3淀姫与止日女は与と卑弥神社卑弥子墓は本庄神社壹与墓は与賀神社
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。中国で枯渇した水銀鉱を求めて呉、越あたりの技術集団が渡来し、丹生氏がとりこみ開発した。後に秦氏がこの役割を担う。丹生氏は水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
また、丹沙は船舶用塗料として海人族の必需品ともされている。丹には塩と同じく防腐作用がある。(地質ニュース351号)(丹生の民俗;丹生都比売伝承)(海人の藻塩;海人の國)。
特定してみよう、もちろん海岸線は今より上流である
狗奴國は、熊本長崎両県の、有明海に注ぐ河川流域の国で、有明海海洋民でもある。北限は熊本県境より北。
邪馬壹國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川下流域の国で、北は投馬國、奴國と接している。(其山有丹)山があり丹がある。有明海海洋民でもある。当時は平野が尽きたであろう熊本の山、福岡県境界隈が南限。
投馬國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國、北は伊都國と接し、東は奴國と接しか?
奴國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國と接している。
伊都國と不彌國は、佐賀福岡両県の、有明海に注ぐ河川、平野部の上流域。
「其餘旁國」は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国。博多湾に注ぐ河川流域の国は、現資料では特定できない。
邪まいつ國とクヌ(玖瓊)國の争いは、有明海、水稲、海洋文化圏の、覇権争いと言えよう。
末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考に、机上で想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんは挑戦してみてください。鍵は水稲栽培。かなりの確立で特定可能。
発見実証へ
水稲栽培は水が命。国の起因水稲文明は、川と平野を無視しては語れない(文系実技無き記憶機械の学者は、皆これを無視し、狂奔した)。古代の河口は現代よりも上流、つまり現代の河口に発展した都市部よりは上流に、水稲文明は開かれた(吉野ヶ里遺跡)。古今、河口に氾濫は付きもの、初期水稲栽培は、水を高低管理し易い上流と考えるのが常識。水の高低管理が進化し下流に拡大したが河川氾濫で再び上流へ、上流下流行きつ、戻りつし、水稲文明を拡大した。つまり、河口の遺跡より、上流の遺跡が古い。陸稲(個人)から水稲(集団)へ、稲作は山から麓へ下りてきた。奴國二萬餘戸、投馬國五萬餘戸、邪馬壹國七萬餘戸は、食料確保の田畑や海があり、まかなえる食料を所有していることを意味する。食料確保が人工増加となり、人工増加が、さらなる食料をもとめる南下開拓に、拍車をかけた。前記戸数は、この事を物語っている。
遺跡は、都市化が進み開発されてはじめて発見される。未開発地の遺跡いまだに未発見は当然のなりゆき、遺跡多少で断定する従来の学問は間違い。都市化が進み開発され発見された、現代の河口部の遺跡は、氷山の一角、上流には、更に古い膨大な遺跡が眠っている。長崎自動車道は山、南の平野であったならと惜しまれる。
国は忽然とは生まれない。起因過程を経て誕生する。論理回路欠落の仮想現実界は、この現実界の常識を無視し暴走、空論がはびこった。
弱肉強食の戦国時代を隠蔽し、日清日露大東亜戦争起因過程を、論理的に検証せず、平和な時代を侵略し、破壊した極悪日本と、なんと64年間も条件反射で、オウムがえし。まさしく仮想現実界は論理回路欠落、人間性喪失の、虚実無検証で記憶する、単なる記憶装置である。火の無いところに煙は立たない。誰も戦争などしたくない。調べれば直ぐ分かることなのだ。そして、辞書を繰れば即座解明の、壹(いつ)と臺(たい)、女王之所都、これすらも調べなかった。まさに無検証そのもの、単なる記憶装置だ。
仮想現実界の教授、作家、歴史学者は、間違いだ改竄だと称し著者陳寿を冒涜、言葉と文字のあいまいさ無責任をフル活用、傍若無人の愚行を未だに続けている。著者陳寿冒涜は、おのれの学問も、そんな類のものであることを自白していることに他ならない。
「三国志魏書東夷伝倭人条」は、滅びた蜀の国の人陳寿が、後世に遺す正史として書いたものである。正史は末代まで遺る、間違いは、己のみにとどまらず、末代の己の子孫の汚名ともなる。正に諸刃の剣。自らの名誉と自らの子孫の名誉を懸け、乾坤一擲の思いで陳寿は書いた。私はそのようにしか思えない。肩書でもてあそぶ金儲けの輩と、乾坤一擲の陳寿。迫力、次元が異なる。(注・聞き書きの戸数や国名や国の数は、誇大捏造の可能性はある。陳寿の罪ではない)
真実史観は東大と京大の原典無視の邪馬台国論争と、仮想現実界の先人愚弄をあらわにし、文系高学歴の正体、条件反射でオウム返し、単なる記憶装置と暴露した。正に、検証回路皆無を証明して余りある。日本の文系仮想現実界は、肩書が墓標の墓場である。原典を批判し無視の前に、原典の徹底検証が学問の初歩で常道。学徒なら丸暗記などせず、シュリーマンを鑑とすべき。真実史観はこれに基づいただけである。ネチズンの皆さんも常道に基づけば、間違いなく続々と新発見可能である。そして、東大と京大の学問は、初めに結論有りで、学問ではないことに皆気付くはずだ。
