小学校入学時の担任は福島、結婚されて鈴木先生と言った。
何かスポーツをされていたのだろうか、色浅黒く、すらっと均整の取れた体つき。
そんなことをかすかに覚えている。
実は家から50㍍と離れていない近所の薬屋のお嬢さんだったのだ。
その福島先生は登校される際、必ず僕の家に寄ってくれ、
「た―坊(小さい頃そう呼ばれていた)、行くよ。用意できているね」
そう声を掛けてくれたのである。
何せ、先生が僕の手を引いて学校に行ってくれるのだ。
こんなこと、滅多にあるものではない。
素直に嬉しくて毎朝が待ち遠しかった。
作家の野坂昭如は、昭和14(1939)年から終戦の年の20(1945)年までに生まれた人を
「焼け跡闇市派」と言った。昭和17年生まれの僕は、そこに属することになる。
団塊の世代のやや先輩にあたり、昭和24、25年頃小学生になっている。
まさに戦後の混乱期の真っ只中にあった。
空襲などといった戦争の記憶はさしてないが、
食糧不足、経済的困窮の記憶ははっきりと残っている。
たとえば、米粒の入ったご飯をいただくことはまれで、
父の給料日翌日には、まだ小学生2、3年生だった僕が
ヤミ米一升を買いにやらされた。
その晩だけ、両親、兄、姉、それに祖母も含め9人の家族が、
お粥みたいな、それでも米粒の入ったご飯に群がったのだ。
また、銀行をリタイアした父は、町の小さな鉄工場の経理部長になっていた。
あいにく、朝鮮戦争後の大不況だった。
おそらく給料の遅配、欠配ということが起きていたのだろう。
夜になると、工員さんたちが家に押しかけ、叫び、怒鳴った。
僕は部屋の隅に隠れるようにして、ベソをかいた。
そんなこんなで、「ああ、貧乏は嫌だ」と思い続けながら大きくなったように思う。
確かに嫌な思いをすることもあったが、それでも福島先生のこととか、
足が速かった僕には運動会はまさに晴れ舞台であったとか、
小学生の時の楽しい思い出がたくさんある。
同窓会に出席する楽しみもある。
80歳過ぎの爺さん、婆さん10人ほどがワイワイガヤガヤとやっている。
そう言えば、先日書棚をゴソゴソやっていたら同窓会の時の写真が出てきた。
「焼け跡闇市派」の面々が、満面の笑顔だった。