徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

幸福とは~幸福について考えると~

2020-04-25 22:24:14 | 随想

今日の人間は幸福についてはほとんど考えない様である。

古代の倫理学の中心課題はほとんどが幸福について論じていた。

アリストテレスの著書ではないが、彼の幸福についての思考過程が二コマコス倫理学に残されている。

近年の倫理学において、幸福について論じたものがあるのだろうか。

過去の哲学や、宗教すなわちキリスト教などにおいても、人間という生き物はどこまでも幸福を求めているという事実を論拠にして、

宗教論や倫理論を作り上げている。

古代から中世の倫理学は人は如何にして幸福を達成しうるかという問題がその中心問題を成していた。

だが今日の幸福論はどうなのだろうか。

すべての人間はその本性によって幸福という究極目的の達成に向かうように生まれながら定められていると考えられていた様である。

憲法13条の規定は今日の幸福追求権と言えるかもしれない。

とは言っても、現代日本の人権保障などは公共の福祉の一言で、跡形もなく吹き飛んでしまう。

生まれながらに有する人権などというもは存在することはなく、国家によって与えられた人権であるとするのが、日本国憲法の人権規定である。

幸福とはと学術的な事はさておいて、幸福とは何だろうと考えたことがある人は少なかろう。

内心の奥底では幸福でありたいとは思いながら、幸福が意識の表面に出ることはほとんどないのではなかろうか。

今日、倫理の混乱が叫ばれているが、倫理学からこの幸福が抜け落ちてしまったことと関連がある様な気がする。

幸福について考えることは不幸だからであるからかもしれない。

人間の体調に何の心配もない人は健康については改めて考えることはほとんどないであろう。

それと同じように幸福である人は、幸福について考えることはないのだろう。

だが、現代の人間は幸福について考える気力をさえ失っているために、幸福について考えることがないのかもしれない。

幸福とは何かを知らないものに、不幸とは何なのか知ることができるわけもない。

今日の人間は内心の奥底では誰もが幸福を求めている。

それが意識として登ってくることがないのはなぜなのか。

これが現代人の精神状況であるとすれば、これが現代人の不幸を特徴付けているのかもしれない。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーend


月一の通院からの思い

2020-04-22 20:50:35 | 随想

 

月一で通院し診察を受けて、薬の処方箋をもらってくる。

この時期、病院行きはとても煩わしい。病院は色んな患者が集まるところ。

中には隠れコロナもいるかもしれない。

行政が己の責任を放棄して隠れコロナが街をうろつかせているのが拡散の原因。

検査の結果コロナに感染していても、無症状だと認定したとき、どうするかの問いに、保菌者の扱いにするとは言っているが、

その保菌者をどうしたかは言わない。

そんな保菌者がたまたま医院に来ていたらそれこそ不運。

行政が放置した保菌者に感染させられたでは、死にきれない。

欧州は初期の対応にしくじって大事になっているが、結局その責任を国民に押し付けたという事。

わが国の行政は保菌者の確保を怠って、己の怠慢を棚に上げて、初期の内の対応を最初から欧州の猿真似よろしく、終息を国民に押し付けた。

金銭的な補償をえさに、欧州では見られない巨額な補償である。

国民はこの保証が手に入ると喜んでいるようだが、それぞれも思うほどに入るものかどうかは私にはわからない。

ただ、ここでも媼翁の年金受給者は保証の埒外、保障関係とは一切何の関係もないという。

だが、アフターコロナの国民に押し付けられる巨大な負担には真っ先にやり玉に挙げられる。

保障を受けた国民にしても、保障だなどと喜んでいるようでは日本の先が思いやられる。

保障の総額は国家予算の一般会計の予算をオバーするという。

これは、保証を受けた人々の子供はもちろんその子孫にまで及ぶ負担なのではなかろうか。

その時は苛め抜かれた媼翁の搾取の対象は別世界に移り住んでいる。

その成り行きを、別の世界からのんびりと眺めさせていただこう。

媼翁の姥捨て者たちはコロナに殺されるのではなく、行政の施策に命脈を絶たれることになるのだろう。

どちらかと言えば、コロナに殺された方が行政にじわじわ苛め抜かれて殺されるよりもあっさりとするのかもしれない。

段々減少する年金額から保証で支払われたアフターコロナの填補の搾取に耐えられる程支給されてる人はいい。

だが多くの人はその搾取には耐えられなかろう、今でさえそうなのだから・・・

税はもちろん、地方自治の各種保険料の増額はこれまでも常識では考えられないほどの増額を押し付けてきたのを考えると、

年金生活者は命脈を絶たれたに等しい。

 


