Toshichanの独り言

海外、国内旅行の旅日記。私の俳句手帳、などなど筆の進むままに書き連ねてまいります。

インド お釈迦様の足跡をたどる その1

2015年09月06日 | 旅行

「インド紀行」

                         今中 京都

☆プロローグ

お釈迦様は仰った。「生きとし生けるものは必ず死す。」「世の中に変わらないものは何もない。常に修行に励むように。」etc.

 インド、世界4大文明のひとつ、インダス文明が紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域に栄えた国、12億人と言う中国に次ぐ人口を擁する国。IT産業で俄然脚光を浴びるが、依然大きな貧困も併せ持つ国。

 このインドにぜひ一度行って、お釈迦様のゆかりの地を訪ねたいと思っていた。たまたま薬師寺が主催するインド仏跡地ツアーが開催されることを知り、申し込みを行った。総勢40人の大きなツアーである。

●ツアーの概略

・成田からエアーインディアでデリーに夜着き、デリーからブッダガヤ(悟りの地)に飛行機で飛び(11/20)、2泊した後(その中でスジャータ訪問)そこからバスでバイシャーリー、ケサリヤに立ち寄り、クシーナガル(ブッダ入滅)(11/22)、翌日  法要後バスでインドのカピラ城址ビブラワに立ち寄り、ルンビニ(生誕の地)(11/23)に2泊した後(その中でテラウタコット等訪問)、バスでサールナートへ立ち寄り、バナーラス(ヒンズー教の聖地、ガンジス川での沐浴の地)に至る(11/25。ガンジス川の日の出を拝んだ後、アーグラーに飛行機で飛び、タージマハルを見学。(1126)翌日はバスでニューデリーに戻り、(1127)ニューデリーの国立博物館で本物の仏舎利を拝みその夜帰国の途に就いた。

・11/22から11/25の移動はバスであった。ほとんど毎日、途中法要を交えながらも約 10 12時間のバス行程であり、国道ではあるが半分以上はものすごい悪路、残りもガタガタ道、交通量は多く、トラックや、オートリキシャなどの追い越し、対向車とのすれ違いで常にクラクションを鳴らしっぱなしであった。

・特に問題なのはトイレで唯一トイレのあるところはガソリンスタンドである。ところがこのトイレの「立派な」ことといったら・・・。大体「個室」は「一つ」しかなく「大変立派」なのである。男性は大空に下で「雉打ち」、またの名を「立ちしょん」と言うが、日本では最近味わえない快感?であった。女性は畑の中とか、林の中で「お花摘み」をすれば済むことだけれど、やはり「大和撫子」で慎み深いので「一つしかない」「立派な個室」の前で行列される。従って再出発までに2030分はかかるのでロスタイムは合わせると相当のものとなる。

・以上のような「難行、苦行!?」の連続であった。ほんの片鱗ではあるがお釈迦様の旅のご苦労を味わったような気がする。

 

☆仏跡地巡拝

以下は訪れた順ではなくお釈迦様生誕の地から順に辿っていくこととする。 

●【ルンビニ(ネパール)11/2311/25

・お釈迦様の四大聖地の一つである。お釈迦様はB.C.6Cにルンビニ(現 ネパール国)で釈迦族の王子としてお生まれになった。マヤ夫人がお産のために実家に帰る途中のルンビニで産気つかれ、右脇からお生まれになったという。この場所にはマヤ堂と言う立派な上屋が建てられ、お生まれになった場所を保護している。この地は全体が記念公園となっており、日本の丹下健三氏によってマスタープランが作られたという。

・お釈迦様はお生まれになり、七歩歩まれ「天上天下唯我独尊」と唱えられたというが、その足跡を石でかたどったものが七つ置かれている。しかし石と石の間が広く大人の一歩よりも広いので不自然?ではある。
 このお釈迦様の誕生の地で法要を営み、その後法要で供えられたお茶、お菓子のお相伴を頂いた。
 各国から僧侶や、巡拝の人が大勢集まっている。ここに「アショカ王の柱」が立っている。アショカ王(B.C.3C)はインドを統一したマウリヤ朝の王で、仏教を篤く信仰し、仏教をインド中に広めた、と言うか仏教で国を統一しようとした。彼はインド中を視察し約500の石の柱を建てた。これもその一つであり、「アショカ王は灌頂20年の年に自らこの地を参拝する。この地はブッダ釈迦牟尼が誕生された地で、住民は祖税を免除され収穫税を1/6に減免する。」と彫り刻まれている。

・ルンビニ遺跡とバス駐車場の間をトクトクで往復する。二人乗りで自転車で引っ張る。何台かに分乗して走ったが若い運転手は隣のトクトクと競争して競り勝ったのでチップをあげると喜んでいた。

●【ビプラワ(インド)11/23 】

お釈迦様が王子として暮されたビプラワ(インド)のカピラ城跡を訪問する。 読経後加藤執事長から解説があったが、11/24に訪問するティラウラコット(ネパール)にもカピラ城跡があり、本家争いにもなっているらしいが、両方とも正しい(例えば、一方は夏の城、一方は冬の城 と言うように)ようだ。

 

●【ティラウラコット(ネパール)11/24

・ネパール側のカピラ城跡を見学する。王子のお釈迦様が世の苦しみや現実を見た「四門出遊」の東門、西門が発掘されるなどカピラ城たる要件は満たしているようだ。我々はお釈迦様が出家の際に出られた東門付近で東に向かって法要をした。

・遺跡の中にも木々の間に張り巡らされたロープに経文を書いたダルシンが万国旗のように沢山吊るされていた。そう言えば他所では縦長の経文を書いた旗であるルンタが沢山立てられているのも見た。数年前ブータンに行ったがここでは沢山のダルシンやルンタが家々の近くや、山の上まではためているのを見かけた。これはチベット密教のもので風ではためくことにより、お経が(風によって)読まれていると言うことになるわけで功徳を積んでいることとなる。

・ティラウラコット遺跡から30分ほど行ったところに、ニグリサーガル遺跡があり、ここにもアショカ王の柱の遺跡があった。なお、今回は行かなかったがゴーティハワ遺跡にもアショカ王の柱があり、都合3本の柱があるので「3つの柱」(ティラウラコット)と名付けられたと言う。

・さすがにここまでは巡拝者もあまり来ないのだろう。村人たちがもの珍しそうに我々を見物?するために集まってきた。 

「屈託なく手を振る子らの秋の道」今中京都
付近には黄色い菜の花が咲き乱れていた。



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