Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

焼け跡闇市派

2023-12-28 06:00:00 | エッセイ

 

小学校入学時の担任は福島、結婚されて鈴木先生と言った。

何かスポーツをされていたのだろうか、色浅黒く、すらっと均整の取れた体つき。

そんなことをかすかに覚えている。

実は家から50㍍と離れていない近所の薬屋のお嬢さんだったのだ。

その福島先生は登校される際、必ず僕の家に寄ってくれ、

「た―坊(小さい頃そう呼ばれていた)、行くよ。用意できているね」

そう声を掛けてくれたのである。

何せ、先生が僕の手を引いて学校に行ってくれるのだ。

こんなこと、滅多にあるものではない。

素直に嬉しくて毎朝が待ち遠しかった。

 

作家の野坂昭如は、昭和14(1939)年から終戦の年の20(1945)年までに生まれた人を

「焼け跡闇市派」と言った。

       

昭和17年生まれの僕は、そこに属することになる。

団塊の世代のやや先輩にあたり、昭和24、25年頃小学生になっている。

まさに戦後の混乱期の真っ只中にあった。

空襲などといった戦争の記憶はさしてないが、

食糧不足、経済的困窮の記憶ははっきりと残っている。

 

たとえば、米粒の入ったご飯をいただくことはまれで、

父の給料日翌日には、まだ小学生2、3年生だった僕が

ヤミ米一升を買いにやらされた。

その晩だけ、両親、兄、姉、それに祖母も含め9人の家族が、

お粥みたいな、それでも米粒の入ったご飯に群がったのだ。

 

また、銀行をリタイアした父は、町の小さな鉄工場の経理部長になっていた。

あいにく、朝鮮戦争後の大不況だった。

おそらく給料の遅配、欠配ということが起きていたのだろう。

夜になると、工員さんたちが家に押しかけ、叫び、怒鳴った。

僕は部屋の隅に隠れるようにして、ベソをかいた。

そんなこんなで、「ああ、貧乏は嫌だ」と思い続けながら大きくなったように思う。

 

    

 

確かに嫌な思いをすることもあったが、それでも福島先生のこととか、

足が速かった僕には運動会はまさに晴れ舞台であったとか、

小学生の時の楽しい思い出がたくさんある。

同窓会に出席する楽しみもある。

80を過ぎた爺さん、婆さん10人ほどがワイワイガヤガヤとやっている。

そう言えば、先日書棚をゴソゴソやっていたら同窓会の時の写真が出てきた。

「焼け跡闇市派」の面々が、満面の笑顔だった。

 

 

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恋の風景

2023-12-26 06:00:00 | エッセイ

 

高校1、2年生? あるいはまだ中学生かもしれない。

並んでこちらへやってくる。

だが、女の子は足首でも挫いたのか足を引きずるようにして歩いている。

心配して声を掛けていた男の子が、やおら女の子に身を寄せた。

女の子は、照れたようなしぐさでその肩に腕を回し、

男の子にもたれかかり片足を持ち上げるようにして歩いた。

すぐ近くのマンションが女の子の住まいのようで、

女の子は肩から腕を外し足を引きずり玄関ドアへ向かっていった。

男の子は2、3歩後を追おうとしたが、足を止め、心配そうに見送っている。

小さな初恋物語、

そのように見える信号待ちの車窓からの風景に思わず頬が緩んだ。

 

村山由佳著『はつ恋』の新聞広告では

「恋をしている人にも、恋などとうに忘れた人にも、ぜひ。」

読んでほしいとのメッセージを送っている。

 

 

もう一つの初恋物語は「恋などとうに忘れた人」のはず、

70歳代の主婦の話である。

この主婦の手元には、彼からプレゼントされたブローチ、

それに一緒に撮った写真が、50年以上たった今も大事に残されている。

新聞の「人生案内」、つまり悩み相談コーナーに投稿された、

こちらの初恋はこのような話だ。

 

出会ったのは彼が16歳、この女性が15歳の春だった。

すぐに2人は恋心を抱くようになり、友人たちとサイクリングに出かけた際、

2人きりとなった時に彼は、「いずれ一緒になろうね」と言ってくれた。

だが、高校を卒業すると彼は故郷を出て大阪で就職。

出発する彼を駅のホームの陰からそっと見送ったのが最後となってしまった。

何だか一昔前のフォークソングの世界を思わせる光景なのだが、

「その彼が今でも忘れることができません。

幾度となく夢に現れ、会いたい気持ちが募るばかりです。

これから先、どう生きていけばいいのか」

というのである。

                 

