岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

10 新宿フォルテッシモ

2019年07月19日 12時19分00秒 | 新宿フォルテッシモ

 

 

9 新宿フォルテッシモ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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 店を出て浅田さんへ電話を入れる。オーナーと一番街通りにある喫茶店『上高地』にいると言うので、俺は急いで向かう。
 吉田との数々の因縁。ようやくこれで終わるのだ……。
 そう思うと感慨深いものがある。
 『上高地』の自動ドアを開けると奥にオーナーたちの姿が見えた。俺は一礼して、席へ近づく。
「神威君、『ワールド』の復興見事だ。ありがとう」
 オーナーからお礼の言葉を聞けるなんて珍しいものだ。考えてみれば当たり前の話である。どこの誰だか分からない奴の口車に乗って、『ワールド』に新システムと謳ってメチャメチャにされたのである。しかも俺たち従業員の給料まで下げやがって……。
「いえ、とんでもないです」
 怒りをグッとこらえ、冷静に言った。
「まあ、座りなさい」
 ゆっくり腰掛けると俺は、アイスコーヒーを注文する。
「お腹は減ってないか?」
「いえ、それよりもお話とは?」
 焦点をぼかされては、これまでの動きが台無しになる。正直腹はペコペコだった。でも吉田の件をハッキリさせなきゃ駄目だ。

「吉田君の件なんだが……」
「ええ」
「浅田君から話は聞いた。何でもっと早く、私に言ってくれなかったんだ?」
 このお調子者が…。あれだけ吉田に媚を売られ、それを喜んでいた人間が急にこれか。呆れて何も言えない。
「言ったところで、ちゃんと話を聞いてくれましたでしょうか?」
「ちゃ、ちゃんと聞くに決まっているだろ」
「以前の話ですが、オーナーの奥さんの見舞いの件。あれだって俺たち遅番も同じ金額を出しているんですよ? それが何ですか? あの時、オーナーは『吉田君を見習え』。そう言いました」
「……」
 オーナーは困った表情で返事を返せなかった。こんな事を言い、オーナーを責めたところでどうにもならない。俺はこの人に雇われているのだから…。それでもハッキリ言っておきたかったのだ。
「まあ神威君、それよりも吉田君の事でしょ?」
 浅田さんが間に入る。ナイスフォローだった。
「気を悪くされたら申し訳なかったです。これまで二年間頑張ってきた人間が二人同時に辞めてしまう。これって異常な事だと思いませんか?」
「うむ……」
「別に彼の弟と妹が結婚しようが何だろうが、他人の家の事です。干渉はしません。でもそれを理由に従業員たちから三万円ずつ強引に徴収。倉下に至っては仕事帰り、ドンペリを買って来いと呼び出され、飲み代は割り勘、挙句の果てにドンペリ代はもらえず。店が歩合制になり給料を減らされた翌日から膝に水が溜まったと急に入院。一ヶ月ぐらい店を休み、歩合金が出た頃を見計らって出てきて自分が歩合金を多く獲ってしまう。自分が遅刻した時は何もないくせに、他の従業員が遅刻すると十分につき千円も罰金を取り、それを自分の懐に入れてしまう。他にも色々ありますが、こんな奴のどこが責任者なんですか? ゴマすりだけうまく、仕事は何もしないどころか邪魔になるだけ。こんな男、『ワールド』にとっていりますか? 答えて下さい、オーナー!」
「う、うむ……」
「確かに俺は可愛げもなく生意気かもしれません。でも、雇われているという感謝は常に持っているつもりです。だからこそ店を盛り上げ、必死に頑張ってきました。数字だって出してきたつもりです。それを評価されず給料まで下げられ、吉田が可愛いと言うなら、俺以下の従業員すべて…、『ワールド』を辞めさせていただきます……。オーナー…、吉田の豚野郎一人を取りますか? 俺と吉田以外の従業員を取りますか? 失礼な事を捲くし立てすみません。でも今、ここで決めて下さい……」
「分かった…。吉田は今日をもってクビにする……」
「分かりました。俺は以後も店を発展させられるよう努力を怠らず、従業員をまとめあげ頑張ります。ありがとうございました。それでですね、オーナー自身の口から吉田へクビだと伝えてほしいんです。よろしいでしょうか?」
 隣で浅田さんは黙ったまま、俺の話を聞いていた。
「わ、分かった。朝十時に吉田は店に来る。そこで私が言えばいいんだな?」
「ええ……」
「話はもう終わりだ。店に戻っていい……」
「本日はこちらまでご足労いただき、ありがとうございました」
 俺はそう言うと席を立ち上がり、『上高地』をあとにする。
 一番街通りへ出ると、辺りを見て、誰も知り合いがいないのを確認した。あの吉田がやっといなくなる……。
 自然と笑いが出てきた。これまで受けた屈辱をすべてまとめて返す事ができる。
(ザマーミロ、豚野郎……)
 俺は歩きながらガッツポーズをした。
『ワールド』に戻り、まず島根へ吉田のクビが決定した事を伝える。
「あの豚野郎もこれで最後ですか。いや~、スッとしましたね~」
 俺よりも吉田と付き合いの長い島根は腕を組みながら首を左右にゆっくり振り、目を閉じていた。彼も豚によって様々な屈辱を受けてきたのだ。感慨深いものがあるだろう。
 ヘルプで来てくれた従業員、中村と黒石には店の金で三千円ずつ渡し、それぞれの店へ戻ってもらう。
「吉田さんもとうとう年貢の納め時ですか。ザマーないですね」
 そう言いながら中村は店を出て行った。
「神威さん、本当にお疲れさまでした」
 島根が深々と頭を下げる。
「何言ってんだよ。これから店がもっと忙しくなるんだぞ? 本当に気合い入れるのはこれからだって」
「そうですね~」
 この日、俺と島根は二度目の握手をした。