学問は仮想現実界だけの、慰み物ではない。肩書(墓標)作成の道具ではない。実事求是で役立てるものだ。手弁当での、ネチズンの学究姿勢こそが、学問の原点である。文系心ある志学の徒は、原点回帰し、学問に帰れ。
邪馬壹國のその後真実史観の検証
検証は、佐賀市大和町川上の、与止日女神社(河上神社)から始まった。河上神社は6世紀創建で、祭神は、與止日女命(よどひめのみこと)で旧県社。旧社号は河上神社で、與止日女神社と社号変更は最近のこと。地元では、「よどひめ」さんと呼称されており、肥前国一宮(古代末期から、中世初頭にかけて発生した社格)。一宮呼称は、千栗神社(祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)と争った、とある。旧社号河上神社は、川神(かわかみ)神社で、與止日女(よどひめ)は、「與(壹與)と卑弥(卑弥呼)」「与と日水」で、はないかと推定し、よどひめ神社を、1:3万の地図と神社事典、神社名鑒で検証し、年表で変遷を追った。詳細は稿を改めるので、ここでは割愛する。
246~247年この頃卑弥呼死す。墓を作る。
247年(正始8年)卑弥呼宗女(卑弥呼と同じ血筋)壹與(いつよ)13歳を、王とする。
266年(泰始2年)『晋書』起居註に倭の女王の使者が朝貢したとの記述。この女王は壹與(いつよ)と考えられる。
壹與(いつよ)死す。墓を作る。
以後起こった争乱と天変地異を鎮めるため、平和な時代を作った壹與と日水子を邪馬壹國の守り神とし、壹與と日水子の社を、信奉する子孫が重要な川沿いに祀り、與と日水(よとひみ)社とした。
與と日水(よとひみ)祭神神社
嘉瀬川流域
◎淀姫神社。佐賀市富士町上無津呂「上無津呂川河畔(嘉瀬川最上流)」。淀姫「與(壹與)と日水(卑弥呼)」神社は、本流、支流合流部に鎮座している。文久2年(1863)の棟札に1350年祭をとりおこなったと、記録にあるので、513年創建と考えられる。旧郷社
上無津呂川は、雷山(953.3)が水源。上無津呂川は、支流五つが合流し神水川ともいう。上流の、本流と支流はあわせて六つ。「雷山」「上無津呂川」表意は、「来山」「神六つ路川」と推測できる。神水川は、嘉瀬川(古場川)と合流し嘉瀬川となる。嘉瀬川と今はなっているが、表意は川神川、ではなかったか。上流下流にかかわらず、ダム、発電所名は川上で、下流景勝地名は川上峡である。
◎淀姫神社。佐賀市富士町古湯(貝野川合流河口部河畔)。旧村社。資料無し。
◎河上神社(前出の與止日女神社)「よどひめ」さん。佐賀市大和町河上。欽明天皇25(564)年創立とある。最後の支流が合流し終えて、分流する直前の嘉瀬川河畔「景勝地河上峡」に鎮座している。
◎淀姫神社。佐賀市三日月町堀江(祇園川河畔で、嘉瀬川合流河口。嘉瀬川下流)資料無し。
◎淀姫神社。佐賀市川副町福富。旧村社。資料無し。
◎与賀(よか)神社(與止日女神奉斎)。佐賀市与賀町。
「神社名鑒」欽明天皇25(564)年創建し、與止日女神大明神と称したとある。旧県社。
「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」欽明天皇26(565)年に、佐嘉郡小津西郷の塚原大明神を遷して祀ったと伝えられるもので、初めは塚原大明神と称したが、朝廷より、與止日女大明神の神号を賜り、勅願所となったと伝えられる古社。祭神は豊玉姫命のほか、七柱の神を祀っている。
◎本庄神社(與止日女神奉斎)。佐賀市本庄町。本荘大明神とも称す。昭和38(1963)年、鎮座1400年祭がとりおこなわれた(563年創建)。佐嘉郡本荘妙見山淀姫大明神が、大塚妙見社において、示現したともいう。旧郷社。
嘉瀬川は川上峡下流から放射状に分流し、佐賀平野を潤している。日と水が頼りの水稲栽培、「川神」呼称、河畔の祭神「よどひめ(與と卑弥)(與と日水)」さんは、得心できる。
その他の與止日女神奉斎神社
◎野波神社。佐賀県神崎郡三瀬村。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市朝日町。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市岩本町桃ノ川。
◎河上大明神(淀姫神社)。佐賀県伊万里市大川町大川野。河上大明神だったが、明治に淀姫神社に改号。「松浦記」に欽明天皇25(564)年創立とある。旧郷社。
◎豊姫神社。佐賀県伊万里市松浦町桃ノ川。旧村社
◎淀姫大明神。佐賀県伊万里市松浦町境川。
◎淀姫神社。佐賀県伊万里市黒川町黒塩。
◎淀姫神社。佐賀県西松浦郡有田町広瀬。
◎豊玉姫神社。佐賀県嬉野市下宿。旧郷社。
◎河上神社。佐賀県藤津郡平町。旧村社。
◎淀姫神社。長崎県松浦市示佐町。欽明天皇25(564)年鎮座式。旧郷。
◎淀姫神社。福岡県三池郡高田町江浦。旧村社。
◎伏見神社。福岡県筑紫郡那珂川町。旧村社。
◎平川淀姫神社。熊本県菊池大津町。旧村社。
長崎県松浦市、佐賀県伊万里市、有田町、武雄市、嬉野市、小城市、佐賀市大和町、佐賀市、神崎市、福岡県三池郡高田町と地図に記載。邪馬壹国が現出した。まさに、邪馬壹国のルーツと勢力範囲が、征服と社号変更の嵐の中、残ったのだ。
◎与杼神社。京都市伏見区淀本町。旧郷社。
372年 369(泰和4)年百済王七支刀をつくり、372年に倭王「旨」に贈った。国王名一字の時代始まる。
