入退院を繰り返す闘病の末、遂に尽き果て、
横たえられた父にうっすらとヒゲが残されていた。
少しの温もりも喜怒哀楽も、何もかも失くした、
その頬や顎にそっと剃刀を当てれば、
それはあたかも言葉を交わすことのない語らいに思え、
そこに多少の懺悔が潜んでいることに気付かされた。
父・69歳、昭和44年5月28日のことである。
父との思い出は、ほぼ小学生の時に限られる。
鎖をつかみ、懸命に引っ張り上げ、
980㍍もある頂上にたどりついた多良岳登山、
初めてテントの中で一夜を過ごした雲仙・諏訪の池でのキャンプ。
これらはすべて登山やハイキングが好きだった父との、
70年たった今も忘れられない楽しい思い出である。
また近くの中学校の校庭にあった鉄棒で逆上がりや
前回り、後回りをしてみせたのも父だった。
中学生になった僕が器械体操を始めたのは、
そうした父の血の影響が多分にあったのかもしれない。
それなのに、中学生になり、さらに高校、大学へと
進むにつれ父とは会話さえ絶えた。
なぜそうなったのか。特に諍いがあったわけでもない。
知らない間に語り合わぬ父子となっていた。そう言うしかない。
やがて僕は父の手を離れて独り立ち。
父はといえば年を取り、病に伏せ、見る間に衰えていった。
「お金、少し持っとらんね」
東京の通信社での半年間の出向・研修を終え
長崎へ戻ると、母はそう聞いた。
「何すっとね」聞き返せば、
「父ちゃんの入院費用が足りんとたい」と言う。
出向中に貯めたものが30万円近くあった。
それ以上何も問いもせず、手持ちのありったけを差し出したのだった。
母に促され見舞ってみれば、父はベッドの上に、
小さくなった体を丸めるようにして、まさにちょこんと座っていた。
最初は不審げな表情をしたが、
すぐに、はにかんだような笑顔を見せた。
父の笑顔は、いつのことだったろうか。思い出せもしなかった。
そして、その笑顔を最後にして半年後死去したのである。
1枚の木の板を金具で留めただけの祭壇とも言えぬ棚に、
マリア像に守られるようにして母、それに義父母、
3人の遺影が置かれている。
父の写真もここに並べられてしかるべきなのに、それがない。
どう探しても見つけ出すことが出来なかったのだ。
手元に写真すらないことが父への思慕の薄さを感じさせ、
「そのせいで父の顔はぼんやりとしか思い出せない」と逃げをうつ、
そんな自分がなんと悲しいことか。
姉は言う。「あんたは父ちゃんに生き写しよ」
それで、鏡に映った自分と父の顔立ちとを
重ね合わせてみようとするものの、
おぼろげに浮かんでは消える面影は定まってはくれず、
切なさばかりが募ってしまう。