オーストラリア・カウラ・日本人捕虜1104人大脱走(COWRA BREAK OUT)
戦陣訓にあらずカウラの悲劇のすべての元凶は朝日新聞捏造記事だ。
「あの日僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かったーカウラ捕虜収容所からの大脱走」2008年7月8日(火)午後9:00日本系で放送。発案脚本は中園ミホ。伯父の佐藤憲司(87)の証言が基だという。「しんぶん赤旗」(2008年6月22日付「テレビ・ラジオ」欄)報道 カウラ捕虜収容所脱走事件 ドラマ化/「戦陣訓」の悲劇を問う ...
降伏禁止を命令した極悪軍と蹴落とし捏造、か弱き国民の味方を演じる仮想現実界の道理無視捏造番組。またまた偽善者番組だ。仮想現実界はまさに、秋葉原殺戮者やオウム殺戮者と同類の、無道理の輩の巣だ。日本系にもナベツネが工作員を住まわせたのか。中園ミホも、絵に描いたような無検証無道理だ。軍人勅諭軍法に記載無き「降伏禁止」が、訓に記載ありとは、現実界の道理には無い。検証せずとも現実界の道理があれば、明白なことだ。何度も記載しているが。再度記す。「虜囚は日本国の囚人。虜囚の辱は、日本国の囚人となる辱めだ」
戦陣訓
『第八 名を惜しむ
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』
戦陣訓意訳
『第八 名を惜しむ(名誉の尊重)
恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳
内容は今村均将軍が証言したように、正に「諭したもの」だ。
詳細は下記(憂国の辞書の解析)へ
戦陣訓虜囚の辱真実辞書意味変化改竄証明捕虜解釈辞書が捏造と断定
http://sinzitusikan.iza.ne.jp/blog/entry/548368/
カウラの大脱走 1944年8月5日、午前1時55分、オーストラリア・シドニーの西約320キロに位置するカウラ戦争捕虜収容所で、1104人(約80%が陸軍で、20%が海軍。)の日本人捕虜が一斉に脱走した。日本兵の死者231人、負傷者108人、成功者ゼロ。オーストラリア側の死者4人。捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年だ。
NHK制作の「カウラの大脱走」2005年9月4日に放映された。内容は、カウラ事件の生存者の「証言」を主体に編成したものだ。日本兵の大半は、捕虜となったときに偽名を名乗って入所し、姓名が日本に伝わることを避けたという(捕虜になっての偽名や家族への音信不通は、捕虜は公表されていないので、自分たちだけが捕虜になったのだという、うしろめたさがそうさせた。また捕虜同志の面子もあり、おのずとそうなった。「常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし」(公)に、応えられないことを恥じたからである)。
戦陣訓を意識せずに平和な捕虜として暮らしていた。ところが、ある日、日本軍の下士官の一群が収容されて来た。一人の下士官が軍人手帳を示し『諸君は捕虜である。戦場に臨む軍人の心得として、戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と書いてある。生きて捕虜になっていることはこの上なき恥辱である。国に残してきた家族に対しても申し開きができないではないか』と話し始めた。「これは敵につかまるぐらいなら自決しろということだ」とつまみ食い読みし、説明し、皆、戦陣訓に納得し、票決の上決行した、のだという。NHKは戦陣訓原因説だ。
『ウィキペディア(Wikipedia)』の見解
士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった。)
日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするか の多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)
この際、紙に移送受諾なら○、反対は×として行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いていた可能性を、現生存者は証言。
「カウラの大脱走」はNHKのように、戦陣訓に責任転嫁だけでは語れない事は確かだ。下記は詳細に語られている「カウラの大脱走」だ。戦陣訓はWGIP解釈。
カウラ (COWRA)―ひそやかに眠る日本の兵士たち
http://www1.odn.ne.jp/kminami/sub16.html