391年広開土王(好太王)碑文。「倭、辛卯の年(391年)を以って来り、海を渡り百残、○○、新羅を破り、以って臣民と為す」
4世紀海神(わだつみ)神社対馬に鎮座とある。豊玉姫が祭神。国王名一字の王の先祖が創建したのだろう。対馬伊呂波は50音の異称。対馬の国人がこれによって梵音を伝えたという。
413年(義熙9年)の倭王讃の中国への朝貢開始。以後、珍・済・興・武まで12回の朝貢(倭の五王)。朝貢の目的は、征服した半島の勢力維持のため。
502年倭王武朝貢。
與と日水(よとひみ)から淀姫、河上、河上大明神、与賀、本庄、野波への痕跡無き社号変更は、国王名一字の王に征服され成されたものだろう。旧号は、與と日水(よとひみ)を暗示して余りある。社号変更しているので、国王名一字の王は、佐賀県の腰岳産黒曜石の海洋民がルーツではなく、大分県姫島産黒曜石の海洋民がルーツか、隠岐と脇本(秋田県)産黒曜石の海洋民がルーツで、北部九州河川の水稲栽培地を背景に有した、湾岸海洋民主体の国の王であろう。「魏志倭人伝」對海國(對馬國)の北島記載無し、末盧國官記載無しの理由は、他国ではあるが(狗邪韓國を有しているので、全盛時は領土の可能性が高い)、当時は友好国であったと、合点がいく。以後の変遷から推察すると、「魏志倭人伝」記載の邪馬壹國は末期であった。シャングリラ(桃源郷)佐嘉で農耕民と化し、水稲一大王国を築いたが、同時に武力を失った。騒乱の地北部九州で、ひたすら武力をみがいていた海洋民主体の王に敗れたが、真相であろう。
528年磐井の乱。大和朝廷に磐井は切られた。九州王朝の黄昏。
豊姫、豊玉姫、伏見、平川への社号変更、豊姫、豊玉姫などの祭神追加は、大和朝廷征服以後のことだろう。◎淀姫神社(佐賀市)513年創建。◎河上神社(564)年創立。◎与賀(よか)神社(564)年創建。◎本庄神社(563)年創建。◎河上大明神(564)年創立。◎淀姫神社(長崎県)(564)年鎮座式。宇佐神宮も欽明天皇32年(571)鎮座とある、社号変更と考えるのが自然。奥宮に三つの石体を有する宇佐神宮、祭神は比売神(ひめがみ)(地主神)と応神天皇、神功皇后である。
肥国(ひのくに)
712年「古事記」では、「肥(ひ)。佐賀、長崎、熊本」。「筑紫(つくし)。福岡から南西部まで」。「豊(とよ)。九州北東部」。「熊襲(くまそ)。九州南部。宮崎・鹿児島」の4国。
713年肥前国風土記は、肥君らの祖、健緒組が土ぐも(大和朝廷に従わない、土着の民の蔑称)を討ったとき、火が天から山に降って燃えたため、火の国としたと伝えている。元、肥の国。7世紀後半肥前肥後2国に分け、「延喜式」に11郡。国府は現在の大和町付近。
967年「延喜式」内の河上神社(與止日女神社)の比定社。肥前国一宮。
あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒天照大神。あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒ひ(肥)⇒ひ(火)。と継承された。
壹與(いつよ)と卑弥呼(日水子)の墓
佐賀県の弥生時代の墓は、甕棺や箱式石棺などを埋めた上に数個の支石を置き、その上に巨石を載せた特徴的な形式である。神崎郡脊振村や唐津の支石墓(ドルメン)は名高い。古墳は、佐賀平野一帯や、伊万里唐津湾沿岸で800余り発見されたが、ほとんどが破壊され、残っているのは少ない。「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」とある。「與と日水」を「與止日女」として奉斎した子孫なら、破壊されるような墓には決してしていないはずだ。まず、神社の起源をおってみよう。
百科事典マイペディア・広辞苑・古語辞典
石神
神霊が降臨する石。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)や、超自然力をもつという石の信仰は古く自然石を神体とする神社は多い。また陽物に類する石を(しゃくじん)、(さごし)などと呼び、安産性病の治癒、雨乞いなどを祈願する例も各地にみられる。依代(よりしろ)が人間である場合を尸童(よりまし)という。
尸童(よりまし)。
神霊の依代(よりしろ)としての人間。依座とも。清浄な生活をする童男・童女の場合が多く、祭礼の場合などは着飾って行列の中心となる。また、人間を馬に乗せて尸童とすることもある。いずれも神に魅せられた姿とされる。古くは託宣が尸童の口から語られた。また、童児に限らず、成年男女が立てられたこともあった。
依代(よりしろ)
神の依りつく物をいう。神霊が降臨して、その意志を伝えるためには憑依(ひょうい)体を必要とするとの信仰に基づく。山、岩石、樹木、御幣、動物、人間などがあてられる。神社では普通、依代を霊代(みたましろ)と呼び、神像、鏡、御幣、石などをあてる。
磐座(いわくら)・磐境(いわさか)
神社の原始的斎場。自然の岩石、またそれに多少の人工を加えたもので、そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ、降臨石・陽向(ようご)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり、本殿のないものを普通とする。「日本書紀」によれば、天孫の座を磐座とし、磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。
神籬(ひもろぎ)。
そこに神霊を招き、祭祀の対象とするために設けられたもの。清浄な地にある常緑樹や清浄な地にサカキ(榊)を立てたものと推察される。
榊・賢木(さかき)
境(さか)木の意か。ときわ木(常緑樹)の総称。特に神事に用いる木をいう。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。古来神木として枝葉は神に供した。ヒサカキも同様に用いる。古くはシキミなども含めてサカキといったらしい。(注・佐賀の神社にはクスノキ(クスノキ科の常緑高木)の巨木が実に数多だ。最初の榊は、ときわ木(常緑樹)の、クスノキではなかったか)
祠・叢祠(ほこら)
ホクラ(神庫)の転。神をまつる小やしろ。
社(やしろ)。
百科事典:天神地祇を鎮祭する殿舎。語源的には屋代であり、斎場をもって殿舎に代える意。
古語辞典:神が来臨する所。古代では、地を清め臨時に小屋などを設けて、神を迎えたという。
広辞苑:屋代(やしろ)の意。神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。神の降下する所。神をいわい祭った斎場。後世、神社。
神社
磐座(いわくら)・磐境(いわさか)のような神聖な場所に、神籬(ひもろぎ)を設けて神をまつったものと考えられる。秋の豊年祈念と、秋の収穫感謝の祭りが中心であった。
古墳時代
弥生時代についで、ほぼ三世紀末(卑弥呼、壹與の時代に該当)から七世紀に至る。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。
神社建築
神を祭るための建築で、本殿、拝殿、舞殿、祝詞舎(のりとや)、鳥居などからなる。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)を前身とし、おそくとも古墳時代(三世紀末)には存在したと考えられる。
卑彌呼の墓の大きさ
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」「この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」。径(直径)は20数mである。
卑彌呼と壹與(いつよ)の墓は?
前記のように、与賀(よか)神社本庄神社は社号も淀姫と異なり、縁起も特異な二社である。場所も直線で1350メートルと非常に近い。資料不足ではあるが、あえて想像力を喚起し特定すれば、与賀(よか)神社は壹與(いつよ)の墓でやしろ(社)。元の呼称は與ミヤ、與社、與神社。本庄神社は日水子の墓でやしろ(社)。元の呼称は本ミヤ、本社、本神社または日水ミヤ、日水社、日水神社。分社され、與と日水社、與と日水神社となったが、政変で改号。度重なる改号を余儀無くされたが、隠れ「與と日水」として現代に至った。
現資料ではここまでが限界。仮説から真理へ。残るは、発見による実証のみである。更に詳しくはネチズンの力をお借りしたい。また下記に対訳してあるので、論理的に果敢に挑戦してほしい。
シュリーマン(ドイツの商人、後に考古学者。1822~1890)貧しい牧師の家に生まれ、大商人として財を成した後、トロイヤ、ミュケナイなどの遺跡を発見した。著書自伝「古代への情熱」は著名。
ホメロスの叙事詩トロイヤの物語を、単なる創作物語として一笑に付し、当時の学者は誰一人顧みなかった。シュリーマンただ一人、少年時代に愛読したホメロスの世界を信じ、「イーリアス」「オデュッセイア」を疑わず、ダーダネルス海峡のほとりのトロイヤの遺跡を、1870年(48歳)に自費で発掘開始し、発見した。
末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考にすれば、川と地形が鍵なので、机上でかなりの想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんの実証に期待。第一発見者シュリーマンに挑戦してください。鍵は水稲栽培、伊都國、不彌國。そうとうな確立で特定、発見可能。1800年に及ぶ日本文系学者の空論は、現実界の道理で破壊され、2009年真実史観で、陳寿の邪まいつ國は眼前に姿を現した。陳寿は明解、実証は目前だ。2009.1.23.4につづく
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。中国で枯渇した水銀鉱を求めて呉、越あたりの技術集団が渡来し、丹生氏がとりこみ開発した。後に秦氏がこの役割を担う。丹生氏は水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
また、丹沙は船舶用塗料として海人族の必需品ともされている。丹には塩と同じく防腐作用がある。(地質ニュース351号)(丹生の民俗;丹生都比売伝承)(海人の藻塩;海人の國)。
特定してみよう、もちろん海岸線は今より上流である
狗奴國は、熊本長崎両県の、有明海に注ぐ河川流域の国で、有明海海洋民でもある。北限は熊本県境より北。
邪馬壹國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川下流域の国で、北は投馬國、奴國と接している。(其山有丹)山があり丹がある。有明海海洋民でもある。当時は平野が尽きたであろう熊本の山、福岡県境界隈が南限。
投馬國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國、北は伊都國と接し、東は奴國と接しか?