コロナを甘く見る若もの達

2020-04-21 18:27:03 | 随想

ここ数日若いもの達が5,6人あるいは7.8人、自転車、バイクで集団移動して、通りかかりの公園に屯するのを目撃した。

公園入り口に設置の自販機でワイワイガヤガヤ鬱陶しいやり取りをしながら、公園へと入ってくる。

小さな子供の相手をして遊ばせていた母親は早々、恨めし言表情を見せながら引き上げていった。

片や自転車の集団、他方はバイクの集団、いずれも休みの暇を持て余して、仲間が寄り集まるのだろう。

あの中にコロナが一人いたら、おそらく全滅すべて保菌者になるだろう。

もちろんの事、コロナの対策のマスクなどは着けておらず、傍若無人に騒いでいる。

欧州諸国が滅亡の危機を国の存続をかけて、強硬手段に出ているが、果たしてどの程度の効果が期待できるのだろうか。

わが国では感染を広げている張本人、隠れ保菌者等を探すことを放棄して、野放しの保菌者が街中を歩き回るのを確保する方策さえ検討していない。

それを放置して欧州の猿真似をしているが、動くのが生き物の本能であってみれば、休みになって暇を持て余した若者が友を糾合し、屯するのは当然予想されたこと。

これがあちこちで繰り広げられると、欧州の猿真似が本物になり集団感染があちこちで起こりかねない。

感染拡大の原因の隠れ保菌者や無症状や軽症者の保菌者の扱いを厳格に探す方策を放棄して、感染拡大を外出禁止で処理しようなどは考えが甘い。

現状は欧州の状態と違う事を認識して対処方法すなわち感染を拡大している保菌者の確保に全力を傾注するする必要があろう。

自転車やバイクで移動し途中休憩のつもりか、公園でおだを上げてる姿を放置するなどは緊急事態宣言も甘く見られてものである

こんな輩が自転車やバイクで集団移動して、この中に保菌者がいないとは限らないであろう。

風邪を引いた程度に感じている輩、無症状保菌者が存在すれば至る所に菌を置いてくることになる。

若者はり患しないとかかかっても軽いとかの迷信を信じているのだろう。

イギリスなどで公園に三人集まれば強制的な権力で解散させているらしい。

従わないやつななどは罰金などを科せられている。

猿真似するなら徹底しなければ、中途半端はロクなことにはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーend

 

 

 


発想の思考が逆転している

2020-04-20 06:07:12 | 随想

発想の思考が逆転している。

 欧州諸国は発症者が巨大になりすぎて、感染対象を消してしまう法、すなわち外出の自粛あるいは禁止以外方法が無くなったのは事実である。

街中への人の出を制限することも確かに必要だが、人間という生き物は動く生き物である。

この生き物は動くことによって生きているのであり、動きを全く制せられるとやがては死ぬ以外にない。

感染者数を減らすことが第一の目的で、外に出ない生き物が多くなれば感染させる対象がないないのだから、

拡散は減少するように見えるが、しかし考え方が逆である。

如何に猛威を振るっているコロナと言えども独り歩きをして人間という生き物に取りついて居るわけはない。

このコロナを体内に抱えた生き物が、無制限に街中を動き回って次々にコロナを放出しているのである。

直接人に接触させたり、物に触って物を介して感染させたり、様々なことをやってのける。

この街中を動き回る野放しの生き物を確保する術を最優先に考える必要がある。

それを怠り、外出制限などを主力にすると欧州の二の舞いになるだろう。

感染者が極限近くまで達した、欧州諸国の物まね対策を実施すると、やがて日本も欧州並みの患者数に達するだろう。

之だけ、全地球に拡散しているのは、すべて野放しの保菌者がうろついてコロナをまき散らしているからである。

先日も、外国からの帰国者が検査をすり抜けて、沖縄へ行ったという記事など見ると、この女が保菌者であったら、

飛行機の乗客の何割が感染させられたか、外国帰国者がコロナを持ち込む例が非常に増えている。

その保菌者の野放しが拡散の第一の原因であり、人々の行動制限はもちろん必要としても、保菌者の野放しを抑えることが最大のポイントである。

軽症者や無症状保菌の扱いがどのようなものであるか、100%完全であると確信をもって返答できるか、それが行政の重要な責任事項である。

今人権などという事は問題外であることを認識すべきである。

尤も、日本国憲法の人権保障など保障の内に入らない、公共の福祉を持ち出せば簡単に制限されてしまう。

外国からの帰国者の防疫検査が十代の女に簡単にすり抜けられるようでは、話にならない。

行政や役人の怠慢であろう。

 

 

 

 

 

 

 

