パピヨン&猫~アリオ&りんご&バジル&くるみのブログ~

愛犬&愛猫と一緒に愛車で日本全国?はまだまだですが、お出掛けした事・趣味のお城の事・鉄道の事など紹介しています。

上田城紅葉まつり11/4~おもてなし1回目編~

2018-11-20 16:01:48 | 愛猫
予定通り、2日目の登城



お昼頃までは天気が良かった(^O^)


時間は12時頃から眞田神社でおもてなし



香箱


クリームパン


竹垣の向こうから今年の2/27に金箔が張られた瓦(金箔瓦)のうち鬼瓦の破片が出土しました(^O^)
この竹垣の向こうにはかつて眞田神社の社務所がありました。
(現在の社務所はこの向かい側)

本丸の土塁の範囲を調査していた過程で出土しました。
上田城での金箔瓦の出土は今回で3回目です。

ちなみに1回目は昭和2年(1927年)、2回目は平成3年(1991年)です。
鬼瓦鯱瓦鳥衾瓦が出土。

今回出土したのも鬼瓦の破片。
これらの役物瓦は、例えば独立した1棟の2重2階の櫓であれば
鯱瓦は2、鬼瓦鳥衾瓦はそれぞれ、14(1重目が寄棟の場合)または20(1重目が大入母屋の場合)あります。

金箔瓦が使用できたのは、
豊臣秀吉政権下では自身の居城や豊臣一門の城、そして戦略上重要な城でした。

その中でもランクがあり役物瓦の他に軒平瓦軒丸瓦にも使用できた城があれば
役物瓦のみの城もあったようです。

1棟の建物で役物瓦よりもはるかに数多く使われる軒平瓦軒丸瓦が出土すれば豊臣政権下における上田城の重要性が高かったことがわかります。
が、現在のところ上田城では鬼瓦鯱瓦鳥衾瓦(の破片)が出土したのみ。

関東に移封となった徳川家康を監視するための包囲網を構成した城の主の中で
豊臣秀吉配下になって一番日の浅い真田昌幸(上田城 真田信幸も)に対して豊臣秀吉の見立てはどの程度だったのか?

ただ、真田家としてみると、嫡子の真田信幸が城主となっていた沼田城にも金箔瓦が施されていた事から一家で2城という事で真田の重要性が高かった事は間違いないと思います。

軒平瓦軒丸瓦も出土すればいいな(^O^)


東虎口櫓門前へ移って








一旦帰宅したところ1本の連絡がありました
つづく・・・

上田城紅葉まつり11/3~夜編~ お屋形さまぁ~、源次郎ぉ~

2018-11-20 11:17:08 | 愛猫
サントミューゼで夕方までお散歩した後
ももちゃんとバイバイして再び上田城へ行きました

ライトアップされていた二の丸堀跡けやき並木遊歩道

行ってみると、二の丸橋付近でおもてなし武将隊と紅葉まつりに参加された
上越・仙台・熊本の武将隊が何やら撮影の準備をしているところに出くわしました!!

地元のTV局の番組の生中継のスタンバイ中でした。





中継が終わった後に
左から
奥州・仙台おもてなし集団・伊達武将隊
片倉小十郎景綱公
越後上越おもてなし武将隊
上杉景勝公
熊本城おもてなし武将隊
加藤清正公
一緒に撮ってもらったニャ~!!

お屋形さまぁ~(≧▽≦)ゴロニャンゴロニャン!!!
源次郎ぉ~(*^^*)ナデナデ!!!



上杉景勝公は猫を「飼っていた」だったか「飼っている」だったかな?
この時、加藤清正公上杉景勝公に「お主、猫ずきか?」のようなことを聞いていました(^O^)

真田幸村公がお三方に
「わしが留守の時、代わりにおもてなししてくれてる」
「分身じゃ!分身」というような事を言って紹介してくれました\(^o^)/










再び上田城へ行って良かったね(´∀`*)ウフフ

上田城紅葉まつり11/3~昼編~

2018-11-20 11:00:23 | 愛猫
今年は、これから最盛期を迎えるという中で開催されました

天候にも恵まれてたくさんの人出でした(^O^)


ようこそおいで下さいましたニャ~
目をつむってますけど・・・






11時30分頃から東虎口櫓門前でおもてなし


12時頃から眞田神社でおもてなし











参拝待ちの皆さん、御朱印待ちの皆さんに
喜んでもらいました(*^^*)






13時30分頃、一旦帰宅し、ワンニャン達はお留守番で昼食へ



眞田神社で合流したももちゃんちと一緒に昼食を摂った後
サントミューゼへ行って一緒にお散歩




つづく・・・