あの人達は死刑執行される為に、この世に生を享けたのでしょうか。
天上天下 唯我独尊 (てんじょう てんげ ゆいが どくそん)
と、云う教えがあります。
天にも、地にも、唯、我れ独り尊い、と云う意味です。
これは単なる独り善がりのことではありません。
我れ独り、自分だけが尊い、と云うことでもありません。
他人などは、どうでもいい、他人無視の自己優先
自分さえ善ければいいと云う、独善でもありません。
一切衆生、生きとし生ける者、独り独りが尊い、と云うことです。
自分も他人も、平等に、独り独りが、唯我独尊なのです。
本質的に、自他共に唯我独尊である筈なのですが、
そのことを知らずに、教えられない人間にとっては、
佛縁も、信心も、自覚も、覚醒も、ありえません。
自らの生命の尊さを知らずに、
ましてや、他人の生命の尊さを知らないからこそ、
ああいう悲惨なことが平気で出来るのです。
ここで勘違いしてはならないのは、
生命の尊さには、差別がないと云うことです。
生まれたばかりの赤ちゃんと、小さな子供たち、童男童女、
成人男性女性、高齢者と、老若男女と姿形の差はありますが、
小さな子供だからと云って、小さい生命ではないのです。
大人だからと云って、大人の生命だけが価値があるなど、
老人だからと云って、生命の価値が低くみられるなど、
あってはならないことです。
世間が悪い、社会が悪い、あいつ等が悪いと、
恨んで目の敵にして、逆恨みも甚だしい限りです。
感情的で、平気で責任転嫁する。悪いのは自分のせいなのです。
そのことも知らずに、善悪の区別もろくにつかない。
自己中心的な三業により、苦を招いているのです。
そして、自分には価値が無いなどと勝手に卑下して、
死にたいなどと思いながらも、死の恐怖に恐れをなし、
他人を殺したい願望が生まれ、悪願が成就される。
殺人者と成り下がり、死刑執行により、死にたい思いが叶う・・・。
結果的に、その人達の人生は何だったのかと・・・。
悔い改めることが出来ただろうか。
伝教大師(でんぎょうだいし) 最澄(さいちょう)さまの教えに
生ける時、善を作さずんば、死する日、獄の薪とならん、があります。
生きている間に善を行わなかった者は、
生が尽きた後、地獄へとおもむき、
薪として焼かれることに成るのです。
火葬された上に、地獄の業火にて、
業果が尽きるまで、焼き続けられるのです。
地獄に堕ちて苦しむ結果に成るのです。
肉体はすでに骨となってしまったのに、
何ものが苦しみを味わうのでしょうか。
それは、死後、意識が残るのです。
識心が悪果を受けるのです。
これは、私が小僧時代、末寺の小さな寺で、
夕方の勤行をしていた時、お堂の外に気配を感じました。
もし、信者さんが参拝に来られたのなら、足音や息遣い、
何かしら言葉を発していたと思いますが・・・。
姿形は見えませんでしたが、何かが確実にいました。
イメージとしては、肉体のない人間の形をしたもの、
とでも云いましょうか、決して気のせいではなかったのです。
その後も、何度か、そのような体験をしました。
ああ、これが、亡くなった方の識心ではないかと。
人間として、この世に生を享けた限り、生きる上で善悪をわきまえて
善業を積んで、有意義な人生にしたいものです。
そこで、善悪の判別の基準とは、何かです。
十善の教えを保つことが、善であります。
不殺生。不偸盗。不邪淫。
不妄語。不綺語。不悪口。不両舌。
不慳貪。不瞋恚。不邪見。
十悪を行うのが、悪であります。
殺生。せっしょう。偸盗。ちゅうとう。邪淫。じゃいん。
妄語。もうご。綺語。きご。悪口。あっく。両舌。りょうぜつ。
慳貪。けんどん。瞋恚。しんに。邪見。じゃけん。
常に十善を心がける、心構えが必要になります。
十悪を犯した者は、救われないのでしょうか。
改心することにより、罪を償うことにより、救われるのです。
救われるには、罪の自覚がなければなりません。
生きているうちに、心から懺悔(さんげ)するしかありません。
自らの残りの人生を捧げ、懺悔をして、懺悔をして、
懺悔し続けることしかありません。
我、昔より造りし、諸の悪業は
皆、無始の貪 瞋 痴に由り
身 口 意、従り生ずるところなり
一切を我、今、皆、懺悔したてまつる。
懺悔滅罪、罪障消滅、無始以来の罪業
知ると知らざると犯すところの諸の罪
十悪業を懺悔いたします。
常に懺悔心を忘れないことです。
オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン
オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン
オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン
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南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛 南無大日遍照金剛
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