治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

偏りと理解

2015-12-12 13:05:15 | 日記
昨日私は仕事の上で一山超えて
冬の臨海学校に出かけるまであと二週間、もう一山っていうところですが
まあとにかく今日はわりとゆったり。朝から新入り(ノンフライヤー)の居場所を作るためにキッチンを掃除していました。
画伯に習ってカレーはルーを使わずスパイスを混ぜて作るようになってから、余っているカレールーを発見。来週はこれをどこかで消費しなければ。

というわけで根源的なテーマを今日は取り上げます。
「理解」ね。

理解が広まれば生きやすくなる

はギョーカイとそれに洗脳された人々による集団誤学習だと思っている私ですが、
「脳みその多様性」に関する理解は広まった方がいいと思っています。
そして実はかなり広まっていると思っています。
一番広まっていないのはたぶん学校現場。だからみんな「広まっていない」と誤解しているんだよね。とくに学校から教育学部に入って教育学部の教員になったような人はきっと、社会が実は多様性をかなり許容していることを知らず被害者意識に走りそれをまた当事者保護者に植え付けて再生産しているんじゃないかな。

おそらく同じ社会に生きていても
私が見えている光景と相当違うんだと思う。
私は社会が相当多様性を許容しているのが見えるポジションにいる。
だから「そこに適応するために効率のいい努力をしよう」と自信を持って言っている。

じゃあ学校時代に私が教員に理解されていたかというと、されていなかったと思います。
そして理解されないことに、なんの不満もなかったと思います。いやかえって、「教師風情に私の個性がわかるかバーカ」とか思っていました。だから「学校現場に個性を理解してほしい」みたいな人がいると不思議なのです。学校は個性をつぶすことがその役割としてあるでしょう。教育ってそういうものでしょう。ほっとけば野生のまんまの生き物を一定の方向に整える行為なわけだから。
そして押しつぶしても押しつぶしてもどうしてもつぶれないもの、それこそが個性じゃないんでしょうかね。

猫本でも出てましたけど
「理解されない」っていうのもある意味、財産となる体験なんですよね。

私はずっと思っていましたね。
「脳みそはさまざまだけど、教員はそれをわかっていない。あるいはさまざまだということを無視して教育システムは出来上がっている。でも私は決定的にこのシステムの中で有利な偏り方をしている」と。
ずっと自分は「教育システムの中で得をしている」という自覚がありました。今になって覚えた言葉でいうと、それは聴覚優位、文字に強いことだと思います。最初に南雲さんに会ったときこれ話した気がするな。南雲さんたちがつらかった学校システムの中で、私は決定的に得をしてきた。偏っているという意味では同じ。でも学校教育の場で、私の偏りはラクができて南雲さんの偏りは苦労した。それだけの話なんだと。

でも「社会はもっと広いはずだ」というのは学校にいるときから見えていましたね。逆に言うと、学校システムの中でほど有利じゃない面も出てくるだろうと予測してましたよ。

社会に出てみると、文字に強い私ができない仕事をしてくれる人たちと協力しあいながら仕事をしていくわけで、「ほら私のカン当たってたんじゃん」みたいな感じです。

不幸にもこの広がりを知らない人が教える方にいる可能性もあるから、それは教えてあげた方がいいんじゃないかと思います。

ただね、

「多様性」の名のもとに「できることもやらなくてすまそう」という意見を声高に叫ぶ人がギョーカイ筋にいるから、それで現場は防衛的になるんじゃないかしらね。
その辺の見極めが大事。
その辺の見極めを、福祉で食ってる人にゆだねてはだめ。
彼らは中立じゃない。それはよく覚えておきましょう。



猫クイズ2
自助努力はどんなときに必要?
判断基準は○○。

当てになるのはこっちの基準だと思います。