Morrie Allcomer(モーリーオールカマー)の音楽の森

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まず自分が幸せに

2019-06-17 16:23:09 | 日記

  

 

自己犠牲と言うのは、美談にきこえるけれど、ほんとうにそうでしょうか。自分を犠牲にしても他の人のために生きるということ、「自分さえ我慢すれば」「自分なんてどうなったっていいから」そう考えることはよいことでしょうか?私はそうは思いません。自分を大切にしないことは、人生への、命への冒涜だと思います。自分が幸せになってこそ、人も幸せにできるのではないでしょうか。「自分はいいから、あなたが幸せになって」なんて、人生を投げていることになります。そんなのは卑怯なごまかしだと思います。「あなたのために・・・」という言葉は、相手にとって負担になっていることかもしれない、相手に大きなプレッシャーを与えていることになっているかもしれない。誰かに期待をする、というのは怖いことです。誰かにじゃなく、自分に期待すればいいのです。自分が幸せになれば、幸せになっているその人をみて、周りにもその幸せが伝染(波動ですね)すればよいのです。

(勿論、その逆の「自分さえよければ他の人は犠牲になってもいい」ということも、当然、よくないことです)。

私は以前、詩人というものは(短歌も短詩形文学なので、歌人も詩人ととらえています)、植物でなければならない、と考えていました。植物は人間にとっては汚い(吸うと苦しい)二酸化炭素を吸って、きれいな酸素を吐き出さなければならないと。どんなに苦しくとも、この世界の汚いもの醜いもの怖いもの、さまざまなものから目を背けずに、見て、感受して、自分のなかに取り込んで、それを表にださずに、美しいもの(言葉、詩情、思想)を作品として出さなければならない、と考えていたのです。自分は苦しんで、苦しみぬいて、美しい作品をつくって、世界を美しくすることが詩人の仕事と信じていたのでした。中学生の頃に読んだ、ランボーやリルケ、中原中也や宮澤賢治の影響があったのかもしれません。

そして、幸せのぬるま湯に浸かっている者に、何が書けるというのだ、血を吐いて、地獄を彷徨ってこそ、の詩人だ、と。そして、泥のなかから咲く清廉な蓮の花になりたい、と憧れ、いえ、花ではなく、泥になりたい、と真剣に思っていたのでした。

でも現在はそのようなことは考えていません。そのような生き方、そのような中で生まれた作品を全否定するつもりはありませんが、私はそのような「詩人」にはなりたくないです。

いままでは、さておき、これからは、自分の作品のテーマは「ラブ・&ピース」です。楽しい、嬉しい、幸せ、という内容で書いてゆきたいです。でも、これは「ぬるま湯」とは違うと思います。強い意志の力があって、そのような作品をものにすることが出来ると考えています。ネガティブなことで、人の気をひくのは実は簡単なのです。人はほっておくと、ネガティブな方に考えがゆきがちなので、その方が共感しやすいのです。人が悲しいとき、一緒に泣いてくれる人は多いけれど、人が嬉しいとき、一緒に喜んでくれる人は案外少ないものです。だからこそ、私は、愛に溢れた、嬉しい、楽しい、ポジティブな作品を書いてゆきたいと思います。その作品で、読者も愛に溢れ、嬉しい、楽しい、幸せになってくれれば、こんなに嬉しいことはありません。


幸福のことを考えれば幸福になる。みじめなことを考えればみじめになる。恐ろしいことを考えれば恐ろしくなる。病気のことを考えれば病気になる。失敗のことを考えれば失敗する。自分のことばかりをあわれんでいれば人にきらわれる。(カーネギー)

 

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