真実史観の検証
真実史観の検証はこうだ。カウラの1000人余りの日本兵は、戦陣訓を降伏禁止とは思っていなかったので、皆平和な捕虜生活を送っていた。そこへ戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じた下士官が現れ、戦陣訓に白紙の兵士は、洗脳され、自虐し、逃亡が目的ではなく自死目的の、大脱走となったというのが「カウラの大脱走」のあらすじだ。
捏造解釈を信じた下士官さえ現れなければ、平和に捕虜生活をおくり、皆帰還していた。皆戦陣訓を、降伏禁止とは思っていなかったのが、ここで証明されている。
捏造解釈の元ネタが、下記の1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事だ。この記事は1944年7月3日サイパン島守備隊南雲忠一海軍(戦陣訓示達陸軍のみ)中将訓示の元ネタにもなっている。まったくこの記事は罪の巨魁だ。
1942年2月24日 一等飛行兵、22歳の南忠男、日本人としてのカウラの捕虜第1号となる。
1942年8月~1943年1月 捕虜収容所にいた大部分は、ガダルカナル島での日米両軍の死闘後瀕死の状態で収容された兵士である。
1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事。
アッツ島玉砕
「1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令
非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり 」(注・戦陣訓の虜囚の辱ではない、捕虜の辱めをと、なっている)。
なお、アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しを見ることができる。(谷荻報道部長の談話)」戦陣訓 - Wikipedia
1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事以後「虜囚の辱=降伏禁止」が、兵士としての旗印「最後まであきらめずに戦う」と結合し、日本軍の一部に蔓延した。
1944年3月23日 佐藤憲司(87才。中園ミホの伯父、原案提供者)捕虜となる。戦陣訓を降伏禁止と解釈していた。
1944年3月~1944年8月 下士官の一群が捕虜となり入所。戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じ、同胞を呪縛。
1944年8月5日午前1時55分 カウラの大脱走(COWRA BREAK OUT)
「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」を、陸軍刑法第7章 逃亡ノ罪、陸(第77条)海(第76条)軍刑法、敵二奔「はし(走る・逃亡する)」リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮二処スの逃亡罪と、混同し、呪縛したのだ。捕虜(職責を果たしたが捕らわれる。不可抗力)と逃亡罪(職責をまったく果たさず逃亡、又は投降)を混同し、帰国しても死刑になるとつまみ食い読みしてしまったのだ。さらに、日本軍人の捕虜数を一切軍が公表していなかったので、自分たちだけが捕虜なのではないかという自虐心が、戦陣訓のつまみ食い読みであおられ「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし」(公)に応えられないことを恥じ、脱走して逃げるのが目的ではなく、自虐し、自損自死が目的の脱走となった。私心(捕虜の辱め)が大脱走の直接の起因ではない。
つまり、戦陣訓を降伏禁止とは誰も思っていなかった。戦陣訓を読み解いた者が一人もおらず、つまみ食い読みし、捕虜(職責を果たしたが捕らわれる。不可抗力)と逃亡罪(職責をまったく果たさず逃亡、又は投降)を混同し、悲劇となった。
降伏禁止で無い陸海軍刑法第三章 辱職の罪(部下の兵士ではなく、司令官個人への罰則)、を見逃していた。
第40条司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵二降リ又ハ要塞「ようさい(とりで)」ヲ敵二委(まか)シタルトキハ死刑ニ処ス
第41条 司令官野戦ノ時二在リテ隊兵ヲ率イ敵二降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮二処ス
