チャムラン(7319m)遠征
西稜から望むローツェ・エベレスト山群と隊員たち、中央青ヘルが中村。1986年10月
追悼 中村孝君
中村孝が亡くなった。残念で悲しい。ここに中村君の記憶を思い出すまま書き冥福を祈りたい。彼は1986年のチャムラン遠征に参加し、その後1992年のラカポシ遠征では副隊長を務めた。
40年前のあの時代、私たちはヒマラヤの高峰登山に憧れていた。それを目標に北海道の冬山を登った。そして夢を語っていた。アウトドアという言葉がなかったこの時代、山だけが私たちにとってやるに値することに思えた。チャムラン遠征には多くの隊員が仕事を辞めて参加した。中村もそんな一人だった。酸素を使う8000m峰登山は組織力も金もかかる。登山許可の取得には先ず地方と全国の山岳連盟の推薦状が必要だ。大変面倒だった。私たちは手探りで計画を進めた。
私たちは酸素を持たない7000m級の困難な山を目指した。ライトエクスペディション(軽量遠征)が私たちのプライドだ。金がないからだ。だから国内登山と同じく普段着での遠征を目指した。装備は別送せず隊員の手荷物として飛行機に載せ、食糧の多くは現地調達、食事はシェルパやポーターと基本的に同じにすることにした。缶詰類は殆どなかった。
時代は先鋭的登山家が8000mの未踏ルートを目指す、いわゆる「ヒマラヤ鉄の時代」だ。チャムランはアプローチの困難さと未踏ルートからの登頂という、当時の私たちの意欲をかきたてる山だった。私たちはこの遠征を「鉄の時代」に対して私たちの主食である雑炊から「ヒマラヤおじやの時代」の登山と位置付けた。シェルパは名のあるクンブーのシェルパではなくカトマンズの町中で偶然出会ったシェルパの若者を雇った。彼らとの付き合いは今も続いている。
中村孝が亡くなった。残念で悲しい。ここに中村君の記憶を思い出すまま書き冥福を祈りたい。彼は1986年のチャムラン遠征に参加し、その後1992年のラカポシ遠征では副隊長を務めた。
40年前のあの時代、私たちはヒマラヤの高峰登山に憧れていた。それを目標に北海道の冬山を登った。そして夢を語っていた。アウトドアという言葉がなかったこの時代、山だけが私たちにとってやるに値することに思えた。チャムラン遠征には多くの隊員が仕事を辞めて参加した。中村もそんな一人だった。酸素を使う8000m峰登山は組織力も金もかかる。登山許可の取得には先ず地方と全国の山岳連盟の推薦状が必要だ。大変面倒だった。私たちは手探りで計画を進めた。
私たちは酸素を持たない7000m級の困難な山を目指した。ライトエクスペディション(軽量遠征)が私たちのプライドだ。金がないからだ。だから国内登山と同じく普段着での遠征を目指した。装備は別送せず隊員の手荷物として飛行機に載せ、食糧の多くは現地調達、食事はシェルパやポーターと基本的に同じにすることにした。缶詰類は殆どなかった。
時代は先鋭的登山家が8000mの未踏ルートを目指す、いわゆる「ヒマラヤ鉄の時代」だ。チャムランはアプローチの困難さと未踏ルートからの登頂という、当時の私たちの意欲をかきたてる山だった。私たちはこの遠征を「鉄の時代」に対して私たちの主食である雑炊から「ヒマラヤおじやの時代」の登山と位置付けた。シェルパは名のあるクンブーのシェルパではなくカトマンズの町中で偶然出会ったシェルパの若者を雇った。彼らとの付き合いは今も続いている。
カトマンズを出発した私たちはネパールを東に向かって横断するキャラバンを始めた。モンスーンの雨が降り続くヒルだらけの16日間のキャラバンだった。ヒルにかまれて血だらけになり、戦意喪失し不満を言う隊員の中で、中村は黙々と仕事をしていた。日が暮れると雨のテントで酒好きの川村ドクターと苗木副隊長と楽しそうに酒を飲んでいた。私もウシの糞だらけの沼のような放牧地に胡坐をかいて座り、チャンを飲んだ。漁師合羽とゴム長靴はヒマラヤでも無敵だった。
