Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

父 父 父

2023-11-30 20:17:09 | エッセイ

 

 

入退院を繰り返す闘病の末、遂に尽き果て、

横たえられた父にうっすらとヒゲが残されていた。

少しの温もりも喜怒哀楽も、何もかも失くした、

その頬や顎にそっと剃刀を当てれば、

それはあたかも言葉を交わすことのない語らいに思え、

そこに多少の懺悔が潜んでいることに気付かされた。

父・69歳、昭和44年5月28日のことである。

 

父との思い出は、ほぼ小学生の時に限られる。

鎖をつかみ、懸命に引っ張り上げ、

980㍍もある頂上にたどりついた多良岳登山、

初めてテントの中で一夜を過ごした雲仙・諏訪の池でのキャンプ。

これらはすべて登山やハイキングが好きだった父との、

70年たった今も忘れられない楽しい思い出である。

また近くの中学校の校庭にあった鉄棒で逆上がりや

前回り、後回りをしてみせたのも父だった。

中学生になった僕が器械体操を始めたのは、

そうした父の血の影響が多分にあったのかもしれない。

 

それなのに、中学生になり、さらに高校、大学へと

進むにつれ父とは会話さえ絶えた。

なぜそうなったのか。特に諍いがあったわけでもない。

知らない間に語り合わぬ父子となっていた。そう言うしかない。

やがて僕は父の手を離れて独り立ち。

父はといえば年を取り、病に伏せ、見る間に衰えていった。

 

        

 

「お金、少し持っとらんね」

東京の通信社での半年間の出向・研修を終え

長崎へ戻ると、母はそう聞いた。

「何すっとね」聞き返せば、

「父ちゃんの入院費用が足りんとたい」と言う。

出向中に貯めたものが30万円近くあった。

それ以上何も問いもせず、手持ちのありったけを差し出したのだった。

 

母に促され見舞ってみれば、父はベッドの上に、

小さくなった体を丸めるようにして、まさにちょこんと座っていた。

最初は不審げな表情をしたが、

すぐに、はにかんだような笑顔を見せた。

父の笑顔は、いつのことだったろうか。思い出せもしなかった。

そして、その笑顔を最後にして半年後死去したのである。

 

1枚の木の板を金具で留めただけの祭壇とも言えぬ棚に、

マリア像に守られるようにして母、それに義父母、

3人の遺影が置かれている。

父の写真もここに並べられてしかるべきなのに、それがない。

どう探しても見つけ出すことが出来なかったのだ。

手元に写真すらないことが父への思慕の薄さを感じさせ、

「そのせいで父の顔はぼんやりとしか思い出せない」と逃げをうつ、

そんな自分がなんと悲しいことか。

 

姉は言う。「あんたは父ちゃんに生き写しよ」

それで、鏡に映った自分と父の顔立ちとを

重ね合わせてみようとするものの、

おぼろげに浮かんでは消える面影は定まってはくれず、

切なさばかりが募ってしまう。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エレジー

2023-11-29 20:38:38 | エッセイ

 

 

73歳だった。

その早い葬儀の日の夜、僕は1人、7、8席ほどが並ぶ

小さなスタンドバーであがた森魚の『赤色エレジー』を歌った。

地方の新聞社に在職した14年間、

その大半を直属の上司として若き日を導いてくれた恩人に対する、

子供じみてはいても、僕なりの心を込めた追悼であった。

 

順調に歩んでいた入社5年目のあたり、突然のポスト替えだった。

途端におかしくなった。

新たなポストが性分に合わなかったとでも言うか、

仕事にまったく気が乗らなくなったのである。

挙句、ミスを連発、後に聞かされたことだが懲戒解雇寸前までいった。

そんな時、この人は照れを隠すかのように僕から視線をそらし、

ボソボソとこう言ったのだ。

「一つのことをやれる奴は、何でも出来るものだ。

前のポストであれだけ頑張れたではないか。自信を持って前に進め」

 

       

 