第42条 司令官敵前二於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率イ逃避シタルトキハ死刑二処ス
戦陣訓の内容を皆、知らなかったから、つまみ食い読みの間違い〔陸海軍の軍人が空で覚えている軍人勅諭に、義(公)は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其「その」操「みさお(定めた意志を固く守ってかえないこと)」を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれと述べているのに、私心(捕虜の辱め)で、死ねという矛盾〕に気付かなかったのだ。軍人勅諭にも軍法にも記載無き降伏禁止が、訓に記載は不可能。戦陣訓を読み解いた者が一人でもおれば、皆帰還していた。捕虜収容所という異常下におきた事件とはいえ、なんという悲劇だ。カウラの悲劇のすべての原因は朝日新聞捏造記事だ。この朝日新聞捏造記事さえなければ、全員無事に帰還していた。
射殺183名、自殺31名、焼死体12名、その他5名の231名の日本兵、オーストラリア兵4名が犠牲者となった。107人負傷 3人の日本人がそのときに受けた傷がもとで、後に死亡。帰還した870名のうち捕虜を名乗り出たもの300余人で、その内カワラ会を結成したのは一割に満たない80人にすぎない(皆WGIP迎合者で軍や戦陣訓に責任転嫁し、責任逃れ)。帰還者のほとんど790人(九割以上)は、つまみ食い読みの間違いに気付き不名誉な行動を恥じて発言無し。ほとばしる名誉を重んじる愛国心「公」が起因の行動だ、そこまで深く国を思い故郷の名誉を重んじ戦った先人の純真、責める子孫など皆無。列強の侵略戦争に斯までして戦へり。
リーダー等が「民間人には絶対に被害を与えてはならない」と厳命し、民間人にはまったく被害がなかった。二人の日本人脱走兵が疲労と空腹から、近在の農家に救いを求めた際、たった一人で家にいたメイ・ウイアー夫人(May Weir)は少しも動ぜす、紅茶とスコーン・パンを与え、駆けつけた警備兵に対し「あの人たちが敵国人であるかどうかは関係ありません。彼らは何日も飲まず食わずだったのだから、同じ人間として、あの人たちに最低限の食糧を与えるのは当然です」と、ウイアー夫人はこたえ、食事が済むまで引渡しを拒否したという。
40年後に二人はカウラを再訪し、ウイアー家の農場を訪れて、たいへん親切にしてくれた家族に、お礼を述べたことが後日談として伝わっている。日本兵からにじみ出ていたある種の気配が、ウイアー夫人を促したのだろう。
「あの日僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」と、先人罵倒した日本系と中園ミホは、子孫としてあるまじき行為で、子孫とは呼べない。特に当事者の佐藤憲司(87才。中園ミホの伯父、原案提供者)は、国賊だ。解釈の間違いはあったが、名誉(公)を重んじての自死行為は事実だ。その戦友を、「僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」と茶化し、生存者が死者を冒涜するとは、何たる愚者だ。「超大国の侵略者を相手に、名誉を重んじ国を思い、当時の先人はそれほどまで軍民団結し「公」に徹し、資源無き小国日本を護ろうとしていたのだ。その強い思いが私心(捕虜の辱め)などではなく『常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし』の『公』に応えられないことを恥じ、脱走して逃げるのが目的ではなく、自虐し、自損自死が目的の脱走となった」と、歴史の真実をどうして語れない。あの世での戦友の糾弾は覚悟しておくことだ。
オーストラリアは4名も死亡しているにもかかわらず、日本兵の死者を丁重に葬り、生存者の罪は一切問わず、翌年8月、終戦を迎えると直ちに日本に帰還させている。それは世界各地に抑留された日本兵の本国帰還の中でも最も早かった。同じ兵士として、ある種の、崇高な共感を感じとったからだろう。
生還者870名もいるのに一割に満たないWGIP迎合者カワラ会。戦陣訓、日本軍に罪をかぶせ、ぬくぬくと暮らしている80人のWGIP偽善迎合者。そのうちのたった一人、佐藤憲司(87才)の偽善者発言を基にした物語だ。全帰還者870名のうちのたった1名(1名/870名)の証言で、ほか869名の帰還者証言は、無視されている。WGIP迎合無き789名の真実の声が隠蔽されている。これは真実ではなく正しく捏造だ。「元兵士の証言(極悪日本軍)」で「極悪日本軍対虐げられたかわいそうな兵士や国民」と、ありもしなかった軍と民の対立を捏造。我々はかわいそうな兵士の味方を演じる、NHK等の工作員の輩のお馴染みの手法である。読売新聞、日本TVにもどうやら工作員が巣くったようだ。
