1、なぜロマネスク修道院。教会に興味を持ったのか?
私は放送大学学生だが、数年前「芸術史と芸術理論」(青山教授)の講座を受講した。この中で大きく「ロマネスク修道院、教会」が取り上げられていた。印象的だったのはフランスプロバンス地方の「プロバンスの3姉妹」と呼ばれるルトロネ、シルバカーヌ、セナンクの修道院の講義であった。
ところが今回たまたま「西南フランスでのスケッチ旅行」が計画され、私も参加することとしたが、この近辺に上記の3修道院は勿論、素晴らしいロマネスク修道院、教会が多く存在することが分かった。
スケッチ旅行後、もともと南フランスを中心に一人で旅行することとしていたので、是非とも上記のロマネスク修道院、教会も訪問したいと思い、計画に組み入れた。
2、いつ頃のものか?
作られたのは1200年前後の頃である。キリスト教にも末法思想のようなものがあり、紀元千年がその年だったが無事に乗り越えた。また人心の落ち着き、気候の安定、ノウハウの蓄積から生産性も向上し始めて来ていた。
3、修道院主体とは?
6世紀頃から ベネディクト修道院が中心となり修道院活動が大きく盛り上がったが、11世紀ごろその中でクリュニュー派が大きな勢力を持ってきた。クリュニュー派は「修行すること」にすべてを尽くすことに特徴があり、生産活動などは他に委ねていた。
それに対し同時期頃起こったシトー派は修行はもちろん、自らが消費するものも完全に自給自足しようと活動していた。荒れ地を開墾し、主食、副食、衣類などすべてを自給していた。今でもその生産活動の中で特徴のある生産物、チーズ、ワイン、ビール(これはドイツ、ベルギー)、クッキーなどが有名である。
ちょうど生産性の上がってきた中世のヨーロッパ農村にとっても、このシトー派の活動は大いに刺激になった。
今回訪れた修道院は皆田舎にあり、ほとんどはシトー派の修道院であった。
4、サンチアゴデコンポステーラへの巡礼
当時、エルサレム、ローマ、サンチアゴデコンポステーラへの巡礼は3大巡礼地として有名だった。でも比較的近場で安全なサンチアゴデコンポステーラ巡礼が人気を博していたらしい。
●サンチアゴデコンポステーラへの四巡礼路
これらの巡礼路は相当多くの人が行きかい、盛況を博し、結果的には多くのお金をも落として行った。巡礼者は途中でも聖なる感激に浸りたいので、聖遺物のある教会が人気を博す。極端な話では「人気の出そうな聖遺物」を他所からかっぱらってきて、それを売り物に巡礼者を呼び寄せた例もあるという。
5、ロマネスク修道院、教会の基礎知識
ア、教会堂は通常、東西に伸びていて東側に内陣がある。入り口はと言うと修道院付属教会の場合、外からミサに参加する人はほとんどいないので小さな入り口があるのみである。
イ、修道院、付属教会などは平面図的に見ると「回廊」を中心に構成されている。
●シルバカーヌ修道院の平面図
シルバカーヌ修道院の平面図を見てわかるように、
・図の左が「北」なので教会堂は東西に長く、東側に内陣、西側に小さな入り口がある。
・回廊を囲むように・付属教会 ・寝室 ・食堂 が配置されている。
●サンセルナンバジリカ大聖堂の平面図
上の平面図のように上方中心に内陣があり、司祭が祭りごとを行う。内陣に向かって信者の席があるところが身廊。身廊の両脇には側廊があり、これは参拝者の通路。また参拝者が祭ごとを妨げないように内陣の外側を回れるように周歩廊がある。
なお、教会は平面図を見てわかるように上から見て「十字架の形」になるように作られており、中心を交差部、両翼部の通路を翼廊と呼んでる。
サンセルナンバジリカ大聖堂は、ツールーズにあるが、四巡礼路の内のツールーズの道が通っており盛時は多くの巡礼者で溢れかえっていたという。そこでミサと巡礼者の参拝を分けるためこのように側廊も広く、ぐるりと周歩廊まで繋がり、参拝者を配慮した良い動線の形となっている。
ウ、教会の(壁面)構造
ロマネスク建築と言うように基本的にはローマ時代の建築様式を引き継ごうとしている。
ただし、技術力の低下、財力の低下などによりローマ時代の雄大な建築は出来なくなってきたようだ。
教会の構造、およびパーツの呼び名は下の2つの写真に示すとおりだが、基本的にアーチ構造であり、それを支える柱は、ローマ時代のような円柱は作れず、ピラスター、もしくはシャフトと言う柱で支えている。
下記の写真は身廊側から側廊側情報を見ている写真だが、大アーチの上は、小さなアーチを重ねている。天井はトンネルボールトと呼ばれ、それを横断アーチが支える構造となっている。
構造部材は基本的にすべて石材であり、天井も石材でつくられている。(ゴシックになると天井は木造になり、その下に薄い化粧石板で覆うようになってきたそうである。
以上のようにロマネスク建築物は基本的に石材で作られており、構造上の制約からあまり大きな窓は開けられなかった。従ってあまり明るくはないが、それが石材の重厚さと相まって重厚、静逸な空間の雰囲気を醸し出しているように思われる。
6、クレルボーのベルナール
・ロマネスク修道院の歴史的芸術的意義と言っても私が受講した放送大学の「芸術史と芸術理論」青山先生 の本の受け売りなんだが、ロマネスク理解のため若干抜粋して見る。(以下「芸術史と芸術理論」放送大学教材から抜粋させて頂きました。)
・シトー派の総帥であり、ロマネスク最盛期に活躍した教会修道院の指導者、神学者、哲学者
・プラトン主義思想 霊魂の哲学であるとともに、神秘的、戦闘的、禁欲的
・ロマネスク美術の本質は感覚的なものを介さず、超越して、より高みにあるものを内省的、霊的、瞑想的、観想的に、すなわち宗教的に表現しようとする芸術である。
・このベルナールの書簡で「ギヨーム修道院長への弁明」というものがあるが、その中でロマネスク美術、特にその中に登場する滑稽な怪物、歪められた美などについて述べている。
確かに、ロマネスクの教会入り口のタンパンなどの彫刻の一部にも怪物?はいるが、ほとんどは回廊の柱頭彫刻にベルナールの言う怪物などが多く登場する。
ベルナールはこれらが「修道僧の黙想、神への祈りを妨げるもの」として表面上非難しているが、しかしそれらに惹かれているようにも思える。