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<↑『1989年10月9日付讀賣新聞31面』より>
いままで「ヒドリ」と「ヒデリ」に関していささか述べてきたが、かつて大手の新聞に”「雨ニモマケズ」の「ヒデリ」は「ヒドリ」であり、「ヒドリ」とは「日雇い給金」のことである”という記事が出たということなので今回その記事を捜してその報告をしたい。
その記事は、〔雨ニモマケズ〕が岩手日報に初めて公表されてから55年も経った1989年10月9日、讀賣新聞に唐突に載ったものであった。その紙面がこのブログの先頭に掲げたようなものであり、その中身は以下のようなものであった。
宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」
宮沢賢治の代表的な詩としてあまりにも有名な「雨ニモマケズ」。この中の「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」の一節について、財団法人宮沢賢治記念会の照井謹二郎理事長(八二)(岩手県花巻市御田屋町)が、「『ヒデリ』は原文のままに『ヒドリ』とすべきだ」とする解釈を打ち出し、論議を呼んでいる。「ヒドリ」とは、岩手方言で小作人の日雇い給金の意味で、詩の解釈に微妙な修正を迫ることになる。このほど開かれた五十七回忌の「賢治祭」(同会と花巻市主催)の朗読で初めて「ヒドリ」と読ませたが、さらに同会発行の「イーハトーブ短信」で正式発表する。
ヒデリではなくヒドリ
日 照 り 日雇い給金
自筆原文に明記 なぜか「日照り」定着……
雨ニモマケズ」は三十五歳の賢治が昭和六年十一月、病床で手帳に九㌻にわたり鉛筆書きしたもの。賢治は同年九月、砕石工場の仕事をしていて胸を患い、上京中の宿で遺書を書いて花巻に戻っていた。賢治自筆の手帳の原文では「ヒドリ」だが、死亡(昭和八年)した翌年に地元紙が一周忌追悼号で初公開した際に「ヒデリ」とされ、以後、なぜ「ヒデリ」になったか判然としないまま「ヒデリ」が定着、賢治研究者が”教科書”とする「校本宮沢賢治」(筑摩書房刊)でも「ヒドリ」を誤記とし、「ヒデリ」を採用している。
照井理事長は、新解釈の根拠として、①花巻市の南部では昭和初期ごろまで、小作人などが日雇い仕事でもらう金を方言で「ヒドリ」あるいは「ヒデマドリ」②賢治は大正十五年四月家を出て農耕自炊生活を営むまでのほとんどを、同市南部にあたる現在の同市豊沢町の実家に住んだ③この農耕生活で賢治は農民の指導にも当たり、小作人の苦しい生活を実感。日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい生活を思い、悲しみながら詠んだ―と主張している。
「記念会」理事長が新説
照井理事長は、この「ヒドリ」説を、先月十六日、賢治研究家二十人ほどが参加して東京で開かれた「宮沢賢治のひろば」の席上、初めて紹介。その後、理事長の元にはヒドリ説に賛同する感想の手紙、声が多く寄せられたという。
このヒドリ説について、「宮沢賢治研究会」の佐藤栄二会長(五二)(千葉県松戸市)は、「詩が出来て六十年近くたち、これまでの解釈を見直すきっかけになるかもしれない。書き間違いと片づけてしまうのには慎重な態度が必要と思う」と話している。
「サムサノナツハ……」に対応 詩の格調損なうとの批判も
しかし、別な著名な賢治研究家(岩手県在住)は、「詩全体の意味合いと、次の行の『サムサノナツハ オロオロアルキ』との釣り合いからも、やはり『ヒデリ』でなければならない。熱心な仏教信者だった賢治は、この詩で仏教の奥義を表したのであって、農民の貧しい生活を哀れんで詠んだとすれば、次元が低くなってしまう」と従来の解釈を支持している。
「雨ニモマケズ」の詩については、哲学者の故谷川徹三氏が「明治以後の日本人がつくったあらゆる詩の中で最高の詩」と絶賛するなど多くのファンを持つだけに、今後の論議の展開、行方が注目される。
<『1989年10月9日付け讀賣新聞31面』より>
何で55年も経ってから突如発表があったのであろうか、それがこの記事を読みながら先ず頭をよぎったことである。
さて、もしこの主張どおりであるとすならば
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
の中の
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」
は