ペラペラと言葉を並べた説教じみたやり方ではない。

言葉自体も人の心を動かすには平凡に過ぎる。

なのに、この人が持つ佇まいが、

言葉に乗り移ったかのように僕の背中を強烈に殴打したのである。

 

昭和4年生まれ。少年飛行兵を志し訓練に励んでいる最中に終戦を迎えた。

生まれたそんな世相がそうさせるのか、

それとも持って生まれたものなのか。あるいは相まったものなのか。

どちらにせよ、昭和初期のどこかもの悲しく、憂いを身にまとい、

口数は少なくとも、そのずしっとした佇まいそのものに

何かを語らせるかのような人だった。

 

言われたように、苦しいながらも前へ前へと進むうちに

自信を取り戻すことが出来たのである。

それが81歳になった今、大過なく暮らせている僕を作ったのではないか。

そう言えば大げさと思えても、

この一事が今日の礎になったのは間違いないことだと思う。

 

救われたから言うのではないが、

そんな彼をますます尊敬し、単純に好きになっていった。

たまたま2人とも早帰りだったある日、部屋を出たところで一緒になった。

「どうだ」と一言。「はい」とためらうことはなかった。黙って後に続いた。

彼は酒豪の類、対する僕は下戸に等しかった。

それなのに、しばしば「どうだ」と声をかけてくれるのである。

何軒か回り、最後に落ち着いたのが、

客は僕ら2人だけの件のスタンドバーだった。

格別の話をするでもなく、淡々と時を過ごした。いつものことだった。

 

思い出したように、カウンターに100円玉を置き

「おい あの歌を歌ってくれ」と言った。

流れてきたのが『赤色エレジー』である。

僕はあわててマイクを取り、歌詞ブックを見ることなく歌った。

間中、グラスをじっと見つめ続ける、

その人の体をどこか物憂げなメロディー、歌詞が包み込む。

そして歌が終われば、手酌でぐいっ。その夜もそうであった。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いとおしい

2023-11-27 20:35:03 | エッセイ

 

いとおしい。

 

朝の6時頃、電話が鳴った。病院からだった。車を走らせる。

看護師さんの腕の中に小さな、小さな女の子。

僕の腕にそっと渡された。

初めての孫。こわごわ、わくわく。何だか妙な感覚。

腕にきゅっと力を入れた。

側にいる、その子はもう26歳。

アメリカの大学に留学・卒業し、東京にある会社に入社した。

すごい頑張りようでパソコンを開き、

「私、こんな仕事をしているのよ」と話して聞かせる。

僕の世界を超越し、よく理解できぬまま「頑張りなさい」と返す。

あんな小さな、小さな子が、こんなに大きく成長し、

やがて手の届かないところへ行ってしまうのだろう。

 

いとおしい。

      

 

背中のギターが体をすっぽり隠している。

この子が「僕、ギターやりたい」と言ったのは小学5年生の時だった。

それから高校を卒業するまでミュージック・スクールに通った。

煽られるように僕も同じスクールで歌を習い始めた。

そして、孫との共演が2度実現した。

斉藤和義の「やさしくなりたい」とビートルズの「Something」、

忘れられるはずもない。

だが、高校3年生の時同級生とバンドを組み、

文化祭で青春を思い切り発散させたのを最後にギターはやめてしまった。

大学生になるとギターに代わって、ひどく興味を示したのがファッションだ。

何せ,184㌢の長身。うん、なかなかに格好良い。

モデルまがいの見栄えだ。

ギターをやめたのは残念だが、これも彼なりの生き方。

来春には大学院を終え社会人となる。

あんな小さな、小さな子が、こんなに大きく成長し、

やがて手の届かないところへ行ってしまうのだろう。

 

いとおしい。

 

来年4月には大学4年生になる。早いものだ

小学校の校門の前で真新しいランドセルを背に

記念写真を撮ったのは、ついこの間のように思える。

背丈も僕を追い越した。

がんを克服した母が産んでくれた、大事な、大事な一人娘。

そして、この娘が大きくなっていくにつれ、

母娘はまるで友人みたいになっていった。

旅行に行くのもいつも2人一緒だし、娘が高校生になると

母が子に従うようにさえなった。

また、母娘とも「嵐」の大ファン。コンサートにも一緒に行くほどだ。

そんな娘が大学生に。嬉しさ半分、寂しさ半分……。

じぃじ、ばぁばも同じ気持ち。

 

僕の3人の孫たち。

あんな小さな、小さな子たちが、こんなに大きく成長し、

やがて手の届かないところへ行ってしまうのだろうね。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卵を塗って美しく

2023-11-23 20:37:17 | エッセイ

 

 

今朝の味噌汁には、卵がポトリと落としてある。

白身はほぼ固まっているが、黄身はまだ箸先でトロリと崩れ、

小さめに切った豆腐、薄く平たくした椎茸、それに細切りの長ネギ、

この3品の具材にまみれる。

味噌は自家製の赤味噌だった。

味噌と具材がバランスよく調和し独特の風味のある味噌汁。

刻んだ小葱がもう一つ、香りと彩りを添える。

出来立ての味噌汁は一段と旨い。

盆には高菜漬け、辛子明太子も置いてある。

白ご飯がすすむ。これで十分に満足な朝食である。

 

食べ終えた食器を流し台に持っていくと、

味噌汁に入れた卵の殻が2個分置いたままになっていた。

その殻の凹んだ部分には、白身が少しばかり残っており、

妻はそれを人差し指につけて頬に塗った。

「何だ お婆ちゃんがパックなのか」冷やかし半分に言えば、

「そうよ。これで、少しはしわが伸びるんだもん」

笑いながら、もう一度殻に指を入れた。そんな妻の仕草を見ていると、

70年も前の母の姿がすぅーっと浮かんできたのだった。

 

           

 

あの朝鮮戦争が終わって2年か3年、僕は小学3年生だった、と思う。

学校から戻ると、家には誰の姿も見当たらなかった。

だが、なぜか風呂場からザァーザァーと水の流れる音がした。

「かあちゃん 風呂に入っとっとね?」と呼びかけると、

「ああ お帰り」くぐもった声が聞こえた。

昼間に風呂? しかも、昨日の夜も入ったはずなのに……。

しばらくしてタオルで髪を拭きながら出てきた母は、

「かあちゃんが昼に風呂に入っていたことは内緒ばい。誰にも言わんごと」

そう言うと、すぐに戸棚から卵を一個取り出した。

そして、吸い物椀でカチンと割ると上手に白身だけを椀に入れ、

鏡に向かいながら僕を見てにこっと笑ったのである。

妻がしたように、母も椀の中の白身を指につけ、それを何度も何度も顔に塗った。

たちまち、顔はてかてかと光り、ぱんぱんに張ったようになった。

「母ちゃん 気色ん悪か」

「何ば言うとね。ちょっと待っとかんね。

顔のしわがピンと伸びた美人の母ちゃんの顔ば見せてやるけん」 

「いや、見とうなか。遊びに行ってくる」

「言わんとばい。父ちゃんには絶対に」背後に母の声が追ってきた。

 

朝鮮戦争後の大変な不況は、

食べる物も事欠くほど当家の暮らしを苦しくした。

卵さえ食卓に出ることはめったになかったのである。

そんな貴重な卵ではあったが、母はやはり女性なのである。

たまには、顔のしわを少しは伸ばし若返った美しい顔を取り戻してみたい……

そんな思いにもなったのであろう。

貴重な卵をこのように使ったことが皆に知られないよう、

誰もいない昼間に風呂に入り、卵パックをしたのだと思う。

もちろん、そんなことが分かるようになったのは、ずっと後のことである。

 

この母を真似るかのように2人の姉も年頃になるとまた、卵を顔に塗った。

中学生になっていた僕は、後ろから姉にそろりと近寄り、

脇の下をこちょこちょとくすぐった。

「こらっ、止めんね。笑わしたら、せっかくのパックがダメになるんだから、もう」

「姉ちゃんは、卵を塗らんでもきれかやない。卵がもったいなか」 

僕は笑いながら、追ってくる姉の手から逃げ回った。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする