話し合い、協力してやっていくと決めたようだ。
「岩上さ、これからは気軽に飲みに行こうなんて、言えなくなっちゃうかもしれないけどさ…、これからもよろしくな」
俺はアメ横でマグロを買って、ゴリの家へ持っていった。
二千十年六月六日の朝。
ゴリから連絡があり、お袋の容態が急変して峠だと連絡があったらしい。
泣きながら朝っぱらに電話をしてきた。
俺は医者でも何でもないから、何一つできない。
ゴリの話を聞いてやれるくらいしか……。
せめて神頼みしてみよう。
そしてこの心境を記事に書き、一人でも多くの人が祈ってくれるように。
もしこの世に神という存在が本当にあるのなら。
俺は宗教にはまるで興味がない。
でも、神というあやふやな存在を信仰する人間は多い。
何故なら人間はとても弱くて脆い生き物だから。
神という存在に救いを求め、時には救われ、時には裏切られ、人間は人生を終える。
しかし一つ分かった事がある。
神という存在があると仮定して、思った。
神は救いの手など貸してなんてくれない事を。
人間の命なんて誰も救っちゃくれないのだ。
どんなに強く願ったところで結局は自己の力ですべてを乗り切るしかない。
何かに直面して初めて人間は気付く生き物。
だけど無情にも時間だけは平等に容赦なく過ぎていく。
今一度考えてみよう。
何故この時代に産み落とされたのか?
神様は無情だ。
この記事を書いている途中に、ゴリからお袋さんが亡くなったと訃報が入る。
神は救いの手など差し伸べてくれやしない。
通夜、葬儀…、おばあちゃんの時で手順はある程度分かっている。
俺はゴリへ手伝える事は遠慮なく言うよう伝えた。
三十八歳で、あいつは両親がいなくなったのだ。
傍若無人だけど健全な親父と、子を捨てて出て行ったお袋もおそらく健全だろう。
俺とゴリ、どっちが不幸なのか?
親が亡くなって涙を流す当たり前の感情。
親父かお袋が亡くなった時、果たして俺は泣けるのだろうか?
一つだけ感じた事がある。
ゴリは兄貴とこれからの医療費に対し覚悟を決めてはいたが、頭を抱えていた。
あいつのお袋さん…、ひょっとしたら長い間意識が戻らない状態で医療費だけ掛かる現状ならと、自ら死を選んだのかな、息子たちの為に……。
何となくそんな気がした。
最後の最後で息子の事を想って、亡くなったんだ。
ゴリの兄貴であるウッシー。
彼の友達が葬儀関係は色々手伝ってくれるらしい。
俺は通夜、葬儀を出席するだけ。
人の命は儚いものだ。
「本当に岩上君は変わっているわねー」
そうゴリに俺の事を話していたゴリママは、もうこの世にいない。
今日から俺は御徒町へ。
パソコンの打ち込み業務と言っていたが、変な会社じゃなければいいが。
御徒町駅から徒歩五分程度のところに会社はある。
階段で二階へ。
入口だけはその辺の一部上場企業と変わりはない。
四人掛けの長テーブルが並べられ、パイプ椅子が人数分ある。
各席にはパソコンが設置され、おそらくここが仕事場になるのだろう。
「あー、岩上さんね。あそこの二号室入って」
「はい」
「席はどこでもいいから。あとは中で班長の指示に従って」
まだ二十代半ばくらいの目の細い茶髪の男が、ぶっきらぼうに指図をしてきた。
仕方ない。
彼はこの職場で何らかの成果を出した幹部であり、俺は入ってきたばかりの新人だから。
中へ入ると恐ろしく寒いほど空調が効いている。
「あ、岩上ね? そこ座って」
どう見ても大学生風のまだ二十歳そこそこの男が、タバコをくわえたまま指図してきた。
「ここでいいんですか?」
「早く座れって言ってんだろ!」
何だ、このクソガキが……。
神経がざわめく。
落ち着けって…、今日からここで金を稼ぎに来たんだろ。
黙って座ると、その男は横に来てパソコンの画面を指差しながら偉そうな態度で説明してきた。
「この中の誰でもいいよ。ここに表示されてるのは、メール待ってる連中だから。どこでもいいからクリックして」
「えーと…、誰を……」
「何でもいいって言ってんだろ! 早く押せよ」
さっきからこのガキ、何をキレて威張っているのだ?
黙ったまま適当にクリックを押す。
『さっきから駅の前で待っているのに、あなたの姿が見当たりません。赤い帽子を被って、ヴィトンのバックをもってかいるんですよね?』
何だ、こりゃ?