 朝の九時。通常の時間より一時間も早く、倉下が店に出勤してきた。昨夜言いたい事を浅田さんに伝えられ、よく眠れたのだろう。顔はスッキリしていた。
「おはよう。早いな、倉下」
「おはようございます。あれからどうなったのか、気になって気になって……」
「安心しろ。今日…、あと一時間で吉田はクビだ」
「え、ほんとっすか?」
「ああ、本当だ。あれからオーナーや浅田さんと話し、吉田のクビを決定させた」
「ありがとうございます、神威さん」
「馬鹿言え。おまえと大山が、俺の呼び掛けに協力してくれたからだよ」
「俺、辞めるって言いましたけど、またここで働いてもいいんですか?」
「当たり前だろうが。おまえらには辞めてもらっちゃ困るんだよ。これからも頼むぜ」
 さすがにこの時間になると、熱中していた客もパラパラと帰り始める。金が尽きて帰る者。このまま徹夜で仕事へ向かう者。理由は様々だ。
「どうもすみません、お疲れっす」
 帰る客に頭を下げながらいると、一人の客が「店長、この店もいい感じになってきましたね。これからも顔を出させてもらいますよ」と笑顔で帰っていく。
 九時五十分。店の電話が鳴る。出ると吉田からだった。
「すみませ~ん。今起きたんで少し遅刻しちゃいます」
「そうですか。大丈夫ですよ。俺が残ってますから。ゆっくり出勤して来て下さい」
 俺は笑いを堪えながら言ってやった。店に来たところでクビ確定の男が……。
 電話を切ると、入口のチャイムが鳴りモニターを見る。オーナーが階段を降りてくる様子が映し出されていた。
「おはようございます、オーナー」
「おはよう。吉田君は?」
「今電話あって寝坊で遅刻だそうです」
「そ、そうか……」
 苦虫を潰したようなオーナーの顔。俺は吹き出しそうになる。
「奥で休んでいて下さい。コーヒーでも淹れますよ」
「ああ、ありがとう」
 十時半を回った頃、ボサボサ頭の吉田が出勤してきた。
「神威さ~ん、遅れちゃってすみませんね。あれ? オーナーじゃないですか。どうしたんです?」
 店にオーナーがいた事に対し、吉田はかなりビックリした様子だった。
「ちょっと君に話があってね……」
「はい、何ですか?」
「ちょっと上にいいかな?」
「分かりました。神威さん、すみませんね。ちょっと上でオーナーと話してきます」
「ええ、分かりました」
 妙に勝ち誇った顔の豚は、おまえと俺は違うんだと言いたいような態度でオーナーのあとへついていく。自分のゴマすりに自信があるのだろう。
 これから自分の運命がどうなるかも分からない滑稽な吉田。リストでは倉下が真っ赤な顔をして笑いをこらえていた。
 俺は休憩室でタバコを吸い、朗報を待つ事にする。吉田の奴、何て俺に言ってくるのだろうか?
 十分ほど経ち、吉田が真っ青な顔で店に入ってくる。俺のそばまで来ると「いや~神威さん。参っちゃいましたよ。うちら給料下げられたじゃないですか。その事でオーナーに交渉し出したら怒っちゃって……」と嘘八百を言い出す。
「ええ、それで?」
 クールに対応しておく事にした。
「そしたらおまえなんかクビだっていきなり言われちゃって……」
 あまりにもすっ呆けている吉田の嘘の言い訳聞いていると、ムカムカしてくる。どうせこれで最後なんだ。本音を言ってやろう。
「あのさ…、どうでもいいけどよ? 店に関係ねえ人間がいつまでもここにいるんじゃねえよ、ボケ! 早く荷物まとめて出て行けよ」
「……」
「早く俺の目の前から消えろ」
「……」
 吉田は目に涙を浮かべながら俺を睨みつけていたが、どうする事もできない。無言のまま荷物をまとめると、そのまま『ワールド』を出て行った。
 最後の最後まで非常に見苦しい男である。長年に渡るストレスが、これで一気に浄化されたようだった。
 俺の言う通りに動かされたオーナーは、よほど悔しかったのだろう。店に戻ってくる事はなかった。
 つい嬉しくて俺は、店の残っていた客全員と従業員に、特上寿司の出前を注文して振る舞った。いきなり朝からそんなものを奢られた客たちは不思議そうにしていたが、「私事で勝手ですが、本当に嬉しい事がありましたので、みなさまに喜びを分かち合いたいなあと思いまして」と笑顔で伝える。客はポカーンとしながらも、タダで寿司が食えるとガツガツ食べ始めた。
 ゲーム屋で客に寿司を振る舞ったのは、世界でも俺一人だけなんじゃないだろうか。こんなどうでもいい事、自慢にも何もならないが……。