 

70歳代の主婦からこんな話を聞かされると、

たいていの人は「いい年をして」と思うに違いない。

アドバイザーの評論家・樋口恵子さんにしても

「失礼ながら、何てお幸せな70代の夢見る夢子さん」

と苦笑し、回答をためらったそうだ。

でも、恋に年齢は関係ないのも確かで、こう書いている僕にしても、

しばしば初恋の人を懐かしく思う時がある。

一途とも言える主婦の思いに応え、樋口さんは

「初恋という良き思い出を活力として、

周りの人たちを喜ばせ、幸せにしてあげなさい」

と語りかけ、やんわりと収めている。

 

 

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薄くなる電話帳

2023-12-24 06:00:00 | エッセイ

 

スマホの電話帳をめくってみた。

42年間携わってきた仕事に関連する会社、あるいは

それに伴う人たちの名がいまだにずらり並んでいる。

昨年6月末で退職しているから、これらの電話番号を

必要とすることはもうないはずなのだが、

何とも未練がましいことに削除しないまま残している。

娘、孫、姪、それから義兄、義姉といった

身内の電話番号が、ぽつんぽつんとそれらの間にある。

 

年を取ると、2つの「喪失」に見舞われる。

1つが「健康」である。

何事につけ経年劣化は避けがたいものであるが、

人の体も、たとえば足腰の関節は長年の〝勤続疲労〟で歪んで痛み、

目の焦点は合いにくくなる。

また、五臓六腑のあちこちもやはり〝勤続疲労〟が現れてきて、

医師は「加齢のせいですな」の一言で片づける。

その程度で済めばまだしもである。

 

もう1つが「人」である。

仕事というのは、人と人との関わりによって

成り立っているとも言えるから、定年退職というのは

人との関わりも薄れていくことを意味する。

そして、ついにはそれらの人さえ失くしていくのである。

仕事を通して親しくなり、

プライベートでも付き合っていく人もいるが、

そういう人はそう多くはないはずだ。

中にはすでに故人になられた方もいる。

やはり、1人また1人と失くしていくというのが現実であり、

電話帳は薄くなっていく一方であろう。

 

    

 

人との関わりがなくなってしまう残りの人生。

そんな残酷な余生をどう生きていけばよいのか。

ひどく悩ましい問題が突き付けられる。

実は、多くの人が同様の悩みを抱えており、

そのためか定年後の人生をどう送ればよいか、

その方策を示してくれる本が、書店にさまざまに並んでいる。

そして、一様に「自らの役割を自ら探し求めよ」とし、

「まず何らかの『目標』を設定することから始めたがよい」

などと書かれている。

個人の趣味でもよいし、できればそれによって仲間の輪が広がり、

さらにそれが社会的活動につながっていければさらに良し。

こうアドバイスするのである。

電話帳が薄くなるのはしようがない。

少数の人たちであっても、趣味などを通して出来た

仲間たちを1人でも多くし、それらの人たちの電話番号が

元気にしてくれればそれでよいではないか。

 

 

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長崎 叙情

2023-12-22 06:00:00 | エッセイ

 

 

兄3人、姉1人はすでに亡く、

年明け早々には90歳になる長姉と8歳違いの末っ子の、

この僕の2人だけになってしまった。

それなのに、2人の〝距離〟は年を重ねるごとに遠くなっていく。

その姉は生まれ育った長崎に住み続け、対して僕は福岡へ移って40数年、

すでに福岡暮らしが長くなっている。

一人娘の世話を受けながら老人ホームで暮らす大事な姉を

繁く訪ねたいと思いつつも、

高速道路を走っても福岡─長崎間の2時間が行く足を重くする。

今年も訪ねたのは1月末と12月初めのわずか2回だけだった。

 

あの家はまだあるだろうか。

姉の顔を見つめていて、小学3年生から大学を卒業するまで

一緒に暮らした家のことを思い出した。

入り組んだ路地裏のどん詰まりにあった、あの家だ。

姉の顔は「あるはずよ」と言っている。行ってみよう。

姉に「またね、元気でね」と告げると、足は自ずとそちらへ向いた。

オランダ坂のある東山手、大浦天主堂やグラバー園のある南山手、

かつての外国人居留地区に挟まれた、やや東山手に近い住宅街だった。

 

