2ああ終に女王の所に到着帯方郡から水行十日陸行一月は長かったなー!
又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴
又南一海を渡る。千餘里、名を瀚海(かんかい)と曰い、一大國に至る。島の方(⇔距離)は三百里可(ばか)り。竹木叢林多く、三千許(ばか)り家有り。差(やや)田地有るも、収穫少なく食不足。ここも同様に、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。
末盧國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけが、官記載無し。
伊都國
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆女王國に統屬。郡使往來の時、常に駐(とどま)る所。
奴國
東南至奴國百里 有二萬餘戸
不彌國
東行至不彌國百里 有千餘家
投馬國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
邪馬壹國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
狗奴國
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
其の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。
郡至女王國
自郡至女王國 萬二千餘里
郡自り女王國に至る、一萬二千餘里。
2009年邪馬壹國へ真実史観の旅
出発地点帯方?
帯方は、循海岸水行(海岸に循(沿)って、水上を行き)とあるように、帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸が自然だ。狗邪韓國も、(歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國) とあるように、東三洞(トンサンドン)貝塚もあり、現在の釜山界隈が自然ではないか。
魏志倭人伝の一里?
魏志倭人伝中で現代と間違いなく一致する所が、一大国=壱岐である。しかも方可三百里(島の方⇔距離は、三百里ばかり)とある。壱岐長辺南北18kmを、三百里で割ると、一里は60mとなる。次に該当する南対馬長辺南北24kmを、四百里(倭人伝は四百餘里)で割ると、一里は60mとなった。次に該当する対馬南南端から(対馬海峡)壱岐北端50kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は50mとなる。次に想定した釜山から(朝鮮海峡)、対馬北、北端(晴天の日は、釜山目視可能)55km、南、北端80kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は55mと、80mとなる。黄海南道南岸から釜山迄直線距離450kmを、七千里(倭人伝は七千餘里)で割ると、一里は64.2mとなった。
渡海千餘里(朝鮮海峡)の一里は50m。渡海千餘里(対馬海峡)の一里は80mと、誤差が大きい。まず目視可能最短の対馬北を目指し、次に目視確認しながら南下、南対馬に至るのが当時の航法で、港釜山から、対馬北の距離と考えれば、納得がいく。又、対馬南、港から、壱岐北端は60km(一里は60m)である。魏志倭人伝の一里は、餘里ではなく方可三百里と記載の60mを用いる。
末盧國?末(バツ・伐。マツ・松。末。待。俟。バチ・撥。鉢)盧(ロ・路。ル・留。縷。流)國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけ、官記載無し。
これだけの航海をしている、疑いも無く倭人はあま(海)の民でもある。邪馬壹國はあま(海)の民からはずしては語れないのは明白である。對馬國、乗船南北(九州や韓半島)市糴、一大國、亦南北(九州や韓半島)市糴とある。海洋民あま(海)の民である、船で行ける所までは行って、陸行が自然。末盧國から「東南陸行五百里 到 伊都國」である。陸行は川沿いが自然だ。福岡、唐津、伊万里が候補地となる。福岡は当時も大平野で港、数万は想定できる。「有四千餘戸」ではいかにも物足りない。「南北市糴」の常用ルートからは、遠い。「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛」とある。唐津は松浦川があり捨てがたい。あま(海)の民の黒曜石産地佐賀県腰岳、ふもとの伊万里も、記載条件を満たしている。渡一海千餘里である。末盧國は、佐賀県伊万里界隈か唐津界隈を、候補とする。