NHK朝日毎日等に巣くう、工作員のお馴染みの手法「極悪日本軍対、虐げられたかわいそうな兵士や国民」など無かった。戦後、戦犯追及を恐れたマスコミや、鵜呑み識者が米軍に迎合し、「虜囚の辱=降伏禁止」と捏造、先人冒涜をし続けた捏造報道の嵐の中での、日本人成人のとった行動が下記。
「終戦から7年後の昭和27(1952)年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集り、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された」
ハリー・ゴードンはオーストラリアの作家 で、カウラ事件に長い間取り組んできた。
「DIE LIKE THE CARP 」(鯉のごとく死ね)Harry Gordon1978年出版「鯉のごとく死ね」というのは、カウラの捕虜の、小城清治が 母親に教えられた言葉で「滝を登る鯉のように勇気を持ち、死ぬときは潔く」という意味からとられ、原題となっている。大脱走(COWRA BREAK OUT)の起因とし著者が原題にした。鯉はまな板に乗せられると、もう身動きしないという意味で。翻訳本題名は「俎上の鯉」 とした。豊田穣訳1979年双葉社。
「VOYAGE FROM SHAME」(恥辱からの旅立ち)Harry Gordon1994年出版。翻訳本は「生きて虜囚の辱めを受けず」山田真美訳1995年清流出版。(注・マスコミがいかに安易に戦陣訓に結び付けているかがよく分かる。原題「恥辱からの旅立ち」が、翻訳では、WGIP解釈「生きて虜囚の辱めを受けず」となるのだ。内容は推して知るべし)
「カウラの大脱走」は戦後の日本と同じだ。WGIPでありもしない極悪軍対国民を捏造され、降伏禁止で無い陸海軍刑法や戦陣訓に白紙の日本人は、戦陣訓を、つまみ食い読みした鵜人識者やマスコミに、瞬く間に洗脳され染まってしまった。後に巣くった反日侮日工作員に、日本精神をずたずたにされながら、63年を経た。日本軍(適者生存自衛軍)冒涜者は自虐史観者などではなく、偽善者史観者。国民の味方を装った工作員である。工作員の宣伝など鵜呑みせず、立派な親から授かった頭脳で、陸海軍刑法や手本の軍人勅諭を読み、戦陣訓を読み解き、二度とカウラの悲劇を繰り返してはならない。同胞よ、二度とカウラの悲劇の、轍を踏むなかれ。
検証などしなくても、手本の軍人勅諭や刑法に記載無き「降伏禁止」が、「訓え」の戦陣訓に存在不可は、現実社会の常識、道理で考えれば分かることだ。今回の放映は、オウム殺戮者や秋葉原殺戮者と同類の、無道理の輩と工作員に、仮想現実界がいかに占領されているかの、証明だ。
食民治主義凶産主義に世界が征服される寸前に、先人はたった一カ国で立ち向かい、食民治主義と独占貿易を破壊、共産を凶産主義と暴露し拡散防止、人種平等共存共栄、人類の新秩序を創造した。これが真の先人の姿である。
下記は昭和61年に発見された重光葵の手記である
「・・・昨日迄軍閥の機関であった新聞は、挙げて過去を清算し、掌を翻すが如く占領軍を謳歌し、軍部及び過去の指導者を攻撃し始めた。他人を攻撃し又は誣「し(事実をねじ曲げる)」ゆることは自分を擁護し、自分の責任を軽くするものと早合点した。終戦直後の昨今の状況ほど情けない日本の姿は又とあるまい」
現実界物づくりの捏造はご承知のとおり、即、存亡の危機。仮想現実界はこのように捏造がまかりとおり、しかも日本TV記念番組として多数のスポンサーが賛同しての放映である。捏造必滅の物づくり業界のスポンサーがほとんどだ。なんと物づくり業界のスポンサーも捏造の共犯者なのだ。
63年経てもこのざまだ。なんと情けない日本の姿だ。サミットの席に最初(1975年)から有色人種日本が、なぜただ一カ国着席しているか、立派な親から授かった自分の頭脳で考えろ。大東亜戦争は、体を筆にし流れる血で書いた人類への、先人の遺書だ。真の子孫なら、決して忘却すること無かれ。
真実史観
戦陣訓にあらずカウラの悲劇のすべての元凶は朝日新聞捏造記事だ。
「あの日僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かったーカウラ捕虜収容所からの大脱走」2008年7月8日(火)午後9:00日本系で放送。発案脚本は中園ミホ。伯父の佐藤憲司(87)の証言が基だという。「しんぶん赤旗」(2008年6月22日付「テレビ・ラジオ」欄)報道 カウラ捕虜収容所脱走事件 ドラマ化/「戦陣訓」の悲劇を問う ...
