Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

赤色エレジー

2024-11-24 23:21:37 | 日記

 

 

73歳だった。

その早い葬儀の日の夜、僕は1人、7、8席ほどが並ぶ

小さなスタンドバーであがた森魚の『赤色エレジー』を歌った。

地方の新聞社に在職した14年間、

その大半を直属の上司として若き日を導いてくれた恩人に対する、

子供じみてはいても、僕なりの心を込めた追悼であった。

 

順調に歩んでいた入社5年目のあたり、突然のポスト替えだった。

途端におかしくなった。

新たなポストが性分に合わなかったとでも言うか、

仕事にまったく気が乗らなくなったのである。

挙句、ミスを連発、後に聞かされたことだが懲戒解雇寸前までいった。

そんな時、この人は照れを隠すかのように僕から視線をそらし、

ボソボソとこう言ったのだ。

「一つのことをやれる奴は、何でも出来るものだ。

前のポストであれだけ頑張れたではないか。自信を持って前に進め」

ペラペラと言葉を並べた説教じみたやり方ではない。

言葉自体も人の心を動かすには平凡に過ぎる。

なのに、この人が持つ佇まいが、

言葉に乗り移ったかのように僕の背中を強烈に殴打したのである。

 

                  本人歌唱です

 

昭和4年生まれ。少年飛行兵を志し訓練に励んでいる最中に終戦を迎えた。

生まれたそんな世相がそうさせるのか、

それとも持って生まれたものなのか。あるいは相まったものなのか。

どちらにせよ、昭和初期のどこかもの悲しく、憂いを身にまとい、

口数は少なくとも、そのずしっとした佇まいそのものに

何かを語らせるかのような人だった。

 

言われたように、苦しいながらも前へ前へと進むうちに

自信を取り戻すことが出来たのである。

それが81歳になった今、大過なく暮らせている僕を作ったのではないか。

そう言えば大げさと思えても、

この一事が今日の礎になったのは間違いないことだと思う。

 

救われたから言うのではないが、

そんな彼をますます尊敬し、単純に好きになっていった。

たまたま2人とも早帰りだったある日、部屋を出たところで一緒になった。

「どうだ」と一言。「はい」とためらうことはなかった。黙って後に続いた。

彼は酒豪の類、対する僕は下戸に等しかった。

それなのに、しばしば「どうだ」と声をかけてくれるのである。

何軒か回り、最後に落ち着いたのが、

客は僕ら2人だけの件のスタンドバーだった。

格別の話をするでもなく、淡々と時を過ごした。いつものことだった。

 

思い出したように、カウンターに100円玉を置き

「おい あの歌を歌ってくれ」と言った。

流れてきたのが『赤色エレジー』である。

僕はあわててマイクを取り、歌詞ブックを見ることなく歌った。

間中、グラスをじっと見つめ続ける、

その人の体をどこか物憂げなメロディー、歌詞が包み込む。

そして歌が終われば、手酌でぐいっ。その夜もそうであった。

 

        2023年11月29日に掲載したものの再掲です

 

 

 

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謹賀新年

2024-01-01 06:00:00 | 日記

 

   明けましておめでとうございます

      

       昨年は当ブログを訪問いただき

       ありがとうございました

       心よりお礼申し上げます

       今年もよろしくお願いいたします

 

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里帰り

2023-12-12 06:30:49 | 日記

 

長崎市は生まれ故郷である。38年間をここで過ごし、以来福岡市暮らしである。

すでに福岡の方が長くなっているが、長崎への愛着がはるかに勝る。

その長崎へ12月8、9日、今年2度目の里帰りをした。

今度もまた特養老人ホームに入所する姉を訪ねるのが目的で、

幸いにも89歳になる姉は1月末に会った時と変わらず元気であった。

何せ6人いた兄弟姉妹は、今やこの姉と2人きりになっている。

しかも、この姉は母親同然にかわいがってもらった人だ。

粗末にできないと思いつつも、

年を取るごとに福岡から長崎への距離が長く感じられるようになった。

申し訳ないことである。

生まれたのは中華街で知られる新地の一角だが、

小学3年生の時、大浦へ引っ越した。

かつて外国人の居留地だったオランダ坂で知られる東山手、

そして大浦天主堂やグラバー園がある南山手に挟まれた、

やや東山手側の、小路が入り組んだ小さな住宅地だった。

今も残っているのかどうか。あった。

だが、袋小路とも言える所にある、その家は何と小さなことか。

ここに一時は、両親と6人の子ども、それに祖母合わせて9人が

「よくもまあ」ひしめき合って暮らしていたのだった。

今は貸家になっているようだが、果たして住む人がいるだろうか。

 

ここから通った中学校までは走って28秒の近さだった。

その運動場を走り回ったものだが、今見れば随分狭い運動場に見える。

 

港を包み込むように広がる長崎市街の夜景は日本三大夜景の

1つに数えられるほど美しい。

 

もともと長崎市は平地が少ない。

そのため住宅地が小高い山頂付近まで延びている。

〝坂の街〟のゆえんである。

ただ、高齢化が進み、高所の住宅地に空き家が目立ってきているとか。

 

9日は長崎市街から車でおよそ1時間。

五島灘を望む角力灘に面する外海地区へ。

まず、柿泊の海水浴場近くにある「リンゴ岩」に寄った。

リンゴの芯を残して齧ったような形から、そう名付けられたのか?

 

また黒崎教会をはじめ教会関連施設が点在する地区でもある。

 

さらに足を延ばすとこの日の車中泊地である

「道の駅夕陽が丘そとめ」に着いた。

ここからの眺望は、その名の通り絶景である。

 

さらに翌11日は、しばしば訪れている佐賀県の鹿島地区へ。

途中、諫早湾の向こうに見える雲仙岳は薄雲に包まれていた。

 

ちょうど干潮時、鹿島の干潟が広がっていた。

 

走行距離380km、4日間の里帰りの旅であった。

コメント (2)
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