6,000前、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培。縄文前期の本格的農耕生活。水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。
2,600年前(紀元前600年)、水稲(温帯ジャポニカ)栽培。わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。
これまでの自給自足狩猟採取焼畑農業の生活を、米の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水稲は水が不可欠、川沿いに移動し水田作り、水路作りに集団であたった。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力は必須の要素。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進み国が生まれた。
川沿いに国が生まれたのである。初めは高低管理し易い上流、進歩に従い下流へ。下流は平地が多いので開田し易いが、高低差がないので水管理が難しいのと、氾濫で壊滅し易い。両刃の剣ではあるが、大量の収穫を得られる。水田管理が進化し、下流を制した集団が大国を築いたであろうことは、うかがい知れる。水は上流から下流へ流れる、下流を制した集団は、当然上流も支配は必須なので支配した。いわば一つ一つの川が一つ一つの集団国家と言える。倭国大乱は、上下流支配で統一するまでの過渡期の水権利争い、であったろうことは想像に難くない。
黒曜石を半島日本に伝播した海洋民あま(海)の民は、陸稲(熱帯ジャポニカ)入手も先駆け栽培伝播した。「里」は区画した「田」、「畑」が本来の意である。中里、二里、伊万里、有(あ里)田、佐里、伊万里界隈は多い。
当然水稲(温帯ジャポニカ)栽培も先駆け伝播した。食料を安定確保した栽培の民の人口増加は、必然。不可欠の水、川の新天地を求め集団で移動、各河川に定住した。当然、近隣の松浦川流域にも定住した。そして、伊万里南東30キロ、唐津南東30キロは、佐賀県、数多の河川と伴う平野、水稲栽培絶好の新天地伊都(いつ)、そして不彌(二美)である。有明海に注ぐ河川上流伊都(いつ)は、どんなに輝いていたか、それは、国名伊都(いつ)国が証しだ。注・「厳・稜威」(いつ)は、食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑
「南北市糴」の常用ルートなら、末盧國は、唐津界隈(松浦川河口)が濃厚である。しかし、伊都國への道は、米栽培伝播移動ルートでもある。その起点、伊万里界隈(黒曜石古代ルート起点)は捨てがたい。伊都國への道筋の難易度で、検証できるが、現時点の資料では、決定力不足。伊万里界隈、唐津界隈いずれかから、伊都國に到ったと、特定せず両論併記とする。
伊都國?伊都(いつ)國=(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。伊(イ・斎。委。威。井、堰。夷。囲)都(ト・所。門。外。図。途。渡。登。ツ・津。通。都(とりしまること)國。開拓当初はいつ(厳・稜威)の地だが、この水稲栽培下流隆盛の時代には、意味変化の可能性はある。
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸。 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
東南に陸行五百里(30キロ)伊都國に到る。千餘戸有り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる所である。
到は曲がりくねって到着(到其北岸狗邪韓國、到伊都國)。至はほぼ直線で到着、および方向。
「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」(女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ)と詳細が後述されている。川の管理、諸国検察、邪馬壹國玄関が、主な任務と推察される。