降伏禁止を命令した極悪軍と蹴落とし捏造、か弱き国民の味方を演じる仮想現実界の道理無視捏造番組。またまた偽善者番組だ。仮想現実界はまさに、秋葉原殺戮者やオウム殺戮者と同類の、無道理の輩の巣だ。日本系にもナベツネが工作員を住まわせたのか。中園ミホも、絵に描いたような無検証無道理だ。軍人勅諭軍法に記載無き「降伏禁止」が、訓に記載ありとは、現実界の道理には無い。検証せずとも現実界の道理があれば、明白なことだ。何度も記載しているが。再度記す。「虜囚は日本国の囚人。虜囚の辱は、日本国の囚人となる辱めだ」
戦陣訓
『第八 名を惜しむ
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』
戦陣訓意訳
『第八 名を惜しむ(名誉の尊重)
恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳
内容は今村均将軍が証言したように、正に「諭したもの」だ。
詳細は下記(憂国の辞書の解析)へ
戦陣訓虜囚の辱真実辞書意味変化改竄証明捕虜解釈辞書が捏造と断定
http://sinzitusikan.iza.ne.jp/blog/entry/548368/
カウラの大脱走 1944年8月5日、午前1時55分、オーストラリア・シドニーの西約320キロに位置するカウラ戦争捕虜収容所で、1104人(約80%が陸軍で、20%が海軍。)の日本人捕虜が一斉に脱走した。日本兵の死者231人、負傷者108人、成功者ゼロ。オーストラリア側の死者4人。捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年だ。
NHK制作の「カウラの大脱走」2005年9月4日に放映された。内容は、カウラ事件の生存者の「証言」を主体に編成したものだ。日本兵の大半は、捕虜となったときに偽名を名乗って入所し、姓名が日本に伝わることを避けたという(捕虜になっての偽名や家族への音信不通は、捕虜は公表されていないので、自分たちだけが捕虜になったのだという、うしろめたさがそうさせた。また捕虜同志の面子もあり、おのずとそうなった。「常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし」(公)に、応えられないことを恥じたからである)。
戦陣訓を意識せずに平和な捕虜として暮らしていた。ところが、ある日、日本軍の下士官の一群が収容されて来た。一人の下士官が軍人手帳を示し『諸君は捕虜である。戦場に臨む軍人の心得として、戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と書いてある。生きて捕虜になっていることはこの上なき恥辱である。国に残してきた家族に対しても申し開きができないではないか』と話し始めた。「これは敵につかまるぐらいなら自決しろということだ」とつまみ食い読みし、説明し、皆、戦陣訓に納得し、票決の上決行した、のだという。NHKは戦陣訓原因説だ。
『ウィキペディア(Wikipedia)』の見解
士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった。)
日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするか の多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)
この際、紙に移送受諾なら○、反対は×として行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いていた可能性を、現生存者は証言。
「カウラの大脱走」はNHKのように、戦陣訓に責任転嫁だけでは語れない事は確かだ。下記は詳細に語られている「カウラの大脱走」だ。戦陣訓はWGIP解釈。
カウラ (COWRA)―ひそやかに眠る日本の兵士たち
http://www1.odn.ne.jp/kminami/sub16.html
真実史観の検証
真実史観の検証はこうだ。カウラの1000人余りの日本兵は、戦陣訓を降伏禁止とは思っていなかったので、皆平和な捕虜生活を送っていた。そこへ戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じた下士官が現れ、戦陣訓に白紙の兵士は、洗脳され、自虐し、逃亡が目的ではなく自死目的の、大脱走となったというのが「カウラの大脱走」のあらすじだ。