中村とは前年の偵察時にカトマンズで偶然出会った。彼は酪農学園大学の獣医科を出ていたる。しかし獣医にはならず日本を飛び出して南アジアを放浪していた。タメールのチベット料理屋で、私はヒッピーも悪くないがヒマラヤも良いぞと翌年のチャムラン遠征に彼を誘った。意外だったのは彼がすぐにそれを了承したことだ。中村には強い意志がある。彼はきっと獣医師という仕事に夢を持てなかったのだろう。未知に憧れる気持ちが人一倍強かったのだろうと思う。タイ語を初めとする語学力はそんな中で身に着けたものなのだろう。
チャムラン(7319m)の初登頂は1962年北大隊によって行われている。南の氷河からの初登ルートは隊長で南極探検の医師でもあった中野征紀のあだ名から長髪ルートと呼ばれた。私たちはその左の西稜を登った。このルートは1954年にエドモンド・ヒラリーによって試登されて以来、手つかずのままだった。
ポストモンスーン、つまり雨期明けのヒマラヤは天候が比較的安定しており登山に適している。しかし私たちは9月初めからのモンスーンのキャラバンに消耗し、ある隊員の足はヒルの傷が化膿して登山靴が履けないほど腫れ上がっていた。隊長への不満は大きかった。何しろ食事に肉がなく酒もないのだ。私はキッチンボーイに金を持たせ、メラ・ラを越えてクンブーまで買い出しに行かせた。シェルパの足でも往復1週間はかかる。彼らは肉とともにチャンやロキシーなどの酒と、毛糸の手袋を買って帰ってきた。やはり手袋靴下はウールが良い。そして宿や食事代などの費用とともにネパール語で書かれた明細とおつりを私に渡した。1ルピーのごまかしもなかった。その後ルート開拓は順調に進み10月に入ると頂上アタックが視野に入ってきた。
第一次アタックが失敗した後、私は第二次アタックに櫛見と中村、オンギャルとひげダワを指名した。一次隊の失敗は距離感と斜度の錯覚によるルート選択のミスだ。私は彼らに氷河台地から頂上直下に突き上げるクーロワールを登るようアドバイスした。そこが弱点に思えた。出発前日、中村がズボンを貸してくれと言ってきた。かれはそれまで綿パン1本で通してきた。聞けばズボンはこれしかないのだと言う。それで私は自分のズボンを脱いで彼に貸した。彼らは予定通り進み、台地の最終キャンプの位置を更に上に上げでアタックに備えた。1986年10月16日、櫛見とオンギャルは未踏のチャムラン西稜からの登頂に成功した。中村とダワはクーロワール途中までアタック隊をサポートし、最終キャンプで登頂を見守った。
もう40年になる。私は今もあの時代を鮮明に思い出す。オンギャルはその後ダウラギリの雪崩の犠牲になり櫛見も昨年亡くなった。チャムランとラカポシ、2度の遠征に参加した川村ドクターも今はない。遠征をきっかけにガイドビジネスで成功したコックのダワも亡くなった。そして今、中村の訃報を聞いた。
中村は1992年、チームが再び取り組んだパキスタン、カラコルムのラカポシ遠征で副隊長を務めた。登頂はできなかったが私たちはフンザで命がけの登山を楽しんだ。ラカポシは手に負える山ではなかった。巨大な氷河雪崩と側壁からの家の屋根ほどの落石、ビルの爆破解体のような氷河崩壊、7883mの山の6000mまでしか到達できなかった悔しさ、それらは一本の映像として残されている。その中にインダスの谷をイスラマバードからフンザへと向かう車中の映像がある。ビン・ラディンが暗殺されたアボッタバードで、私たちはバスの窓越しにコブラ使いに笛を吹かせて芸をさせた。しかしバスが走りだした。金を取損なったコブラ使いは蛇を籠にしまいもせずに拳を振り上げてバスを追いかけてきた。大笑いする中村の笑顔が印象的だ。彼は若い隊員たちの兄貴のような存在だった。
今日の画一的なアウトドア文化の時代、私たちは迎合せず自分の道を歩んできた。時流に流されることを嫌い、かといって声を荒だてることもしなかった。私たちは普通の市民として社会の片隅で生き、己の人生を受け入れてきた。中村は達観していた。
中村孝のご家族と彼の親しかった友人に深く哀悼の意を捧げたい。中村が私を友人と思っていたかはわからない。しかしまたいつか、共にヒマラヤを目指したいものだと思う。長い間の厚情に深く感謝したい。
合掌