常識に基づき検証しよう。「魏志倭人伝」は国王への、説明紹介文だ、旅程記載は概略から詳細へが常道。伊都國は邪馬壹國の玄関。まず玄関の近隣を述べ、そして邪馬壹國へ行き、邪馬壹國の近隣や状況を述べるのが自然。現代でも案内図記載の常道である。「魏志倭人伝」は国王が読者。玄関からさらに水行二十日、水行十日陸行一月などは、打ち首もので、そんな不敬な記載は、不可能。記述不備不敬の疑問も呈されず、正史『三国志』「魏志倭人伝」として残ったことは、歴代誰一人、邪道な解釈をしなかったことの、証明である。帯方郡から「水行二十日」は、頻繁に往来する当時の常用ルートの旅程で、誰が読んでも分かる、常識であったことを物語って余りある。玄関伊都國、南北接する投馬國は、邪馬壹國と同一とみなし、投馬國に従来の常識、常用ルート旅程、邪馬壹國に倭国周旋ルート旅程と、混乱を避け分割記載、明解にした。最後に帯方郡からの全距離(自郡至女王國 萬二千餘里)を記載し、まとめている。中国帯方郡からの「倭」への常用ルート旅程、周旋ルート旅程、全距離、皆おさまっている。注・有明海経由、帯方郡までの「水行二十日」の常用ルート、嘉瀬川河岸の港が、投馬國に在る可能性は大である。北九州海岸からのルートは、陸行し水行なので誰の目にも不便、「行不見前人」とある、すたれたのではないか。また、後の倭の五王の隆盛、末盧國の官名記載無しから推察すると、従来の北九州海岸からのルートは、倭の五王の先祖に支配され始めていることが窺える。結果、有明海を常用ルートとしていた。今回は中国帯方郡からの使者なので、倭の五王の先祖も不問に付したが、真相ではないか。
奴國?奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。野。沼。ド・笯。弩。土」國。表意『瓊國』
東南至奴國百里 有二萬餘戸。
伊都國から東南百里(6キロ)で奴國に至る。二萬餘戸有り。
不彌國?不彌國=二(ふ)美(み。び)國。不(フ・二。フウ・奉。附。府ブ・。フツ・。ホチ・)彌(ミ・美。水。曲。回。神。霊。ビ・美。弥。備。傍)國。不彌(二美)國は、二つ目の、再びの、美しい国の意味か。二番目の開拓地であろう、だから道路がある。
東行至不彌國百里 有千餘家。
伊都國から東の道百里(6キロ)で不彌國に至る。千餘家有り。
伊都國から不彌國は、行=道路がある。
投馬國?投(トウ・。倒。討。淘。闘。祷。稲。踏。纛。ズ・)馬(マ・魔。真。間。磨。摩。澗。バ・メ・)國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸。
伊都國の南投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。五萬餘戸ばかり。
「自女王國以北 其戸敷道里可得略載」と後述され、投馬國は「自女王國以北」なのは明白。帯方郡からの常用旅程以外の解釈、「水行二十日」は、不適。
伊都國・郡使往來 常所駐(郡使の往来では、常にここにとどまる)と有り。また往来は、度々後述もされており、頻繁にあった。「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰」「渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す」と航海の詳細が後述されているように、「對馬國・・・乗船南北市糴」、「一大國・・・亦南北市糴」と、島民が日常の交通に用いている今回の安全水行ルートとだけでなく、厳しいが速い、水行主体(後述の、皆臨津捜露)の常用ルートがあることを明解に語っている。
ここで常用ルートの旅程を記載し、次の倭国周旋ルート旅程と対比、理解を明快にした。
邪馬壹國?邪(ジャ、シャ、ヤ)馬(マ、バ、メ)壹(イツ)國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸。
投馬國南、邪馬壹國に到着。ああ終に女王の居る都に着いた、帯方郡から、水行十日陸行一月は長かったなー!七萬餘戸ばかり。
注・「之」は、・・・に至る。「所」は、場所、住所。「都」は、みやこ、ああ、感嘆を表す言葉。
常用ルートなら水行二十日の旅程。「魏志倭人伝」に採録なので、韓国陸行倭国周旋特別ルート、水行十日陸行一月の、倭国周旋旅程記載となった。「之」、「所」、「都」、の無検証、読み違いが混乱の原因。初心に帰り辞書を繰れば判明すること、原点回帰がいかに大事か、物語って余りある。「都」と到着の感動を掛詞にしたのだ。東大と京大の邪馬台国論争は、原典無検証、検証回路皆無、空論の証明でもある。
「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、倭國最南端は女王國を指示している。
七萬餘戸は、あま(海)(漁業)とあま(天)(農業)の民。
其餘旁國遠絶?
