甘えた「冒険」ではなく、恰好をつけた変わったことをやってみるのではなく、日常生活の中で、この社会のどうしようもないシステムの中にがんじがらめにされ、まき込まれながら、しかし最後まで闘う。それこそ、危険にみちた人生だ、何でもないことに筋を通すことの方が、カッコいい冒険よりもはるかにむずかしいし、怖ろしい遊びなのだ。このようにして人生すべてが冒険なら、あえてある時点において、自分を特殊な状況において自己満足する必要はないだろう。朝起きてから寝るまで、瞬間瞬間の闘い。ごく些細なものから、重い決断まで、さまざまだ。瞬間瞬間に賭けて、人生の価値をまったく転換してしまわなくてはならないのだ。
人生、即、絶望的な闘いなのである。それは絶え間のない、永遠の冒険だと言ってもいい。
しかしそれならば、今さら「冒険」などと、カッコいい、安易な言葉を使う必要はないともいえる。
人間は、必ずしも成功することが喜びであり大事なのではない。闘って、後にくずれる。その絶望と憤りの中に、強烈な人生が彩られることもある。
(岡本太郎『自分の中に毒を持て』)
冒険とは、「賭け」であり、「挑戦」であり、「闘い」である、というようなとらえ方が一般的かもしれないけれど、岡本太郎は、一見、単調でつまらない、がんじがらめの日常のなかにこそ、ほんとうの「賭け」があり、「挑戦」があり、「闘い」がある、と言っています。
そのような日常から、一時的に離れて、逃げて、非日常にゆくことは、単なる「遊び」、カッコつけた、甘えた「遊び」だ、とも。
一時的な「非日常」のものに「賭ける」のでなく、何故、永遠の「日常」に賭けないのか、と鋭く問いかけています。
遊びがいけないと、言っているのではないけれど、それはあくまでも「遊び」でしかない。一時的な「冒険」といわれるものは、所詮遊びでしかない、と。だから、遊びが終わるとむなしくなる。むなしくなったら、また次の「遊び」へ、そして、その繰り返し。
逃避し、むなしくなり、また逃避をくりかえしていたら、ほんとうの「生きがい」など感じることができないのだと。
ほんとうの生きがいは、逃げるのではなく、日常的に、毎日、毎日、瞬間、瞬間に賭けて、挑戦して、闘うことだと。それがほんとうの、生きるということだと、言っています。
毎日、毎日が真剣勝負、そのような生き方を選ぶか、選ばないかは自分が決めること。
私は、もう逃げることは、したくない、と思っています。
病気になると、体だけではなく、心も魂までも弱ってしまいます。
私は、2013年の夏、大きく体調を崩し、体も心も魂までも弱ってしまいました。
いろいろなことは、ひとつのことが原因ではなく、ありとあらゆる要素がからまります。
でも、私は、やっぱり、逃げたのだと、いまでは思っています。
私は「日常」から逃げたのです。
いろいろな要素の一番大きなものは、そのことだと、いまは思っています。
逃げたために、その後の後悔や苦しみは、想像を絶するものでした。現在もそれが続いていて、時には生き続けることさえ脅かされるほどです。でも、それは、当然のこととも思っています。
でも、越えられないことなど、ないとも思っています。
私は、もう逃げることは、したくない、と強く思います。
そのためにも、心や魂が弱ってしまわぬよう、体調管理をしてゆかなければと、強く、強く、思います。
私は、やはり、わたしの理想や志や、わたしの一分をとおして、生きてゆきたい。
そのために、毎日、毎日、瞬間、瞬間に、いのちを賭けて、挑戦して、闘って、生きてゆきたい。