 吉田がクビになった記念日。
 みんなが一致団結してくれたからこそ、できた事である。その喜びと感謝の気持ちで、夜の従業員たちには焼肉の特上弁当を注文し、ご馳走してやった。
 散々嫌がらせを受けてきた従業員たちは、吉田のクビを祝い喜び、新人たちは何故早番の責任者がクビになったからって、焼肉を奢られるのだろうと不思議そうな顔をしていた。
 今日も客入りはいい。いつまでこの状態が維持できるかなんて、まったく俺には分からない。できればこのまま続くといいな……。
 浅田さんから連絡があり、俺の『デズラ』を一万五千円まで上げると報告があった。本来の『デズラ』なら一万八千円だが、抜きをしていたという罪悪感もあり、ここは文句も言わず礼を言っておく事にした。オーナーも嫌々ながら俺の給料を上げないと、示しがつかなかったのだろう。
 代わりに島根の『デズラ』交渉をしてみた。この店の功労者は俺だけでない。島根という頼もしい右腕がいてこそなのである。
 交渉の甲斐があり、島根の『デズラ』は一万三千円と本来の形に戻す事ができた。あとは頃合いを見て、倉下と大山の事も上げるよう交渉しておこう。特に倉下は吉田がクビになった今、責任者として頑張ってもらわなければならない。
 新人だった湯上谷と安沢も、ある程度育ってきている。
 いい雰囲気だ。吉田一人いないだけで『ワールド』はここまで変わる。『デズラ』を一万千円まで下げられた時は、本当に辞めようかなとも思った。屈辱感を覚えながらも、何とか堪えてきたのだ。下がる時もあれば、こうして上がる時もある。それが人生であり、生きるって事なのかもしれない。
 精神が揺さぶられる事が、ひっきりなしにここまで続いてきたような気がする。しかしそれもこの辺で落ち着くだろう。いや、本当に落ち着いてほしいものだ。
 従業員を育てつつ、今の忙しさを維持させる。
 そしていい給料をもらって生活する。
 プロレスが駄目になり、ずっと居場所を探していた俺。やっとここが自分の居場所なんだと今、そう確信できた。
 そう思うと幸せな気持でいっぱいだった。
 常連客の小倉さんは、新しい過激な『ダイナミック』が気に入ったのか、連日うちの店へ来てポーカーに熱中している。以前の客も、新たな客もみんながこの新『ダイナミック』に興奮しハマっていく。
 ホテルを辞めて、喫茶店だと勘違いしてこの業界へ入った俺。今じゃ、その事を回りに話すと冗談話にしかとられない。始めポーカーゲームを見た時、正直ここまで俺は落ちたのかと自分を恥じるが強かった。でも違う。俺はこの眠らない街である歌舞伎町で様々な経験を積み、成長させてもらっているのだ。
 サラリーマンのように安定など裏稼業にはない。しかしその分、チャンスは大いにある稼業でもある。
 この街が大好きだった。自分にとって水を得た魚のようになれる街でもあった。

