Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

あの頃

2024-09-28 13:14:15 | エッセイ

 

小学生の頃  隣に住む高校生の兄さんは、すごく野球がうまかった。

       僕にとり長嶋や王と同じほどのスーパースターだった。

       軟式ではあったが、県代表として全国大会にも出場、

       トロフィーだったか盾を持ち帰ったことを覚えている。

       もちろん、キャッチボールの相手もしてもらったが、

       僕の手はたちまち真っ赤になった。

       兄さんがタオルを首に巻いてランニングをすると、

       その後ろには、決まって同じ格好をした僕がいた。

       それを見て、姉たちは大笑いしたものだ。

       やがて兄さんは高校を卒業し、県外に就職。

       僕の野球熱も急速に冷めていった。

 

            

中学生の頃  運動会では花形だった。

       もともと足が速かったから100㍍走などの個人種目はもちろん

       クラス対抗リレー、部活対抗リレーなどにも選ばれ、

       いつも先頭を突っ走った。

       器械体操部の模範演技では、華麗な技を披露した。

       姉たち家族は、一番前に陣取り大声で声援を送り、

       鼻高々の態であった。

       だが、何事も図に乗っちゃいけない。

       勢いをかって1000㍍走にも出場したのだが、

       途中からどんどん遅れ、最後から何番目かでゴールした。

       長距離走での哀れな姿であった。

 

             

 

高校生の頃  同学年にちょっと気になる女の子がいた。

       同じクラスではなかったが、通学バスで時々一緒になった。

       その彼女は、地元ラジオ局のパーソナリティーみたいな

       ことをやっていて、番組でリスナーからリクエスト曲を求めていた。

       彼女の気を引きたい一心で、ハガキを送った。

       その曲は高英男の「雪の降る町を」だった。

       高校生が何でこんな選曲を……。後になり我ながらあきれた。

       もちろん、この曲がかかることはなかった。

       しばらくして彼女は滋賀県へ転校していき、

       あの番組を聞くこともなくなった。

 

           

大学生の頃  ある朝登校すると、学内いたるところに、

         あの独特の文字のビラが貼ってあった。

       「昨夜機動隊が学内に突入!」「大学の自治を蹂躙!」

       この文字を見ただけで激しい渦に巻き込まれることになった。

       なぜそんなことになったのか——そんなことはどうでもよかった。

       ただ機動隊という権力に大学の自治が踏みにじられた。

       その怒りだけに突き動かされた。

       長期のストライキにも突入し、街頭デモでは機動隊の盾に

       バシッとはさまれもしたが、へこたれることもなく

       街中で気勢を挙げた。

       だが、しばらくして学生会館の運営を巡り、

       学生自治会と大学側が対立、

       団体交渉中に大学側が機動隊へ救助を求めた結果が

       ああなったのだということを知った。

       そして、このままストを続ければ4年生は単位が取れず、

       卒業が危うくなる。そんな話も流れ出した。

       流れは急速に変わった。僕ら4年生が学生集会で

       スト解除を求め、僅差で勝ったのである。

       逆に2、3年生で固めていた自治会執行部の諸君は涙を流した。

       僕らが卒業すると、ヘルメット、ゲバ棒、火炎瓶などが登場し、

       学生運動は一気に激しくなっていった。

 

          

 

振り返ればさまざまな思い出がある。

82歳になり、これからどんな思い出づくりが出来るだろうか。

楽しい思い出があの頃のようにたくさん作れればよいのだが……。

 

 

 

 

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Rebirth

2024-09-25 09:16:55 | エッセイ

 

多くは望まない。20年ほどでいい。

出来るものなら、この体をRebirthしてほしい。

60歳前後は、どこも悪いところはなく、

健康そのものだった。

それが70歳を過ぎたあたりから崩れ出し、

あちこち傷んできた。

今は何の心配もしないで済む日はまずない。

年を取れば体は衰え、あちこち傷んでくるのは

当然のこととはいえ、Rebirthさせてくれるものなら

してみたいと思う。

 

そんなくだらないことを考えていたら、

目の前のテレビが医療的ケア児の話をしていた。

医学の進歩などによりNICV(新生児集中治療室)等に

長期入院した後、引き続き人工呼吸器や胃ろう等を使用し、

家族、あるいは医療従事者の支援を受けながら、

日常的に医療ケアを必要としている子どもたち。

全国に2万人ほどいるそうだ。

 

途端に「20年ほどRebirthしたい」と思う、

自分が哀れに思えてきた。

医療的ケア児こそ、Rebirthさせてあげたい。

声も出せず、態度で示すこともできず、

毎日、毎日命をつないでいるこの子たち。

Rebirthなんて、もう言うまい。

この子たちのようにその日、その日に向き合って生きていこう。

 

 

 

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昭和に生まれたかった!