ーーー


人は人生は旅であるという

2020-04-18 14:59:38 | 随想

人間は己のあずかり知らぬうちに、一個の生命として理由も知らされず突如として、この世に投げ出される。

この出生に対して承諾することも拒否することも許されない。

どんな地に生まれるか、男としてか女としてか、その美醜にさえかかわりなく,出生の条件も、自己の自由意志と選択を超えたところで決まってしまう。

人間はただ自己がこの世に生まれてきたという、ただそれだけを理由として生きていかねばならぬ。

そしてその生きていくところは、己の自由には生かしてはくれない。

人間という生き物が生きている世界は、果てしない欲望と煮えたぎる様な情念に引きずり回される生き物たちが生きている世界である。

そしてその人間という生き物、人との関わりの中で初めて生きていくことのできる生き物なのである。

その人との関わりの中では、個々の人間の自由を拘束しあるいは抑圧し人間の生きざまに干渉して、その自由を侵すことも多い。

その煩雑な人間の生き方、人生は旅とはよく言われる。

その旅というのは何なのか、はっきりと認識する必要がある。

人はさまざまな理由から旅に出る。

人生が様々であるように、旅もさまざまである。

様々な人が様々な旅をするが、どの様な理由で旅に出ようと、人が持つそれぞれの感情は何かしら共通するものがある。

人それぞれの人生が短くても、長くても、その一生の人生にはある種の感情がある。

人間という生き物は旅にも同じような感情を感じるのであろう。

ようやく手に入れた休暇での、一、二泊の旅行も、芭蕉の奥の細道などの有名な句を見るまでもなく、旅とは漂泊の旅である。

これは誰にも一再ならず迫ってくる実感であろう。 

旅に出るという事は日常の生活環境から抜け出るという事であって、習慣的な環境から抜ける、すなわち解放されるという事であり、旅にはその喜びがある。

ある種の環境から解放され、あるいは脱出するという感情には漂泊の感情が伴う事が多い。

そのことを考えると、旅は漂泊であるということも出来る。

人生について我々が抱く感情は、我々が旅において持つ感情と相通じるものがある。

すなわち人生は漂泊であるということも出来る。

過去に対する配慮は未来に対する配慮から生ずるのである。

我々はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、これは常に人生に於ける根本問題であり謎である。

人生の航路は遠くて、しかも近い。しかも人生はあわただしい。

それぞれの人間が、それぞれの生涯を生きてたどり着くところは一人の例外もない死。

拒否することも反抗することも無意味な不可解な世界である。

そうである限り、人生が旅のごとく感じられることは我々の人生感情として変わることがないであろう。

我々は我々の創造に従って人生を生きている。

現実の人間は自己自身に対して不自由であるばかりではなく、他人や社会に対しても不自由なのである。

しかし、人間を不自由にし、その生活を脅かし拘束するのは、唯単に内面的欲望情念や外面的な権力、社会的な人間関係だけではない。

旅は人生の姿である。

人生は未知のものへの漂泊である。

そしてその旅において出会うのは己自身、どんな旅であっても出合うのは絶えず己自身である。

我々は旅に出て、どこへ行こうとしているのだろうか。

我々はそれを知ることはない。

人生は芭蕉のいうように未知へのものへの漂泊でもある。

一体人生に於いて、我々はどこへ行くのであるか、我々はそれを知らない。

何処へ行くかという事はどこから来たかと問われるであろう。

その行きつく先は死であるといわれるであろう。

とは言っても人間はどこから来て何処へ行くのか、その行き先が死であるといっても、死とは何であるか誰もが明快には答えることはできないである。

人間が人生を旅するとき、死は刻々に、我々の足元にあるのであるが、それでもその人生に於いて、人間は夢を見ることは辞めない。

この様に人間は不自由な生き物であるが、人間には今一つの一層の根源的な、そして決定的ともいうべきたどり着く先が選択の余地なく死であるという不自由がある。

それが人間の生と死なのである。

 

 

 

そして今日、人生の旅の終焉近くに来て、その人との関わりの中では、あるいは無能な権力の横暴によって、

個々の人間の自由を拘束しあるいは抑圧し人間の生きざまに干渉され、その自由を侵されることが多くなっている。

その煩雑な人間の生き方、を強制されるのは旅の終わりに近ければ近いほど煩雑さを感じる。

その煩雑さを避けるためには、そろそろ漂泊を終わりにしなければならぬ。

よく終焉を迎えた時、天命を全うしたなどと言われることがある。

天命とは古代中国からの思想であるが、人がなすべきことを為し終えて終焉を迎えた時、天命を正しく受け入れたなどと言われることがある。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーend