坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

深川芭蕉庵 と 大川(隅田川) <7:00am->

2024-05-10 08:14:37 | 本・映画・音楽etc.
芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社

定刻通り、早朝5時に「バスタ新宿」に到着。「大吉原展」は、10:00Openなので、それまで芭蕉の住い跡を訪れてみる。
森下駅(都営新宿)で下車し、江戸深川を空想しながら芭蕉の庵跡を目指す。途中、信号待ちで隣にちょこんと並んだ小学生の女の子から「おはようございます」と挨拶をもらった。下町風情なのかねぇ、鶴岡だって挨拶できる子はいるのだろうけれど、それはとてもとても嬉しかった。
晴天の都内、墨田川の流れをこんな間近に見たのは初めてだ。綺麗に整備された河岸でジョギングやウオーキングを多くの人たちが楽しんでいた。パンツ一枚で歩いている男もいる(追剥にでも遭ったのだろうか?)、東京だねぇ。う~む、イイ一日になりそうだ。


芥川の愛した大川(=隅田川)

「殊に大川は、赭(あか)ちやけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」と云ふ大都会を静に流れてゐるだけに、其(そ)の濁つて、皺をよせて、気むづかしい猶太(ユダヤ)の老爺(ろうや)のやうに、ぶつぶつ口小言を云ふ水の色が、如何にも落付いた、人なつかしい、手ざはりのいゝ感じを持つてゐる」(芥川龍之介「大川の水」より抜粋)


深川芭蕉庵旧地

「俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病死するまでここを本拠とし「古池や蛙飛び込む水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。(以下略)」(芭蕉遺跡保存会掲示板より)


『深川芭蕉庵』

「古池や蛙とびこむ水の音」の名句を産んだ「蛙合せ」の興行が行われた場所として有名。
今月(5月)16日は「旅の日」だという。芭蕉が奥の細道へと旅立った日を記念して、日本旅のペンクラブが制定したのだと。芭蕉は1689(元禄2)年に江戸(ここ深川芭蕉庵)を出発し、名句を残しながら全行程約2,400kmを歩き「奥の細道」を残した。私も同じ行程を辿るのを夢としているが、今回千住大橋あたりまで行ければなぁと思案している。


万年橋

「万年橋は、区内の橋の中でも古く架けられた橋のひとつです。架橋された年代は明らかではありませんが、延宝8年(1680)の江戸図には「元番所のはし」として記されているので、この頃にはすでに架けられていたことがわかります。
江戸時代には、この橋の北岸に小名木川を航行する船を取締る、通船改めの番所が置かれていました。この番所は、寛文年間(1661~73)の頃に中川口へ移され、このため「元番所のはし」とも呼ばれました。
小名木川に架けられた橋は、船の通航を妨げないように高く架けられました。万年橋も虹型をした優美な橋で、安藤(歌川)広重は「名所江戸百景」のなかで「深川万年橋」としてとりあげています。また、葛飾北斎は「富嶽三十六景」のひとつに「深川万年橋下」として、美しい曲線を描く万年橋を大きく扱い、その下から富士山を望む、洋画の影響をうけた錦絵を残しています」(江東区万年橋説明プレートより)


富嶽三十六景「深川万年橋下」葛飾北斎
1830(天保元)−32(天保3年)頃完成


名所江戸百景「深川万年橋」歌川広重
1857(安政4)完成
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