「はい、このオヤジに返事して。この届いているメールの前後よく見て、やり取りがおかしくならないように。はい、どんどんやって」
それだけ説明すると、クソガキは自分の席へ戻る。
前後のメールのやり取り?
『茜二十三歳、看護婦
渋谷駅で改札出たところ。真っ赤でお洒落で可愛い帽子被って、ヴィトンのバック肩から掛けてるよん』
え、これって出会い系サイトのさくら?
確かに打ち込みだけど、これってただの詐欺だろ……。
ドカッ!
後ろでテーブルを蹴る音が聞こえた。
「おい、岩上! 何ボーっとしてんだよ? 早く打てよ」
黒髪真ん中分けのただのクソガキが、目を剥いて一生懸命威嚇している。
郷に入っては郷に従え。
今のところは我慢して、詐欺とはいえ業務に集中するか。
俺も随分丸くなったものだ……。
とりあえずここで働けば、日払いで一日四千円はもらえる。
今まで執筆をしているという逃げ道だけで、働かなかった俺が悪いのだ。
ゴリママの通夜、葬儀と二日休んで出席する。
あいつも母親が亡くなった現実を受け入れられたのか、随分さっぱりしていた。
「二日間も来てくれてありがとな、岩上」
「少しは気持ち落ち着いたのか?」
「まあ、亡くなってから、そこそこ時間経ったしね」
「今日ロールキャベツ作るから、ゴリと兄貴の分、あとで家へ持っていくよ」
「何だかいつもわりーな」
「ほら、葬儀始まるぞ。親族の席へ行かないと」
「ん、ああ…。あ、岩上さ……」
「どうした?」
「則代と別れちまったよ」
「そっか、ノリマンとか……」
「オメー、ノリマンとか言ってんじゃねえよ!」
俺はゴリの胸をドンと叩く。
「少しは元気出てきたじゃねえかよ。その意気で頑張れよ。ほら、そろそろ自分の席戻りなよ」
「ああ」
一般席に座り、順番が来てご焼香を済ます。
親族席にいるゴリたちは、その度会釈をする。
そういえば親族だけあって、みんな顔付きがにているよな。
『ゴリ家の人々』……。
俺は勝手に変なタイトルを思いつき、葬儀中吹き出しそうになった。
「ブ…、ゴホッ…、ゴホッ……」
慌てて咳払いをしながら、席を立つ。
トイレへ駆け込んでから、声を殺して笑った。
人間的に大間違いで不謹慎極まりない行為だが、神妙にし過ぎていて、却ってそれが変なツボに入ってしまったのだ。
家に帰り、ロールキャベツを作り始めた。
豚挽き肉と玉ねぎを微塵切りして、調味料と合わせ捏ねる。
『ゴリ家の人々』……。
あの状況を思い出して一人で吹き出しながら、肉を捏ねた。
ロールキャベツは、ハンバーグを作るような感じでキャベツに包めばいい。
煮込むのをトマトソースにするか、デミグラスソースか、もしくはコンソメにするかの違いくらい。
今回はコンソメスープを選ぶ。
一度キャベツの葉を湯通しして柔らかくすると、包み込むのが簡単になる。
数時間掛けて煮込み、ゴリと兄貴ウッシーの分をタッパへ入れて持って行く。
ゴリ家まで車で届けると、彼はしきりに「わりーな」と何度も頭を下げた。
「何でノリマンと別れたのさ?」
「いやー、あいつさ。幼稚園で働いているけど、虐めに遭っているらしいんだよ。それで俺にイマイチ心を開かない部分あってさ。それで今回お袋の件だろ?」
「まあおまえにも余裕が無かったし、しょうがないよな」
「そういえば岩上、葬儀の途中で吹き出しそうになっていただろ?」
「あ、バレた?」
「人のお袋の葬儀でよ」
「だっておまえの親族見ていたら、みんな似ていてさ、思わず頭の中に『ゴリ家の人々』ってキーワードが浮かんできちゃってさ」
俺が話しながら吹き出すと、ゴリも文句を言いながら我慢出来なくなり吹き出した。
「まあ兄貴の分もあるから、あとで食いなよ」
「おう、ありがとな、岩上」
あとでゴリから電話があって知ったのが、兄貴のウッシーは最低な野郎だという事が分かった。
「岩上が兄貴の分もせっかく作ってくれたから、ロールキャベツ食べなよ」
ウッシーはちゃんと食べながらも「何だよ、形が崩れているじゃねえか」と不満を漏らしていたと言う。
料理作って、タッパに詰めて、それから車で運んだのだ。
急いでいたし、形が崩れるくらいあるだろう。
善意を感謝でなく、クソみたいな感想で返す奴は屑だ。
まあ、ゴリも落ち着いたようだし、これからも長い付き合いになるだろう。
二千十年六月十三日。
プロレスラーの三沢光晴さんが亡くなって早一年が経つ。
当時俺はKDDIで働きながら、居ても立ってもいられずにトレーニングを開始した。
それから出会った柔術。
石動龍や岡本大を始め、道場へ通うみんないい人間だった。
肉離れを起こし右腕の靭帯まで痛め掛けた俺は、格闘家としての道よりも、小説家を苦渋の選択をした。
結果小説の執筆へのめり込み、三度目の一週間無断欠勤をしてしまった俺は、会社を辞めた。
そこからの休業補償生活。
思う存分執筆活動に費やせた。
それも今は去ってしまったしほさんのおかげだろう。
あの人の的確なアドバイスがあって初めて俺は作家としての幅が広がったのだ。
それが今は何だ?