分け入るように路地に入る。

「こんなに狭かっただろうか。間違ったかな」と思いつつ進むと、

驚いたことに確かに覚えのある「中村」「石井」という表札があった。

もう70年も前になるのに、今もまだ住まわれているのか。

この両家に挟まれたさらに細い路地の奥が我が家だったはずだ。

あった。確かにこの家だ。

 

    

 

小さな平屋建て。途端に切ない気持ちになった。

このちっぽけな家に一時は両親と6人の子ども、

それに祖母の9人が住んでいたのだ。

6畳と4畳半、それに3畳ほどの小部屋が2つ、

就寝時は布団が部屋中に隙間もないほど並んだ。

時に僕は姉の布団の中に潜り込んでいったりして──

そんなことも思い出した。

まさに、家族が身を寄せ合って暮らした忘れがたい家なのである。

 

その小さな家が壁は薄汚れ、歪んだ窓枠は今にも外れ落ちそうになっている。

人が住んでいる気配はない。

玄関前に立つと、切なくも「貸家」の張り紙が表札代わりになっていた。

 

走って28秒で行けた中学校。81歳の脚では5分ほどかかった。

校庭を見れば、走り回り、鉄棒で宙返りをしていた日々を思い出す。

ただ、なぜか校庭も校舎もあの頃より小さく見えてしまう。

生まれ育った長崎が何もかも小さくなっていく気がしてやるせない。

我が身もそう、すっかりしぼんでしまった。

 

 

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キレる老人

2023-12-20 06:00:00 | エッセイ

 

 

電車の中で、隣に座った若い女性を怒鳴りつけている。

食堂では店員の態度が気に入らないと大声を張り上げている。

いずれもいい年をした老人だ。

こんなキレる高齢者の姿をYOU TUBEなどで見かけることが多くなった。

 

しかも、それが犯罪につながっているケースが増えているというから厄介だ。

国内の犯罪状況をまとめた法務省の「2020年版犯罪白書」によると、

1989年から2019年までの間、摘発された刑法犯を年齢層別に見ると、

65歳以上の高齢者率が1989年の2.1%から2019年には22.0%にまで増加している。

それと反比例するかのように、若年層の刑法犯は減少傾向にある。

そして、1989年と2019年の罪名の割合を比べると、

全年齢層で「傷害・暴行」が増えてはいるが、

特に高齢者は2.9%から13.5%まで増えているのだ。

 

新聞の読者投書欄に「キレる高齢者が増えている」

と指摘する若者の意見を掲載したところ、

高齢者からは「暇なんだ」「話し相手が欲しい」「自分にイライラしている」

「私たちは一生懸命働き、そのおかげで日本は先進国入りをし、

東京オリンピックまでやれた。国のために働き続けてきた

私たちの言動を大目に見てほしい」

「昔のように3世代が一緒に暮らすことも、

お寺で法話を聞いた後に他の信者と会話を楽しむことも少なくなった。

人生に対する不安や不満を誰も本気で聞いてくれない。

老年期は寂寥感が募るばかり」といった声が集まった。

 

                 

 

科学的に見れば、高齢になると脳の前頭葉が収縮し、判断力が低下し、

感情の抑制が効かなくなるということらしい。

というのであれば、キレる高齢者というのは、万国共通のことなのか。

そうじゃないらしい。

欧米では「年を取ると、より性格が穏やかになり、優しくなる」

というのが定説だ。

イギリスの科学者の言葉を借りれば、

「人間は年を取るほど、神経質ではなくなり、

感情をコントロールしやすくなる。同時に、誠実さと協調性が増し

責任感が高まり、より敵対的ではなくなる」のだそうだ。

 

ここで、ちょっと気になるのが「幸福度」だ。

国連の調査によると、日本の幸福度は世界155カ国中51位。

サウジアラビアやニカラグア、ウズベキスタンより低い。

またOECDの人生に対する満足度調査では先進38カ国中29番目だ。

しかも、日本では年を取るにつれ、幸福度が下がっているのである。

それらを見れば、高齢者だけを責めても

問題は解決しないのではないかと思えてくる。

 

昔、「穏やかで優しいお爺さんたち」が周りにはたくさんいた。

なのに今は、切れる高齢者が何かと話題になる時代だ。

日本はどこかで間違ったのではあるまいか。

なぜ、こうも幸福度の低い国となってしまったのか。

自戒を込めながら、さまざまに考えさせられる。

 

 

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