大震災から二週間が過ぎています。
これは自分に残す記憶の記録。
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本当に怖い揺れだった・・・。あの日の前日から、珍しく実家に帰っていた。ショッピングモールの駐車場に着いたばかりの私とムスメ、母の3人は、慌てて停めた車の中に戻り、私はとにかくムスメを抱き締めながら、身を凍えさせた。何か別の乗り物で下からボコボコ突き上げられるような、グワングワンと振り回されるような、永い永い揺れ。一緒にいた母に「ドアを開けて!!もっと大きく!!」と大声を出し、とりあえず降ってくるかもしれないものから身を守り、出口も確保しなければ、と、ドアを全開にしたまま揺れが止まるのを待った。どうしよう、どうしよう、どうする、どうする、どうする・・・「とにかく外に出よう!」と、ベビーカーに荷物をすべて乗せ、娘をエルゴベビーに入れ、いつもよりキュッっと抱きながら、母と階段で駐車場の外へ。その後モール側の指示で、広場へ避難。たぶんお客さんの数より多い従業員たちと、隣接する駅から出てくる乗客がバラバラと集まり、数百人の黒い人だかりができ上がった。
そして2回目の揺れ。数日前から宮城の方が揺れていたのは知っていたので、また震源地は宮城か?だとしたら、ここでこれだけ揺れたのならば、大変なことが起きているに違いない!!大変なことが起きた、大変なことになった、と直感した。そしてその大変なことは確実に起こっていた。数時間後にようやく車に乗り込み、恐る恐る建物を出て家に向かう途中、ラジオから聞こえてきた「10mの津波」の言葉・・・。まさか。でも、3時間後に家についた時に流れていたTVの映像には、そのまさかが映っていた。
家に一人で居たかもしれない実家の父が心配で心配で、ドキドキしながらの帰り道。でもゴルフの練習に行く、と言っていたはずだから家の外ならば大丈夫だったに違いない。マンションの一室では何が起きているかその時は想像がつかなかったから、外にいてくれ、外にいてくれ、と祈るばかり。祈りつつも、大丈夫だよと言いつつも、母に「覚悟しておいた方がいいかも」と口走る私。脅かしてかわいそうだったな、と今になって後悔。こういう時は何があるか分からないから、とガソリンをとにかく満タンにしてから、家に着く。車があるのを見て、あ、居る!マンションの4階に上がってドアを開けながら「お父さんいる!!??大丈夫!!??」私が大きい声を出すたびに怖がる母。ごめん・・・・。
父は無事だった。やはり外出していた。そして先に戻って家の中のぐちゃぐちゃを一人で掃除していた。すっかり綺麗に、ほぼ元通りに戻った家の中では、あれだけ心配した食器棚がちゃんと直立していた。硝子戸の中でものが落ち、何枚かのガラスやお皿が互いにぶつかり割れていた。父の大切な骨董品(らしきもの)が粉々になっていた。本棚の本も、硝子戸を中から押し開けて外に飛び出し散乱したらしく、本の前に陳列されていた母のエッグアートや置物が押し出されて床に落ち、上から降って来たハードカバー付きの古書などによって粉々にされていた。ここ1-2年、金継ぎを習得した母は笑って「また金継ぎすればいいよ」とか「仕事増えたね」とか。幸いにも和室のTVは、娘のおむつ替えのために敷きっぱなしにしていた布団の上に落ち、ガラスケースに入ったボンボン時計はソファーの上に倒れ、大きな家財が倒壊することは免れた。
ずっと携帯の繋がらない夫。九十九里浜から4kという距離では、もちろん津波が心配。後で聞けば、「大津波警報」が出ていた。ただ、阪神を知っていて、普段から人より地震や津波に敏感な、生命力の強い夫であれば絶対に逃げてるし大丈夫、という確信を持っていた。AU同士なら繋がるかも!と隣家の友人に電話。繋がった!!「おじちゃん??いるいる、いるよ、あ、まって、今靴をはくから・・・オジちゃーん、待って、電話!」と取り次いでくれた。「大丈夫、無事。一回にゃあと逃げて、今荷物を取りに帰ったところ。また避難しに行くから」とお互いの無事だけを早口に確認して切った。車には(そういえば“ノア”だわ・・・)にゃあのトイレまで積み込み、ケージに入れて、パソコンなどの大事な仕事用具と着替えと、暖がとれるものを積み込んで海岸から真反対の方向=千葉市内の高台にひたすら走ったらしい。一晩停電中の自宅へは帰らず、車で避難。にゃあも一度はドアからワッっと出てしまったそうだが、降り立った場所がいつもと違うので緊張して体が動かず、すぐ捕まえられたと言っていた。その後観念して体にまとわりついて一緒に寝たりして過ごしたそうだ。
大津波警報が解除されて、母にも「一人で心細くてかわいそうよ」と促され、ようやく恐る恐る自宅へ向けて運転し、夫に合流できたのは震災発生から三日後だった。家族がみんな無事でいる。それだけが何よりも、幸せに、幸せに、感じた瞬間だった。本当にありがたいことだ・・・。
一人で割れた皿などを片付けて、普段きっとやらないだろう掃除機がけなどをしていた父がなんだかちょっと弱弱しく見えたり、あっけらかんと笑う母も内心ドキドキが止まらなかっただろうと思ったりして、家具や食器の多いマンションの一室に父母を余震が続く中残して行くのがものすごく気がかりだったが、帰る前に食器棚の場所だけ移動しよう!という私に、「もうお母さんたちはいっぱい生きたからいいのよぅ、あんたはアンタたちのことだけ考えなさい」と言われた。
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今、大切な友人(と呼ばせてもらうね、大先輩だけど・・・)が故郷の女川の町を「父の何かを探して」歩いています。彼は、連絡の取れない、安否確認のできないお父様を思って思って、私たちなんかよりよっぽど眠れない日々を過ごして来たでしょう。けど、きっときっと、お父様の方も、息子たち、家族のみんなの無事を祈って心配して心配して時を過ごされたと思います。親が子を思う心の方が、きっと上なんだろうな、と悔しくも認めざるを得ません。父を探すのではなく、『父の何か』を探しに行くとは・・・。どんなに辛いお気持ちでしょう。何もしてあげられない自分ですが、今私にできること・・・それは自分の子供を責任を持って守ってやる、それしかないと感じています。
大好きな海よ。
こんなむごい仕打ちは無しだよ。
(在りし日の九十九里)