神佛の加護をいただく

神佛の
ご加護をいただくには・・・
密教修行を通じて体験したことを書き続けたいと思います。

イジメ マジで ミジメ

2019年12月12日 13時05分42秒 | いじめ

またイジメを苦に、自らの命を絶ったという

ニュースが流れ、心が痛みます。


子供は大人が護る。護るべき。なのですが・・・・・・・・・・・。


少子高齢化社会、将来有望な若者達である

イジメの被害者を見殺しにして

増々少子高齢化に

拍車をかけてるのに

どう思っているのだろうか。


自分たちの将来もかかっているのに

余りにも哀れでならない。


事なかれ主義の校長、教頭達や

見て見ぬふりの教師達や

教育委員会、あ、ついでに児童相談所の職員達も

イジメの傍観者達も、勿論イジメの加害者側も

それぞれの家族達にも、それなりのリスクを

一生背負ってもらわなければ・・・。


口で言っても解らない輩達には

それなりの報いを受けてもらわなければ

ならないことなのです。


話し合いによって何にもならなければ

行動あるのみ。


イジメの加害者達には

その罪を一生、償ってもらうしかない。


イジメ返し・・・。社会的制裁のイジメ返し・・・。


ハムラビ法典ではないが

目には目を、歯には歯を・・・。


因果応報。


現実を突きつけてやる。


イジメの被害者が泣き寝入りする

時代が終わればいい・・・・・・・・・・・・・・・・。


イジメられて自殺しかないなんて

余りにも虚しいことです。


折角、両親が生んでくれたのに

育ててくれたのに

これから先の人生が

イジメの被害者にもあるのです。


それを、よくもまあ、死ねだとか

馬鹿だとか、ブスだとか、キモイだとか

臭いだとか、消えろだとか

どの口が言うのだろうか。

はい、悪口雑言の名誉棄損罪です。


こいつらは人でなしです。

今のままでは・・・ね。


イジメの加害者は、本当は小心者ですよ。

いや、小心者であって欲しいですが

けど、人間としてはクズです。


自分より強い者には向かっていかない。

よりも、自分より強い者には向かっていけない。


イジメってタイマンじゃないですよね。

リーダー格がいて、取り巻きがいて、傍観者がいる。


大人が子供を護らない。護れない。

護りたくない、のが本音・・・・・・・・・・・・・・。


やることは、物への八つ当たりで

教科書を破く、落書きする

教科書の本来の用をなさなくしては

上履きに落書きは、あるいは捨てちゃう

体操服に、カバン、使い物にならなくされての

器物損壊罪。

教科書だって、カバンだって、上履きだって

体操服だって、只じゃないんだよ。


物を大切にできない者は

人間に対しても大事にできない、もの。

だから、平気でイジメができる。

だから、殴る蹴るの暴行罪、適用。


未成年のやることだからと言って

許されることではないはず。だが・・・・・・・・。

 

イジメの被害者の持ち物を盗む、金銭の要求だって

親の財布から金を持ってこいだとよ

それで、イジメの加害者が受け取れば

はい、それは、立派な窃盗罪。


未成年だからと言って、許されることではない。


万引きを強要する・・・その他・・・

色々と、しでかしてくれる。


良心の呵責もないのか。

血も涙もない悪魔か。


相手を不幸のどん底に落としたのだから

イジメの加害者が無傷ではいられない。


自分が自分で自分を不幸にすることになる。


イジメをするのは自分であって

自分の意志であって

自分が行う、あるいは

自分の手は汚さずに

取り巻きにやらせる。

それで、イジメることによって

一生分の罪を背負うことになるのに・・・。


イジメられる方が悪いという

考え方が・・・覆される。


イジメの加害者の方が

自殺に追い込まれる羽目になるだろう。


イジメのジメは自滅のジメなのだから・・・。


証拠を集めて、訴える。加害者に対抗する。

最初から裁判沙汰にするしかない。


佛教、密教の教えで導けないのなら

イジメの加害者の悪行を曝け出し

裁判沙汰にしてイジメの加害者に

それ相応に慰謝料を払ってもらう。


だって、イジメの加害者側の家族も

巻き込ませなければならないでしょ。


イジメられたらラッキーと思え。

生きて、生きて、生きながら

相手に仕返しをする。


イジメ返し。

警察沙汰にする。被害届を出す。

訴訟を起こし裁判沙汰にする。


犯罪者のレッテルを与える。


モザイクが通用しない。


ネットの世界。


どこまでいっても、つきまとう自業・・・・・・・・・・・・・・・。


イジメ マジで ミジメになる。


ミジメになるのは

イジメの加害者と加担者

それと取り巻き。

事なかれ主義者

見て見ぬふりをした奴ら・・・・・・・・・。


ミジメは、身の自滅を意味する。


死後も、自ら地獄に堕ちたくなければ

イ ジ メ は す る な 。


合掌

 

