宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

54 (27) 岩山

2008年11月09日 | Weblog
 今回は「経埋ムベキ山」の一つ岩山について報告する。

《1 岩山全景》(平成20年5月16日撮影)

これは愛宕山から眺めたものである。

 それでは、『啄木望郷の丘』とも呼ばれる『岩山(いわやま)』へ行ってみよう。
 花巻から盛岡に向かう。盛岡に入ると国道4号線はいわゆる”盛岡バイパス”となる。茶畑の交差点(ここは右折すると宮古街道である)を突っ切って次の交差点を右折すると岩山への道となる。
 やがてかつての橋本美術館、現在は岩山漆芸美術館が道の左手に現れる。そこを過ぎれば直ぐの右手に登り口があり、数台の車が置ける駐車場がある。
《2 登山口》(平成20年5月16日撮影)

登山口には次のような案内板が立っている。
《3 岩山公園案内板》(平成20年5月16日撮影)

登り始めると
《4 ヘビイチゴ》(平成20年5月16日撮影)

《5 ミツバツチグリ》(平成20年5月16日撮影)

《6 キジムシロ》(平成20年5月16日撮影)

《7 マムシグサ》(平成20年5月16日撮影)

《8 チゴユリ》(平成20年5月16日撮影)

《9 ウマノアシガタ》(平成20年5月16日撮影)

《10 ヤマハタザオ》(平成20年5月16日撮影)

《11 その花》(平成20年5月16日撮影)

《12 ムラサキケマン》(平成20年5月16日撮影)

《13 カキドオシ》(平成20年5月16日撮影)

《14 ヤマブキ》(平成20年5月16日撮影)

《15 ミツバウツギ》(平成20年5月16日撮影)

等に会える。
 またこれが秋なら
《16 ツリバナの実》(平成20年10月18日撮影)

《17 これは何の実?》(平成20年10月18日撮影)

 岩山の頂上からは360°の眺望が可能だから岩手山も直ぐ目の前に望めるが、このコースには中腹でもそれが望める場所があり、そこからの
《18 岩手山》(平成20年5月16日撮影)

 嬉しいことに岩山には
《19 ホタルカズラが群生》(平成20年5月16日撮影)

《20 その花》(平成20年5月16日撮影)

《21 〃 》(平成20年5月16日撮影)

《22 〃 》(平成20年5月16日撮影)

《23 ホタルカズラの蕾》(平成20年5月16日撮影)

中央の紫色のものはホタルカズラの蕾である。
 ところで、気になったことが一つある。ホタルカズラの群生地に縄が張ってあったが、それはユキヤナギの若木を守るためであり、ホタルカズラを守るためのものではなかった。おそらく、ユキヤナギを植えた場所は、以前ホタルカズラが群生した場所と思われる。これでいいのかな、ということである。
 この辺りの
《24 紅葉の兆し》(平成20年10月18日撮影)

《25 紅葉》(平成20年10月18日撮影)

《26 〃 》(平成20年10月18日撮影)

《27 〃 》(平成20年10月18日撮影)

そして春なら
《28 アマドコロ》(平成20年5月16日撮影)

《29 〃の花》(平成20年5月16日撮影)

《30 タニウツギ》(平成20年5月16日撮影)

《31 ボタンヅルの実》(平成20年10月18日撮影)

《32 秋なのにメマツヨイグサの花》(平成20年10月18日撮影)

この近くに、春には
《33 サクラソウ》(平成20年5月16日撮影)

が咲いていた。おそらく、往時をしのんで誰かが植えたのでもあろう。このまま根付いて、皆から大切にされてほしいものだ。 
《34 ツボスミレ》(平成20年5月16日撮影)

《35 オオヤマフスマ》(平成20年5月16日撮影)

 やがて道は階段状になり
《36 タチツボスミレ》(平成20年5月16日撮影)


《37 キバナイカリソウ》(平成20年5月16日撮影)

が咲いている。
 階段を上りきればそこは丘の上、展望台がある。もちろん、頂上展望台に登って眺望を楽しむ。
《38 展望台の近くの木々》(平成20年10月18日撮影)

 間もなく夕陽が沈みそうなのでしばし展望台の上で待機、やがて
《39 沈み行く太陽》(平成20年10月18日撮影)

《40 〃 》(平成20年10月18日撮影)

山並のシルエットは、左から南昌山、赤林山、箱ヶ森である。
《41 〃ズームアップ》(平成20年10月18日撮影)

赤林山と箱ヶ森の間にちょっとだけ毒ヶ森も覗く。
 北をみれば
《42 岩手山》(平成20年10月18日撮影)