捏造解釈を信じた下士官さえ現れなければ、平和に捕虜生活をおくり、皆帰還していた。皆戦陣訓を、降伏禁止とは思っていなかったのが、ここで証明されている。
捏造解釈の元ネタが、下記の1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事だ。この記事は1944年7月3日サイパン島守備隊南雲忠一海軍(戦陣訓示達陸軍のみ)中将訓示の元ネタにもなっている。まったくこの記事は罪の巨魁だ。
1942年2月24日 一等飛行兵、22歳の南忠男、日本人としてのカウラの捕虜第1号となる。
1942年8月~1943年1月 捕虜収容所にいた大部分は、ガダルカナル島での日米両軍の死闘後瀕死の状態で収容された兵士である。
1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事。
アッツ島玉砕
「1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令
非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり 」(注・戦陣訓の虜囚の辱ではない、捕虜の辱めをと、なっている)。
なお、アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しを見ることができる。(谷荻報道部長の談話)」戦陣訓 - Wikipedia
1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事以後「虜囚の辱=降伏禁止」が、兵士としての旗印「最後まであきらめずに戦う」と結合し、日本軍の一部に蔓延した。
1944年3月23日 佐藤憲司(87才。中園ミホの伯父、原案提供者)捕虜となる。戦陣訓を降伏禁止と解釈していた。
1944年3月~1944年8月 下士官の一群が捕虜となり入所。戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じ、同胞を呪縛。
1944年8月5日午前1時55分 カウラの大脱走(COWRA BREAK OUT)
「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」を、陸軍刑法第7章 逃亡ノ罪、陸(第77条)海(第76条)軍刑法、敵二奔「はし(走る・逃亡する)」リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮二処スの逃亡罪と、混同し、呪縛したのだ。捕虜(職責を果たしたが捕らわれる。不可抗力)と逃亡罪(職責をまったく果たさず逃亡、又は投降)を混同し、帰国しても死刑になるとつまみ食い読みしてしまったのだ。さらに、日本軍人の捕虜数を一切軍が公表していなかったので、自分たちだけが捕虜なのではないかという自虐心が、戦陣訓のつまみ食い読みであおられ「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし」(公)に応えられないことを恥じ、脱走して逃げるのが目的ではなく、自虐し、自損自死が目的の脱走となった。私心(捕虜の辱め)が大脱走の直接の起因ではない。
つまり、戦陣訓を降伏禁止とは誰も思っていなかった。戦陣訓を読み解いた者が一人もおらず、つまみ食い読みし、捕虜(職責を果たしたが捕らわれる。不可抗力)と逃亡罪(職責をまったく果たさず逃亡、又は投降)を混同し、悲劇となった。
降伏禁止で無い陸海軍刑法第三章 辱職の罪(部下の兵士ではなく、司令官個人への罰則)、を見逃していた。
第40条司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵二降リ又ハ要塞「ようさい(とりで)」ヲ敵二委(まか)シタルトキハ死刑ニ処ス
第41条 司令官野戦ノ時二在リテ隊兵ヲ率イ敵二降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮二処ス
第42条 司令官敵前二於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率イ逃避シタルトキハ死刑二処ス