2024-09-17 11:43:25 | エッセイ

 

新聞の投書欄に拾った話──。

14歳の女子中学生が、「今の時代、つまらない」と嘆き、

そして、こう叫んでいる。

「昭和に生まれたかった!」

 

「昭和」と言っても100年近くある。

戦争に苦しんだ時代、食うや食わずの戦後の復興期、

それらを乗り越えて享受した高度経済成長期、

さらにバブル経済が崩壊し、「失われた20年」と言われる低迷期……。

昭和という時代にはさまざまな起伏、形相がある。

さて、この少女が「生まれたかった」という昭和は、どの昭和であろうか。

「昭和生まれの母は、自分が子どもだった頃の話をよく聞かせてくれる。

友達と黒板で伝言をやり取りしたこと、冬の寒い日は制服の下に

ジャージーを着てわいわい登校したこと、

倉庫にお菓子を持ち込みキャンプしたこと……。

全てがおおらかで自由に思え、うらやましいと感じる」

 

  

 

少女は14歳だから、母親はおそらく40歳前後、

つまり1980年代の生まれではないかと思われる。

1960~70年代の高度成長期を経て安定成長期に入った頃であろう。

バブル崩壊前の、まだ豊かさを享受した時代である。

ある知人は、その時代を「生活が豊かになると共に心に安心感、

ゆとりが生まれ、さまざまな価値観を受け入れる懐の深い、

大変に許容性のある社会だった」という。

娘に自分の子どもの頃を話して聞かせた母親は、そんな時代に育ったのであろう。

 

だが今は──

「高度経済成長は遠い昔のこと。人の暮らしも、

取り巻く社会情勢も余裕を失くしてしまっている」

知人はそう続ける。

この少女の嘆きはもっと深刻かもしれない。

「今の時代、人々は外で遊ばず、まるでゲームやスマホに取りつかれているようだ。

将来、私たちが働き始める頃には、仕事はAIにとって代わられ、

もっと家にとじこもってしまうのではないか。

便利な時代と言う人もいるだろうが、私はつまらない、と思ってしまう」

「便利さは、人の触れ合いなど多くの大切なものを奪っていくのかもしれない。

だから私はよく思う。昭和に生まれたかった」

さてさてどうしたものか。

      

高度経済成長を象徴した最初の東京オリンピックは1964年だった。

あれから60年。時代は移ろう。

「平成に、令和に生まれてよかった」と思える日も来よう。

そうなるよう、あなたたちに頑張ってほしい。

 

 

 

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 Good Dr. 

2024-09-12 10:56:07 | エッセイ

診察券が8枚ある。

内科、胃腸内視鏡・内科、整形外科、泌尿器科、歯科、

それに総合病院のものが3枚。毎日飲んでいる薬も5種類だ。

また、この10年間に10回入院し、うち6度手術を受けている。

当然それだけ、いろんな医師たちの診察を受けているわけだが、

「あ~、この先生でよかった」と思える方はそう多くはない。

医師との相性、それは医師に対する信頼感でもあるが、

これが非常に大事であることは言うまでもない。

 

患者は伝えられる病状に少なからずショックを受ける。

その時、医師は患者にどう対してくれるのか。

それによって患者の気持ちは右に左にと大きく揺れる。

医師たちは確かに、患者の痛みを和らげ、命を守ってくれる。

それ故なのか、やけに上から目線で偉そうな態度の医師が多い。

さる医院で待合室にいたら、

院長が患者さんからの電話に対応している声が聞こえてきた。

それが何ともぶっきらぼうな言い方なのである。

患者の痛みに寄り添ってくれているとは、とても思えない。

また、そこの医師にも患者に対する何の温かみも、

いたわりも感じることが出来なかった。

「はい、がんですね。いつ入院しますか。

看護師と相談して早急に決めてください。では……」

こんな調子であり、「がん」と聞いただけで動転しているこちらは、

頭の中を真っ白にしたまま診察室を出るしかなかった。

結局、その医院を信頼できず、さっさと転院したのだった。

 

     

 

20年来のかかりつけの女医さんがいる。

がんを早期発見することができたのも、この先生のお陰だし、

何といってもこれだけの長年、健康状態を

すべて把握してくれているという安心、信頼感がある。

だから、少しでも不調なところがあれば、病状をうるさいほど尋ね、

女医さんもこれに丁寧に答えてくれる。

 

もう一人、信頼し頼りにしている医師がいた。

これまでの4度のがん治療をすべてを担当してくれた泌尿器科の医師だ。

実は、この医師を紹介してくれたのもかかりつけの女医さんだった。

残念ながら、その医師は転院してしまったが後任となった医師も気に入っている。

何がどうだという理屈はない。

とにかく医師と患者が、遠慮することなく会話出来ることが大事なのだ。

「患者の話なんか聞く必要はない」と言わんばかりの態度では患者は寄りつけず、

信頼感も生まれてこない。

患者が聞きたいことに丁寧に答えてくれる医師であってくれればよいのだ。

そこに温かみ、いたわりを感じ、快癒を信じることが出来る。

そんな医師には「先生、よろしくお願いします」と素直に頭を下げられる。

 

「先生、おいくつ? ほう40半ばの働き盛りですね」

「お子さんは何人? 3人ですか。

一番上のお姉ちゃんが弟や妹の面倒をよく見くれるんですって。

お母さん、助かりますね」──今診てもらっている医師ともこんな会話をよくする。

そんなやり取りが出来ればしめたものだ。

 

 

 

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二人の姉とネクタイ

2024-09-09 09:07:46 | エッセイ

 

 クローゼットに下がっているネクタイは、

 数えたことはないが、20本ほどあるだろう。

 その多くは勤めていた会社の社長の遺品であったり、

 仕事上お付き合いのあった方からのいただきもの、

 そんなものが大半で、自分で買ったものは多くない。

 第一線を退いた現在、ネクタイを締める機会はうんと減っているから、

 20本ほどだと言っても、どんなものがあったか

 すぐには思い出せなくなっている。

 それで終活も兼ねて、ちょっと整理してみることにした。

 

 それらを1本、1本並べていったら、あるネクタイに手が止まった。

 「ああ これは絶対に捨てられない」

 それは2人の姉からのプレゼントだった。

 私の長女の連れ合いは香港の人である。

 そのため、福岡で挙式、披露宴を済ませた後、

 香港でも改めて披露宴を行ったのである。

 その香港の宴に2人の姉を招いた。

 海外旅行が盛んな時代、

 しかも香港は日本人に人気があったから

 姉たちは海外旅行気分で披露宴に出席したに違いない。

 

   

 

 おまけに姉たちにすれば、8つ、あるいは6つも年下の、

 それも末っ子の僕は小さい頃からとても可愛い弟だったと思う。

 その可愛い弟の娘が結婚し、香港に招いてくれたのだ。

 余計に心が弾んだことだろう。

 実際、2人は宴が始まる前、私を会場となっていた

 ホテルのショッピングモール中をあちこちと連れ回した。

 もちろん、自分たちのショッピングのためだったのだが、

 それを一通り終えると、

 「2人でネクタイをプレゼントしようかな。さあ、自分で選んでみて」

 笑顔を見せながら言い出した。

 ネクタイが欲しいなんて、まったく思っていなかったから戸惑った。

 だが、2人は「ほれ、遠慮せずに」と背中を押す。

 それで、ネクタイ売り場に行き、あれこれ品定めすることなく、

 目の前にあった1本に「これでいいや」と決めたのだ。

 すると今度は、「それじゃ、それを今締めてみて」と言う。

 結局、披露宴はそのNINA  RICCIになっていた。

 

   

 

 いささか地味。今、手に取って見ればそんな感じがする。

 だからか、このネクタイを締めたことはあまりない。

 だが、捨てもせずこうして残しているのは、

 やはり姉に対する、ささやかながらの感謝ゆえであろう。

 容易には始末できない。

 

 もう28年前になるか。

 下の姉は、交通事故ですでに他界。3人の兄たちも亡い。

 残されているのは、上の姉と私と2人だけになってしまった。

 その姉は長年の闘病生活である。

 このネクタイを見せれば、あの日のことを思い出してくれるだろうか。

                                 

                                       

 

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