 ここ一ヶ月ほど、俺の休みはまったく取れていない。二番手の島根にしてもそうだ。早く湯上谷と安沢を成長させて、安心して店を休める状態にしなければならない。それは早番の倉下や大山にしてもそうだろう。
 この日はさすがに疲れていたのか、いつも起きる時間に起きられなかった。時計を見ると夜九時を過ぎている。俺の住む川越から新宿まで電車で一時間は掛かるので、これじゃ遅刻だ。
『ワールド』へ電話を入れ、大山に遅刻する事を伝え詫びる。吉田の遅刻をいつも責めていたが、一度でも俺が遅刻していたのでは示しがつかない。
「そんな謝らないで下さいよ。神威さんだって疲れているんですって。たまにはゆっくり出勤して下さい。自分が残りますから大丈夫ですよ」
 大山は笑いながらそう言ってくれた。随分と頼もしくなったものだ。吉田のいた頃の大山は、いつもビクビク何かに怯えていたイメージがある。
「悪いな。出来る限り早めに向かうから」
 俺は本川越駅まで走り、九時半の特急小江戸号へ乗り込む。これなら四十五分ぐらいで新宿へ到着する。それでも十五分ほど遅刻はしてしまうが……。
 指定席へ座り、窓の外の景色をボーっとしながら眺めていた。すると俺の携帯電話にメールが届く。安沢からだった。
《すみません。俺、彼女殺したかもしれません。 安沢》
「はぁ……?」
 何かの見間違いかもしれない。俺はじっくり文面を何度も読んでみた。
《すみません。俺、彼女殺したかもしれません》
 いくら見てもメールの内容は一緒だった。特急小江戸号は、車両と車両の間にちょっとした空間があり、そこでなら電話で話す事もできる。俺は座席を立ちあがり、安沢へ電話を掛けた。
 コール音が何度鳴っても、安沢は出てくれない。一体何があったというんだ?
 毎日彼の携帯へ電話を数十回鳴らしていた彼女の『きょうこ』。実際に会った事はないが、それだけで彼女の異常性というものが分かるぐらいだった。彼女と何かあったのか?
 俺はしつこく安沢の携帯を鳴らしてみる。しかし一向に出る気配がない。
 あの馬鹿野郎……。
 殺したかもしれませんだけじゃ、何がどうなのかまったく分からねえじゃねえか。
 この電車を運転する車掌を脅して一刻でも早く新宿へ到着したかった。そんな事はさすがに無理だが……。
 安沢からのメールで、俺はずっと落ち着かない。何度電話しても通じず、メールを打ってみる事にした。
《安沢、一体何があったんだよ? 彼女を殺したって、どういう事? 何で電話しても出ないんだ? 頼むから連絡ほしい。待っているからな。 神威》
 メールの内容を確認してから送信してみる。
 あの大人しそうな安沢に一体何が……。
 普段大人しい奴ほど切れると見境なくなると聞いた事があるが、頼むから早まった真似をするなよな。俺は祈るしか方法がなかった。
 途中数回座席を立ち、彼に電話を掛けてみる。
 しかし西武新宿駅へ到着しても、安沢からの連絡は一切何もなかった。