戦陣訓の内容を皆、知らなかったから、つまみ食い読みの間違い〔陸海軍の軍人が空で覚えている軍人勅諭に、義(公)は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其「その」操「みさお(定めた意志を固く守ってかえないこと)」を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれと述べているのに、私心(捕虜の辱め)で、死ねという矛盾〕に気付かなかったのだ。軍人勅諭にも軍法にも記載無き降伏禁止が、訓に記載は不可能。戦陣訓を読み解いた者が一人でもおれば、皆帰還していた。捕虜収容所という異常下におきた事件とはいえ、なんという悲劇だ。カウラの悲劇のすべての原因は朝日新聞捏造記事だ。この朝日新聞捏造記事さえなければ、全員無事に帰還していた。
射殺183名、自殺31名、焼死体12名、その他5名の231名の日本兵、オーストラリア兵4名が犠牲者となった。107人負傷 3人の日本人がそのときに受けた傷がもとで、後に死亡。帰還した870名のうち捕虜を名乗り出たもの300余人で、その内カワラ会を結成したのは一割に満たない80人にすぎない(皆WGIP迎合者で軍や戦陣訓に責任転嫁し、責任逃れ)。帰還者のほとんど790人(九割以上)は、つまみ食い読みの間違いに気付き不名誉な行動を恥じて発言無し。ほとばしる名誉を重んじる愛国心「公」が起因の行動だ、そこまで深く国を思い故郷の名誉を重んじ戦った先人の純真、責める子孫など皆無。列強の侵略戦争に斯までして戦へり。
リーダー等が「民間人には絶対に被害を与えてはならない」と厳命し、民間人にはまったく被害がなかった。二人の日本人脱走兵が疲労と空腹から、近在の農家に救いを求めた際、たった一人で家にいたメイ・ウイアー夫人(May Weir)は少しも動ぜす、紅茶とスコーン・パンを与え、駆けつけた警備兵に対し「あの人たちが敵国人であるかどうかは関係ありません。彼らは何日も飲まず食わずだったのだから、同じ人間として、あの人たちに最低限の食糧を与えるのは当然です」と、ウイアー夫人はこたえ、食事が済むまで引渡しを拒否したという。
40年後に二人はカウラを再訪し、ウイアー家の農場を訪れて、たいへん親切にしてくれた家族に、お礼を述べたことが後日談として伝わっている。日本兵からにじみ出ていたある種の気配が、ウイアー夫人を促したのだろう。
「あの日僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」と、先人罵倒した日本系と中園ミホは、子孫としてあるまじき行為で、子孫とは呼べない。特に当事者の佐藤憲司(87才。中園ミホの伯父、原案提供者)は、国賊だ。解釈の間違いはあったが、名誉(公)を重んじての自死行為は事実だ。その戦友を、「僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」と茶化し、生存者が死者を冒涜するとは、何たる愚者だ。「超大国の侵略者を相手に、名誉を重んじ国を思い、当時の先人はそれほどまで軍民団結し「公」に徹し、資源無き小国日本を護ろうとしていたのだ。その強い思いが私心(捕虜の辱め)などではなく『常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし』の『公』に応えられないことを恥じ、脱走して逃げるのが目的ではなく、自虐し、自損自死が目的の脱走となった」と、歴史の真実をどうして語れない。あの世での戦友の糾弾は覚悟しておくことだ。
オーストラリアは4名も死亡しているにもかかわらず、日本兵の死者を丁重に葬り、生存者の罪は一切問わず、翌年8月、終戦を迎えると直ちに日本に帰還させている。それは世界各地に抑留された日本兵の本国帰還の中でも最も早かった。同じ兵士として、ある種の、崇高な共感を感じとったからだろう。
