Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

さあ、どうするワンちゃん

2024-08-28 06:00:00 | エッセイ

 

 

「お散歩を続けたいの? それとも家に帰りたい?。

あんたね、若いんでしょう。若いもんはどちらにするか、さっさと決めるもんだよ。

さあ、さあ どっちにするか決めてちょうだい」

 

おばあさんに引かれた犬君はベロを出して激しくハアハアし、木陰の中から出ようとしない。

それで、ご主人様はイラっとされたのか、

「この暑さなのに、『ママ、お散歩連れて行って』とせがんだのはあんたでしょう。

ママだって暑くて熱中症になってしまいそうなのよ。

だからさっさと決めてちょうだい。あんた、若いんでしょう」と急かしているのである。

人にも、犬にも若いからといって決断力があるのかどうか。

おばあさんはそう思われているのだろう。

でも犬君はそう言われても、座り込んだまま動こうとしない。

どちらでもなく、一休みさせてほしそうだ。

 

       

 

この何とも微笑ましい光景の成り行きを最後まで見届けたいとも思ったが、

犬君が何だか照れ臭そうな顔をしてこちらを見ているから、

笑いを含ませながら通り過ぎることにした。

すると、後ろからまた「若いんだから……」との声が聞こえる。

もう、こらえきれない。とうとう、笑いが声になって出てしまった。

 

犬をペットとしている人は多い。

犬に限らずペットというものを飼ったことのない、この爺さんにすれば、

「それほどまでに」と思えるほどの情愛を見せる。

確かに、テレビなどで見る犬や猫たちの何とも言えない

愛らしい仕種には癒されることが多いから、

実際、側にいて愛嬌をふりまかれるとなると、なおさらのことであろう。

中には、愛犬、愛猫を亡くし、ペットロスに陥る人もいるそうだから、

それもまた分かるような気がする。

 

「若いんだから、さっさと決めなさい」との言いようには、

おばあさんの犬君に対する愛情がたっぷりと──

だって、おばあさん笑顔だったからね。

 

 

 

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メンズ日傘

2024-08-23 06:00:00 | エッセイ

 

 

おい、おい、おい。待て、待て、待て。

なに!男が化粧をするだと。

ファンデーションを塗り、眉を書き、アイラインを入れるだと。

「待て」と言ったら待て。化粧は女がするものだろうが。

 

何気なく押したテレビのチャンネル。

何と若い男性が眉を書いている場面が映し出されていた。

ぎょっとして、妻に「今時の若い男連中は眉を書いとるぞ」そう聞いてみたら

「珍しくもありませんよ」なんて言うではないか。

男たるものが、たいがいにしろ。俺の祖父や父の時代だったら、

たちまち「打ち首ものだ!」と声を荒げたに違いなく、

この俺だって「ああ、なんて世だ」と嘆きたくなる。

 

だが、待てよ。俺にあの青年たちをそしる資格があるか。

この暑さに耐えかねて、日傘をさすようになったではないか。

日傘というのは「女性が使うもの」──爺さんたちはそう言ってきた。

なのに、その爺さんが日傘をさすようになったのである。

もちろん随分と迷った。「男のくせに日傘を。それもあんな爺さんが……」

なんて思われはしないか。やっぱりやめておこうと何度思ったことか。

 

 

でも、そうも言っておれなくなった。

何せ、今年の夏は例年にも増して暑い。

ここ福岡市にしてもひと月ほども30度を超す猛暑日が続いている。

「夏は日焼けが格好いい」なんて言ったのは昔の話。

強い直射日光を浴びれば肌によくないのは言うまでもない。

それだけではない。直射日光を浴びると、

体感温度が上がり熱中症のリスクが増大する。年寄りは一層要注意だ。

 

それで決断した。

最初は折り畳み式の黒い雨傘を使った。あまり格好良くない。

それを見た妻が誕生日祝いにと、ベージュ色のちょっとしゃれたメンズ日傘を買ってきてくれた。

なかなか良い。「男たるものが……」なんて思いも消えた。 

強い陽射しの中、「どうだ」とばかり堂々と歩いている。

これも時代なのだ。そう開き直る。

 

 

 

    

      

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老漁師のプレゼント

2024-08-20 13:30:37 | エッセイ

 

車を手離し運転を止めてから3カ月ほどになる。

やはり、車がないと不便だなと思うことしばしばだが、

さらに車中泊出来なくなった寂しさはひとしおだ。

いろんな忘れがたい思い出が浮かんでくる。

 

もう5年近く前になる。

佐賀県白石町の干拓地で91歳の老漁師に出会った。

船溜まりで何かごそごそと仕事をしているので声をかけると、

漁から帰ったばかりで、その日の獲物の整理をしているところだった。

 

               

 

「今日は何が獲れました?」声をかけると、農業用の肥料を入れるみたいな、

あの大きな紙袋をごそごそと探り、

「これだよ」と取り出したのは、店先でよく見るものよりは、

倍、いやもっと大きいかもしれない驚くほどの大型カキだった。

「それ食べられるのですか」と問えば、

「当たり前だよ。うまいよ。食うかい。おい、入れるもの持ってこい」

一緒に作業をしていた20歳前後の孫に言いつけた。孫も愛想が良い。

「これね、あまりに大きいものだから、店には出せないんですよ。でも、旨いよ」

と言いながら、近くに停めていた軽トラックから

青いビニール袋を取り出し、爺ちゃんに渡した。

「ほれ、これ持って帰りな」──渡されたビニール袋はずしりと重い。

5キロほどはあるだろう。

「いいんですか、いただいて」「いいから、いいから」

カキを食べているせいなのか、91歳とは思えぬ顔つやでニヤリ笑った。さらに側から孫が

「これ、天然ものだからね。やっぱり焼くのがいちばんいいかな」と口添えする。

その日の夕食の食卓には、大きな大きなカキフライが二つ。

老漁師の好意をありがたくいただいた。

 

