徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

信念の人とは~精神活動の止まった人~

2020-08-24 15:00:35 | 随想

 

情熱から意見が生じる、そして主義主張というものを生み出す。

この主義主張を認めてもらうためには、これにいつまでもこだわって持ち続ける必要がある。

このことが、意見や主義主張を凝り固まらせて信念というものに変化させてしまう。

すなわち、精神の怠惰がこれを信念に硬化させるという事である。

自由な絶えず生き生きとした精神を自らに感じているものは、不断の変転によってこの効果を防ぐことが出来る。

その信念というものは認識のある一点で絶対的真理を所有しているという信仰である。

ところが人々は信念があるというのは、なんとなく人間が偉くなったような、高尚になったように感じているようだが、

その人はかっての自分の旧態な意見を頑なにに持ち続けていたというに過ぎない。

言い換えるとその人の精神の活動が、その時点で止まってしまったという事なのである。

つまり、精神の怠惰が信念を生み出したという事である。

いかに素晴らしい意見や主張であっても、日進月歩、新陳代謝を繰り返して、

時代の変化に対応させる必要がある。

そうでなければ、当時としては斬新な素晴らしい意見主張であっても、

時代とともに古びた頑固なカビの生えた信念とみなされるようになる。

時代の変化や要求に応じてその主義主張は作り直されて行かなければならない。

これらは、ニーチェが著書人間的に、あまりに人間的の中で、信念についてところどころで述べている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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~~の為に行うのだという不遜な考えは

2020-08-09 17:25:10 | 随想

 菜根譚は人に恩を施すものは内に己を見ず、外に人を見ざれば、すなわち斗粟も万鐘の恵みに当たるべしと言っている。

すなわち、人に恩を施すものは心の中に施す自分を意識せず施される相手の感謝を期待しないようであれば~~~

~~の為にするのだという人間の心のうちについて、心ある人間が考えることは考えることは、似たような考え方に到達するのであろう

現代において、殊勝な見返りをわずかでも思い浮かべず人に施しをしようとするなどというものはおそらく皆無であろう。

何らかの見返りをわずかでも心の底に思うならそんなものは斗粟にも値しない。

~のために、行うなどという事は、どれ程良いことのように見えても、それは卑しく貧しいことだ。

だれだれの為にであろうとも何々の為であろうとも、もしそれが何の効果もないものであったとしたら、相手もしくはその事情の所為にする心が生まれる。

それが、うまく運んだ時には己の手柄にする心が生まれ、あわよくばその見返りを期待する心が生ずる。

その何内のためにという事の発端にそのような心が芽生えていないときでも、成功に対する自分の手柄だとする慢心が生ずる。

本当は~~のためにする、という行いは己自身の為だけに行っているのである。

なぜなら、本当に~~のためにという事が純粋に己の心の愛の発露として行われるときは、~~の為にという、

言葉や考えなどが出て来ることはない。

とニーチェがツアラトゥストらの中で言っている。

人間の考えることは西も東も心あるものが考えることはみな同じなのだろうとつくづくと思ったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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