『ワールド』へ着くと、大山に「安沢は来ているか?」と真っ先に聞く。
「いえ、連絡も何もないですよ。彼がどうかしたんですか? 十時出勤の予定ですが、まだ来ていないんです」
「……」
 ひょっとして本当にメールに書いてあった通り、彼女と喧嘩をして殺してしまったというのだろうか?
 大山に安沢からのメールを見せてみる。小心者の大山は、「これ、かなりヤバくないですか?」と顔をしかめるだけだった。
 こんな状態なのに皮肉にも店は忙しい。
「大山、悪いんだけどさ。今日は俺、朝の十二時まで仕事するから、十二時に島根が来るまで手伝ってくれるか?」
「いいですよ」
「悪いな。とりあえず奥で一服しておいでよ」
 俺は客のINをしながら隙を見て、メールを打った。
《安沢、彼女はどうなったんだ? それだけでも教えろ! 神威》
 彼女の安否だけが気になる。実は安沢のメールの内容自体が休む為の嘘で、何かの事情で仕事に来られないだけならいいのが……。
 少ししてメールが届く。安沢からだった。俺は恐る恐る携帯を開く。
《彼女はとりあえず大丈夫でした。心配掛けてすみません。 安沢》
 フーっと大きく息を吹き出した。大事件に発展するような事にならなくて本当にホッとしている自分がいる。
 その人騒がせな騒動から三日経っても、安沢は姿を見せる事はなかった。仕方ない。俺は連絡なしで休む安沢を見限り、新しく新人を入れる事に決めた。

 安沢騒動から一週間経った。夜、普通に出勤すると、安沢はゲッソリ痩せた状態で『ワールド』に現れた。ロクに食事も取っていないような感じに見える。
「今までおまえ、何をしてたんだ?」
「すみません、神威さん……」
 謝るだけの安沢。一体この一週間の間、何があったというのだ?
「あんなメール送っといて何も返事なくてさ。何があったの?」
「いえ、あの時彼女とちょっとした事で口論になり、そろそろ仕事の時間だから行こうとしたんです。でも彼女が自分にまとわりつくように喚きながらしつこかったので、髪の毛をつかんでどかしたんです。そしたらすごい勢い床に後頭部を打ってしまい、両手で頭を抱えながら大きな声で泣き叫びだしたんです」
 あの『きょうこ』という彼女の異常性は、電話の鳴らし方一つで何となく理解できた。
「で?」
「まずいと思って、気づいたら彼女の首を両手で絞めてまして……」
「それであの時にあのメールを打った訳だ?」
 まずいと感じながら彼女の首を絞める安沢の心境など、俺にはまるで分からない。
「はい……。そのあとで意識が戻ってよかったですけど……。今までご心配掛けてすみませんでした。これから遅れを取り戻せるようにガンガン頑張りますので」
 考えが非常に甘い。安沢は大きな思い違いをしている。
「いや、悪いけどさ…。おまえ、一週間も何も連絡なしで店を休んでいたんだよ? もう代わりの新人を入れたよ」
「お願いです。自分、ここで働きたいです!」
「あのさ、おまえ中心にこの店は回っている訳じゃないんだ。どんな状況だって店は回っている。三日間、俺はおまえを信じて待った。でもおまえは連絡一つしてこなかった。それがすべてなんだよ」
 言い辛かったが、ハッキリ言っておく事にした。すると安沢は首をうな垂れたまま、『ワールド』をあとにする。
 少し可哀相だったかな……。
 ちょっと前まで仲良く冗談を言い合いながら仕事をしていた仲なのに、何でこうなってしまうのだろう。
 俺はあとを追い駆け彼を捕まえると、「おい、安沢。俺は少なくてもおまえを買っていたんだからな。もう別の人間入れたから一緒に働く事は無理だ。でもこれで飯でも食ってけ」と手に一万円札を握らせた。
「神威さん、ありがとうございます。ありがとうございます……」
 安沢は俺が店に戻るまで、何度も頭を下げていた。心がとても苦しかった。

