知床日誌⑮
日誌12の写真は札幌近郊の定山渓天狗岳だ。標高は1100mほどで、このあたりには珍しい急峻な山だ。札幌の奥座敷、定山渓温泉近くで豊平川と合流する小樽内川上流の山であり、奥には札幌国際スキー場と余市岳がある。私はこの山で登山を学んだ。17の時この山で右手をナタで負傷して動かなくなったが、それでも山を止めることはなかった。60を越えて今度は知床のカヤックの事故で左手が不自由になった。不運を嘆いても始まらない。しかし未だに同じことを続けているのは正直のところどうなのかと思う。もう73なのだ。私は1992年のカラコルム・ラカポシ遠征の前後から海を漕ぐようになった。海の世界があまりにも強烈だったので、それを伝えるために知床のガイドになった。私は山の経験だけで海を漕いできた。海には山と同様の何かがある。山以上に危険と思えることもある。しかし自由だった。
定山渓天狗岳は学校だ。私たちはこの山を「定天」と呼んだ。写真の左には東尾根と中央稜という2本の顕著なリッジが頂上に突きあげている。雪は深く頭まで潜る。手がかりは雪を払って探す脆い岩とハイマツだけだ。下部の垂壁を越えたところで雪崩に飛ばされたことがあった。私はその時、面発生表層雪崩というものに初めて遭った。それは教科書に書かれているようなものではなかった。斜面全体が突然割れ、一瞬で起こるのだ。私は雪崩と一緒に崖を飛び越えたが、急すぎて雪崩が先に行ってしまった。それで助かった。幸運だった。私は垂直のラッセルの登攀で雪を学んだ。そして確保の支点選びに慎重になった。雪は信用できない。だから雪面にピッケルを差し、足で踏んで支点にする尤もらしい方法はとらない。確保は確かでなければ意味をなさない。定天では垂直の岩稜に生えるハイマツが支点だった。その後この山では確保者のピッケルが雪から跳ね上がり、腹に刺さって重傷を負う事故が起きている。私はその中央稜の厳冬期第2登を行った。
私はラカポシ北陵で一生分のピトンを打ち込んだ。ネパールヒマラヤに較べカラコルムの雪は信用ならない。日射が強く雪が腐るので確保の支点は雪を払って岩に求めなければならない。ここに定天のような木はない。毎日私たちは巨大雪庇の崩壊と氷河雪崩に怯えながらルートを伸ばした。ピトンが不足して古いドイツ隊の残置ハーケンも抜いて使った。しかし力不足を悟り下山した。何よりも文登研(文部省登山研修所)で学んだ若い隊員たちの技術が信用ならなかった。ザイルを巻くのも懸垂下降もすべてにとろい。時代の断絶を感じた。しかし隊員の自然への正直さと山への真摯な思いが無事故につながった。良いチームだった。今では懐かしい思い出だ。
今日は1978年カラコルム・バツーラ2峰隊の隊長、西郡光安昭について書くつもりだった。長く失礼していたが今年、突然年賀状をもらった。私はバツーラで高山病に罹り這うように山を下りた。その時ベースキャンプまで付き添ってくれたのが西郡隊長だった。その後私は一人隊を離れてオールド・フンザ・ロードを下山した。病み上がりの体は弱っていた。沙漠の日射と酷暑は強烈だ。歩けなくなった私はオアシスのアンズの木の根元に横たわった。村人が遠巻きに見ていた。時々吐いた。そのたびに人々は飛び下がった。脈は震えるように弱い。死ねば遥か下のインダス上流の濁流に投げ込まれるのだろう。その時一人の女の子がしなびたリンゴを手に恐る恐る近づいてきた。私は有難くそれを受け取った。そしてなめるように食べた。蟻が這いまわり体をかじった。私は耐えて朝を待った。今思えばあの子は観世音菩薩の生まれ変わりだったのではないだろうか。
私は私を助けてくれた大勢の人がいたことに気付く。西郡隊長もその一人だ。年賀状をいただいてしばらく経ち、私はお礼の手紙とともに自分の本を送った。それからしばらくして奥さんから丁寧なハガキをいただいた。そこには西郡光昭が3月27日に亡くなったと書かれていた。私は言葉を失った。そして悔やんだ。信州大学山岳部OBであり、宮城県の保険所の所長を長く務めた隊長は、1970年の三浦雄一郎氏のエベレスト登山隊にも参加した医者であり、すぐれた登山家だった。今私は慚愧の念に堪えない。恩は返せなかった。西郡隊長は今でも私にとって隊長と呼べる唯一の人だ。短い交流だったが本当にお世話になった。ご冥福をお祈りする。
日誌12の写真は札幌近郊の定山渓天狗岳だ。標高は1100mほどで、このあたりには珍しい急峻な山だ。札幌の奥座敷、定山渓温泉近くで豊平川と合流する小樽内川上流の山であり、奥には札幌国際スキー場と余市岳がある。私はこの山で登山を学んだ。17の時この山で右手をナタで負傷して動かなくなったが、それでも山を止めることはなかった。60を越えて今度は知床のカヤックの事故で左手が不自由になった。不運を嘆いても始まらない。しかし未だに同じことを続けているのは正直のところどうなのかと思う。もう73なのだ。私は1992年のカラコルム・ラカポシ遠征の前後から海を漕ぐようになった。海の世界があまりにも強烈だったので、それを伝えるために知床のガイドになった。私は山の経験だけで海を漕いできた。海には山と同様の何かがある。山以上に危険と思えることもある。しかし自由だった。
定山渓天狗岳は学校だ。私たちはこの山を「定天」と呼んだ。写真の左には東尾根と中央稜という2本の顕著なリッジが頂上に突きあげている。雪は深く頭まで潜る。手がかりは雪を払って探す脆い岩とハイマツだけだ。下部の垂壁を越えたところで雪崩に飛ばされたことがあった。私はその時、面発生表層雪崩というものに初めて遭った。それは教科書に書かれているようなものではなかった。斜面全体が突然割れ、一瞬で起こるのだ。私は雪崩と一緒に崖を飛び越えたが、急すぎて雪崩が先に行ってしまった。それで助かった。幸運だった。私は垂直のラッセルの登攀で雪を学んだ。そして確保の支点選びに慎重になった。雪は信用できない。だから雪面にピッケルを差し、足で踏んで支点にする尤もらしい方法はとらない。確保は確かでなければ意味をなさない。定天では垂直の岩稜に生えるハイマツが支点だった。その後この山では確保者のピッケルが雪から跳ね上がり、腹に刺さって重傷を負う事故が起きている。私はその中央稜の厳冬期第2登を行った。
私はラカポシ北陵で一生分のピトンを打ち込んだ。ネパールヒマラヤに較べカラコルムの雪は信用ならない。日射が強く雪が腐るので確保の支点は雪を払って岩に求めなければならない。ここに定天のような木はない。毎日私たちは巨大雪庇の崩壊と氷河雪崩に怯えながらルートを伸ばした。ピトンが不足して古いドイツ隊の残置ハーケンも抜いて使った。しかし力不足を悟り下山した。何よりも文登研(文部省登山研修所)で学んだ若い隊員たちの技術が信用ならなかった。ザイルを巻くのも懸垂下降もすべてにとろい。時代の断絶を感じた。しかし隊員の自然への正直さと山への真摯な思いが無事故につながった。良いチームだった。今では懐かしい思い出だ。
今日は1978年カラコルム・バツーラ2峰隊の隊長、西郡光安昭について書くつもりだった。長く失礼していたが今年、突然年賀状をもらった。私はバツーラで高山病に罹り這うように山を下りた。その時ベースキャンプまで付き添ってくれたのが西郡隊長だった。その後私は一人隊を離れてオールド・フンザ・ロードを下山した。病み上がりの体は弱っていた。沙漠の日射と酷暑は強烈だ。歩けなくなった私はオアシスのアンズの木の根元に横たわった。村人が遠巻きに見ていた。時々吐いた。そのたびに人々は飛び下がった。脈は震えるように弱い。死ねば遥か下のインダス上流の濁流に投げ込まれるのだろう。その時一人の女の子がしなびたリンゴを手に恐る恐る近づいてきた。私は有難くそれを受け取った。そしてなめるように食べた。蟻が這いまわり体をかじった。私は耐えて朝を待った。今思えばあの子は観世音菩薩の生まれ変わりだったのではないだろうか。
私は私を助けてくれた大勢の人がいたことに気付く。西郡隊長もその一人だ。年賀状をいただいてしばらく経ち、私はお礼の手紙とともに自分の本を送った。それからしばらくして奥さんから丁寧なハガキをいただいた。そこには西郡光昭が3月27日に亡くなったと書かれていた。私は言葉を失った。そして悔やんだ。信州大学山岳部OBであり、宮城県の保険所の所長を長く務めた隊長は、1970年の三浦雄一郎氏のエベレスト登山隊にも参加した医者であり、すぐれた登山家だった。今私は慚愧の念に堪えない。恩は返せなかった。西郡隊長は今でも私にとって隊長と呼べる唯一の人だ。短い交流だったが本当にお世話になった。ご冥福をお祈りする。
新谷暁生
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