自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳女王国より北は、その戸数、道里を簡略に記載しえた。そのほかの旁国は遠く険しく、詳細は得られない。
次有・ 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 爲吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 (注・次有と国は、略記) 次有奴國(・・・つぎに奴國有り)。
此女王境界所盡
これが、女王の勢力の及ぶ範囲。
女王国の位置から推察すれば、奴國は、女王国の北で接していることになり、伊都國から「東南至奴國」と合致。また、上記「其餘旁國遠絶」とあるが、南は「其南有狗奴國」、西も「其山有丹」と記載されている。「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、最南端は女王國と語っている。上記「其餘旁國」は、女王国北(略載以外の北)、北東、東の河川流域各国となる。
注・1784年、博多の志賀島で発見された「漢委奴国王」金印にも、後述の「狗奴(玖瓊)國」にも、上記にも、「奴」は数多である。「奴」は「瓊」(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。「瓊。ぬ」は、中国語「國」伝来以前の、「集団、族、国」を表す、日本原語の一つ、南方系原語の可能性が高い。「魏志倭人伝」は中国風に翻訳し、皆「國」を付しているが、当時の倭は、「瓊」から「國」への過渡期で、「國」呼称は未定着ではなかったのではないか。
狗奴國?狗(ク)奴(ヌ)國。クヌ國は玖(美しい黒色の石、九の大字)瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)國が、正当。意訳すると、(九つの川の国々から成り立つ国)となる。
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
邪馬壹國の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。
郡至女王國?
自郡至女王國 萬二千餘里
帯方郡南海岸自り女王國に至る、一萬二千餘里(720キロ)。
注・帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸。
注・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。
邪馬壹國などの表音と表意?方言考慮があるが、指針として試行。
○邪馬壹國表音に該当する読み
邪(ジャ・闍。邪。社。シャ・闍。邪。社。ヤ・輻)馬(マ・真。魔)壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)(イン・)國。
意味・邪(よこしま。有害なこと)。闍(うてな。二階になった城門。城の外ぐるわの内側にあるまち)。社(神社。土地の守護神)。輻(多くのものが集まる)。真(真実)。魔(まもの)。
イツ・「厳・稜威」尊厳な威光。斎(い)み浄(きよ)められていること。食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑。イツ・稜(おごそか)。イツ・斎(ものいみ)。イツ・稜威(いつ。りょうい。いつえ。みいず。みいつ)きわだった神霊の威光のこと。天子の威光。
表意
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、闍真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、社真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、邪魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
?邪馬壹國(シャマイツ)國は、シャーマン(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
○卑彌呼 表音に該当する読み
卑(ヒ・日。霊)彌(ミ・水。海水。神。霊。ビ・)呼(コ・子。ク・)。
彌呼(ミコ・巫女。神子)。
表意
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日。霊)(ミ・水。海。神。霊)(コ・子)。
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日・霊)(ミコ・巫女・神子)。
○壹與 表音に該当する読み
壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)與(ヨ・与。予。世)
表意
壹與(いつよ)は、(イツ・稜威・稜・斎・厳)(ヨ・与・予・世)。
○「漢委奴国王」金印。1784年、博多の志賀島で発見された。表音に該当する読み。
漢(カン)委(意味・まかせる)(イ・五。五十。斎。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。ド・」国王。
表意
漢(カン) 委(イ・五。五十。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢・(五。五十)瓊(光輝く玉)国王』
漢(カン)委(イ・まかせる) 奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢委・瓊(光輝く玉)国王』
丹(丹砂、辰砂)
丹(丹砂、辰砂)は硫化水銀鉱。水銀と硫黄からなる。倭の水銀鉱は中央構造線沿い、九州西部鉱床群・佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市、九州鉱床群・大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附、に産出する。
血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。・・・施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった」。
朱丹を身体に塗るというのは元来、中国の風習にもあった。丹沙は、殷代において、朱の顔料としてト骨、王戈、壁画に記されたもの、清め、防腐、邪よけとして遺体にふりかけられたものがあり、秦漢時代においては道家により、精神安定あるいは長生の薬として用いられていたとされる。
中国の水銀鉱は、砂金に混じって辰砂が存在した漂砂鉱床で、山海経の丹粟に相当し、産出地が10ヶ所挙げられていた。先秦時代の水銀鉱は、湖北省荊州、陝西省南山、四川省水立口陵、甘粛省槐江山が代表とされ、史記、貨殖列伝によれば「巴・蜀で丹沙を産する」とあり、また、「丹沙を重さにして千斤を一年間に取引する人々は年に二十万銭の収益をうる」とされた。どうやら秦漢時代に戦費調達や道家の錬丹術ブームにより、大量に消費され、随の時代には日本から輸入される事態となっていた。3につづく
又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴
又南一海を渡る。千餘里、名を瀚海(かんかい)と曰い、一大國に至る。島の方(⇔距離)は三百里可(ばか)り。竹木叢林多く、三千許(ばか)り家有り。差(やや)田地有るも、収穫少なく食不足。ここも同様に、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。
末盧國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけが、官記載無し。
伊都國
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆女王國に統屬。郡使往來の時、常に駐(とどま)る所。
奴國
東南至奴國百里 有二萬餘戸
不彌國
東行至不彌國百里 有千餘家
投馬國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
邪馬壹國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
狗奴國
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
其の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。
郡至女王國
自郡至女王國 萬二千餘里
郡自り女王國に至る、一萬二千餘里。
2009年邪馬壹國へ真実史観の旅
出発地点帯方?
