第16回「表裏」以降、感想は書きませんでした。
源次郎の大坂での行動・生活がはっきりとしていない為。
多くの武将が登場しその人たちについては詳しくない為。
第15回まではなんとか、文献・資料等で自分なりに調べ、理解した話と真田丸の脚本を見比べながら感想を書いてきました。
それが難しくなったと判断段した為です。
第一次上田合戦よりあっさりと描かれた第二次上田合戦。
佐助の知らせで終了した45秒超高速関ヶ原の戦い。
まぁ、関ヶ原の戦いは散々他のドラマ・映画・歴史番組等でもやったし、歴史の授業でもやってるからこんな程度で良かったのだけれど
第二次上田合戦についてはちょっとあっさりしすぎていて残念でした。真田家にとっては大事な出来事だったのですが・・・。
徳川秀忠率いる軍が上田城攻めを敢行している間、手薄になった本陣(染屋台の染屋城)を戸石城(現在は砥石城)の南東に位置し神川に迫り出した小高い山である虚空蔵山に築かれていた砦の伊勢崎城(山城)から出撃した真田信繁が攻め寄り、それに慌てた徳川秀忠が小諸城へ逃げていくという敗走する姿を描いてほしかった。
伊勢崎城は、虚空蔵山(ドラマで上田城築城の際に出てきた虚空蔵山とは違う虚空蔵山)の頂に築かれた砦。築城者・時期の詳細は不明ですが、真田幸隆(幸綱)の時代に築かれ、戸石城(砥石城)の支城として築かれたようです。
真田丸第36回「勝負」では蚕山と絵図に描かれていました。
実際の山の形ですが蚕に似ています。
蚕の頭の頂に砦が築かれました。
兄源三郎(信幸)と源次郎(信繁)が対峙した戸石城(砥石城)と伊勢崎城の位置関係
両城は直線距離で1.6kmほどしか離れていません。
ドラマでは
源三郎は、源次郎の動きをあえて見過ごしたのか?
それとも、父昌幸の奇策に気が付かなかったのか?
戸石城から全く動こうとしなかった源三郎。
源次郎が攻め寄せた徳川本陣がもぬけの殻となっていたが、その理由がわからない。
そして半日で終わった関ヶ原の戦い。徳川率いる東軍の圧勝の知らせが・・・。
唖然とする昌幸信繁父子。
そりゃ~、そうなります。
あっさりと負けた石田治部に源次郎は驚き、
昌幸にしてみれば徳川主力本軍の足止めに成功したにもかかわらず。
草刈昌幸が言っていたように、治部の挙兵が早すぎた。
そして、草刈昌幸がたくさんの兵法を治部に教えておけば・・・
なんて、あの場面を見て思いました。史実がどうとかこうとか関係なく。
父弟の助命と引き換えに縁切り・改名を受け入れた信幸。
家康に出仕し稲を娶った時点で信幸は家康には刃向かえない立場に取り込まれ、それから10年以上も経っており、信幸の精一杯が助命嘆願であったのではないかと思います。しかし、家康の考えはその上をいき、死罪は表向きで、兵金武具なんかより戦の機会を奪われるという、昌幸にとってはまさに生き地獄。それを与えるという。信幸ではそこまでは読み取れなかったのでしょう。死を突きつけられた父弟を救いたい一心だったと思いますので。
そんなところが、第37回「信之」描かれました。
そして、上田城を離れ九度山へ発った昌幸信繁父子。まだこの時は、また上田へ帰ってこられるという期待があったのでしょう。悲壮感も何もなくただただ上田を離れていきました。
しかし、2度と戻ることが許されなかった配流生活になるとは。
といったところまでが描かれました。
第38回は後日に。
源次郎の大坂での行動・生活がはっきりとしていない為。
多くの武将が登場しその人たちについては詳しくない為。
第15回まではなんとか、文献・資料等で自分なりに調べ、理解した話と真田丸の脚本を見比べながら感想を書いてきました。
それが難しくなったと判断段した為です。
第一次上田合戦よりあっさりと描かれた第二次上田合戦。
佐助の知らせで終了した45秒超高速関ヶ原の戦い。
まぁ、関ヶ原の戦いは散々他のドラマ・映画・歴史番組等でもやったし、歴史の授業でもやってるからこんな程度で良かったのだけれど
第二次上田合戦についてはちょっとあっさりしすぎていて残念でした。真田家にとっては大事な出来事だったのですが・・・。
徳川秀忠率いる軍が上田城攻めを敢行している間、手薄になった本陣(染屋台の染屋城)を戸石城(現在は砥石城)の南東に位置し神川に迫り出した小高い山である虚空蔵山に築かれていた砦の伊勢崎城(山城)から出撃した真田信繁が攻め寄り、それに慌てた徳川秀忠が小諸城へ逃げていくという敗走する姿を描いてほしかった。
伊勢崎城は、虚空蔵山(ドラマで上田城築城の際に出てきた虚空蔵山とは違う虚空蔵山)の頂に築かれた砦。築城者・時期の詳細は不明ですが、真田幸隆(幸綱)の時代に築かれ、戸石城(砥石城)の支城として築かれたようです。
真田丸第36回「勝負」では蚕山と絵図に描かれていました。
実際の山の形ですが蚕に似ています。
蚕の頭の頂に砦が築かれました。
兄源三郎(信幸)と源次郎(信繁)が対峙した戸石城(砥石城)と伊勢崎城の位置関係
両城は直線距離で1.6kmほどしか離れていません。
ドラマでは
源三郎は、源次郎の動きをあえて見過ごしたのか?
それとも、父昌幸の奇策に気が付かなかったのか?
戸石城から全く動こうとしなかった源三郎。
源次郎が攻め寄せた徳川本陣がもぬけの殻となっていたが、その理由がわからない。
そして半日で終わった関ヶ原の戦い。徳川率いる東軍の圧勝の知らせが・・・。
唖然とする昌幸信繁父子。
そりゃ~、そうなります。
あっさりと負けた石田治部に源次郎は驚き、
昌幸にしてみれば徳川主力本軍の足止めに成功したにもかかわらず。
草刈昌幸が言っていたように、治部の挙兵が早すぎた。
そして、草刈昌幸がたくさんの兵法を治部に教えておけば・・・
なんて、あの場面を見て思いました。史実がどうとかこうとか関係なく。
父弟の助命と引き換えに縁切り・改名を受け入れた信幸。
家康に出仕し稲を娶った時点で信幸は家康には刃向かえない立場に取り込まれ、それから10年以上も経っており、信幸の精一杯が助命嘆願であったのではないかと思います。しかし、家康の考えはその上をいき、死罪は表向きで、兵金武具なんかより戦の機会を奪われるという、昌幸にとってはまさに生き地獄。それを与えるという。信幸ではそこまでは読み取れなかったのでしょう。死を突きつけられた父弟を救いたい一心だったと思いますので。
そんなところが、第37回「信之」描かれました。
そして、上田城を離れ九度山へ発った昌幸信繁父子。まだこの時は、また上田へ帰ってこられるという期待があったのでしょう。悲壮感も何もなくただただ上田を離れていきました。
しかし、2度と戻ることが許されなかった配流生活になるとは。
といったところまでが描かれました。
第38回は後日に。