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今 イジメられている あなたへ・・・

2019年07月18日 09時35分26秒 | いじめ

今 イジメられている あなたへ

もう 死ぬしかないと 自殺を考えている あなたへ

せっかく人間として この世に生を享けたのですから

今 これから イジメられない 人生を全うしませんか

 

独りで悩み苦しまないで 神佛にすがってみませんか

死のうとする勇気よりも 神佛に願ってみませんか

 

いじめの加害者 降伏退散 大聖大悲不動明王

いじめの被害者 無事息災 大悲観世音菩薩

 

日本は 少子高齢化時代に突入なのに

イジメの被害者を見殺しにする学校関係者たち

教育者ならぬ凶育者 あるいは狂育者かな・・・

イジメの加害者たち それに傍観者たち

人でなしとしか 思えません

将来のある若い命を なんと思っているのでしょうか

 

ああ 人でなしどもですから

そもそも そんな考えなど 微塵もないでしょう

 

虐待もそう 幼い命

母親としての自覚の欠如

父親としての自覚の欠如

 

子供の作り方は知っているくせに

子供の育て方も 躾の何たるかも知らず

犬猫の方が まだ ましかもしれません

 

日本の将来を担う子供たちの命を

大切に育てることなくして

日本の将来は絶望的です

 

まして 昭和生まれの血が絶えてしまって

平成生まれの血が蔓延しだし

令和生まれの血が萌芽し始めました

 

元号が新たに変わったとしても

中身が変わらなければ

何にもなりません

 

名前が悪いから改名しなければ

倖せになれないからと言って

改名したくらいで 倖せになれるならば

何の苦労も 必要もなくなります

中身は変わっていますか

 

昭和の血には まだ ご先祖さまの信心の功徳が

かろうじて残っておりますが

今現在 信心の無い両親の元に生まれたことは

不幸中の不幸の最たるものです

 

縁なき衆生は度し難し

 

もし仮に イジメを苦に自らの命を絶たないで

生きていたら 結婚をして子供を儲けていたら

その子供が また 結婚をして子供を儲けていたら

 

虐待により殺された 幼い命を助けていたら

多少でも少子高齢化の歯止めが

出来たのではないでしょうか

 

イジメを苦に自殺を考えている あなたに

あなたが死んでしまうと

この世で一緒に成れるはずの伴侶の

人生をも狂わせることに成るのです

 

生きて あなたと結婚をすべき人との出合い

結婚すべき相手にまで及ぼすのです

 

そして その子供として生まれてくるべき命をも

摘み取ってしまうことに成るのです

 

逆に言えば イジメの加害者ども 傍観者ども

学校関係者どもも 直接的には加担しているのです

イジメられる方が悪いってほざいている

イジメられる方が悪いって心の中で思っている

 

そんなことも分からない 考えられない

 

イジメの被害者一個人の死だけでは済みません

イジメの被害者に縁のある人間にまで及ぼすのです

 

もし 必要があれば あなたの為に拝みます

イジメられないように祈ります

神佛に願ってみませんか

 

わたしには 祈ることしか出来ませんし

祈ることが出来ることが 唯一の取り柄だと思っております

 

わたしの存在の意義は ここにあります

 

あなたにも 存在意義は あります

 

救われる命があれば・・・

 

善行院 (ぜんぎょういん) 雄徳 (ゆうとく) でした

 

合掌

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毎日の祈りは願いから

2019年03月03日 10時28分28秒 | いじめ

ご訪問いただきまして、ありがとうございます。

善行院 (ぜんぎょういん) 雄徳 (ゆうとく) と申します。  合掌

 

イジメの被害者 無事息災の為に 南無大慈大悲観世音菩薩

イジメの加害者 降伏退散の為に 南無大聖大悲不動明王

 

諸行無常 (しょぎょうむじょう) という教えがあります。

事態は必ず変化するということです。

事態の変化の遅速はあります。

 

イジメの被害者はいつまでも、イジメの被害者のままではなく、

イジメの加害者はいつまでも、イジメの加害者のままではなく、

いつかは立場が逆転するということです。

 