帯方は、循海岸水行(海岸に循(沿)って、水上を行き)とあるように、帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸が自然だ。狗邪韓國も、(歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國) とあるように、東三洞(トンサンドン)貝塚もあり、現在の釜山界隈が自然ではないか。
魏志倭人伝の一里?
魏志倭人伝中で現代と間違いなく一致する所が、一大国=壱岐である。しかも方可三百里(島の方⇔距離は、三百里ばかり)とある。壱岐長辺南北18kmを、三百里で割ると、一里は60mとなる。次に該当する南対馬長辺南北24kmを、四百里(倭人伝は四百餘里)で割ると、一里は60mとなった。次に該当する対馬南南端から(対馬海峡)壱岐北端50kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は50mとなる。次に想定した釜山から(朝鮮海峡)、対馬北、北端(晴天の日は、釜山目視可能)55km、南、北端80kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は55mと、80mとなる。黄海南道南岸から釜山迄直線距離450kmを、七千里(倭人伝は七千餘里)で割ると、一里は64.2mとなった。
渡海千餘里(朝鮮海峡)の一里は50m。渡海千餘里(対馬海峡)の一里は80mと、誤差が大きい。まず目視可能最短の対馬北を目指し、次に目視確認しながら南下、南対馬に至るのが当時の航法で、港釜山から、対馬北の距離と考えれば、納得がいく。又、対馬南、港から、壱岐北端は60km(一里は60m)である。魏志倭人伝の一里は、餘里ではなく方可三百里と記載の60mを用いる。
末盧國?末(バツ・伐。マツ・松。末。待。俟。バチ・撥。鉢)盧(ロ・路。ル・留。縷。流)國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけ、官記載無し。
これだけの航海をしている、疑いも無く倭人はあま(海)の民でもある。邪馬壹國はあま(海)の民からはずしては語れないのは明白である。對馬國、乗船南北(九州や韓半島)市糴、一大國、亦南北(九州や韓半島)市糴とある。海洋民あま(海)の民である、船で行ける所までは行って、陸行が自然。末盧國から「東南陸行五百里 到 伊都國」である。陸行は川沿いが自然だ。福岡、唐津、伊万里が候補地となる。福岡は当時も大平野で港、数万は想定できる。「有四千餘戸」ではいかにも物足りない。「南北市糴」の常用ルートからは、遠い。「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛」とある。唐津は松浦川があり捨てがたい。あま(海)の民の黒曜石産地佐賀県腰岳、ふもとの伊万里も、記載条件を満たしている。渡一海千餘里である。末盧國は、佐賀県伊万里界隈か唐津界隈を、候補とする。
6,000前、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培。縄文前期の本格的農耕生活。水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。
2,600年前(紀元前600年)、水稲(温帯ジャポニカ)栽培。わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。
これまでの自給自足狩猟採取焼畑農業の生活を、米の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水稲は水が不可欠、川沿いに移動し水田作り、水路作りに集団であたった。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力は必須の要素。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進み国が生まれた。
川沿いに国が生まれたのである。初めは高低管理し易い上流、進歩に従い下流へ。下流は平地が多いので開田し易いが、高低差がないので水管理が難しいのと、氾濫で壊滅し易い。両刃の剣ではあるが、大量の収穫を得られる。水田管理が進化し、下流を制した集団が大国を築いたであろうことは、うかがい知れる。水は上流から下流へ流れる、下流を制した集団は、当然上流も支配は必須なので支配した。いわば一つ一つの川が一つ一つの集団国家と言える。倭国大乱は、上下流支配で統一するまでの過渡期の水権利争い、であったろうことは想像に難くない。
黒曜石を半島日本に伝播した海洋民あま(海)の民は、陸稲(熱帯ジャポニカ)入手も先駆け栽培伝播した。「里」は区画した「田」、「畑」が本来の意である。中里、二里、伊万里、有(あ里)田、佐里、伊万里界隈は多い。