生還者870名もいるのに一割に満たないWGIP迎合者カワラ会。戦陣訓、日本軍に罪をかぶせ、ぬくぬくと暮らしている80人のWGIP偽善迎合者。そのうちのたった一人、佐藤憲司(87才)の偽善者発言を基にした物語だ。全帰還者870名のうちのたった1名(1名/870名)の証言で、ほか869名の帰還者証言は、無視されている。WGIP迎合無き789名の真実の声が隠蔽されている。これは真実ではなく正しく捏造だ。「元兵士の証言(極悪日本軍)」で「極悪日本軍対虐げられたかわいそうな兵士や国民」と、ありもしなかった軍と民の対立を捏造。我々はかわいそうな兵士の味方を演じる、NHK等の工作員の輩のお馴染みの手法である。読売新聞、日本TVにもどうやら工作員が巣くったようだ。
NHK朝日毎日等に巣くう、工作員のお馴染みの手法「極悪日本軍対、虐げられたかわいそうな兵士や国民」など無かった。戦後、戦犯追及を恐れたマスコミや、鵜呑み識者が米軍に迎合し、「虜囚の辱=降伏禁止」と捏造、先人冒涜をし続けた捏造報道の嵐の中での、日本人成人のとった行動が下記。
「終戦から7年後の昭和27(1952)年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集り、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された」
ハリー・ゴードンはオーストラリアの作家 で、カウラ事件に長い間取り組んできた。
「DIE LIKE THE CARP 」(鯉のごとく死ね)Harry Gordon1978年出版「鯉のごとく死ね」というのは、カウラの捕虜の、小城清治が 母親に教えられた言葉で「滝を登る鯉のように勇気を持ち、死ぬときは潔く」という意味からとられ、原題となっている。大脱走(COWRA BREAK OUT)の起因とし著者が原題にした。鯉はまな板に乗せられると、もう身動きしないという意味で。翻訳本題名は「俎上の鯉」 とした。豊田穣訳1979年双葉社。
「VOYAGE FROM SHAME」(恥辱からの旅立ち)Harry Gordon1994年出版。翻訳本は「生きて虜囚の辱めを受けず」山田真美訳1995年清流出版。(注・マスコミがいかに安易に戦陣訓に結び付けているかがよく分かる。原題「恥辱からの旅立ち」が、翻訳では、WGIP解釈「生きて虜囚の辱めを受けず」となるのだ。内容は推して知るべし)
「カウラの大脱走」は戦後の日本と同じだ。WGIPでありもしない極悪軍対国民を捏造され、降伏禁止で無い陸海軍刑法や戦陣訓に白紙の日本人は、戦陣訓を、つまみ食い読みした鵜人識者やマスコミに、瞬く間に洗脳され染まってしまった。後に巣くった反日侮日工作員に、日本精神をずたずたにされながら、63年を経た。日本軍(適者生存自衛軍)冒涜者は自虐史観者などではなく、偽善者史観者。国民の味方を装った工作員である。工作員の宣伝など鵜呑みせず、立派な親から授かった頭脳で、陸海軍刑法や手本の軍人勅諭を読み、戦陣訓を読み解き、二度とカウラの悲劇を繰り返してはならない。同胞よ、二度とカウラの悲劇の、轍を踏むなかれ。
検証などしなくても、手本の軍人勅諭や刑法に記載無き「降伏禁止」が、「訓え」の戦陣訓に存在不可は、現実社会の常識、道理で考えれば分かることだ。今回の放映は、オウム殺戮者や秋葉原殺戮者と同類の、無道理の輩と工作員に、仮想現実界がいかに占領されているかの、証明だ。
食民治主義凶産主義に世界が征服される寸前に、先人はたった一カ国で立ち向かい、食民治主義と独占貿易を破壊、共産を凶産主義と暴露し拡散防止、人種平等共存共栄、人類の新秩序を創造した。これが真の先人の姿である。
下記は昭和61年に発見された重光葵の手記である
「・・・昨日迄軍閥の機関であった新聞は、挙げて過去を清算し、掌を翻すが如く占領軍を謳歌し、軍部及び過去の指導者を攻撃し始めた。他人を攻撃し又は誣「し(事実をねじ曲げる)」ゆることは自分を擁護し、自分の責任を軽くするものと早合点した。終戦直後の昨今の状況ほど情けない日本の姿は又とあるまい」
現実界物づくりの捏造はご承知のとおり、即、存亡の危機。仮想現実界はこのように捏造がまかりとおり、しかも日本TV記念番組として多数のスポンサーが賛同しての放映である。捏造必滅の物づくり業界のスポンサーがほとんどだ。なんと物づくり業界のスポンサーも捏造の共犯者なのだ。
63年経てもこのざまだ。なんと情けない日本の姿だ。サミットの席に最初(1975年)から有色人種日本が、なぜただ一カ国着席しているか、立派な親から授かった自分の頭脳で考えろ。大東亜戦争は、体を筆にし流れる血で書いた人類への、先人の遺書だ。真の子孫なら、決して忘却すること無かれ。
真実史観