出会い系サイトの詐欺行為のサクラ……。
本当に情けない。
もう少し先を見て動かないから、こうなる。
執筆にのめり込むあまり、休業補償が終わってからも小説を書いていた。
極限まで金が無くなった俺。
そもそも仕事先を選ぶよりも先に、日払いが出るという条件を選んだのが大間違いだ。
どこまで落ちて、どこまであの頃の全日本プロレスを汚せば気が済むのだろう……。
ドン底まで落ちた。
希望の光はまるで見えない。
今の俺はとりあえず日銭を稼ぐだけで精一杯だった。
出会い系詐欺サイトのさくら。
実際にやってみると、これはこれでとても面白い。
かなり不謹慎ではあるが、よくこんなものに、数万の金を入金し続けるものである。
基本的にサイト内のメッセージボックスから、ポイントを使って相手にメッセージを送るシステム。
客側は金を払ってポイントを得る。
一回分のメッセージ送信に、五百円分のポイントが掛かる。
当然客側からしたら、相手の携帯電話のメールアドレスを知りたい。
だから電話番号や情報を聞く形になる。
そこにまず会社が設定した禁止ワードという括りがあった。
その禁止ワードとは、『電話番号』『各数字』『DOCOMO』『ドコモ』『どこも』『au』『エーユー』など数限りないほどの制限。
細かく誰も見ないような場所に、利用規約として細かく書かれてはいる。
『茜さんへ。もし良かったら、こんなサイトを通じてでなく、君の連絡先を知りたい。携帯電話はDOCOMOかな? 僕の電話番号を教えておくね。〇〇の〇〇〇〇……』
例えば客側がこんなメッセージを送ったら、ポイント消費が半端じゃなくなる。
詳細までは分からないが、禁止ワード分掛ける五百ポイント辺り引かれてそうなので、一回のメッセージで酷いと一万円分のポイントが消費される事もあった。
相手が電話番号を教えてきても、運営側からはちゃんと閲覧できている。
ただサクラのフリをするようなので「何て書いてあるのですか?」などの見えない体で質問をして、さらに向こうからメッセージを送らせた。
これ…、ひょっとして、小説のネタ的には非常に面白いのではないだろうか?
男でも女でも詐欺なのに、架空の人物相手に金を消費して必死になる。
この状態になるには、もちろん待ち合わせて会う前提まで会話を進めながら行かねばならない。
男も女も目先の性欲には目が眩んでしまうのだ。
御徒町のクソみたいな職場。
唯一の楽しみは、徒歩で行ける上野アメ横のみだった。
日銭の四千円を使い、マグロや鰻などを交渉して値切って買う。
岩上整体時代世話になった森田昇次郎のお袋さんへお土産としてプレゼントしたり、滝川兼一の加賀屋のお袋さんにもあげた。
大きなマグロのサクが千円くらいで買えるのだ。
親父の理不尽により家業をクビにされた伊藤久子にも、持って行く。
当然貰った人間は大喜びしてくれた。
親父の姉である三進産業の京子伯母さんが家に来た時「智一郎、おまえはいつになったら金を返すんだよ」と怒られる。
そういえば以前望との通話料金で、携帯電話が払えなくなった際、俺は京子伯母さんから五万を借りたままだった。
非礼を詫び、たまたま残っていたマグロのサクをあげる。
そうだ、俺はアメ横などに寄って、みんなへお土産を買うような身分ではないのだ。
出会い系のサクラ詐欺サイトは時間給千円しかもらえず、八時間しか働けないので、一日八千円。
日銭で半分の四千円をもらっているので、給料もたかが知れている。
しかも電車賃すら出ないので、働いていても極度な金欠状態だった。
一ヶ月ほど行っていたが、そろそろ別の仕事を始めたほうがいいだろうか?