奴國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國と接している。
伊都國と不彌國は、佐賀福岡両県の、有明海に注ぐ河川、平野部の上流域。
「其餘旁國」は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国。博多湾に注ぐ河川流域の国は、現資料では特定できない。
邪まいつ國とクヌ(玖瓊)國の争いは、有明海、水稲、海洋文化圏の、覇権争いと言えよう。
末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考に、机上で想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんは挑戦してみてください。鍵は水稲栽培。かなりの確立で特定可能。
発見実証へ
水稲栽培は水が命。国の起因水稲文明は、川と平野を無視しては語れない(文系実技無き記憶機械の学者は、皆これを無視し、狂奔した)。古代の河口は現代よりも上流、つまり現代の河口に発展した都市部よりは上流に、水稲文明は開かれた(吉野ヶ里遺跡)。古今、河口に氾濫は付きもの、初期水稲栽培は、水を高低管理し易い上流と考えるのが常識。水の高低管理が進化し下流に拡大したが河川氾濫で再び上流へ、上流下流行きつ、戻りつし、水稲文明を拡大した。つまり、河口の遺跡より、上流の遺跡が古い。陸稲(個人)から水稲(集団)へ、稲作は山から麓へ下りてきた。奴國二萬餘戸、投馬國五萬餘戸、邪馬壹國七萬餘戸は、食料確保の田畑や海があり、まかなえる食料を所有していることを意味する。食料確保が人工増加となり、人工増加が、さらなる食料をもとめる南下開拓に、拍車をかけた。前記戸数は、この事を物語っている。
遺跡は、都市化が進み開発されてはじめて発見される。未開発地の遺跡いまだに未発見は当然のなりゆき、遺跡多少で断定する従来の学問は間違い。都市化が進み開発され発見された、現代の河口部の遺跡は、氷山の一角、上流には、更に古い膨大な遺跡が眠っている。長崎自動車道は山、南の平野であったならと惜しまれる。
国は忽然とは生まれない。起因過程を経て誕生する。論理回路欠落の仮想現実界は、この現実界の常識を無視し暴走、空論がはびこった。
弱肉強食の戦国時代を隠蔽し、日清日露大東亜戦争起因過程を、論理的に検証せず、平和な時代を侵略し、破壊した極悪日本と、なんと64年間も条件反射で、オウムがえし。まさしく仮想現実界は論理回路欠落、人間性喪失の、虚実無検証で記憶する、単なる記憶装置である。火の無いところに煙は立たない。誰も戦争などしたくない。調べれば直ぐ分かることなのだ。そして、辞書を繰れば即座解明の、壹(いつ)と臺(たい)、女王之所都、これすらも調べなかった。まさに無検証そのもの、単なる記憶装置だ。
仮想現実界の教授、作家、歴史学者は、間違いだ改竄だと称し著者陳寿を冒涜、言葉と文字のあいまいさ無責任をフル活用、傍若無人の愚行を未だに続けている。著者陳寿冒涜は、おのれの学問も、そんな類のものであることを自白していることに他ならない。
「三国志魏書東夷伝倭人条」は、滅びた蜀の国の人陳寿が、後世に遺す正史として書いたものである。正史は末代まで遺る、間違いは、己のみにとどまらず、末代の己の子孫の汚名ともなる。正に諸刃の剣。自らの名誉と自らの子孫の名誉を懸け、乾坤一擲の思いで陳寿は書いた。私はそのようにしか思えない。肩書でもてあそぶ金儲けの輩と、乾坤一擲の陳寿。迫力、次元が異なる。(注・聞き書きの戸数や国名や国の数は、誇大捏造の可能性はある。陳寿の罪ではない)
真実史観は東大と京大の原典無視の邪馬台国論争と、仮想現実界の先人愚弄をあらわにし、文系高学歴の正体、条件反射でオウム返し、単なる記憶装置と暴露した。正に、検証回路皆無を証明して余りある。日本の文系仮想現実界は、肩書が墓標の墓場である。原典を批判し無視の前に、原典の徹底検証が学問の初歩で常道。学徒なら丸暗記などせず、シュリーマンを鑑とすべき。真実史観はこれに基づいただけである。ネチズンの皆さんも常道に基づけば、間違いなく続々と新発見可能である。そして、東大と京大の学問は、初めに結論有りで、学問ではないことに皆気付くはずだ。
学問は仮想現実界だけの、慰み物ではない。肩書(墓標)作成の道具ではない。実事求是で役立てるものだ。手弁当での、ネチズンの学究姿勢こそが、学問の原点である。文系心ある志学の徒は、原点回帰し、学問に帰れ。
邪馬壹國のその後真実史観の検証
検証は、佐賀市大和町川上の、与止日女神社(河上神社)から始まった。河上神社は6世紀創建で、祭神は、與止日女命(よどひめのみこと)で旧県社。旧社号は河上神社で、與止日女神社と社号変更は最近のこと。地元では、「よどひめ」さんと呼称されており、肥前国一宮(古代末期から、中世初頭にかけて発生した社格)。一宮呼称は、千栗神社(祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)と争った、とある。旧社号河上神社は、川神(かわかみ)神社で、與止日女(よどひめ)は、「與(壹與)と卑弥(卑弥呼)」「与と日水」で、はないかと推定し、よどひめ神社を、1:3万の地図と神社事典、神社名鑒で検証し、年表で変遷を追った。詳細は稿を改めるので、ここでは割愛する。
246~247年この頃卑弥呼死す。墓を作る。
247年(正始8年)卑弥呼宗女(卑弥呼と同じ血筋)壹與(いつよ)13歳を、王とする。
266年(泰始2年)『晋書』起居註に倭の女王の使者が朝貢したとの記述。この女王は壹與(いつよ)と考えられる。
壹與(いつよ)死す。墓を作る。
以後起こった争乱と天変地異を鎮めるため、平和な時代を作った壹與と日水子を邪馬壹國の守り神とし、壹與と日水子の社を、信奉する子孫が重要な川沿いに祀り、與と日水(よとひみ)社とした。
與と日水(よとひみ)祭神神社
嘉瀬川流域
◎淀姫神社。佐賀市富士町上無津呂「上無津呂川河畔(嘉瀬川最上流)」。淀姫「與(壹與)と日水(卑弥呼)」神社は、本流、支流合流部に鎮座している。文久2年(1863)の棟札に1350年祭をとりおこなったと、記録にあるので、513年創建と考えられる。旧郷社
上無津呂川は、雷山(953.3)が水源。上無津呂川は、支流五つが合流し神水川ともいう。上流の、本流と支流はあわせて六つ。「雷山」「上無津呂川」表意は、「来山」「神六つ路川」と推測できる。神水川は、嘉瀬川(古場川)と合流し嘉瀬川となる。嘉瀬川と今はなっているが、表意は川神川、ではなかったか。上流下流にかかわらず、ダム、発電所名は川上で、下流景勝地名は川上峡である。
◎淀姫神社。佐賀市富士町古湯(貝野川合流河口部河畔)。旧村社。資料無し。
◎河上神社(前出の與止日女神社)「よどひめ」さん。佐賀市大和町河上。欽明天皇25(564)年創立とある。最後の支流が合流し終えて、分流する直前の嘉瀬川河畔「景勝地河上峡」に鎮座している。
◎淀姫神社。佐賀市三日月町堀江(祇園川河畔で、嘉瀬川合流河口。嘉瀬川下流)資料無し。
◎淀姫神社。佐賀市川副町福富。旧村社。資料無し。
◎与賀(よか)神社(與止日女神奉斎)。佐賀市与賀町。
「神社名鑒」欽明天皇25(564)年創建し、與止日女神大明神と称したとある。旧県社。
「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」欽明天皇26(565)年に、佐嘉郡小津西郷の塚原大明神を遷して祀ったと伝えられるもので、初めは塚原大明神と称したが、朝廷より、與止日女大明神の神号を賜り、勅願所となったと伝えられる古社。祭神は豊玉姫命のほか、七柱の神を祀っている。
◎本庄神社(與止日女神奉斎)。佐賀市本庄町。本荘大明神とも称す。昭和38(1963)年、鎮座1400年祭がとりおこなわれた(563年創建)。佐嘉郡本荘妙見山淀姫大明神が、大塚妙見社において、示現したともいう。旧郷社。
嘉瀬川は川上峡下流から放射状に分流し、佐賀平野を潤している。日と水が頼りの水稲栽培、「川神」呼称、河畔の祭神「よどひめ(與と卑弥)(與と日水)」さんは、得心できる。
その他の與止日女神奉斎神社
◎野波神社。佐賀県神崎郡三瀬村。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市朝日町。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市岩本町桃ノ川。
◎河上大明神(淀姫神社)。佐賀県伊万里市大川町大川野。河上大明神だったが、明治に淀姫神社に改号。「松浦記」に欽明天皇25(564)年創立とある。旧郷社。
◎豊姫神社。佐賀県伊万里市松浦町桃ノ川。旧村社
◎淀姫大明神。佐賀県伊万里市松浦町境川。
◎淀姫神社。佐賀県伊万里市黒川町黒塩。
◎淀姫神社。佐賀県西松浦郡有田町広瀬。
◎豊玉姫神社。佐賀県嬉野市下宿。旧郷社。
◎河上神社。佐賀県藤津郡平町。旧村社。
◎淀姫神社。長崎県松浦市示佐町。欽明天皇25(564)年鎮座式。旧郷。
◎淀姫神社。福岡県三池郡高田町江浦。旧村社。
◎伏見神社。福岡県筑紫郡那珂川町。旧村社。
◎平川淀姫神社。熊本県菊池大津町。旧村社。
長崎県松浦市、佐賀県伊万里市、有田町、武雄市、嬉野市、小城市、佐賀市大和町、佐賀市、神崎市、福岡県三池郡高田町と地図に記載。邪馬壹国が現出した。まさに、邪馬壹国のルーツと勢力範囲が、征服と社号変更の嵐の中、残ったのだ。
◎与杼神社。京都市伏見区淀本町。旧郷社。
372年 369(泰和4)年百済王七支刀をつくり、372年に倭王「旨」に贈った。国王名一字の時代始まる。
391年広開土王(好太王)碑文。「倭、辛卯の年(391年)を以って来り、海を渡り百残、○○、新羅を破り、以って臣民と為す」
