Toshichanの独り言

海外、国内旅行の旅日記。私の俳句手帳、などなど筆の進むままに書き連ねてまいります。

インド お釈迦様の足跡をたどる その2

2015年09月07日 | 旅行

●【スジャータ 11/20

・お釈迦様は出家後、6年間苦行をされた。肉体はこれにより清浄となったが、肝心の悟りはこれではひらけないと苦行をやめ、ブッダガヤとスジャータ村の間にあるネーランジャラー川で沐浴をした。ここで出会ったスジャータから近くの寺院に供える乳粥を貰い心身ともに元気を取り戻した。ここにも立派なストゥーパが作られている。


 

蛇足であるが、コーヒーメイトの一つである「スジャータ」はこの話にあやかって付けたそうである。
・ところでストゥーパであるが、これはもともとお釈迦様の舎利を収めた塚であり、インドでみられるものは煉瓦で拭いた大きく立派なものも多い。これが中国、韓国、日本に伝わって○重の塔と姿を変えたのである。 スジャータの供養を受けた後、瞑想をしようと前正覚山に登られたが、山が鳴動し「あなたの重さに耐えられないから他所で瞑想をしてくれ」と言われてブッダガヤに行ったと言う話があるが、少し変わった形をした前正覚山がスジャータから見えた。

●【ブッダガヤ 11/2021

・四大聖地の一つ。お釈迦様が悟りをひらかれた地であり、今はそこに大菩提寺が建てられており、中央に立派な大塔が聳えている。

この大塔に接してお釈迦様が悟りをひらかれた金剛宝座がある。そしてその上に被さるように大きな菩提樹があり、これはお釈迦様の時代から数えて5代目の木であるという。この金剛宝座の横で法要を行った。また大塔の中には金色に輝く釈迦牟尼仏がおられる。

・仏像のことであるが、日本の仏像は寂びた、木や銅の地のままのものがほとんどであるが(もともとは金色に輝いていたものが多かったのだろうが、金箔が落ちても寂び色のままにしておいたのだろう)、日本以外の国の仏像はすべて金色で光り輝いている。美意識の違いだろうが、なぜ日本以外は金色に輝かせているのかというと、仏像は光り輝いて世界を照らし、衆生を救う存在だからであり、くすまない様に維持しているのである。そういわれればそれも正しいことだと思う。

・大菩提寺の入り口に多くの物乞いがいる。子供の物乞いも多く、悲惨なのは手足が不自由、手足が欠けている子供もいる。
 これはガイドの話であり真偽は不明であるが、“インドのカーストは大きくは4つに分かれており、バラモン(僧)、クシャトリア(王侯、武士)、ヴァイシャ(商工人、農民)・シュードラ(奴隷)であるが、カースト外に不可触があり、「触るのも穢れる」と信じられており、徹底的に差別されているそうだ。そのため子に何とか食い扶持を確保する目的で小さいころに、故意に手足を不自由にさせることも横行しているらしい。” 余りに悲惨な、残酷な話である。

・インド独立後の1956年に初代インド法務大臣でインド憲法の起草者でもあるアーンベードカルは不可触選民であった。当時の指導者であったガンジーに「カーストの差別を撤廃すべきだ。」と迫ったが、ヒンズー教徒であったガンジーはそれを拒否したそうである。「偉大なガンジー」もその程度であったのか?寂しい話である。

 アーンベードカルは、ヒンズー教にとどまっている限り、自分たちの自由、未来はないと確信し、仏教の三宝、五戒を授けられ、彼を先頭に約50万人の不可触が仏教に改宗したことで、仏教がインドにおいて一定の社会的勢力として復活した、と言う話である。現在インドには数千万人の仏教徒がいるらしいが、まさしくお釈迦様が言っておられるように「人は生まれとか血筋ではなくその行いで評価、尊敬されるものである。」

・そもそもこの薬師寺ツアーは正式には「薬師寺東塔大修理特別写経 納経の旅」~インド、ネパール4大仏跡巡拝~ であり、薬師寺での特別写経をブッダガヤにある日本寺へ納経することが大きな目的の一つの旅なのである。この特別写経を大塔の前で法要し、そこから輿に載せて2km弱にある日本寺まで我々が付き添いながら練り歩いた。


 日本寺では開山40周年を迎え、この日記念イベントが行われ、特別写経の納経もメインイベントの一つとして執り行われた。

・この日本寺は「ぼだいじゅがくえん」と言う幼稚園、保育園も営んでおり、そこの園児たちが日本から来た客をもてなすため歓迎の学芸会?をやってくれた。子供はどこの国でも可愛い。ナマステ!(有難う!)

●【サーナルート 11/25

・四大聖地の一つ ここはお釈迦様がブッダガヤで悟りをひらかれた後、「梵天勧請」を受けて初めて説法されたところで、初転法輪の地と呼ばれている。
 お釈迦様は悟りを啓かれたものの、 最初はこの悟り人々には理解できないであろうから自分だけに留めておこうとされた。しかし、梵天が何度も何度も説いたのでお釈迦様はその悟りを伝えることを決意されたそうである。これを「梵天勧請」と言う。


この「梵天勧請」と言うことは仏教にとって大変意義のあることで ①もしここで悟りを伝えずお釈迦様が涅槃に入ってしまわれていたら我々には仏教と言うものを知らなかったろう。 ②皆に伝えるということは、一つの大乗の心が現れたということであり、日本も含めた東アジアに伝わった大乗仏教が起こった契機ともいえる。

スジャータで苦行をやめられた時に、釈迦に失望して去った5人の比丘に対し、この地で最初の説法をされ、彼らはお釈迦様が悟りをひらかれたのを知り、最初の弟子になったという。この敷地内にダーメーク塔がある。堂々として存在感がある塔で、初転法輪の仏像もこの塔の外側に座られていたものである。

「一心に衆生の祈り天高く」今中京都

●【バイシャーリ 11/22

・古代の商工業都市で自由、新進の気鋭があったという。また高級娼婦アンバパーリーがお釈迦様を食事に招待した話や、マンゴー園を寄進した話でも有名であり、サンガの第2結集(けつじゅ)が行われた地でもある。「アショカ王の柱」の上にはライオンが乗っており、完全な姿で残っている。この第2結集後の相当経った頃、仏教は大きく2派に分れたとも10数派から20派に分かれたとも言われている。

・仏教は海のシルクロードの発展に呼応したインド内陸部の貿易、商業の発展に伴い起こった新興商工主勢力の支持のもとに大いに発展したと言われており-従来のバラモン教は農村、農業主体であり、そこに基盤を置くバラモン、クシャトリア主体の宗教であり、新興の商工業主にとっては飽き足らないものだったに違いない。-バイシャーリはその典型的な都市だったのだろう。
 しかし海のシルクロードが衰え、インドも7C以降小国に分裂する中次第に仏教をバックアップする商工業者も衰えて行き仏教は相当苦しくなったと言われている。そしてイスラム勢力の進出による徹底した破壊等で最後の息の根を止められたと言われている。
はでやかにサリー靡かす秋の風」今中京都

●【クシナガラ 11/23

・四大聖地の一つ お釈迦様入滅の地
 2本の沙羅双樹の木の間にお釈迦様が横になられ「涅槃」に入られたと言われている。
涅槃堂の中には金に輝く涅槃佛が「頭北面西右脇下」で横たわっておられる。我々は蓮の花をお供えし、般若心経を読経した。ここでも各国の僧、巡礼者が蓮の花等を供え祈りをささげていた。

賑やかに涅槃の佛祀りけり」今中京都

・私の記憶では涅槃の仏像を日本では見たことがない(絵になっているのは結構多いのだが)。体系的に調べたわけではないが、タイなど上座仏教の国には涅槃の仏像は多いように思われるが、韓国でも幾体か拝見した。この違いも何か国民性か何かに関係があるのだろうか?

・涅槃堂から1.5kmに荼毘塚がある。お釈迦様が荼毘に付された所であり、ここでも法要を行った。

・お釈迦様は80歳で亡くなったのだが、当時としては驚くべき長寿である。やはり精神的に悟りをひらかれて充実していたし、苦行に耐えてどんなものも滋養として吸収出来る能力を持っておられたこともあろうが、一番は自分が悟ったことをできるだけ多くの人たちに伝えたいという使命に燃えていたからだろう。最後に「世は無常である。皆怠りなく修行せよ。」とサンガの皆に仰ったと言う。

合掌



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