一人の戦国武将(真田昌幸)が死んだ
遂にこの時を迎えてしまいました。
信濃に、上田の城に、戻ることができないまま
お屋形様(信玄公)のもとへ旅立ってしまいました。
とても悲しくもありながら
清々しい最期だったと思います。
しかし、今回は蟄居生活10年を一気に描かれましたが、10年の時の流れがイイ感じでした。
相変わらずのきりと源次郎の仲。
そこにふってわいたかのような佐助のきりへの恋心
そして、亡きお梅に嫉妬する春
こういうところに、九度山蟄居生活は、
苦しくて苦しくて大変だった大変だった
としか今までは語られてこなかったのでしたが、
大変だった中にもほのぼのとした場面があったのだという
三谷幸喜氏らしい描き方で、和ませてくれました。
幸村という名の発生には謎が多いのですが
まさかの幸の継承のし方。このように描かれたか!
真田~幸・・・信繁・・・・・
諱(いみな)は大変大事なもの。特に通字は大切なもの。
第37回「信之」で家康に幸を捨てろ言われた信幸は大変悔しがりながらも受け入れる羽目になりました。
それだけ大事なものなのです。
通字の継承は通常、子自らの考えで引き継ぐものではなく、親から与えられるものだと解釈しています。
ですので今回、家康に改名させられたことで宙に浮いた幸を昌幸が源次郎に託したという描かれ方は非常に良いと思いました。
現在の大阪城天守閣館長は、信繁が大坂城に入城した後に幸村と名乗ったとおっしゃっております。
未だ現代でも幸村は後世の創作との見方が大方です。
が、私は大阪城天守閣館長の説を支持したいと思います。
ただ、村の経緯はわかりません。
妖刀村正説は、家康を更に持ち上げるようというか逸話に肉付けしているようで、全くのウソ話だと思います。
勝手な推測ですが、
九度山村の村人への敬意・感謝の意を込めて村を用いたか?
やはり心にずっと生き続けていたお梅との間にできた子で、親らしい事を何一つしてやれなかったすえ(すへと書かれることもありますが、また村はすえとも読む)へのせめてもの償いの為か?
なんてね。
ただ、信繁は嫡男の大助(通称)の諱を幸昌(ゆきまさ)としましたが、これはただ単に父の昌幸を逆さまにしただけの事ではなく幸を託されたために自身の子に幸を与えたのだと思います。通字は憧れ・尊敬の念だけで受け継ぐものではないと思います。家の全てが込められているもので後世に託すものだと思います。
春が女児(お梅と名付けられる)、大助を産みます。
今回はお梅を春が産んだ説を採用したようです。
他説は高梨内記の娘(ドラマではきり)との子。
よっぽど悔しかったのでしょうね。家康&秀忠。はいはい。タヌキとボンクラ。
威勢のある快活な豊臣秀頼が登場。淀殿がいなければ・・・この秀頼なら勝てる気がしました。しかし、出る杭は打たれるという。
二条城会見で成長した秀頼にビビっていたタヌキ。思わず頭を下げてしまった姿は痛快でした。
秀吉というより信長の威光が見えてしまったのか?
昌幸から大助へ伝えられたケンカの方法。さすがです。最高です。
昌幸の晩年、大助も昌幸から多くを教わったのかな。そうであったと思います。
そして、昌幸から源次郎への遺言
最後の最後まで武将として己がまだまだ成したかった思いを源次郎に託し心から忠義を誓った信玄公のもとへ。
49歳の人生において信繁は、戦のない10年もの間、父と過ごせたことはとても良かったことではないかと思います。たとえそれが蟄居生活であっても、苦しい生活ではあっても、心の底から楽しかったと思います。尊敬する父と一緒に居られたことが。
さていよいよ大坂城入城、という運びになります。
楽しみです。
遂にこの時を迎えてしまいました。
信濃に、上田の城に、戻ることができないまま
お屋形様(信玄公)のもとへ旅立ってしまいました。
とても悲しくもありながら
清々しい最期だったと思います。
しかし、今回は蟄居生活10年を一気に描かれましたが、10年の時の流れがイイ感じでした。
相変わらずのきりと源次郎の仲。
そこにふってわいたかのような佐助のきりへの恋心
そして、亡きお梅に嫉妬する春
こういうところに、九度山蟄居生活は、
苦しくて苦しくて大変だった大変だった
としか今までは語られてこなかったのでしたが、
大変だった中にもほのぼのとした場面があったのだという
三谷幸喜氏らしい描き方で、和ませてくれました。
幸村という名の発生には謎が多いのですが
まさかの幸の継承のし方。このように描かれたか!
真田~幸・・・信繁・・・・・
諱(いみな)は大変大事なもの。特に通字は大切なもの。
第37回「信之」で家康に幸を捨てろ言われた信幸は大変悔しがりながらも受け入れる羽目になりました。
それだけ大事なものなのです。
通字の継承は通常、子自らの考えで引き継ぐものではなく、親から与えられるものだと解釈しています。
ですので今回、家康に改名させられたことで宙に浮いた幸を昌幸が源次郎に託したという描かれ方は非常に良いと思いました。
現在の大阪城天守閣館長は、信繁が大坂城に入城した後に幸村と名乗ったとおっしゃっております。
未だ現代でも幸村は後世の創作との見方が大方です。
が、私は大阪城天守閣館長の説を支持したいと思います。
ただ、村の経緯はわかりません。
妖刀村正説は、家康を更に持ち上げるようというか逸話に肉付けしているようで、全くのウソ話だと思います。
勝手な推測ですが、
九度山村の村人への敬意・感謝の意を込めて村を用いたか?
やはり心にずっと生き続けていたお梅との間にできた子で、親らしい事を何一つしてやれなかったすえ(すへと書かれることもありますが、また村はすえとも読む)へのせめてもの償いの為か?
なんてね。
ただ、信繁は嫡男の大助(通称)の諱を幸昌(ゆきまさ)としましたが、これはただ単に父の昌幸を逆さまにしただけの事ではなく幸を託されたために自身の子に幸を与えたのだと思います。通字は憧れ・尊敬の念だけで受け継ぐものではないと思います。家の全てが込められているもので後世に託すものだと思います。
春が女児(お梅と名付けられる)、大助を産みます。
今回はお梅を春が産んだ説を採用したようです。
他説は高梨内記の娘(ドラマではきり)との子。
よっぽど悔しかったのでしょうね。家康&秀忠。はいはい。タヌキとボンクラ。
威勢のある快活な豊臣秀頼が登場。淀殿がいなければ・・・この秀頼なら勝てる気がしました。しかし、出る杭は打たれるという。
二条城会見で成長した秀頼にビビっていたタヌキ。思わず頭を下げてしまった姿は痛快でした。
秀吉というより信長の威光が見えてしまったのか?
昌幸から大助へ伝えられたケンカの方法。さすがです。最高です。
昌幸の晩年、大助も昌幸から多くを教わったのかな。そうであったと思います。
そして、昌幸から源次郎への遺言
最後の最後まで武将として己がまだまだ成したかった思いを源次郎に託し心から忠義を誓った信玄公のもとへ。
49歳の人生において信繁は、戦のない10年もの間、父と過ごせたことはとても良かったことではないかと思います。たとえそれが蟄居生活であっても、苦しい生活ではあっても、心の底から楽しかったと思います。尊敬する父と一緒に居られたことが。
さていよいよ大坂城入城、という運びになります。
楽しみです。