金曜日の午後に母と弟と一緒に買い物に行くのはその頃の我が家の行事みたいなものであった。学校から帰ると母は買うべきものを広告の裏にメモをして、私と弟とに声をかける。小学2年の弟は6時から始まるアニメに間に合うように帰ることを条件に買い物に付き合う。もっともついてこなくていいといっても絶対についてきたのだが。
母は私にはただ行こうという意味の目配せをするだけだった。行くのが当たり前のことだったのである。5年生になったばかりの私にも姉としての自覚のようなものができていた。とてももろく壊れやすいものではあったけれど。
買い物は駅前のスーパーで済ませることが多かった。駅までは歩いて10分もかからないところだったので歩いていっていた。月に一度くらいは市役所のある駅の近くのデパートにいったが、その時は着ていくものが違った気がする。今日はそのままの服とちょっとぶかぶかの運動靴で出かけた。
弟はお菓子売り場や飲み物の売り場の前では足を止めたが、あとはとにかく落ち着かず、無駄に走り回っては他の客の迷惑になっていた。母や私がたしなめようとしても一向にやめようとしないどころか、余計にエスカレートするのだった。
私も広い店内を走り出したくなる衝動が起きるときがあったが、弟がいるとそれができなかった。私は姉の役割を果たそうとしていたのである。
買い物を終えて家に帰る途中の道で、母は何気なく私たちにこう尋ねた。
「えびとレタスを買ったから、お夕食はシーフードのパスタか、ピラフのどっちがいい」
「ピラフってなに」
弟はすかさず尋ねる。
「ご飯の中にいろいろと入れて炒めたものよ」
弟が母の説明の意味を考えているうちに、私は答えた。
「じゃあ、パスタにしようよ」
私はなんとなく気づいていたのだ。母が択一の問いを出す時、その真意は最初に言った選択肢にあると。それを察して母の気持ちを代弁したつもりになっていた。母は私の発言を聞いて一瞬喜んだように見えたのを確認したのだ。
「いやだ、僕はご飯がいい」
弟は大声を出して円満な決定をご破算にした。
「絶対、ご飯がいい」
「どうしてよ。パスタでいいじゃない」
私は聞き過ごすことができなかった」
「ご飯」
「パスタ」
「ご飯!」
「パスタ!」
とお互い譲らなかった。
向こうからゴールデンレトリーバーを連れたおばさんが私たちの言い争いを不思議そうに見ながら通り過ぎた。犬も私と弟の顔を見上げた。
私は弟が反抗的なのが気に食わなかった。もう晩御飯はパスタでもピラフでもなんでもよかった。でも生意気な弟の言ったとおりになることだけは避けなくてはと思った。
そこで私はこういった。
「じゃあ、あそこの電柱まで走って先に着いたほうが決めていいことにしない」
明らかに卑怯な提案だった。私のほうが速いに決まっている。弟はまだ小さい。私は小学校でも学年代表になるくらい体育には自信があった。
「いいよ。そうしよう」
無謀にも弟はこの提案を呑んだ。私には絶対の自信があった。少し遅れて走り出したって絶対に負けはしない。
「いいよね。お母さん」
母の意志を確認するために私が訪ねると、母は何にも答えなかった。そして、私だけに分かる小さなため息をつくのが見えた。私はその時、我に返った。弟に勝ってはならない。
弟は予測どおりフライングをした。でも私はすぐにそれを追い越していた。走り出すと生来の負けん気が手加減など忘れさせていた。弟の叫び声が聞こえた。私の勝利は目前だった。
電柱まであと少しの時、私のはいていた運動靴が脱げた。立ち止まった私を抜いて弟が先に電柱の向こうに達した。私が靴を拾って履きなおした時、弟は勝ち誇って言った。
「勝ったから僕の言うとおりにして」
私はうなずくしかなかった。
夕食の後片付けをしているときに母は弟に聞こえないように言った。
「南、お姉ちゃんの役を果たしたね」
でも靴が脱げたのはわざとではなかった。弟の喜ぶ顔を見てまんざらではない気持ちになったのも事実である。でも、あの時はわざと負けたのではなかった。