4世紀海神(わだつみ)神社対馬に鎮座とある。豊玉姫が祭神。国王名一字の王の先祖が創建したのだろう。対馬伊呂波は50音の異称。対馬の国人がこれによって梵音を伝えたという。
413年(義熙9年)の倭王讃の中国への朝貢開始。以後、珍・済・興・武まで12回の朝貢(倭の五王)。朝貢の目的は、征服した半島の勢力維持のため。
502年倭王武朝貢。
與と日水(よとひみ)から淀姫、河上、河上大明神、与賀、本庄、野波への痕跡無き社号変更は、国王名一字の王に征服され成されたものだろう。旧号は、與と日水(よとひみ)を暗示して余りある。社号変更しているので、国王名一字の王は、佐賀県の腰岳産黒曜石の海洋民がルーツではなく、大分県姫島産黒曜石の海洋民がルーツか、隠岐と脇本(秋田県)産黒曜石の海洋民がルーツで、北部九州河川の水稲栽培地を背景に有した、湾岸海洋民主体の国の王であろう。「魏志倭人伝」對海國(對馬國)の北島記載無し、末盧國官記載無しの理由は、他国ではあるが(狗邪韓國を有しているので、全盛時は領土の可能性が高い)、当時は友好国であったと、合点がいく。以後の変遷から推察すると、「魏志倭人伝」記載の邪馬壹國は末期であった。シャングリラ(桃源郷)佐嘉で農耕民と化し、水稲一大王国を築いたが、同時に武力を失った。騒乱の地北部九州で、ひたすら武力をみがいていた海洋民主体の王に敗れたが、真相であろう。
528年磐井の乱。大和朝廷に磐井は切られた。九州王朝の黄昏。
豊姫、豊玉姫、伏見、平川への社号変更、豊姫、豊玉姫などの祭神追加は、大和朝廷征服以後のことだろう。◎淀姫神社(佐賀市)513年創建。◎河上神社(564)年創立。◎与賀(よか)神社(564)年創建。◎本庄神社(563)年創建。◎河上大明神(564)年創立。◎淀姫神社(長崎県)(564)年鎮座式。宇佐神宮も欽明天皇32年(571)鎮座とある、社号変更と考えるのが自然。奥宮に三つの石体を有する宇佐神宮、祭神は比売神(ひめがみ)(地主神)と応神天皇、神功皇后である。
肥国(ひのくに)
712年「古事記」では、「肥(ひ)。佐賀、長崎、熊本」。「筑紫(つくし)。福岡から南西部まで」。「豊(とよ)。九州北東部」。「熊襲(くまそ)。九州南部。宮崎・鹿児島」の4国。
713年肥前国風土記は、肥君らの祖、健緒組が土ぐも(大和朝廷に従わない、土着の民の蔑称)を討ったとき、火が天から山に降って燃えたため、火の国としたと伝えている。元、肥の国。7世紀後半肥前肥後2国に分け、「延喜式」に11郡。国府は現在の大和町付近。
967年「延喜式」内の河上神社(與止日女神社)の比定社。肥前国一宮。
あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒天照大神。あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒ひ(肥)⇒ひ(火)。と継承された。
壹與(いつよ)と卑弥呼(日水子)の墓
佐賀県の弥生時代の墓は、甕棺や箱式石棺などを埋めた上に数個の支石を置き、その上に巨石を載せた特徴的な形式である。神崎郡脊振村や唐津の支石墓(ドルメン)は名高い。古墳は、佐賀平野一帯や、伊万里唐津湾沿岸で800余り発見されたが、ほとんどが破壊され、残っているのは少ない。「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」とある。「與と日水」を「與止日女」として奉斎した子孫なら、破壊されるような墓には決してしていないはずだ。まず、神社の起源をおってみよう。
百科事典マイペディア・広辞苑・古語辞典
石神
神霊が降臨する石。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)や、超自然力をもつという石の信仰は古く自然石を神体とする神社は多い。また陽物に類する石を(しゃくじん)、(さごし)などと呼び、安産性病の治癒、雨乞いなどを祈願する例も各地にみられる。依代(よりしろ)が人間である場合を尸童(よりまし)という。
尸童(よりまし)。
神霊の依代(よりしろ)としての人間。依座とも。清浄な生活をする童男・童女の場合が多く、祭礼の場合などは着飾って行列の中心となる。また、人間を馬に乗せて尸童とすることもある。いずれも神に魅せられた姿とされる。古くは託宣が尸童の口から語られた。また、童児に限らず、成年男女が立てられたこともあった。
依代(よりしろ)
神の依りつく物をいう。神霊が降臨して、その意志を伝えるためには憑依(ひょうい)体を必要とするとの信仰に基づく。山、岩石、樹木、御幣、動物、人間などがあてられる。神社では普通、依代を霊代(みたましろ)と呼び、神像、鏡、御幣、石などをあてる。
磐座(いわくら)・磐境(いわさか)
