昨日、「水交」を投函しました。ご覧いただけたらと思います。
瓢箪の話の続きですが、その叔父がやっていた小さな工場で高校生のときに初めてバイトをしたことがあります。人手が足りないということで兄と二人で夏休みの一ヶ月ほど通いました。
当時のテレビはまだぐるぐる回すタイプのチャンネルで、その軸の根本の部分を作っていました。穴が多分12チャンネルだから24個、そこに半田を溶かして流し込むという作業でした。鉛の溶ける煙を吸い込みながらで、特にマスクなどもしない時代でした。
その叔父も、その直後の昭和43年に脳溢血で、あっという間に亡くなってしまいました。もう少し長生きしてくれれば、いろいろと教えてもらうことも出来たのでしょうが、誠に残念なことにろくに話もしたことがなかったのです。
瓢箪の話の続きですが、その叔父がやっていた小さな工場で高校生のときに初めてバイトをしたことがあります。人手が足りないということで兄と二人で夏休みの一ヶ月ほど通いました。
当時のテレビはまだぐるぐる回すタイプのチャンネルで、その軸の根本の部分を作っていました。穴が多分12チャンネルだから24個、そこに半田を溶かして流し込むという作業でした。鉛の溶ける煙を吸い込みながらで、特にマスクなどもしない時代でした。
その叔父も、その直後の昭和43年に脳溢血で、あっという間に亡くなってしまいました。もう少し長生きしてくれれば、いろいろと教えてもらうことも出来たのでしょうが、誠に残念なことにろくに話もしたことがなかったのです。