当然水稲(温帯ジャポニカ)栽培も先駆け伝播した。食料を安定確保した栽培の民の人口増加は、必然。不可欠の水、川の新天地を求め集団で移動、各河川に定住した。当然、近隣の松浦川流域にも定住した。そして、伊万里南東30キロ、唐津南東30キロは、佐賀県、数多の河川と伴う平野、水稲栽培絶好の新天地伊都(いつ)、そして不彌(二美)である。有明海に注ぐ河川上流伊都(いつ)は、どんなに輝いていたか、それは、国名伊都(いつ)国が証しだ。注・「厳・稜威」(いつ)は、食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑
「南北市糴」の常用ルートなら、末盧國は、唐津界隈(松浦川河口)が濃厚である。しかし、伊都國への道は、米栽培伝播移動ルートでもある。その起点、伊万里界隈(黒曜石古代ルート起点)は捨てがたい。伊都國への道筋の難易度で、検証できるが、現時点の資料では、決定力不足。伊万里界隈、唐津界隈いずれかから、伊都國に到ったと、特定せず両論併記とする。
伊都國?伊都(いつ)國=(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。伊(イ・斎。委。威。井、堰。夷。囲)都(ト・所。門。外。図。途。渡。登。ツ・津。通。都(とりしまること)國。開拓当初はいつ(厳・稜威)の地だが、この水稲栽培下流隆盛の時代には、意味変化の可能性はある。
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸。 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
東南に陸行五百里(30キロ)伊都國に到る。千餘戸有り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる所である。
到は曲がりくねって到着(到其北岸狗邪韓國、到伊都國)。至はほぼ直線で到着、および方向。
「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」(女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ)と詳細が後述されている。川の管理、諸国検察、邪馬壹國玄関が、主な任務と推察される。
常識に基づき検証しよう。「魏志倭人伝」は国王への、説明紹介文だ、旅程記載は概略から詳細へが常道。伊都國は邪馬壹國の玄関。まず玄関の近隣を述べ、そして邪馬壹國へ行き、邪馬壹國の近隣や状況を述べるのが自然。現代でも案内図記載の常道である。「魏志倭人伝」は国王が読者。玄関からさらに水行二十日、水行十日陸行一月などは、打ち首もので、そんな不敬な記載は、不可能。記述不備不敬の疑問も呈されず、正史『三国志』「魏志倭人伝」として残ったことは、歴代誰一人、邪道な解釈をしなかったことの、証明である。帯方郡から「水行二十日」は、頻繁に往来する当時の常用ルートの旅程で、誰が読んでも分かる、常識であったことを物語って余りある。玄関伊都國、南北接する投馬國は、邪馬壹國と同一とみなし、投馬國に従来の常識、常用ルート旅程、邪馬壹國に倭国周旋ルート旅程と、混乱を避け分割記載、明解にした。最後に帯方郡からの全距離(自郡至女王國 萬二千餘里)を記載し、まとめている。中国帯方郡からの「倭」への常用ルート旅程、周旋ルート旅程、全距離、皆おさまっている。注・有明海経由、帯方郡までの「水行二十日」の常用ルート、嘉瀬川河岸の港が、投馬國に在る可能性は大である。北九州海岸からのルートは、陸行し水行なので誰の目にも不便、「行不見前人」とある、すたれたのではないか。また、後の倭の五王の隆盛、末盧國の官名記載無しから推察すると、従来の北九州海岸からのルートは、倭の五王の先祖に支配され始めていることが窺える。結果、有明海を常用ルートとしていた。今回は中国帯方郡からの使者なので、倭の五王の先祖も不問に付したが、真相ではないか。
奴國?奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。野。沼。ド・笯。弩。土」國。表意『瓊國』
東南至奴國百里 有二萬餘戸。
伊都國から東南百里(6キロ)で奴國に至る。二萬餘戸有り。
不彌國?不彌國=二(ふ)美(み。び)國。不(フ・二。フウ・奉。附。府ブ・。フツ・。ホチ・)彌(ミ・美。水。曲。回。神。霊。ビ・美。弥。備。傍)國。不彌(二美)國は、二つ目の、再びの、美しい国の意味か。二番目の開拓地であろう、だから道路がある。
東行至不彌國百里 有千餘家。
伊都國から東の道百里(6キロ)で不彌國に至る。千餘家有り。