「日雇い給金のときは涙を流し」
ということになる。何か変である。誰が日雇い仕事をして、誰が涙を流すのだろうかという疑問が湧くからであろうか。
記事からは、『日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい生活を思い、悲しみながら詠んだ』と主張したいということなのだろうが、賢治は”先ず小作人”のことを思い浮かべながら〔雨ニモマケズ〕を詠んだというのだろうか。
たしかに、『日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい生活』はまさしくそのとおりだったと思うが、”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その13)”でも述べたように、昭和5年日本の農家は豊作飢饉で打撃を受けていたところへ、翌昭和6年の冷害による凶作に見舞われるというダブルパンチで東北・北海道地方は飢饉に陥っていた。
一方ではその当時、農業のみならず日本全土が未曾有の大不況だったのだから、職を失って古里に戻って来た農家出身の次男・三男達も多かった。もちろん故郷に帰ったところで職はなく仕事に就けなかった。農村はますます疲弊していった。
そのように食べるにもこと欠くような惨状にあった当時に、賢治が「雨ニモマケズ手帳」を書いたこの昭和6年当時に「日雇い仕事」にありつけるということは、抃舞することはあっても悲しむべきことではなかったはず。「日雇い給金」を貰えるならばしばし糊口を凌げるのだから、もし涙を流すのならば「嬉し涙」ではなかろか。さりとて、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」が嬉し涙でないことも自明なことである。「日雇い給金」を貰えるならば悲しいどころか嬉しいはずで、賢治もそう察するはずである。したがって、「日雇いのときは涙を流し」はこの当時はあり得ないことになると私は考える。
そもそも「雨ニモマケズ」においては主語は全て賢治と考えられるから、「日雇いのときは涙を流し」ととらえるとするならば、日雇い仕事をし、涙を流すのはともに賢治となってしまうので困ると理事長は思ったに違いない。賢治が日雇い仕事をするということは誰も想定しないはずだからである。ということもあり、
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」=「日雇い給金のときは涙を流し」
と、わざわざ”給金”を付け加えて
「ヒドリ」を「日雇い」とはせずに「日雇い給金」
としたであろうことも推察される。
しかし、「日雇い給金のときは涙を流し」という文章になればこれもぎこちないと私は感ずる。
このように”給金”を付け足せば、
『小作人が日雇い仕事をし、そのようにせねば暮らしていけない小作人の苦しい生活を悲しんで賢治が詠んだ』
と捉えることが出来て、賢治が日雇い仕事をするというほぼあり得ないことを回避できると理事長は考えたのだと思う。だが、そうするとまた新たな悩みが生じて来るからである。
たしかに、私も地元で「日雇い仕事」を「テマドリ(手間取り)」と呼んでいるのを直に聞いたことがある。だから、「花巻の南部」ではそれに当たることを「ヒデマドリ(日手間取り)」と呼び、それが縮まって「ヒデリ」となったこともあり得るかもしれない。しかし、その「ヒドリ」が「日手間取りの給金」という”給金”であるというところまでは想像できないからである。一方では、はたして賢治は花巻の南部で「日手間取りの給金」のことを「ヒドリ」と言うこと知っていたのであろうかと、私は思い悩む。
そして、そもそも全体が標準語で書かれていると判断できる「雨ニモマケズ」の中に、花巻の南部で使われていたかもしれない極めて特異な言葉「ヒドリ(日雇い給金という意味の)」を敢えて賢治が使ったという説得力は、〔雨ニモマケズ〕が手帳に書かれてから約60年を経て唐突に出現した「ヒドリ」説を載せた新聞記事の中にはあったのだろうか。
続き
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いままで「ヒドリ」と「ヒデリ」に関していささか述べてきたが、かつて大手の新聞に”「雨ニモマケズ」の「ヒデリ」は「ヒドリ」であり、「ヒドリ」とは「日雇い給金」のことである”という記事が出たということなので今回その記事を捜してその報告をしたい。
