<1↑『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)>
前の”戦時中の「雨ニモマケズ」”では、小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』などを基にして戦時中に「雨ニモマケズ」は国策遂行のため利用されていということなどを述べたが、関連して戦時中に行われた哲学者谷川徹三の講演について少し触れてみたい。
それは、昭和19年9月20日に東京女子大学で行われた「今日の心がまえ」という . . . 本文を読む
《1↑小倉豊文》
賢治に関して気になっていることの一つに、第2次世界大戦中に「雨ニモマケズ」はどのように扱われていたのであろうかということがある。
そこで、以前” 戦中戦後の「雨ニモマケズ」の扱われ方”でも参考にした『「雨ニモマケズ手帳」新考』の頁を再び捲ってみた。
例えばおおよそ次のようなことが書かれている。
「雨ニモマケズ」が最初に印刷公表された . . . 本文を読む
《1↑『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷)の表紙》
この度『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))という本を入手出来た。とても興味深いことが書いてある。例えば次のようなことなどである。
1.朝倉六郎の証言
宮澤賢治の教え子・朝倉六郎が次のように語っている、と佐藤成氏は書き記している。
それは、賢治が花巻農学校の教諭をしていた大正13年の水引・樋番に関わ . . . 本文を読む
いままで「ヒドリ」と「ヒデリ」に関していささか述べてきたが、かつて大手の新聞に”「雨ニモマケズ」の「ヒデリ」は「ヒドリ」であり、「ヒドリ」とは「日雇い給金」のことである”という記事が出たということなので今回その記事を捜してその報告をしたい。
その記事は、〔雨ニモマケズ〕が岩手日報に初めて公表されてから55年も経った1989年10月9日、讀賣新聞に唐突に載ったものであった。 . . . 本文を読む
このブログの先頭に載せた写真は、前回”「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説”の先頭に掲げた賢治の原稿を拡大したものである。
1.「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」の実証
この宮澤賢治手ずからの訂正原稿を基にして、入沢康夫氏は『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』中で次のように実証を踏まえた論考しているので、それを引用させていただく。
…これは「毘沙門天の宝庫」という詩の原稿の一部の拡大 . . . 本文を読む
ところで、そもそも「ヒドリ=ヒデリの誤記」説とはどんな説なのだろうか。私は以下のように認識している。
1.「ヒドリ」の部分は方言でない
まずもって確認したいことは、以前 ”「雨ニモマケズ」は「標準語」で書かれている”で述べたように、
「雨ニモマケズ」は全て「標準語」で書かれている。
とみなしてほぼ間違いない。
よって、
「ヒドリ」は方言でない。
と結論してもほぼ間違い . . . 本文を読む
1.「新田開発の奨励」から言えることと言えないこと
さて前回投稿したように、
直ぐにお判りのように、森嘉兵衛の「新田開発の奨励」の方にはなくて和田氏の記したところの「南部藩資料」にあるのが、このタイトル「南部藩の「日用取」の指令」であり、さらにそのフリガナである。
だった。
ついつい森嘉兵衛の著書を見る迄は、和田氏の『宮沢賢治のヒドリ』の71pを見て当然南部藩の資料(森嘉兵衛 . . . 本文を読む
《1↑「新田開発の奨励」(『南部藩の百姓一揆の研究』(森嘉兵衛著)より》
ありましたありました。「南部藩の「日用取」の指令」に相当する資料はこのブログの先頭に掲げた「新田開発の奨励」(『南部藩の百姓一揆の研究』78pの)でした。
そこで見比べやすくするために、和田氏の「南部藩の「日用取」の指令」と森嘉兵衛の「新田開発の奨励」のページを左右に並べてみよう。下図のようになる。
《2 . . . 本文を読む
《1↑『宮澤賢治のヒドリ』(和田文雄著、コールサック社)》
前回は和田文雄氏の著書『宮沢賢治のヒドリ』を一部引用させてもらった。それは以下のようなものであった。
<19p>
二 土地ことばヒドリ
1 ヒドリは方言でない
ヒドリとよばれる短期または臨時的就労機会は多く土木作業、荷物の出し入れの倉荷作業、そして農繁期に集中的なもので、肉体労働などの苦汁作業をさし . . . 本文を読む
《1↑『遠野物語と21世紀東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井書店)》
前回少しだけ引用した山折氏の発言だが、その続きを以下にまた引用したい。
山折 やっぱりあれは日銭かせぎの「日取り」説が一番正しいのではないかと思うようになっているんです。「日取り」というのは、昭和初年代の昭和恐慌によって打撃を受けた農村で、寒さの夏に貧しい農民たちが土木作業に出ていって、日銭かせぎ . . . 本文を読む
<1↑『花巻ことば集 せぎざくら』(花巻市教育委員会)>
以前の”高村光太郎の名誉のために”で挙げた山折氏の対談中の発言に
でも「ヒドリ」の解釈としては、あとひとつあるかもしれないと思っている。小倉豊文さんが言い出したことなんだけれど、「ヒトリ」という読み方があるだろうと。ひとりで涙を流すという場合の「ひとり=一人」という解釈です。これは僕が宮沢賢治を考える上で勝手に想 . . . 本文を読む
《1↑『「雨ニモマケズ」手帳』55~56p》
「雨ニモマケズ」の「ヒドリ」は既に「ヒデリ」の誤記ということでほぼ定説になっていたとばかり思っていた。
ところが最近、山折哲雄氏が『デクノボー宮澤賢治の叫び』や『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』の中で和田文雄氏の仮説・主張を引き合いに出して、意識的に(?)「ヒドリ」に関して対談の俎上に載せるようになったようだ。そし . . . 本文を読む
《1↑『遺作(最後のノートから) 故宮澤賢治』(昭和9年9月21日付岩手日報)》
最近恩師より『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井書店平成22年4月28日発行)という本を頂いた。
興味深く読ませてもらった。その中に「宮沢賢治・二宮尊徳と『遠野物語』」という対談があり、それは山折哲雄氏と石井正己氏のものであった。その対談を読んでみてやはりこのま . . . 本文を読む
《1↑「岩手日報」(昭和7年6月13日、4面「月曜がくげい」)》
以前の”戦中戦後の「雨ニモマケズ」の扱われ方”におけるで、賢治の教え子小原忠が書いた文章の中に
『イーハトヴの家』
という表現があったことを述べた。もちろんこれは明らかに例の下根子桜の宮澤家の別荘のことだが、このような表現を何かの文章の中でしていた別な一人に詩人の母木光がいたことを思い出した。
その表現がこの . . . 本文を読む
《『デクノボー宮澤賢治の叫び』(山折哲雄×吉田司著、朝日新聞出版)表紙》
それでは「細やかな仮説」の検証を続けるために、今回はまずは小倉豊文の人となりを探り、その後に検証を試みよう。
1.小倉豊文の人となり
例えば小倉に関しては山折哲雄氏が次のように語っている。
小倉さんは、賢治を研究し、賢治を尊敬しつづけた。奥さんが広島の原爆で亡くなられたとき、法華経を唱え、「雨ニモマケズ」 . . . 本文を読む