伊都國から不彌國は、行=道路がある。
投馬國?投(トウ・。倒。討。淘。闘。祷。稲。踏。纛。ズ・)馬(マ・魔。真。間。磨。摩。澗。バ・メ・)國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸。
伊都國の南投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。五萬餘戸ばかり。
「自女王國以北 其戸敷道里可得略載」と後述され、投馬國は「自女王國以北」なのは明白。帯方郡からの常用旅程以外の解釈、「水行二十日」は、不適。
伊都國・郡使往來 常所駐(郡使の往来では、常にここにとどまる)と有り。また往来は、度々後述もされており、頻繁にあった。「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰」「渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す」と航海の詳細が後述されているように、「對馬國・・・乗船南北市糴」、「一大國・・・亦南北市糴」と、島民が日常の交通に用いている今回の安全水行ルートとだけでなく、厳しいが速い、水行主体(後述の、皆臨津捜露)の常用ルートがあることを明解に語っている。
ここで常用ルートの旅程を記載し、次の倭国周旋ルート旅程と対比、理解を明快にした。
邪馬壹國?邪(ジャ、シャ、ヤ)馬(マ、バ、メ)壹(イツ)國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸。
投馬國南、邪馬壹國に到着。ああ終に女王の居る都に着いた、帯方郡から、水行十日陸行一月は長かったなー!七萬餘戸ばかり。
注・「之」は、・・・に至る。「所」は、場所、住所。「都」は、みやこ、ああ、感嘆を表す言葉。
常用ルートなら水行二十日の旅程。「魏志倭人伝」に採録なので、韓国陸行倭国周旋特別ルート、水行十日陸行一月の、倭国周旋旅程記載となった。「之」、「所」、「都」、の無検証、読み違いが混乱の原因。初心に帰り辞書を繰れば判明すること、原点回帰がいかに大事か、物語って余りある。「都」と到着の感動を掛詞にしたのだ。東大と京大の邪馬台国論争は、原典無検証、検証回路皆無、空論の証明でもある。
「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、倭國最南端は女王國を指示している。
七萬餘戸は、あま(海)(漁業)とあま(天)(農業)の民。
其餘旁國遠絶?
自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳女王国より北は、その戸数、道里を簡略に記載しえた。そのほかの旁国は遠く険しく、詳細は得られない。
次有・ 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 爲吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 (注・次有と国は、略記) 次有奴國(・・・つぎに奴國有り)。
此女王境界所盡
これが、女王の勢力の及ぶ範囲。
女王国の位置から推察すれば、奴國は、女王国の北で接していることになり、伊都國から「東南至奴國」と合致。また、上記「其餘旁國遠絶」とあるが、南は「其南有狗奴國」、西も「其山有丹」と記載されている。「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、最南端は女王國と語っている。上記「其餘旁國」は、女王国北(略載以外の北)、北東、東の河川流域各国となる。
注・1784年、博多の志賀島で発見された「漢委奴国王」金印にも、後述の「狗奴(玖瓊)國」にも、上記にも、「奴」は数多である。「奴」は「瓊」(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。「瓊。ぬ」は、中国語「國」伝来以前の、「集団、族、国」を表す、日本原語の一つ、南方系原語の可能性が高い。「魏志倭人伝」は中国風に翻訳し、皆「國」を付しているが、当時の倭は、「瓊」から「國」への過渡期で、「國」呼称は未定着ではなかったのではないか。
狗奴國?狗(ク)奴(ヌ)國。クヌ國は玖(美しい黒色の石、九の大字)瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)國が、正当。意訳すると、(九つの川の国々から成り立つ国)となる。
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
邪馬壹國の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。
郡至女王國?