中村とは前年の偵察時にカトマンズで偶然出会った。彼は酪農学園大学の獣医科を出ていたる。しかし獣医にはならず日本を飛び出して南アジアを放浪していた。タメールのチベット料理屋で、私はヒッピーも悪くないがヒマラヤも良いぞと翌年のチャムラン遠征に彼を誘った。意外だったのは彼がすぐにそれを了承したことだ。中村には強い意志がある。彼はきっと獣医師という仕事に夢を持てなかったのだろう。未知に憧れる気持ちが人一倍強かったのだろうと思う。タイ語を初めとする語学力はそんな中で身に着けたものなのだろう。
チャムラン(7319m)の初登頂は1962年北大隊によって行われている。南の氷河からの初登ルートは隊長で南極探検の医師でもあった中野征紀のあだ名から長髪ルートと呼ばれた。私たちはその左の西稜を登った。このルートは1954年にエドモンド・ヒラリーによって試登されて以来、手つかずのままだった。
ポストモンスーン、つまり雨期明けのヒマラヤは天候が比較的安定しており登山に適している。しかし私たちは9月初めからのモンスーンのキャラバンに消耗し、ある隊員の足はヒルの傷が化膿して登山靴が履けないほど腫れ上がっていた。隊長への不満は大きかった。何しろ食事に肉がなく酒もないのだ。私はキッチンボーイに金を持たせ、メラ・ラを越えてクンブーまで買い出しに行かせた。シェルパの足でも往復1週間はかかる。彼らは肉とともにチャンやロキシーなどの酒と、毛糸の手袋を買って帰ってきた。やはり手袋靴下はウールが良い。そして宿や食事代などの費用とともにネパール語で書かれた明細とおつりを私に渡した。1ルピーのごまかしもなかった。その後ルート開拓は順調に進み10月に入ると頂上アタックが視野に入ってきた。
第一次アタックが失敗した後、私は第二次アタックに櫛見と中村、オンギャルとひげダワを指名した。一次隊の失敗は距離感と斜度の錯覚によるルート選択のミスだ。私は彼らに氷河台地から頂上直下に突き上げるクーロワールを登るようアドバイスした。そこが弱点に思えた。出発前日、中村がズボンを貸してくれと言ってきた。かれはそれまで綿パン1本で通してきた。聞けばズボンはこれしかないのだと言う。それで私は自分のズボンを脱いで彼に貸した。彼らは予定通り進み、台地の最終キャンプの位置を更に上に上げでアタックに備えた。1986年10月16日、櫛見とオンギャルは未踏のチャムラン西稜からの登頂に成功した。中村とダワはクーロワール途中までアタック隊をサポートし、最終キャンプで登頂を見守った。
もう40年になる。私は今もあの時代を鮮明に思い出す。オンギャルはその後ダウラギリの雪崩の犠牲になり櫛見も昨年亡くなった。チャムランとラカポシ、2度の遠征に参加した川村ドクターも今はない。遠征をきっかけにガイドビジネスで成功したコックのダワも亡くなった。そして今、中村の訃報を聞いた。
中村は1992年、チームが再び取り組んだパキスタン、カラコルムのラカポシ遠征で副隊長を務めた。登頂はできなかったが私たちはフンザで命がけの登山を楽しんだ。ラカポシは手に負える山ではなかった。巨大な氷河雪崩と側壁からの家の屋根ほどの落石、ビルの爆破解体のような氷河崩壊、7883mの山の6000mまでしか到達できなかった悔しさ、それらは一本の映像として残されている。その中にインダスの谷をイスラマバードからフンザへと向かう車中の映像がある。ビン・ラディンが暗殺されたアボッタバードで、私たちはバスの窓越しにコブラ使いに笛を吹かせて芸をさせた。しかしバスが走りだした。金を取損なったコブラ使いは蛇を籠にしまいもせずに拳を振り上げてバスを追いかけてきた。大笑いする中村の笑顔が印象的だ。彼は若い隊員たちの兄貴のような存在だった。
今日の画一的なアウトドア文化の時代、私たちは迎合せず自分の道を歩んできた。時流に流されることを嫌い、かといって声を荒だてることもしなかった。私たちは普通の市民として社会の片隅で生き、己の人生を受け入れてきた。中村は達観していた。
中村孝のご家族と彼の親しかった友人に深く哀悼の意を捧げたい。中村が私を友人と思っていたかはわからない。しかしまたいつか、共にヒマラヤを目指したいものだと思う。長い間の厚情に深く感謝したい。
合掌