母さんの体力が回復し、山を下る事になった。
私たちは、お借りしていた宝山殿の家の掃除を、丁寧に行った。
母曰く、これは最低限の礼儀なのだそうだ。
男所帯ながらも、きれいだった家も、
障子紙を張り替えたり、浴室のカビ取り、庭の草取りをしたら、
見違えるように綺麗になった。
「今年の大掃除は、しなくてもいいようだな」
宝山殿は、きれいになった家を見まわしてご満悦だ。
「長らくお世話になりました」
母さんが深く、頭を垂れる。
「いつでも、帰っておいで。凜殿も、いつだって遊びにきていいのだぞ」
破顔一笑する宝山殿に、私は抱きついた。
「せっかく、お山のワンちゃん達ともお友達になったのに、寂しいよ」
「大丈夫だ。あの子たちは、ずっと、凛殿のことを忘れたりしない。待っているよ」
宝山殿は、優しく頭を撫ぜてくれた。
荷物をまとめ、彼と別れる時、彼は母さんに云った。
「くれぐれも、独りで抱えこまずにいておくれ。紫殿は、決して独りではない。
娘を護ってやるのだろう? 独りでは解決できないこともある」
母さんは、そんな彼の顔を、食い入るように見ていて、やがて、云った。
「いつか、凛が人生に迷って、ここへ来るかも知れない。その時は、頼みます」
私の胸が、不安に慄いた。
母さんは、白ばあちゃんから、厳しい試練を受けている。
この先、何が起こるのか、私には判らない。
母さんが、この先どうなってしまうのかも判らない。
それを想像すると、心臓が壊れそうになる。不安で仕方なくなる。でも、私は、涙を耐えていた。
奥深い霊山を抜け、リフトに乗って山を下ると、そこはまるで別の世界に見えた。
私たちが、生きる世界。もうここには、宝山殿も、山犬もいない。はしゃぐ観光客。
私たちは、境界を越えたのだ。
「…凛」
母さんが、そっと髪に触れてきた。
「帰ってきたよ。もう、全て忘れて、楽しく生きよう」
「…母さん」
「ねえ、命が人に変化出来るようになったのよ」
「ええ?」
私は、抱いている命を見つめた。
命は、私達以外の人には見えない。妖の姿も、小さな男の子に変化した姿も。
命は、白いパーカーにジーンズの姿で立っていた。
丁度、私くらいの年齢の男の子。
薄い茶髪に、グレーの眸。綺麗な、男の子だった。
「お姉さま」
なんて云って、私に抱きついて来て、どぎまぎさせる。
とんでもなく、イケメンな男の子。
「夏ちゃんに、お土産頼まれているんでしょ?」
母さんが笑っている。
「うん。木刀。あるかな」
「探そう! それから、おいしい、天ぷら蕎麦を食べようよ」
私たちは、手をつないでお土産屋さんに入った」
「木刀、あるね。でも、夏ちゃんが云っていた『洞爺湖』って書いてあるのがないなあ」
「それは、北海道に行かなきゃないよ」
「そうなの? えー、どうしよう。それに思ったより、木刀って高いんだね。
私も同じもの欲しかったのに」
「いいよ、母さんが買ってあげる」
母さんは楽しそうに、木刀を2本手に取った。
「文字は自分で書けばいいじゃない?」
「うん。それもそうだね」
母さんは、猫さんや夏ちゃんのお母さんにあげる『天狗黒豆まんじゅう』も買っていた。
それから、お蕎麦屋さんに寄って天ぷらのせいろを食べる。母さんはビールも飲んだ。
命もキツネ蕎麦を、美味しそうに食べていた。
私は、話すなら今しかないと思い、ずっと胸に秘めていたことを話した。
「私、夏ちゃんと一緒に、テコンドーを習いたいの」
「テコンドー?」
母さんは、ぼんやりとして応える。
「空手、みたいなもの。私、強くなりたいの」
「なんで?」
母さんは、面白そうに笑う。
「私、母さんを護りたい、塾のお金とか大変?」
「それほどでも」
「じゃあ、習わせて」
この時母さんは、フッと笑って私の頭を撫ぜてけど、
これが、とんでもない事件に関わってくる事なんて
この時は、まだ、誰も知らなかった。
母さんと命と、高尾山に行った。
宝山殿と、山犬達と友達になった。
命が、自分の意志で人に変化できるようになった。
母さんが、独りじゃないと知って、安心した。
私も。
ここにいつでも帰ってきていいのだと、知った。
…でも。
白婆ちゃんの死が、まるで当たり前であるかのように消され、
日常は、続く。
母さんが恐れていたものを、この時の私は知らない。
強い妖力、神通力を持つ母が、
悪霊や魔物より、はるかに恐れていたものが、近づいていた。
人間が。