 ある日系列店『バースデー』の責任者の鈴木から連絡があった。何でも以前うちへヘルプにきた黒石が、どうしても俺と話したいと言う。
 俺は仕事帰り、『バースデー』に寄る事にした。
「話って何だ、黒石?」
「いや、あの、鈴木さんから聞いたんですけど、神威さんって昔、大和プロレスにいたんですか?」
「いたと言っても、もう随分前の話だけどな」
「自分、プロレス大好きなんです!」
 黒石は妙に興奮している。鈴木は会話を聞きながらニヤニヤしていた。
「そうなんだ。で、話って?」
「いや…、あのですね……。『アキレス腱固め』って痛いんですか?』
「当たり前じゃねえか。何なら形だけ、ちょっと掛けてやろうか?」
「え、本当ですか!」
「ちょっとそこに横になれよ」
 俺は黒石の短い右足のふくらはぎに左腕を回し、脇の下へ足首がくるぐらいの位置で固定する。その状態から右手をガッチリ組み、軽く上に向かって力を入れた。
「ギャア~!」
 俺は黒石の痛がる様子を見て、思わず吹き出した。まるでパンパンに太った金魚が陸の上でひれをバタバタさせているように見えたのだ。豆タンクのような丸い胴体についた四本の短い手足。本人は痛くて必死なだけなのだが、それをジタバタと動かす様子は非常に滑稽だった。
 それからというもの、俺は仕事帰り毎日のように『バースデー』へ寄り、黒石に何かしらの技を掛ける事に決めた。
「今日は膝固めをしてやる」
「今日はコブラツイストを掛けてやる」
「今日は膝十字を掛けてやるぞ」
「今日はヒールロックだ」
 これだけ技を掛けられ痛がるのが、様になる奴というのも珍しい。俺は非常に楽しんでいた。プロレスが大好きだという黒石も、掛けられて喜んでいるのだろう。
 ある日、浅田さんから仕事中呼び出され喫茶店へ向かうと、黒石の件でプロレス技をわざわざ掛けに行かないよう注意された。
「だってあいつが技を掛けて下さいって言うから、やっただけですよ?」
「神威君、黒石君は体がボロボロですって泣きそうな顔してたよ」
 あのクソガキ…。浅田さんにチクりやがって……。
 イライラしながら仕事帰り、西武新宿駅へ向かうと、駅前の道路で信号待ちのオートバイに何度もクラクションを鳴らされる。苛立っていた俺は、うるせえなあと睨みつけた。するとそのオートバイの運転手はヘルメットを取り、「神威さ~ん」と手を振っている。中身はあの黒石だったのだ。
「テメー、この野郎!」
 浅田さんにチクっておいて、よくもそんな笑顔ができたもんだ。俺は黒石目掛けてダッシュしてそのまま飛び膝蹴りを食らわした。バイクごと道路へ倒れた黒石は「すみません」と謝り出したが、俺は「チクりやがって、このデブが!」と頭を何度も引っぱたいてやった。
 当然後ろには車が止まったままだが、俺の行動を見てクラクションを鳴らす人間は、誰一人としていなかった。

 新体制になった『ワールド』から三ヶ月が経った。
 変わった事といえば、遅番二番手の島根が責任者として早番へ移動し、代わりに大山が遅番へ来た事ぐらいである。まだ二十台半ばの倉下には責任者という立場が重いらしく、話し合った結果、ゲーム屋経験も長く、年齢も三十一歳の島根を責任者にという形になったのだ。
 店は変わらず調子がいい。そんな最中、浅田さんから連絡があり、仕事のあと俺と話がしたいと言ってきた。いつもなら仕事中に済ますような事なのに、あえて仕事のあとと時間指定された事に違和感があった。
「神威さん、たまには飯でも一緒にどうです?」
 大山から食事の誘いがあったが、浅田さんの一件があるのでうまく断っておく事にする。着替えを済ませ店を出ると、浅田さんへ電話を入れた。
「あ、神威君。あのさ、今ワイは新宿プリンスの入口にいるんやけど、ちょっといいかな?」
「ええ、全然構いませんよ」
 いつもとは違う様子に戸惑いながらも、俺はプリンスへ向かう。『ワールド』から新宿プリンスホテルまで二、三分も歩けば着く距離である。海老通りを通り過ぎ、シックなレンガで覆われたホテルの入り口へ到着した。
「悪いね、神威君」
「どうかしたんですか?」
「いや、とりあえずここじゃ何だから中へ入ろう」
 俺と浅田さんはホテルに入り、左手にある階段を降りていく。地下一階にあるロビーラウンジへ入り、一番奥のテーブルへと向かう。
「まだこれはみんなに言ってほしくないんやけどね……」
 席につくなり浅田さんは前置きをした上で話し出した。
「『ワールド』はあと三ヶ月で閉店が決まったんや……」
「えー! いきなり何でですか?」
「オーナーが前に土地開発と株で失敗したって言ったやろ? あの人、もう借金だらけで首が回らない様子なんや。借金の総額はワイ分からんけど、多分数億円はいってるんじゃないかなと思うんや」
「そんな急に三ヶ月で店を閉めるなんて……。今まで俺たちの苦労は一体何だったんですか?」
「神威君の気持ちはよく分かるよ。でもオーナーも自分の持ち物手放さなきゃいけない状況らしくてね。『ワールド』だけでなくもちろん『チャンピョン』や『バースデー』など、他の店も全部なんやけどね」
「そんな……」
 店の調子も良くなり、まだまだこの状態がずっと維持できる。そう思っていた矢先なのに……。
「まだこの情報は神威君だけにしか言っとらんのや。ワイも実はオーナーへ逆に、随分前から金を貸している状態でね。いつも返す返すって言っとるけど、まったく余裕ないみたいで金なんか全然戻らん。あの人はもう終わりや」
「……」
 上の人間の状況など今まで何も考えた事がなかった。うちを始め、すべての系列店の売り上げで、月に数千万は自由になる金をずっと数年間も作り続けてきたつもりである。それなのに途中で給料を下げられ、理不尽な目に遭わされて、挙句の果てにこんな結末なんて……。
「そこでね。ワイも返ってこない金を待っていても仕方ないから、神威君。一緒にワイと組まへんか?」
「え、組むって?」
「ワイが各責任者たちが計算した締めのチェックをしてるから、例えば『一気ビンゴ』あるでしょ? あれを誤魔化して売り上げから金を抜くんや。もちろん分け前は折半でええ。神威君しかこの事を言える人間がいないんや」
 急遽持ち出された抜きの話。浅田さんの真意が分かりかねる。一体、俺はどうすればいいのだろうか……。

