脚注
- ^ 『古事談』には父子の対立の原因として、崇徳天皇が白河法皇の子であり、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
- ^ 妾腹の男子がいたが、母の身分が低いためか早くに出家している。
- ^ 「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」(『山槐記』永暦元年12月4日条)
- ^ 為義については摂関家の家人であり北面ではないとする見解が一般的であるが、『愚管抄』に「キタオモテ(北面)」と明記され、院主催の流鏑馬行事や強訴防御にも登場することから、北面に在籍していたとする説もある(横澤大典「白河・鳥羽院政期における京都の軍事警察制度-院権力と軍事動員-」『古代文化』527、2002年(平成14年))。
- ^ この警備については、近衛天皇の崩御時と同様に、混乱一般の防止にあったとする説(河内祥輔)、動員の規模が大きく高松殿も警備の対象になっていることから、法皇没後に崇徳上皇や藤原頼長が兵を起こす危険に備えたという説(元木泰雄)がある。
- ^ ただし、後白河天皇も崇徳上皇同様に法皇の見舞いにも死後の対面にも行っておらず、崇徳上皇のみを拒絶の対象にしていた訳ではないとする指摘(河内祥輔)がある。
- ^ 法皇の遺体を棺に納めたのは、信西・藤原惟方・藤原成親・源資賢・源光保・藤原信輔・藤原信隆・高階盛章の8名だった(『兵範記』7月2日条)。その後の政治的動向を見ると、信西と惟方が主導的立場にあったと思われる。
- ^ な お、背後で画策したのは忠通とする説(河内祥輔)もあるが、頼長を追い落とすためとはいえ、摂関家の威信を失墜させる「氏長者の謀反人認定」という措置に 踏み切れたかどうか疑問が残る。一方、信西は低い身分からのたたき上げで死刑復活や寺社統制を断行するなど、伝統や権威に縛られない人物だった。摂関家に 対しても畏敬の念はなく、むしろ倒すべき障害と認識していた可能性もある。
- ^ 「当時マコトニ無勢ゲナリ」「勢ズクナナル者ドモ」(『愚管抄』)
- ^ 『保元物語』では為朝だが、『愚管抄』では為義が献策したとする。
- ^ 忠 通の逡巡の本質について、河内祥輔は合戦そのものへの逡巡と説き、山田邦和は夜討という戦術に対する逡巡と説いて軍事行動にはむしろ積極的であったとみ る。山田は夜討につきものであった放火によって法勝寺などの六勝寺に炎上させることで貴族社会内部からの反感を買うことを危惧したと見る。
- ^ 東三条殿に一時的に皇居を移したことについては、高松殿が手狭で軍事拠点に不向きだった、摂関家の屈服を示す狙いがあった、薬子の変・承和の変の先例に従ったなどの説があるが、正確な理由は不明である。
- ^ 『保元物語』は為朝と景義の戦闘を白河北殿の門内とするが、『吾妻鏡』は大炊御門河原であったとする。
- ^ 山 田邦和は残敵の中でももっとも重要な存在であった上皇と頼長が逃亡の際、上皇は内裏のある高松殿の周辺を逃げ回り、頼長も平安京を横断するというもっとも 目につきやすいルートを用いて逃亡しているのに、残敵掃討の指揮にあたった義朝がこれを顧慮しなかったことを指摘して、「手抜かりというレヴェルですらあ るまい」として、義朝を「十廿騎の私事」といった小競り合いに長けているだけの無能力な人物と酷評している。
- ^ 『兵範記』8月4日条には「ただ仏と仏との評定。余人、沙汰に及ばざるか」とある。仏は出家者のことであり、信西と美福門院を指していると見られる。
- ^ 東国の武士は朝廷が国衙を通して動員しており、義朝と主従関係にない武士も多く含まれていたという指摘がある(野口実『源氏と坂東武士』吉川弘文館、2007年(平成19年))。
参考文献
- 河内祥輔 『保元の乱・平治の乱』 吉川弘文館、2002年(平成14年)。ISBN 978-4-642-07787-3
- 元木泰雄 『保元・平治の乱を読みなおす』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2004年(平成16年)。
- 山田邦和 「保元の乱の関白忠通」朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』所収 思文閣出版、2009年(平成21年)。 ISBN 978-4-7842-1497-6
関連項目
保元の乱を扱った作品
ウォーゲーム
- 保元・平治の乱 (ウォーゲーム日本史)
歌謡曲
- 保元の乱 (三波春夫)
外部リンク
- ふょーどるの文学の冒険 保元物語、平治物語の現代語訳