 さらに東側に目をやると
《43 姫神山》(平成20年5月16日撮影)

 夕陽も完全に沈んでしまったので今度は三角点を探す。
《44 夕焼けの中のツタが美しい》(平成20年10月18日撮影)

《45 岩山三角点340.5mの標識の掛かった木を発見》(平成20年10月18日撮影)

その木の根元に
《46 三角点発見》(平成20年10月18日撮影)


 ところで、岩山は宮澤賢治の作品にはどのように登場しているのだろうか。
 例えば、賢治が盛岡中学1年の時に詠んだ短歌
  ホーゲーと焼かれたるまま岩山は青竹いろの夏となりけり
に岩山が登場している。
 この”ホーゲー”とは奉迎の意味で、1909年8月4日(水)に訪日中の韓国皇太子が伊藤博文とともに盛岡を訪れ、盛岡中学の校門前で全生徒が奉迎したと云う。そして、岩山の山腹に奉迎の篝を焚いたのだそうだ。
 この他にもこのことに関する次のような歌がある。
        ホーゲー
  岩山の
  まつ青の草に雲たたみ
  三角標も
  見えわかぬなり

  雲くらく東に畳み
  岩山の
  三角標も見えわかぬなり

    <『宮沢賢治全集 一』(筑摩書房)より>
なお、この短歌には”三角標”が出てきていることから、この当時の岩山では大掛かりで正確な測量が行われていたことが窺える。この様な測量はあちこちでも行われていたということで、その他の山の頂上にも三角標が建っていたであろう。
 そして、そのような光景を日頃から目にできたことが、『銀河鉄道の夜』の中に頻繁に出てくる三角標につながっているのだと思う。

 また、賢治は「東京」「文語詩篇」ノートに略年譜をメモしていて、盛岡中学1年の時に同級生と鉱物採集にでかけたことが「土屋/蛭石」「中村/鬼越」「阿部/岩山」「長浜ト鬼越ニ行ク」のように頻繁にメモされているとのこと。
 一方、賢治の年譜を見ると
明治39年(10歳) ○鉱物の採集、昆虫の標本造りに熱中する。
明治40年(11歳) ○鉱物採集に熱中「石コ賢さん」と家族にあだなをつけられる。
明治42年(13歳) ○四月五日 県立盛岡中学に入学。寄宿舎自彊寮に入る。鉱物採集に熱中し、鬼越や岩山、繋など方々を歩き回る。植物採集をしたり、星座表をつくったりする。

    <『宮澤賢治作品選』(黒澤勉編、信山社)より>
ということだから、賢治はおそらく盛岡中学の同級生阿部と岩山に登ったことがあったのであろう。とすれば、この阿部とは
  這ひ松の
  なだらを行きて
  息はける
  阿部のたかしは
  がま仙に肖る

と詠まれている親友の阿部孝(盛岡中学→一高→東大文科、英文学専攻、高知大学々長)ということになるのだろう。
 因みに、阿部孝本人の追想によれば
 だが、賢治と私との間に、手紙の往復が一番ひんぱんだった時代は、大體大正三、四年から昭和三、四年までの間であって、しかもそれらの手紙には、ただいたずらに胸の思いを書き綴る無用の閑文字が大部分を占めていたことをおもうと、私のこの憶測も、まんざらでたらめともいえない。そういえば、この頃貰った賢治の手紙も、まるで散文詩のような手紙が多かった。
 昭和十何年かに、某書店から初めて賢治の全集が出ることになった時、私も編集者から、彼の手紙の提供を求められたが、残念ながら、私も手もとには、そんなものは一通も残っていなかった。まさかこの世で、賢治の全集がでるようになろうなどとは、私は夢にも考えていなかったからである(高知大學々長)。

    <『宮澤賢治全集 一 月報10』(筑摩書房)より>
とのことである。
 たしかに、返す返すも残念なことである。

 さて、「経埋ムベキ山」としての『岩山(340.5m)』だが、花巻からはもちろん見えないし、里人から尊崇されてきた山でもないようだから、三角点があることだけではあまり説得力はないような気もする。
 とはいえ、鉱物採集に熱中していた盛岡中学時代にはおそらく何度か足を運んでいるだろうし、中学校の校舎からは指呼の距離ある岩山をにいつも眺めていただろうから『岩山(340.5m)』を「経埋ムベキ山」の一つにしたのかもしれないし、もう少し別な理由がないわけでもないと思うが、そのことについては『(28)愛宕山』や『(29)蝶ヶ森山』で言及したい。

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