 浅田さんはこの長年の付き合いからも見て、信用の置ける人間である。その人から今、俺は抜きの相談をされている。
 夢の中にいるような感じだった。
 いつも時間通り店に来て、どうやって店を流行らせるか。そんな事ばかり考えながら時間を過ごしてきた。そして同世代の連中より少し高い給料をもらい、裕福な生活をする。それだけだった。
 ある意味これは、最大のチャンスかもしれないのだ。しかしひょっとしたら、罠かもしれない。俺の策略よって、オーナーお気に入りの吉田をクビに持っていった。オーナーからしてみれば、相当悔しかっただろう。元々気に入らない俺をさらに嫌うのは無理もない。抜きを餌に俺が了承すれば、その場でクビという可能性だってある。
 ある意味正念場であった。
 浅田さんは信用できる。しかし簡単に抜きの話に対し、生返事などできない。俺しかこの事を言える人間がいない。浅田さんは確かにそう言った。それを全面的に信用していいものだろうか?
 実際、一時減らされた給料分を補てんする為、俺は島根、倉下、大山とも組んでいる。ここで浅田さんとも組むという事は、誰に対しても裏切る事と同じだ。
 いつから俺はこんな計算をするようになり、心はドス黒くなったのだろう……。
 浅田さんは遠くを見ながらタバコを吸って、俺の返事を待っていた。
 考えろ。よく考えてから結論を出せ。急ぐな。俺は自分にそう言い聞かせる。
「抜くって一体、どうしたんですか?」
「ワイは組も抜けて、誠心誠意毎日休みも取らず働いてきた……」
 確かにそれはそうだ。浅田さんが歌舞伎町へ来ない日などなかった。一度だけ法事で地元へ帰った事があるが、それも日帰りである。
「サラリーマンやるよりは、そこそこいい給料だってもらっとる」
「ええ」
「だけどそこまでや。そこまでやったらワイもまだ我慢できた」
「はい」
「だけどな、自分で好き勝手に大金動かして失敗して、金貸せ言うてずっとそのままや。今でももっと金を回せと言う始末なんや」
「酷い話ですよね……」
「口じゃ返す言うても、ずっと口先だけ。ワイもそろそろ限界なんや……」
 そこまで話すと、浅田さんは大きく煙を吐き出した。顔には今まで歌舞伎町で生きてきた疲れが刻まれている。
「神威君なら長いつき合いや。信用できる。このままじゃワイは金も戻らんし、あと三ヶ月で店もパーになってしまうんや」
「一緒に抜こうという訳ですか? 『ワールド』から……」
「そうや。下手したらオーナーの消息すら分からなくなるかもしれへん。だったらワイも最後ぐらい好きにするわ」
 一蓮托生……。
 その相手、いや相棒として俺は浅田さんから指名されたのだ。それでもまだ浅田さんを少し疑っている自分がいる。
 どうする?
 どうすればいい?
 本当の正念場だった。
 浅田さんはどんな思いで、俺にこの話をしているのだろう。いや、そんなのいくら考えたって分からない……。
 ずっとこの人にはお世話になってきた。この人が目を掛けてくれたからこそ、俺は店長になれ、そこそこいい暮らしもできていたのだ。
 一蓮托生。結構じゃないか。この人からなら騙されてもいい。本当の意味で身投げである。
「分かりました、浅田さん……」
「ありがとう、神威君!」
「でも浅田さんがもっと金を多く取って下さい」
「いや、こういう事は折半でないとあかん。絶対に双方の亀裂が走るもんなんや」
「分かりました」
「店の売り上げ状況を見て、ワイがどうするか決める。神威君はそれに従ってほしい」
「はい……」
 こうして俺と浅田さんの密談は終わった。