 

 

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クモと蚊

2024-08-15 06:00:00 | エッセイ

 

おや、1㌢にも満たない黒くて小さな家グモだ。

掃除機に追われるようにピョンピョンと逃げ回っている。 

吸い込みそうになるが、この家グモ、決して捕らえて殺すようなことはしない。

「これはね、コバエやゴキブリの子どもを退治してくれる感心なクモさんなのよ。

決して殺さないでね」――小さい頃、母はそう言った。

なるほど調べてみると、正式には『アダンソンハエトリ』という名で、

母が言ったように、そして名前にもなっているようにコバエやゴキブリの子など

自分より小さな虫を捕食する〝益虫〟なのだそうだ。

だから母の言いつけをいまだに守り、掃除機で吸い込んだり、

押し潰したりはせず、「はい、はい、あっちへどうぞ」と逃げるに任せている。

 

       

 

ついでに思い出した。長女がまだ嫁に行く前、

自分の部屋の天井を徘徊する家クモに『太郎』と名付け、面白がっていた。

ゴキブリだと、見た瞬間、けたたましい悲鳴を上げるのに、

家クモにはそんな親しみ方をしているのが、何ともおかしかった。

 

蚊がぶんぶん飛び回る季節なのだが、なぜかそれほど多くない。

蚊も夏バテしているらしい。

夏を活動時期とする蚊が夏バテというのも変な話だが、

確かに蚊を見かけることも、さらに刺されることも少ないように思う。

妻に言いつけられて、プランターに水をやるためベランダに出ても、

それほど群がってこなかった。

例年だと、待ち構えたように一斉に脚や腕などを攻撃しにやってくるから、

ベランダに出る時は虫除けスプレーで防備しておかないと、

とてもその攻撃を防ぎ切れなかったものだ。

ところが、今年は数も少ないし、気のせいか元気がない。

蚊取り線香で有名な、あのアース製薬が「蚊は気温が25~30度の時が一番活発。

30度を超えると動きが鈍くなる」と言っていたから、

『命に関わる危険な暑さ』続きの今夏は、蚊もすっかり参っているのかもしれない。

 

そんな蚊には悪役のイメージしか持てないが、

家クモにはどこか可愛らしさを感じる。

これも小さい頃の母親の刷り込みのせいかもしれない。

こんなことにでも、やはり親というのはすごい存在なのだとつくづく思う。

 

 

 

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浦上天主堂の鐘の音

2024-08-09 08:23:09 | エッセイ

 

 

ただ、ただ祈るばかりである。

被爆者健康手帳を所持するれっきとした被爆者だが、その実感は薄い。

原爆投下時、3歳になったばかりとあってその記憶がほとんどないせいだろう。

本来なら、原爆の悲惨さを語り継ぎ、

反戦・非核への役割を果たすべきなのだろうが、

おそらく語る言葉には現実感がないはずである。

 

爆心地から3・5㌔、長崎市新地町、あの中華街のある付近に住んでいた。

昭和20年8月9日午前11時2分、何かがぴかっと光り、ドーンと大きな音。

家はガタガタと不気味な音を立てた。

側にいた姉が幼い僕に覆いかぶさり、得体のしれない恐怖から守ってくれた。

幸いに爆風で家屋が倒壊、炎上するでもなく無事であった。

〝ピカドン〟に対する僕の記憶はこの程度である。

 

       

 

それも、本当にそうだったのかどうか。

後に姉たちから聞かされた話が自らの記憶として残ってしまったのではないか。

正直なところ、被爆の恐怖、悲惨さを直に目にし、感じたことはまったくない。

わずかに爆心地近くにあった当家の墓掃除へ行った際、

石柱に埋め込まれたヤリみたいな鉄の棒がぐにゃりと曲がって何本も残っており、

「こん、ひん曲がった鉄の棒は、ピカドンのせいたい」祖母からそう聞かされ、

原爆というものが、鉄の棒をこんなにも曲げてしまうほど力が強いものだと知った。

 

母は爆心地近くに住んでいた妹家族を誰一人見つけられず失意の中にいた。

この時、母と同行した長兄にしても時を経て青年期になり、

打ち身か何かで腕や脚にポツンポツンと内出血したりすると、

「原爆症ではないか」と恐れおののいたものである。

 

    

 

爆心地の浦上地区は多くのキリスト教徒が住んでいた所である。

一説には1万5千人が住み、このうち1万人が被爆死したとされる。

廃墟の中にポツンと立つ浦上天主堂の鐘楼ドームや

無傷ながら熱線で変色してしまったマリア像、

これらが長崎における被爆のシンボル化されもした。

そうとあってか、反戦・非核運動が今よりずっと活発な頃、

〝行動の広島、祈りの長崎〟という言われ方をした。

そこには「長崎は祈るばかり。非核運動には熱心ではない」との誹りがあった。

 

広島に、長崎に原爆が投下されて79年。浦上天主堂の鐘はいつものように響く。

かすかであろうが我が家の墓地まで届くだろう。

ここには原爆におののいた母も長兄も一緒に眠っている。

11時2分、戦争のない世界をと、ここ福岡の地から祈るばかりだ。精一杯に。

 

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