昔はよくプロ野球の記事を書いていた。
例えば、ホークスのことや、西鉄ライオンズのこと、選手のこと、プレーオフのこと、日本シリーズのことなどだ。
今日は、そういう時期に書いていた記事を紹介します。稲尾和久さんが亡くなった翌日2007年11月14日の記事です。
さよなら西鉄ライオンズ ー 鉄腕逝く (2007年11月14日)
初めて球場でプロ野球を見たのは、小学4年生の時(昭和42年)だった。小倉球場での西鉄・阪急戦、ダブルヘッダーで、そのどちらかの試合で稲尾が投げたのだ。
その頃はまだ、西鉄ライオンズのことを詳しく知らなかった。だが、稲尾や中西の名前だけは知っていた。なぜなら、パッチン(メンコ)でいつもお目にかかっていたからだ。
初めて生で見るパッチンの人、稲尾投手はまぶしかった。当然その時から、本格的に西鉄ライオンズを好きになった。
小学5年の時(昭和43年)だったと思うが、遠足で福岡市内に行ったことがある。
ちょうど福岡市に入った時だった。バスガイドが、
「この中に西鉄ライオンズのファンの方いますか?」
と聞いた。ぼくを含めて、半数以上の男子が手を挙げた。
何かと思ったら、
「けっこういますね。はい、左手をご覧下さい。今建築している建物があるでしょ」
見てみると、なるほど鉄筋の家を建てている。
「あれは、西鉄の稲尾投手の家なんですよ」
ということだった。
その時は別に感動はしなかったが、いまだに憶えているということは、けっこう印象深かったのだろう。
さて、稲尾投手は、ぼくが6年生の時に現役を引退した。その後、黒い霧で責任を取って辞めた中西監督の後を継ぎ、西鉄ライオンズの監督になった。
しかし、黒い霧事件容疑で主力選手が追放されたチームは弱かった。弱いと客が入らない。客が入らないと、収入も減る。西鉄は球団を手放した。
中学3年の時(昭和47年)、ぼくは小倉球場で行われた「さよなら西鉄ライオンズ」を見に行った。相手はV8を達成したばかりの巨人だった。巨人の監督は川上、一方の西鉄の監督は、その川上を現役引退に追いやった稲尾ということで、ある種の因縁をぼくは感じていた。
で、試合はどうだったのかというと、よく憶えていない。なぜか巨人側である3塁のベンチ上に座っていたので、友だちといっしょになって、敵である長嶋や王にヤジを飛ばしていた。そのため、試合をろくに見てなかったのだ。
しかし、考えてみると、その後太平洋クラブライオンズの試合は見に行ったことがないし、評論家になってからの稲尾にもお目にかかったことはない。ということは、稲尾が西鉄のユニホームを着た最後の試合が、結局はぼくが稲尾を見た最後になったわけだ。
一番いい時に見られたのかもしれないな。
ご冥福をお祈りします。