人を不幸にしたら、自らが不幸になる、ということです。

お互いに善くも悪くも、変わることになるのです。

その気になればの話ですが、イジメの被害者も

イジメられる、苦しみの条件は不変ではありません。

 

殺すものは殺され、怨むものは怨まれる。

罵るものは罵られ、怒るものは他人の怒りを受ける、と

釈迦牟尼佛陀さまが、時の国王などの権力者たちが

殺し合い、奪い合う姿を見て、嘆いた言葉であります。

 

イジメをするものは、やがてイジメられ、

イジメを傍観し無視すれば、イジメられても無視される。

言葉の暴力、罵詈雑言するものは、罵詈雑言される。

のちのち、同じような目に遇わされるものです。

悪業を行えば、不運になる。これ鉄則です。

業 (カルマ) の輪により仕返しを受けることにもなるのです。

 

では、何をもってして、変えることができるのでしょうか。

それは、自らの心を変えることしかないのです。

 

自分がダメな人間だから、

イジメられるのではないのです。

イジメられる側に原因があるとか、

傍観者たちが無慈悲なことを言いますが、

イジメられた方は肉体的にも精神的にも

ダメージはトラウマ級に傷ついているのです。

 

イジメた方には何も残らない、といいますが

知らず知らずのうちに、怨みをかっているのです。

そして、知らず知らずのうちに、恨まれているものです。

恨みには時効はありません。

イジメた人が生きている限り、持続されるのでしょう。

やがて、来世に持ち込むことに成るのです。

 

被害者が自殺した場合、もし怨念があれば凄まじいものでしょう。

被害者家族の加害者家族への怨みつらみも、

無視することはできないでしょう。影響あり。

 

相手が死んでしまえば、それでお終い的なことは、ありません。

肉体は滅んでも、識が残ります。識とは心のことです。

この心の中に、イジメられた時の念がこもっているものです。

 

後先も考えずにイジメなどすることが、

のちのち、自分で自分の首を絞める羽目になるのです。

 

イジメの加害者の心の中は、どのようなものでしょうか。

人間性の低さ、精神性の幼さ、悪い心の持ち主が発する言葉は、

そのまま、悪しき心の状態を表しており、悪行悪業となるのです。

 

イジメの被害者側が救われなければ、

イジメの加害者側も救われることはないのです。

 

自らの心を変える。

 

追い詰められて死ぬことに一生懸命にならないで、

死のうとする勇気よりも、生きていこうとする勇気をもって、

自分自身がイジメを克服する為の努力に励むことができれば。

 

自分と周りを忍耐強く見定めて、自分をよりよく変えていく、

克己心 (己に打ち克つ心) を養うことができれば。

 

自らを変えていく。

 

自分の人生なのだから、自らの命を大切にする。

一度きりの人生、損しない為に、努力を惜しまない、

しあわせに成る、そういう生き方もあるのです。

 

弘法大師、空海さまのお言葉に

人を導くものは教えであり、

教えのもとになるものは道である。

その道を説く人がなければふさがり、

教えを演べることがなければ廃れてしまう、と。

 

誰かが、この業 (カルマ) の教え。

自業自得。因果応報。善因善果。悪因悪果。

 

誰かが、この因果の道理を説かなければ、

この教えが、やがて廃れてしまうことに成るのです。

 

佛法興隆、正法護持の為に弘めなければならないのです。

 

イジメられる方が悪いなどと無慈悲なことを言う前に

イジメられない人間に育てる、しかないのです。

 

イジメをする方が悪いと非難する前に

イジメをしない人間に育てる、しかないのです。

 

神佛の加護がいただける人間に育てる、しかないのです。

 

信心することは、自らを救うことに成るのです。

 

イジメ被害者の無事息災を願う祈りは、

イジメが息むことを心から念じております。

 

イジメ加害者の降伏退散を願う祈りは、

これ以上に悪業を積まさせない為の想いで一杯です。

 

イジメが無くなりますように。

虐待が無くなりますように。

 

これが、私の願いです。

 

終わりまで読んでいただきまして、ありがとうこざいました。

 

あなたの抜苦与楽の為に

南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛

 

合掌

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生きることに意味がある 生き方が大事

2019年02月17日 15時31分31秒 | いじめ

人間として、この世に生を享けました。

そして、私は、今を生きている。


それでは、生きることの意味とは、

どのようなことなのでしょうか。

 