こんな金にならない仕事を続けたところで意味がない。
しかも詐欺なのだ。
そう決めたら、あの班長とかの立場で威張り粋がっているあのクソガキ。
今度は俺も本性を出してやるか。
いや…、最低限給料をもらってからにしよう。
以前しほさんから言われた出版社への原稿持ち込み。
ここに来て俺はようやく重かった腰を上げた。
選んだ会社は、雑誌『アクション』などで有名な双葉社。
『クレヨンしんちゃん』などメガヒット作品もある。
電話を掛けて自身の経歴を伝え、持ち込みの意思を言う。
六月二十七日、三時に飯田橋駅の会社まで行って打ち合わせが決まった。
この雑誌なら過激な表現もできる会社なので、面白くなりそうだ。
まずは誠心誠意頑張って自分を、そして作品を理解してもらうよう努めよう。
幼い頃から通っていた喫茶ジミードナッツ。
学生になってアルバイトを始めた頃は、ほぼ毎日のように通った。
全日本プロレス時代も、時間があれば足を運び、ミートソースをたらふく胃袋へ入れた。
その店にあった唯一の雑誌アクション。
当時は『軍鶏』書いた作者の作品『クラッシュ正宗』など連載されていたが、この雑誌と関わりができるようになるなんて……。
マイミクのロクスさんに以前、受賞歴を活かし、営業を掛けてみてはとアドバイスされていたが、ようやくここに来て重い腰をあげたわけである。
一発で打ち合わせの日時は決まり、この状況へ。
まだまだ先は長いだろうけど、頑張って動いていきたい。
大学生くらいのクソガキに怒鳴られながら、出会い系サクラ詐欺サイトへ行く日々。
アクションの双葉社との持ち込み。
これがあるから、しばらくは大人しく仕事をして日銭を稼ぐ。
サクラを演じ、相手の性欲を駆り立てる仕事。
みんながそのようなメッセージを送るので、俺は作家として普通のやり取りで客を引っ張れないか実験してみた。
卑弥呼…、設定は十九歳か。
これでいってみるか。
『卑弥呼、十九歳学生
田中さん、お返事もらって嬉しく思います。プロフィールに書いてある通り、ギリギリ未成年の学生をしています』
『田中、四十四歳
君は今、彼氏とかはいないの?』
『卑弥呼、十九歳学生
たまに食事へ誘ってくる同級生がいるくらいで、基本的には女の子同士でお茶する事が多いですね。田中さんは彼女さん、いらっしゃらないのですか?』
『田中、四十四歳
仕事が忙しくてね、色々と。君は何でこのサイトへ登録しているんだい?』
『卑弥呼、十九歳学生
私、大学では結構真面目で通っているんですよ。でもそれをみんなの知らないところで壊してみたい衝動がありまして…。それで勇気を振り絞って、ここに登録してみました』
『田中、四十四歳
卑弥呼さん、君は実際に会える子? あとプロフィールの写真、モザイク掛かっているから、よく分からない。綺麗な子だとは思うけどね。芸能人で言うと誰に似てるの?』
『卑弥呼、十九歳学生
うーん、結構私、芸能音痴なんですよね。ただ友達の彼氏からは、角度的に常盤貴子に似てるとは言われていますね』
『田中、四十四歳
常盤貴子? じゃあ卑弥呼さん凄い綺麗でしょ? こんなオヤジじゃ高嶺の花だなあ』
『卑弥呼、十九歳学生
あくまでも角度によってらしいですよ? 過度な期待はしないで下さいね。実際に会うってなった時にプレッシャーになりますから』
『田中、四十四歳
え、こんなおじさんを相手してくれるの? ねえ、とりあえず連絡先を交換しない?』
『卑弥呼、十九歳学生
うーん、さすがにそれはちょっとまだ怖いです。恥ずかしくて友達には言えないんですけど、私、うんと年上の人のほうが好きみたいで…。田中さんは、私がここへ登録して初めてやり取りした人なんですね。だからもうちょっとお互いの事を知りたいなあとか思っています』
『田中、四十四歳
え、俺もひょっとして少しは芽があるって事なのかな? 本当に? 期待しちゃうよ?』
こんなくだらない会話に、よく一回で五百円も使えるよな……。
世の中にはこういう馬鹿もたくさんいる。
ただ多分普通の人よりも、純粋なだけなのだ。
だからこんな詐欺に簡単に引っ掛かってしまう。
騙される人間が悪いのではなく、騙す側がいけないだけ。
こんなところで金をもらう俺はクソ以下だ。
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