神社の原始的斎場。自然の岩石、またそれに多少の人工を加えたもので、そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ、降臨石・陽向(ようご)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり、本殿のないものを普通とする。「日本書紀」によれば、天孫の座を磐座とし、磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。
神籬(ひもろぎ)。
そこに神霊を招き、祭祀の対象とするために設けられたもの。清浄な地にある常緑樹や清浄な地にサカキ(榊)を立てたものと推察される。
榊・賢木(さかき)
境(さか)木の意か。ときわ木(常緑樹)の総称。特に神事に用いる木をいう。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。古来神木として枝葉は神に供した。ヒサカキも同様に用いる。古くはシキミなども含めてサカキといったらしい。(注・佐賀の神社にはクスノキ(クスノキ科の常緑高木)の巨木が実に数多だ。最初の榊は、ときわ木(常緑樹)の、クスノキではなかったか)
祠・叢祠(ほこら)
ホクラ(神庫)の転。神をまつる小やしろ。
社(やしろ)。
百科事典:天神地祇を鎮祭する殿舎。語源的には屋代であり、斎場をもって殿舎に代える意。
古語辞典:神が来臨する所。古代では、地を清め臨時に小屋などを設けて、神を迎えたという。
広辞苑:屋代(やしろ)の意。神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。神の降下する所。神をいわい祭った斎場。後世、神社。
神社
磐座(いわくら)・磐境(いわさか)のような神聖な場所に、神籬(ひもろぎ)を設けて神をまつったものと考えられる。秋の豊年祈念と、秋の収穫感謝の祭りが中心であった。
古墳時代
弥生時代についで、ほぼ三世紀末(卑弥呼、壹與の時代に該当)から七世紀に至る。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。
神社建築
神を祭るための建築で、本殿、拝殿、舞殿、祝詞舎(のりとや)、鳥居などからなる。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)を前身とし、おそくとも古墳時代(三世紀末)には存在したと考えられる。
卑彌呼の墓の大きさ
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」「この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」。径(直径)は20数mである。
卑彌呼と壹與(いつよ)の墓は?
前記のように、与賀(よか)神社本庄神社は社号も淀姫と異なり、縁起も特異な二社である。場所も直線で1350メートルと非常に近い。資料不足ではあるが、あえて想像力を喚起し特定すれば、与賀(よか)神社は壹與(いつよ)の墓でやしろ(社)。元の呼称は與ミヤ、與社、與神社。本庄神社は日水子の墓でやしろ(社)。元の呼称は本ミヤ、本社、本神社または日水ミヤ、日水社、日水神社。分社され、與と日水社、與と日水神社となったが、政変で改号。度重なる改号を余儀無くされたが、隠れ「與と日水」として現代に至った。
現資料ではここまでが限界。仮説から真理へ。残るは、発見による実証のみである。更に詳しくはネチズンの力をお借りしたい。また下記に対訳してあるので、論理的に果敢に挑戦してほしい。
シュリーマン(ドイツの商人、後に考古学者。1822~1890)貧しい牧師の家に生まれ、大商人として財を成した後、トロイヤ、ミュケナイなどの遺跡を発見した。著書自伝「古代への情熱」は著名。
ホメロスの叙事詩トロイヤの物語を、単なる創作物語として一笑に付し、当時の学者は誰一人顧みなかった。シュリーマンただ一人、少年時代に愛読したホメロスの世界を信じ、「イーリアス」「オデュッセイア」を疑わず、ダーダネルス海峡のほとりのトロイヤの遺跡を、1870年(48歳)に自費で発掘開始し、発見した。
末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考にすれば、川と地形が鍵なので、机上でかなりの想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんの実証に期待。第一発見者シュリーマンに挑戦してください。鍵は水稲栽培、伊都國、不彌國。そうとうな確立で特定、発見可能。1800年に及ぶ日本文系学者の空論は、現実界の道理で破壊され、2009年真実史観で、陳寿の邪まいつ國は眼前に姿を現した。陳寿は明解、実証は目前だ。2009.1.23.4につづく