今を生きています。

しあわせを感じている人もおれば、

その反対に、不幸であると感じている人もおりましょう。

イライラしていたり、ムシャクシャしていたり、不安だったり、

不平不満を抱いていたり、心の三毒、貪瞋痴に病んでいる人も

少なからずいるのではないでしょうか。

 

人間は千差万別です。

各個人の業、因縁により宿業も様々です。

人それぞれに、因縁の軽重があり、

信心の有無、浅深もあります。

また、佛縁の有無もあります。

 

その答えは、生きることに意味があり、

生き方に意味があるのです。

 

偉そうな人間に成るよりも、

尊い人間に成ることを目指すのです。

天上天下、唯我独尊と、釈迦牟尼佛陀さまは、教えてくださいました。

人間ひとりひとりが天上天下、唯我独尊、なる存在であると。

 

佛教、密教の教えは、

真のしあわせを得るための教えであり、

しあわせに生きることなのです。

 

それには、先ず、自分の命は自分で護ることです。


子供のイジメを、学校側に訴えても、まともに取り合ってもらえなかったが

故に母子が心中したという、痛ましい結果を招いてしまったことがありました。


イジメの加害者は、イジメをしていて楽しいのでしょうか。

イジメの加害者の親は、イジメの事実をどう思っていたのでしょうか。


どうして、こうなってしまったのでしょうか。

答えは、イジメは災難、あるいは厄難である、ということです。

それも、自らに降りかかった火の粉なのです。つまり業なのです。

 

このことから逃れるには、神佛の加護をいただくしかないのです。

 

イジメの加害者も、イジメの被害者も、学校側も、市教委側も

それらに携わる人たちは皆、共に凡夫なのです。

 

凡夫が凡夫に救いを求めたところで、救われることがないのです。

イジメがいっこうに減らない現状を見れば、理解できると思います。

あまりにも痛ましいことです。

 

ご冥福をお祈り申しあげます。

南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛

無量寿、無量光の大悲に包まれて、

阿弥陀さまの浄土、極楽国に往生し、

母子ともども、しあわせでありますように。   合掌

 

それでは、人が人をイジメることは、

人として善い行い、人として悪い行い、

どちらが正しい行いなのでしょうか。

 

イジメの加害者 降伏 南無大聖大悲不動明王

 

善悪の区別ができない者を、人間とは言わないのです。


両親の虐待により、実の娘を死に至らしめた、

あまりにも悪逆非道な行いもありました。

犯罪者に成り下がった両親たちは、

どこで、道を踏み間違えたのでしょうか。


虐待と躾けとは、どう違うのでしょうか。

虐待は無慈悲なる行い。イジメの最たるものです。

躾けは慈悲の行いです。愛情の表われです。


躾けるということを、虐待することだと、考え違いをしていませんか。

虐待をすることは、人として善い行いですか。

虐待をすることは、人として悪い行いですか。

虐待をしていて、楽しいのでしょうか。


ご冥福をお祈り申しあげます。

南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛

無量寿、無量光の大悲に包まれて、

極楽浄土に往生して、しあわせでありますように。   合掌


自らをよりどころとして、他をよりどころにしてはならない。

法をよりどころとして、他の教えをよりどころにしてはならない、と

釈迦牟尼佛陀さまは、教えて下さいました。


佛法僧の三寶を信ずることにより、信心を深めることによって、

神佛のご加護をいただくことができるのです。


要は、目には見えない神佛の存在を、

神佛の加護を信じることが、できるのか、

神佛の加護を信じることが、できないのか。


悩み苦しみから解放され、災難から逃れることができるのでしょうか。

徳を積む、思愛和施になるには、どうしたらよいのでしょうか。


佛法僧の三寶に帰依する。

常に懺悔心と、感謝の心を忘れないこと。

十善戒を保つこと。

南無大日遍照金剛を唱えること。


南無八正道

南無正見 南無正思惟 南無正語 南無正業

南無正命 南無正精進 南無正念 南無正定

八正道の教えを信じて行うこと。


私自身も生身の人間ですから、過ちを犯すこともあります。

そうならないためにも、常に懺悔心と、

感謝の心を忘れないようにしています。


朝夕の勤行は、三密の行をします。

懺悔滅罪、罪障消滅のために祈ります。


坐禅の姿で、ご本尊さまの前に坐ります。

口には、ご本尊さまの真言を唱えます。

心は、南無大聖大悲不動明王と念じています。


三密の行とは、自らの身と、口と、意(心)を一致させることにあります。

そうすることによって、ご本尊さま大聖大悲不動明王さまと一体であると、

一心同体であることを感じ、信じ続けることを、心がけています。


例えて言うと、お不動様に成りきる、

真言そのものに成りきる、ということです。


真言念誦は懺悔の心から始まり、感謝の心でしめくくります。


信じて、拝んで、行ずる。

初心を忘れないことを、肝に銘じております。


話は変わりますが、私自身、身内の恥をさらすようで、

今まで踏ん切りがつかなかったのですが、

私は、父親の酒乱で苦しんできました。

もちろん、母親も、弟も、共に苦しんできました。

一家団欒のはずが、家庭内に安らぎの場はありませんでした。


師匠に相談したことがありましたが、一笑に付されました。

 