その記事は、〔雨ニモマケズ〕が岩手日報に初めて公表されてから55年も経った1989年10月9日、讀賣新聞に唐突に載ったものであった。その紙面がこのブログの先頭に掲げたようなものであり、その中身は以下のようなものであった。
宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」
宮沢賢治の代表的な詩としてあまりにも有名な「雨ニモマケズ」。この中の「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」の一節について、財団法人宮沢賢治記念会の照井謹二郎理事長(八二)(岩手県花巻市御田屋町)が、「『ヒデリ』は原文のままに『ヒドリ』とすべきだ」とする解釈を打ち出し、論議を呼んでいる。「ヒドリ」とは、岩手方言で小作人の日雇い給金の意味で、詩の解釈に微妙な修正を迫ることになる。このほど開かれた五十七回忌の「賢治祭」(同会と花巻市主催)の朗読で初めて「ヒドリ」と読ませたが、さらに同会発行の「イーハトーブ短信」で正式発表する。
ヒデリではなくヒドリ
日 照 り 日雇い給金
自筆原文に明記 なぜか「日照り」定着……
雨ニモマケズ」は三十五歳の賢治が昭和六年十一月、病床で手帳に九㌻にわたり鉛筆書きしたもの。賢治は同年九月、砕石工場の仕事をしていて胸を患い、上京中の宿で遺書を書いて花巻に戻っていた。賢治自筆の手帳の原文では「ヒドリ」だが、死亡(昭和八年)した翌年に地元紙が一周忌追悼号で初公開した際に「ヒデリ」とされ、以後、なぜ「ヒデリ」になったか判然としないまま「ヒデリ」が定着、賢治研究者が”教科書”とする「校本宮沢賢治」(筑摩書房刊)でも「ヒドリ」を誤記とし、「ヒデリ」を採用している。
照井理事長は、新解釈の根拠として、①花巻市の南部では昭和初期ごろまで、小作人などが日雇い仕事でもらう金を方言で「ヒドリ」あるいは「ヒデマドリ」②賢治は大正十五年四月家を出て農耕自炊生活を営むまでのほとんどを、同市南部にあたる現在の同市豊沢町の実家に住んだ③この農耕生活で賢治は農民の指導にも当たり、小作人の苦しい生活を実感。日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい生活を思い、悲しみながら詠んだ―と主張している。
「記念会」理事長が新説
照井理事長は、この「ヒドリ」説を、先月十六日、賢治研究家二十人ほどが参加して東京で開かれた「宮沢賢治のひろば」の席上、初めて紹介。その後、理事長の元にはヒドリ説に賛同する感想の手紙、声が多く寄せられたという。
このヒドリ説について、「宮沢賢治研究会」の佐藤栄二会長(五二)(千葉県松戸市)は、「詩が出来て六十年近くたち、これまでの解釈を見直すきっかけになるかもしれない。書き間違いと片づけてしまうのには慎重な態度が必要と思う」と話している。
「サムサノナツハ……」に対応 詩の格調損なうとの批判も
しかし、別な著名な賢治研究家(岩手県在住)は、「詩全体の意味合いと、次の行の『サムサノナツハ オロオロアルキ』との釣り合いからも、やはり『ヒデリ』でなければならない。熱心な仏教信者だった賢治は、この詩で仏教の奥義を表したのであって、農民の貧しい生活を哀れんで詠んだとすれば、次元が低くなってしまう」と従来の解釈を支持している。
「雨ニモマケズ」の詩については、哲学者の故谷川徹三氏が「明治以後の日本人がつくったあらゆる詩の中で最高の詩」と絶賛するなど多くのファンを持つだけに、今後の論議の展開、行方が注目される。
<『1989年10月9日付け讀賣新聞31面』より>
何で55年も経ってから突如発表があったのであろうか、それがこの記事を読みながら先ず頭をよぎったことである。
さて、もしこの主張どおりであるとすならば
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
の中の
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」
は
「日雇い給金のときは涙を流し」
ということになる。何か変である。誰が日雇い仕事をして、誰が涙を流すのだろうかという疑問が湧くからであろうか。
記事からは、『日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい生活を思い、悲しみながら詠んだ』と主張したいということなのだろうが、賢治は”先ず小作人”のことを思い浮かべながら〔雨ニモマケズ〕を詠んだというのだろうか。