 この日は家に帰っても、いまいち寝つけなかった。『一気ビンゴ』で抜くとか一例を出していたが、本当にそううまくいくものなのだろうか?
 さすがに島根たちと、新規伝票を書き、売り上げを抜いている事は言えなかった。俺が一番の悪党じゃねえか……。
 正々堂々と生きていたかった。いつから俺は、こんな狡猾に生きるようになったんだろう。
 自己嫌悪に陥る。
 この先どうなるのか? いくら考えても想像がつかなかった。
 夜、『ワールド』へ行けば分かるさ。
 自分だけはあの歌舞伎町の空気に染まらないと、ずっと思っていた。しかし現実はどうだ。すっかり薄汚れている。
 生まれた時は真っ白で光を放っていた心。今じゃドス黒いものに徐々に覆われ、光の一辺すら見えない。
 まだ給料を下げられ、『デズラ』分だけ新規伝票で補てんしている分には大義名分があった。しかしこれからする自分の行為は明らかに違う。どんな言い訳をしたところで抜きには変わらない……。
 俺ら兄弟を捨てた母を憎みながら大きくなり、好き勝手に生きている親父を憎んだ。両親をずっと軽蔑して生きてきた。今じゃ俺もそんなに大差ない。蛙の子は所詮蛙なのだろうか。
 これまでの過去に苦しめられながら、好き勝手に生きてきただけの俺。結局のところ、親父とどう差があるのだ? そんな自分のどこに価値があるのだろう。
 一つだけハッキリしている事。それはあと三ヶ月で『ワールド』はなくなってしまうという事。
 こうなったら金だ。金を稼ぐしかない。
 浅田さんが俺に目を掛けてくれていたのは、一つのチャンスだ。新宿歌舞伎町へ流れ、うまい具合に生きてきたと思っていた。しかしそれさえも大きな勘違いなのである。
 これを機に、俺は大きく羽ばたけばいい……。
「……」
 どうもおかしい。さっきから支離滅裂な事ばかり考えている。大きく羽ばたけばなんて思ったところで、今の俺に何か目標でもあるのか?
 それに『ワールド』がなくなったあとの、自分の立ち位置を考えた事はあるのか?
 何一つ考えちゃいない……。
 では、どうする?
 綺麗事を抜かす前に、金を残さなくてはいけない。プロレスの世界では生きられない。かと言ってホテル業界へ戻るつもりもない。『ワールド』がなくなったら、俺は無価値な人間なのだ。
 今までふんぞり返っていた。店長という肩書き。そんなものはこの先何の役にも立たないだろう。店があるからこその店長であって、なくなったら何の意味もない。
 三ヶ月後を想像してみる。何もまとまらず、嫌なイメージしか湧いてこない。
 駄目だ。これ以上考え事をしていても、まとまらない……。
 寝よう。もう休んだほうがいい。
 目を閉じる。だけどまったく眠くならない自分がいた。

 

 

11 新宿フォルテッシモ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

寝不足状態のまま新宿へと向かう。気が重かった。浅田さんとの抜きの一件。そして従業員たちに、『ワールド』があと三ヶ月で潰れるという事を内緒にしなければならない。秘...

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