そして、殺すか、自殺するか、真剣に悩みました。

間違いなく、殺意はありました。が、

殺すことも、自殺することも出来ずに

苦しみもがきながら、悔し涙を流しながら、

自分を責め続けていました。


それ以来、誰にも頼らずに、佛教書を読み漁り、

救われるには、どうしたらいいのか、模索し続けました。


今では、ここまで導かれたことを、神佛に感謝しております。

 

ここまで来るのに、何十年かかったこと、か。


その頃の父親も、苦しんでいたということです。

今では後期高齢者となり、丸くはなりましたが、

まだまだ、短気で、自己中で、嫌な面があります。

下らないことを言っては、ひとりでウケています。が

酒を飲んでも荒くれるようなことは無くなりました。


そして、今までの苦労が、無駄ではなかったと、信じております。


それと、もうひとつ、私の父方の先祖の誰かが

虚無僧(こむそう)を、殺してしまったということです。

その他、詳細は不明ですが、嘘偽りではないようです。

その祟りもあったのでしょうが、不幸の原因を

すべて、殺された虚無僧の祟りのせいにはしませんでした。

因縁の軽重からすれば、重いほうでした。

私の信心は、まだまだ、浅いままなのでしょう。


だから、イジメや虐待、DVなど、

相手を苦しめるようなことをする人に対しては

心の底から嫌悪感を覚えます。

 

それだから


イジメの加害者 降伏 南無大聖大悲不動明王

イジメの被害者 息災 南無大慈大悲観世音菩薩

 

であり

 

虐待の加害者 降伏 南無大聖大悲不動明王

虐待の被害者 息災 南無大慈大悲観世音菩薩

 

です。


南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛


終りまで読んでいただき、ありがとうこざいます。

ありがとうございました。

 

あなたの抜苦与楽の為に

オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン

オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン

オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン


合掌

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イジメの原因は

2016年09月18日 12時24分17秒 | いじめ

南無帰命頂礼大日如来遍照金剛

なむ きみょうちょうらい だいにちにょらい へんじょうこんごう

南無帰命頂礼大聖大悲不動明王

なむ きみょうちょうらい だいしょうだいひ ふどうみょうおう

 

岩手に続き 青森でも イジメによる被害者である

善男子  善女人の中学生の尊い命が失われました。

『イジメがなければ もうすこし生きられたのに 残念です』

との  最後のメッセージ。

スマホのメモアプリ内の遺書。

それらのニュース記事を読むにつけ

心が痛みます。あまりにも痛ましいことです。

 

今までに イジメを苦に 自らの命を絶つという行為をされた

善男子  善女人の方々の魂が 安らかでありますように・・・

離苦得脱  追善佛果菩提の為に祈りを捧げるのみです。   合掌

 

イジメの被害を受けてから

死を選ばざるを得なくなった心境を想うに

イジメの加害者には到底理解知りえない

肉体的苦しみ 痛かったことでしょう。

精神的苦しみ 辛かったでしょう。

それら等に苛まされたことでしょう。

肉体的に傷を負わされ そのうえ 精神的にも傷を負わされた。

さまざまな屈辱を受けられたことでしょう。

 

ここで問題になるのは

イジメは イジメられている方 (被害者) が いけないのか。

イジメは イジメている方 (加害者) が 悪いのか。

 

どちらに非があるのでしょうか。

 

加害者の弱い者イジメは

被害者が弱いから イジメられるのでしようか。

それは イジメられる側にも イジメる側にも 原因があります。

 

過去にイジメをした原因があるから

現在その結果としてイジメられるのです

 

過去にイジメられた原因があるから

現在その結果としてイジメる側になるのです

 

怨憎会苦 (おんぞうえく)。

憎しみ 怨みをもつ者と会わなければならない苦しみです。

イジメられる人も 怨憎会苦なのです。

イジメる人も 怨憎会苦なのです。

 