たしかに、『日雇いに出なければ生活できない小作人の貧しい生活』はまさしくそのとおりだったと思うが、”「雨ニモマケズ手帳」の五庚申(その13)”でも述べたように、昭和5年日本の農家は豊作飢饉で打撃を受けていたところへ、翌昭和6年の冷害による凶作に見舞われるというダブルパンチで東北・北海道地方は飢饉に陥っていた。
一方ではその当時、農業のみならず日本全土が未曾有の大不況だったのだから、職を失って古里に戻って来た農家出身の次男・三男達も多かった。もちろん故郷に帰ったところで職はなく仕事に就けなかった。農村はますます疲弊していった。
そのように食べるにもこと欠くような惨状にあった当時に、賢治が「雨ニモマケズ手帳」を書いたこの昭和6年当時に「日雇い仕事」にありつけるということは、抃舞することはあっても悲しむべきことではなかったはず。「日雇い給金」を貰えるならばしばし糊口を凌げるのだから、もし涙を流すのならば「嬉し涙」ではなかろか。さりとて、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」の「ナミダ」が嬉し涙でないことも自明なことである。「日雇い給金」を貰えるならば悲しいどころか嬉しいはずで、賢治もそう察するはずである。したがって、「日雇いのときは涙を流し」はこの当時はあり得ないことになると私は考える。
そもそも「雨ニモマケズ」においては主語は全て賢治と考えられるから、「日雇いのときは涙を流し」ととらえるとするならば、日雇い仕事をし、涙を流すのはともに賢治となってしまうので困ると理事長は思ったに違いない。賢治が日雇い仕事をするということは誰も想定しないはずだからである。ということもあり、
「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」=「日雇い給金のときは涙を流し」
と、わざわざ”給金”を付け加えて
「ヒドリ」を「日雇い」とはせずに「日雇い給金」
としたであろうことも推察される。
しかし、「日雇い給金のときは涙を流し」という文章になればこれもぎこちないと私は感ずる。
このように”給金”を付け足せば、
『小作人が日雇い仕事をし、そのようにせねば暮らしていけない小作人の苦しい生活を悲しんで賢治が詠んだ』
と捉えることが出来て、賢治が日雇い仕事をするというほぼあり得ないことを回避できると理事長は考えたのだと思う。だが、そうするとまた新たな悩みが生じて来るからである。
たしかに、私も地元で「日雇い仕事」を「テマドリ(手間取り)」と呼んでいるのを直に聞いたことがある。だから、「花巻の南部」ではそれに当たることを「ヒデマドリ(日手間取り)」と呼び、それが縮まって「ヒデリ」となったこともあり得るかもしれない。しかし、その「ヒドリ」が「日手間取りの給金」という”給金”であるというところまでは想像できないからである。一方では、はたして賢治は花巻の南部で「日手間取りの給金」のことを「ヒドリ」と言うこと知っていたのであろうかと、私は思い悩む。
そして、そもそも全体が標準語で書かれていると判断できる「雨ニモマケズ」の中に、花巻の南部で使われていたかもしれない極めて特異な言葉「ヒドリ(日雇い給金という意味の)」を敢えて賢治が使ったという説得力は、〔雨ニモマケズ〕が手帳に書かれてから約60年を経て唐突に出現した「ヒドリ」説を載せた新聞記事の中にはあったのだろうか。
続き
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前の
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。
「ナミダヲナガシ」は、悲しいからもあるとは思いますが、
わずかの涙でも、役にはたたなくても、日照りの田の足しにしたい、という賢治の願望がかかれてるのではないでしょうか。
大正15年4月、気持ちを高ぶらせて移り住んだ下根子桜の生活だったが2年半ももたなかった。その挫折感と敗北感が賢治をして「ナミダヲナガシ」と言わしめたと思います。
昭和5年3月、『殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもの』と伊藤忠一に書き送っていることからも下根子での蹉跌は賢治にとってはかなり深刻だったはず。
もはや昭和6年の賢治にとっては、旱のときに己に出来ることは涙で農業用水の足しにすることぐらしかない、という切ない願望であったとも思います。そして、そのような自分でも良いという悟りであったような気もします。