新しく出来たカフェに入ってみた。
「いらっしゃいませ」
フリルのついたエプロンをつけたウエイトレスが声をかける。開店と同時に採用されたのだろう。まだどことなくぎこちない笑顔と接客。
私は一人でタバコを吸わないことを告げると、ウエイトレスはどこでも好きな席に座れという。見たところ客は他に誰もいない。つめて座れば20人は座れるような店内はがらんとしていた。
席に座ると、ウエイトレスはメニューと水をテーブルに置く。私はメニューを開きはしたが、中身は見ずに
「ホットコーヒー」
とだけ告げる。ウエイトレスはぎこちなく注文票にメモすると去っていった。
私はカフェに入ると決まってホットコーヒーをとることにしている。コーヒーは好きだが別にこだわりがあるわけではない。どこの喫茶店にも必ずブレンドという品物があり、それをホットとだけいえば注文が出来る。コーヒーは時間つぶしのための飲み物であり、それ以上のものではない。
しばらくすると注文の品を例の若いウエイトレスが持ってきた。
「ごゆっくりどうぞ」
といって背中を向けたと思うと、
「いらっしゃませ」
と先ほど聞いたばかりのぎこちなさで来客を迎える声を発した。
店内に入ってきたのは私と同じ背恰好の女性であった。勤め人風の身なりをしている。お好きな席にと私と同じことを言われて、こちらに入ってくる。
私は無関心を装って先ほどから開いていた文庫本のページをめくった。しかし、彼女がわざわざ私の隣の席に座ったのには少々驚いた。他に客はいないのである。
きっと人間の心理として群れたいという気持ちがあるのだろう。そのように考えて状況を理解しようとした。
隣の彼女はウエイトレスにホットコーヒーを頼んだ。やはりメニューを開いただけですぐ閉じ簡潔に注文を済ませた。私のような人が他にもいるんだ。と内心思ったのだが、よく考えればこれはよくあることに違いないという結論で自分を納得させた。
それからしばらく、私は文庫本に集中することにした。本はおととい駅前の書店で買ったばかりのものである。南の島を舞台にした短編集で、甘ったるく予定調和的な結末ばかりの小説が並んでいた。
店内のBGMがちょっと大きくてなかなか集中できなかった。それに隣の女性のことも気になってきた。さりげなく様子を伺うと彼女も文庫本をよんでいた。紙のカバーがかかっていて何の本かは分からない。でも私は恋愛小説に違いないと思った。彼女は見られていることに気づいたのか一瞬こちらを見た。私は慌てて視線をそらした。
私はそれから集中できなくなった。隣の女性のことばかりが気になった。どこかで会ったことがする。顔をはっきり見ていないので確かめることはできない。かといってまじまじと見るわけにもいかない。
さりげない話題で声をかけてみようとも思った。たとえば、この店は初めてですか。ちょっと店員がぎこちなくてかわいいですね、とかそういうどうでもいい話題で。
しかし元来、そういうことは苦手だった。顔見知りの人手さえ声をかけるのにいくつかの手続きを要するのが私の質だ。
その時、隣の彼女が何かを落とした。見ると私の足もとに落ちている。私は反射神経的にそれを拾いあげた。小さな手帳だった。手帳は表紙が開いた形で落ちており、手に取るときに裏表紙にはさまれた写真がちらと見えた。それを見て私の心が震えた。
「これって」
その写真は私が依然付き合っていた男の写真だった。顔が同じだけではない。背景も構図もまったく同じ写真だった。彼とは3年ほど前に別れた。優しく気遣いのできる男で、大学を卒業してすぐにプロポーズされた。1年近くの交際で結婚を決めた。世間でいう甘い生活の一通りをすごした末の2年後に急に「別れたい」と言ってきた。一方的で突然の言い草に腹が立った。夫は外国で自由に暮らしたいからという。めちゃくちゃな理由だった。
いろいろなことがあり、二人とも消耗し、これではだめだということで離婚することにした。性格の不一致というのが表向きの理由だ。子供もおらず、互いの両親も多くを語らなかった。夫はその後本当にアフリカの某国に行き、音信が途絶えた。
私はかつての夫が離婚を言い出した直接のきっかけが浮気であると思っていた。もしかして、この女性がその相手では。そういった思いが駆け巡った。手帳を渡そうとすると、彼女は丁重に礼をいった。
その時、目が合った。おそらく大学を卒業したばかりの新人OLといった風貌だ。私は気づいた。
「あの、失礼ですが、町田 南さんではありませんか」
町田は私の旧姓だ。
声をかけられた相手が戸惑いながらうなずいたのを見た。