Morrie Allcomer(モーリーオールカマー)の音楽の森

写真・Morrie Allcomer(モーリーオールカマー)の音楽活動、釣り

岡本太郎

2020-01-21 15:48:38 | 日記


 甘えた「冒険」ではなく、恰好をつけた変わったことをやってみるのではなく、日常生活の中で、この社会のどうしようもないシステムの中にがんじがらめにされ、まき込まれながら、しかし最後まで闘う。それこそ、危険にみちた人生だ、何でもないことに筋を通すことの方が、カッコいい冒険よりもはるかにむずかしいし、怖ろしい遊びなのだ。このようにして人生すべてが冒険なら、あえてある時点において、自分を特殊な状況において自己満足する必要はないだろう。朝起きてから寝るまで、瞬間瞬間の闘い。ごく些細なものから、重い決断まで、さまざまだ。瞬間瞬間に賭けて、人生の価値をまったく転換してしまわなくてはならないのだ。
 人生、即、絶望的な闘いなのである。それは絶え間のない、永遠の冒険だと言ってもいい。
 しかしそれならば、今さら「冒険」などと、カッコいい、安易な言葉を使う必要はないともいえる。
 人間は、必ずしも成功することが喜びであり大事なのではない。闘って、後にくずれる。その絶望と憤りの中に、強烈な人生が彩られることもある。
(岡本太郎『自分の中に毒を持て』)

冒険とは、「賭け」であり、「挑戦」であり、「闘い」である、というようなとらえ方が一般的かもしれないけれど、岡本太郎は、一見、単調でつまらない、がんじがらめの日常のなかにこそ、ほんとうの「賭け」があり、「挑戦」があり、「闘い」がある、と言っています。
そのような日常から、一時的に離れて、逃げて、非日常にゆくことは、単なる「遊び」、カッコつけた、甘えた「遊び」だ、とも。
一時的な「非日常」のものに「賭ける」のでなく、何故、永遠の「日常」に賭けないのか、と鋭く問いかけています。
遊びがいけないと、言っているのではないけれど、それはあくまでも「遊び」でしかない。一時的な「冒険」といわれるものは、所詮遊びでしかない、と。だから、遊びが終わるとむなしくなる。むなしくなったら、また次の「遊び」へ、そして、その繰り返し。
逃避し、むなしくなり、また逃避をくりかえしていたら、ほんとうの「生きがい」など感じることができないのだと。
ほんとうの生きがいは、逃げるのではなく、日常的に、毎日、毎日、瞬間、瞬間に賭けて、挑戦して、闘うことだと。それがほんとうの、生きるということだと、言っています。
毎日、毎日が真剣勝負、そのような生き方を選ぶか、選ばないかは自分が決めること。

私は、もう逃げることは、したくない、と思っています。
病気になると、体だけではなく、心も魂までも弱ってしまいます。
私は、2013年の夏、大きく体調を崩し、体も心も魂までも弱ってしまいました。
いろいろなことは、ひとつのことが原因ではなく、ありとあらゆる要素がからまります。
でも、私は、やっぱり、逃げたのだと、いまでは思っています。
私は「日常」から逃げたのです。
いろいろな要素の一番大きなものは、そのことだと、いまは思っています。
逃げたために、その後の後悔や苦しみは、想像を絶するものでした。現在もそれが続いていて、時には生き続けることさえ脅かされるほどです。でも、それは、当然のこととも思っています。
でも、越えられないことなど、ないとも思っています。
私は、もう逃げることは、したくない、と強く思います。
そのためにも、心や魂が弱ってしまわぬよう、体調管理をしてゆかなければと、強く、強く、思います。
私は、やはり、わたしの理想や志や、わたしの一分をとおして、生きてゆきたい。
そのために、毎日、毎日、瞬間、瞬間に、いのちを賭けて、挑戦して、闘って、生きてゆきたい。
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バーナード・ショー 河井維之助

2020-01-21 15:48:13 | 日記


好きなものを手に入れることが肝心だ。
さもないと手に入ったものを無理に好きにさせられるはめになる。
(バーナード・ショー)

男子の生涯の苦渋は
志の高さをいかに守りぬくか
ということにある。
(河井維之助)

前の記事で書いたこと。
動物と人間の違い、「本能のおもむくがままに生きている」動物の「ただ生きている」ことと、
「人間として」生きていること、人生、との違いについて、もう少し書いてみます。

動物には精神的な「苦悩」なんてない、ただ、生きているだけだから。
人間だからこそ、よりよく生きようとするからこそ、苦悩があるのです。

好きでもないもの、ほんとうは心の底から望んでいるものでないもの、そのような手軽な「代用品」で時間つぶしをしたり、暇つぶしをする、本能的な欲望をとりあえず処理する、そして自分をごまかして生きる、そのほうがてっとりばやくて、その方が楽だから。
それは、人間というより動物の生き方に近い。

ほんとうは好きじゃないのに、誘われたから、なんとなくカラオケに行ってだらだら時間をつぶし、
「趣味?カラオケかな?」なんて・・・。
ほんとうはあんまり好きじゃないのだけれど、なんとなく誘われたから、交際したり、結婚したりして・・・、「俺の彼女」とか「俺の嫁さん」とか・・・。
「ま、この程度が自分には妥当かな」なんて・・・。

私にはそのような、「この程度なら・・・」という選択が、耐えられない・・・。
「ほんとうは〇〇が好きなんだけどなぁ」と、呟くことが、耐えられない・・・。

そのように、妥協できない生き方を目指すと、日々、苦悩がつきまとってしまいます。

「人間は考え過ぎるからいけない、動物や、木や草のように、ただ無心にそこに存在すればいい」なんていうことを、よく言われます。
「一理ある」なんて、思ってしまいますが、私は、やっぱり、そのようには生きられないし、生きたいとは思わない。
苦しみ、悩み、そして、それを越えて、「歓喜の淵へ」という「第九」の合唱のような生き方をしたい。

自分の理想や筋をとおしたい、自分の「高い志」をもって、それに向かって生きてゆきたい。
藤沢周平に「武士の一分」という小説があります。(木村拓哉主演でで映画化されました)。
私も、私の「一分」をとおして、生きてゆきたい、そう思っています。

年始から、「かたい話」になってしまいました。
でも、病気になって、ただ寝ているだけの状態が続くと、生きるいうことについて、考えてしまいます。
よりよく生きたい、ただ生きているだけでは、いやだ、と、考えます。
そして、考えるだけではなく、行動してゆきたいと思います。
毎日、毎日が、「自分との闘い」です。
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