宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

256 赤い文字「行ッテ」

2011年01月20日 | Weblog
    《1↑『「雨ニモマケズ」手帳』55~56p》
       <『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>

 「雨ニモマケズ」の「ヒドリ」は既に「ヒデリ」の誤記ということでほぼ定説になっていたとばかり思っていた。

 ところが最近、山折哲雄氏が『デクノボー宮澤賢治の叫び』や『遠野物語と21世紀 東北日本の古層へ』の中で和田文雄氏の仮説・主張を引き合いに出して、意識的に(?)「ヒドリ」に関して対談の俎上に載せるようになったようだ。そしてこの時期と期を一つにしてまたぞろ「ヒドリ」の周辺が喧しくなってきたような気がする。

 それもひとえに『「雨ニモマケズ」手帳』が事実下図のようになっているからであろう。
《2 『「雨ニモマケズ」手帳』57~58p》

   <校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)、筑摩書房より>

たしかに賢治は「ヒデリ」ではなくて「ヒドリ」と書いている。

 それ故、玄侑宗久氏に代表されるような『賢治がそんな間違いを起こすと思うのは大間違いである』という想いを拠り所として、この手帳に書いてあるとおり
    「ヒドリ」は「ヒドリ」
であると主張することになるのだろう(なお、賢治も人の子、賢治だって間違うこともある。事実この手帳の中でもそのようなところが少なからずあるということは”賢治だって間違うこともある”で既に述べたとおりである)。

 しかし、ほぼ定説となっていると思われる「ヒドリ=ヒデリ誤記」説をこのような想いだけで今更覆そうとする人達がいるのならば、是非教えてもらいたい。このブログの先頭に掲げた『「雨ニモマケズ」手帳』56pの左上隅に書かれている”赤文字の「行ッテ」”の部分を「雨ニモマケズ」の中に組入れることを同時に主張していない訳を。
 
 つまり、「雨ニモマケズ」は
     ……
   東ニ病氣ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
   南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
   行ッテ
   北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
     ……

とすべきだと主張しなくてもいいのですかと私は言いたい。そうでなければ論理が一貫しなくなるのではないでしょうか。”赤い文字「行ッテ」”を「雨ニモマケズ」の中に組み入よと同時に主張しないのならば、『「ヒドリ」を勝手に書き替えるべきでない』と主張することは自己撞着にならないのだろうかと思うのです。

 また一方、「ヒドリ」の部分にだけ焦点を当ててほぼ定説となっているものを否定しようとする人達にも問いたい。もし否定したいのならば、人口に膾炙している「雨ニモマケズ」の中に”赤い文字「行ッテ」”に相当する「行ッテ」が抜け落ちていることに関してはなぜ言及していないのですかと。

 もちろん私は悩む。仮に”赤い文字「行ッテ」”を「雨ニモマケズ」に組み入れるとするなばこの「行ッテ」の役割と意味は何なんだろうかと。賢治が病臥中に書いたものなので疲れていたせいなのかもしれないとしても、あまりにも前後のつながりが破綻してしまって脈絡がなくなる気がする。
 だから、『例え誤記であっても賢治が書き遺したものなのだから他人が勝手に書き替えるべきでない』と主張する人達には言いたい、それは場合によりけりではないですかと。

 なお私が手帳を凝視してみた限りでは、この赤い文字の「行ッテ」と「東ニ…」・「西ニ…」・「南ニ…」でそれぞれ使われている黒い文字の「行ッテ」とでは筆蹟が違うと思う。賢治が後で見返してみたならば「北ニ…」の部分には「行ッテ」が入っていないな、ということに気づいて記したメモとか…、あるいはまさかとは思うが賢治以外の人が書き入れたもの?とか…な~んちゃって。

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