「高尾山事変」 了
私たちは、お借りしていた宝山殿の家の掃除を、丁寧に行った。
母曰く、これは最低限の礼儀なのだそうだ。
男所帯ながらも、きれいだった家も、
障子紙を張り替えたり、浴室のカビ取り、庭の草取りをしたら、
見違えるように綺麗になった。
「今年の大掃除は、しなくてもいいようだな」
宝山殿は、きれいになった家を見まわしてご満悦だ。
「長らくお世話になりました」
母さんが深く、頭を垂れる。
「いつでも、帰っておいで。凜殿も、いつだって遊びにきていいのだぞ」
破顔一笑する宝山殿に、私は抱きついた。
「せっかく、お山のワンちゃん達ともお友達になったのに、寂しいよ」
「大丈夫だ。あの子たちは、ずっと、凛殿のことを忘れたりしない。待っているよ」
宝山殿は、優しく頭を撫ぜてくれた。
荷物をまとめ、彼と別れる時、彼は母さんに云った。
「くれぐれも、独りで抱えこまずにいておくれ。紫殿は、決して独りではない。
娘を護ってやるのだろう? 独りでは解決できないこともある」
母さんは、そんな彼の顔を、食い入るように見ていて、やがて、云った。
「いつか、凛が人生に迷って、ここへ来るかも知れない。その時は、頼みます」
私の胸が、不安に慄いた。
母さんは、白ばあちゃんから、厳しい試練を受けている。
この先、何が起こるのか、私には判らない。
母さんが、この先どうなってしまうのかも判らない。
それを想像すると、心臓が壊れそうになる。不安で仕方なくなる。でも、私は、涙を耐えていた。
奥深い霊山を抜け、リフトに乗って山を下ると、そこはまるで別の世界に見えた。
私たちが、生きる世界。もうここには、宝山殿も、山犬もいない。はしゃぐ観光客。
私たちは、境界を越えたのだ。
「…凛」
母さんが、そっと髪に触れてきた。
「帰ってきたよ。もう、全て忘れて、楽しく生きよう」
「…母さん」
「ねえ、命が人に変化出来るようになったのよ」
「ええ?」
私は、抱いている命を見つめた。
命は、私達以外の人には見えない。妖の姿も、小さな男の子に変化した姿も。
命は、白いパーカーにジーンズの姿で立っていた。
丁度、私くらいの年齢の男の子。
薄い茶髪に、グレーの眸。綺麗な、男の子だった。
「お姉さま」
なんて云って、私に抱きついて来て、どぎまぎさせる。
とんでもなく、イケメンな男の子。
「夏ちゃんに、お土産頼まれているんでしょ?」
母さんが笑っている。
「うん。木刀。あるかな」
「探そう! それから、おいしい、天ぷら蕎麦を食べようよ」
私たちは、手をつないでお土産屋さんに入った」
「木刀、あるね。でも、夏ちゃんが云っていた『洞爺湖』って書いてあるのがないなあ」
「それは、北海道に行かなきゃないよ」
「そうなの? えー、どうしよう。それに思ったより、木刀って高いんだね。
私も同じもの欲しかったのに」
「いいよ、母さんが買ってあげる」
母さんは楽しそうに、木刀を2本手に取った。
「文字は自分で書けばいいじゃない?」
「うん。それもそうだね」
母さんは、猫さんや夏ちゃんのお母さんにあげる『天狗黒豆まんじゅう』も買っていた。
それから、お蕎麦屋さんに寄って天ぷらのせいろを食べる。母さんはビールも飲んだ。
命もキツネ蕎麦を、美味しそうに食べていた。
私は、話すなら今しかないと思い、ずっと胸に秘めていたことを話した。
「私、夏ちゃんと一緒に、テコンドーを習いたいの」
「テコンドー?」
母さんは、ぼんやりとして応える。
「空手、みたいなもの。私、強くなりたいの」
「なんで?」
母さんは、面白そうに笑う。
「私、母さんを護りたい、塾のお金とか大変?」
「それほどでも」
「じゃあ、習わせて」
この時母さんは、フッと笑って私の頭を撫ぜてけど、
これが、とんでもない事件に関わってくる事なんて
この時は、まだ、誰も知らなかった。
母さんと命と、高尾山に行った。
宝山殿と、山犬達と友達になった。
命が、自分の意志で人に変化できるようになった。
母さんが、独りじゃないと知って、安心した。
私も。
ここにいつでも帰ってきていいのだと、知った。
…でも。
白婆ちゃんの死が、まるで当たり前であるかのように消され、
日常は、続く。
母さんが恐れていたものを、この時の私は知らない。
強い妖力、神通力を持つ母が、
悪霊や魔物より、はるかに恐れていたものが、近づいていた。
人間が。
「高尾山事変」 了