自郡至女王國 萬二千餘里
帯方郡南海岸自り女王國に至る、一萬二千餘里(720キロ)。
注・帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸。
注・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。
邪馬壹國などの表音と表意?方言考慮があるが、指針として試行。
○邪馬壹國表音に該当する読み
邪(ジャ・闍。邪。社。シャ・闍。邪。社。ヤ・輻)馬(マ・真。魔)壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)(イン・)國。
意味・邪(よこしま。有害なこと)。闍(うてな。二階になった城門。城の外ぐるわの内側にあるまち)。社(神社。土地の守護神)。輻(多くのものが集まる)。真(真実)。魔(まもの)。
イツ・「厳・稜威」尊厳な威光。斎(い)み浄(きよ)められていること。食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑。イツ・稜(おごそか)。イツ・斎(ものいみ)。イツ・稜威(いつ。りょうい。いつえ。みいず。みいつ)きわだった神霊の威光のこと。天子の威光。
表意
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、闍真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、社真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、邪魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
?邪馬壹國(シャマイツ)國は、シャーマン(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
○卑彌呼 表音に該当する読み
卑(ヒ・日。霊)彌(ミ・水。海水。神。霊。ビ・)呼(コ・子。ク・)。
彌呼(ミコ・巫女。神子)。
表意
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日。霊)(ミ・水。海。神。霊)(コ・子)。
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日・霊)(ミコ・巫女・神子)。
○壹與 表音に該当する読み
壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)與(ヨ・与。予。世)
表意
壹與(いつよ)は、(イツ・稜威・稜・斎・厳)(ヨ・与・予・世)。
○「漢委奴国王」金印。1784年、博多の志賀島で発見された。表音に該当する読み。
漢(カン)委(意味・まかせる)(イ・五。五十。斎。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。ド・」国王。
表意
漢(カン) 委(イ・五。五十。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢・(五。五十)瓊(光輝く玉)国王』
漢(カン)委(イ・まかせる) 奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢委・瓊(光輝く玉)国王』
丹(丹砂、辰砂)
丹(丹砂、辰砂)は硫化水銀鉱。水銀と硫黄からなる。倭の水銀鉱は中央構造線沿い、九州西部鉱床群・佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市、九州鉱床群・大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附、に産出する。
血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。・・・施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった」。
朱丹を身体に塗るというのは元来、中国の風習にもあった。丹沙は、殷代において、朱の顔料としてト骨、王戈、壁画に記されたもの、清め、防腐、邪よけとして遺体にふりかけられたものがあり、秦漢時代においては道家により、精神安定あるいは長生の薬として用いられていたとされる。
中国の水銀鉱は、砂金に混じって辰砂が存在した漂砂鉱床で、山海経の丹粟に相当し、産出地が10ヶ所挙げられていた。先秦時代の水銀鉱は、湖北省荊州、陝西省南山、四川省水立口陵、甘粛省槐江山が代表とされ、史記、貨殖列伝によれば「巴・蜀で丹沙を産する」とあり、また、「丹沙を重さにして千斤を一年間に取引する人々は年に二十万銭の収益をうる」とされた。どうやら秦漢時代に戦費調達や道家の錬丹術ブームにより、大量に消費され、随の時代には日本から輸入される事態となっていた。3につづく