そして イジメられる側の 『何故 イジメられなければならないのか』

相手に対して 『何も悪いことはしていないのに』 という思い。

加害者に 『もう イジメを止めて下さい』 と言っても

相手には届かない思い。

その自分の思い通りにならない苦しみを

求不得苦 (ぐふとっく) というのです。

求めても得られない苦しみです。

 

それから 両親に対して心配をかけたくないから

イジメられていることを隠している。

担任の先生に相談してもらちが明かなくなると

全部自分一人で背負いこんでしまい

目の前の現実から逃避するために

死を選ばざるを得なくなる。

もう 死ぬしかないんだと。これが死苦 (しく) です。

死ななければならない苦しみです。

そして 生きていくことが苦しみになるのです。

これが生苦 (しょうく) です。

 

両親からすれば 突然の 愛する息子 愛する娘との死別。

このことが両親にとって苦しみとなるのです。

これが 愛別離苦 (あいべつりく) です。

愛する者と別れ離れになる苦しみです。

 

では どうすれば イジメから解放されるのでしようか。

それは イジメられない人間になることです

 

例えば お腹を蹴られて痛い。痛くてしょうがない

授業どころではなければ、保健室に逃げ込むことです。

そして 早退することです。まずは身を護ることを優先すべきです。

それ以降もイジメが続くならば 保健室登校でもいいのです。

それから 必ず両親に相談することです。

 

先生に イジメの事実を伝えても

先生に 救いを求めてはなりません。

学校に イジメの事実を訴えても

学校に 救いを求めてはなりません。

 

何故ならば 学校の担任先生との時間と

両親と一緒に過ごした時間のことを考えてみて下さい。

先生と両親 どちらが同じ時間を長く共有していましたか。

 

子供にとって両親は保護者なのです。

先ずは 保護者である両親に救いを求めて下さい。

イジメられるから学校には行かない。

わざわざイジメられるために学校へ行くことなどないのです。

そして 担任教師から 学校側から

どうして登校してこないのか と 問題提起させるのです。

 

次に イジメの加害者たちのことです。

イジメ 勝手に死んだんだ。

死んだ方が悪いくらいにしか思っていないでしょう。

イジメの事実を認めて 謝罪する気などさらさらないでしょう。

それよりも 自己正当化するでしょう。

時が経って イジメで他人を死に追いやってしまった罪悪感に

悩まされるようなことになれば それは もう後の祭りです。

 

悪いことをしておいて 何も悪い報いが起きないときは

それで当たり前だと勝手に思っているものです。

ところがです。何かの悪い報いが起こると とたんに苦しみに変わるのです。

 

自分がやるから 他人もするし

他人がするから 自分もやろうと思うものです。

イジメられないために イジメる側に加担する。

悪業の連鎖が 悪果の連鎖を生むのです。

 

まあ その間に 岩手の件ですけれども 第三者により

ネット上に 加害者宅の写真や 表札の取られた玄関の写真とか

テレビでモザイクのかかった校長の顔も さらされたようですし

氏名など アップされたようです。

 

業因業果 (ごういんごっか) 。業のことをカルマといいます。

行為ということです。

 

身業 口業 意業とは、人間に具わっている

身体の働き 言葉の働き 心の働きのことです。

 

この三つの業により 人間は善いことをすれば

人間は悪いこともするのです。

 

この身体を使っての暴力 殴る蹴る叩く等・・・

言葉の暴力 人間のクズだとか ウザい キモイ 臭い 死ねだとかの

悪口雑言 誹謗中傷等・・・

意業は 心の中で思うことです。

言葉には出さないが 心の中で密かに悪意を抱くことです。

これらが イジメをする側の 加害者たちの 現世での悪因になるのです。

 

この様なことにならない為には イジメをしない人間になることです

 

原因無くして 結果を得るという このことわり 有ること無しです。

善を行うこと無くして 苦から免れる このことわり 有ること無しです。

 

因果の道理に目覚め 自分の罪業を懺悔 (さんげ) して

イジメられる側も イジメる側も 共に救われる道を歩まないかぎり

このこと以外には イジメの被害者も 加害者も無くならないでしょう。

 

南無大日遍照金剛  オン アビラウンケン バサラダト バン

南無大日遍照金剛  オン アビラウンケン バサラダト バン

南無大日遍照金剛  オン アビラウンケン バサラダト バン

 

そして 神佛のご加護をいただける人間になることです。

 

最後まで読んでいただき 有り難うございます。

有り難うございました。

合掌

 

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