徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

温かい心には福が宿る。

2020-05-25 17:08:18 | 随想

 

菜根譚、読んだことなくても聞いたことがるだろう有名な中国明代末期の書である。

この中に、心暖かの者には福が来るといっている条がある。

天地の気は暖かくなればすなわち生じ、寒なればすなわち殺す。

故に性気の清冷なるものは受享もまた涼薄なり、という。

だから人間もまた性格が冷たい人は、天から受ける幸せも薄いという。

古代中国の思想は天人相関とでもいうのだろうか。

この世を生み出した天とわれら人間とが密接に結ばれているという考え方なのであろう。

この中国で言う天という概念は、西洋の哲学で言う神に近い概念であろうが、日本の八百万の神々とはちょっと違った概念ではある。

この天人相関という考えはとても面白い。

この天に我々は見守られており、良いことをすれば、天はそれに報いてくれる、悪事を働けば天変地異という形で人間を懲らしめる。

天ははじめ人間への警告としてほんのわずかな小さな災害をもたらし、人間がこれを受け止めて、反省し行為を改めればよいが、

その警告を無視すると、天は次に大きな異変を下す。

古代中国の人々の考えたことは、大災害は単なる自然現象とは受取らずに、人間、特に為政者の失政の結果であると考えていたのである。

荀子などに言わせると天の領域と人間の領域とは直接的な関係はないとしながらも、人間が生きていくための活動を天が保障しているのだと捉えている。

それゆえ、人為を重視し、学問による人間修養に努力するように説いている。

だが人々が考えたことは努力すればいつかは天がそれに報いてくれる、悪事には天罰が下るとする素朴な信仰が人々の考えていたことの様である。

わが国においても子供のころから、同じようなことを繰り返し聞かされて育ってきたからか、この天人相関の考え方は意外と素直に納得し、

受け入れることができるような気がする。

天の具体的な表れとして、春夏秋冬の季節の巡りが重要視されてきた。

時節を間違えた事象は天の怒りを招き、世の混乱に通じていた。

論語などにもこの四季の巡りについて、四季があってこそ、万物は生死を繰り返すといっている。

どの季節が尊いという事はないのであるが、人間の心は温かい春の様なあり方が理想とされるであろう。

冷たい心の持ち主は、死の季節を生きているといわれるように、天から与えられる幸せも儚く薄いものであると考えられる。

古代中国の天人相関思想は自ずとこの様な人間観に導かれていくことになるのだろう。

子供のころによく聞かされた、悪いことをすれば、天罰が下るというのも、この様な中国の古典に影響されているのあろう。

菜根譚前集七十二章を訳しておくと~~

天地の気は暖なればすなわち生じ、寒なれなすなわち殺す。故に気性の清冷なるものは受享もまた涼薄なり。

ただ和気熱心な人のみ、その福も厚く、その沢もまた長し。

荀子のいうように人間の本性は悪。

教育によってその悪を抑え世に適合するようにして、世は成り立っている。

コロナに関する特別定額給付金の書類の中にそれ給付金を装った詐欺かもしれません、という注意を促す記述の書が同封されている。

人間の悪がこんなところにも顔を出している。

何も悪は日本左衛門や五右衛門ばかりではないのである。

現代の悪人は悪を働く相手は子供であろうが、年寄りであろうが、見境もなく悪事を働く、そしてその手段は人をだましサギを働く薄汚い手法に多く見られる。

その結果相手がどうなろうと己さえよければいいという輩のなす薄汚い根性の持ち主である。

あらゆる手段を弄して人をだまし財を掠め獲る。

荀子が言うように性根は悪であっても教育によって善を行うようになるとは言うが、こんな輩は教育の甲斐もなく悪事を働いているという事になる。

人間という生き物は子供のころから、様々な機会を通じて人間としての在り様、人としての在り様を教えられてきたはずである。

にも拘わらず、悪を為し人々をくるしめる輩は教育の甲斐もない生き物であると考えた方がいい。

たとえこの輩を刑務所へ入れて、再教育などといっても、出れば同じことの繰り返しであろう。

人間改造など夢である。

すなわちこの世に必要のない生き物。

こんな輩一人刑務所で養うためには数百万の税が使われることになる。

こんな輩のために貴重な税を使う無駄は行ってはならない。

全く、税の無駄使いといっていい。

この世に必要のない生き物のために。

この菜根譚は人生の指針とよく言われるが、指針というより、人間としての在り様を書いたものの様な気がする。


分を過ぎた幸せ

2020-05-20 18:48:54 | 随想

 

分を過ぎた幸福や理由のない授かり物は天が人を釣り上げる餌でなければ、人の世の落とし穴であるという。

ここをきちんと弁えないと天や人の設けた術中に落ちないことはないともいわれている。

分を過ぎた幸福や授かりものと言って思い浮かぶのは宝くじの高額当選。

宝くじを買う行為を人は夢を買うという。

高額当選の幸せをつかむことなのだろうが、そんな幸せは本当の幸せと言えるだろうか。

もともと我が国の宝くじは江戸時代の富くじにその起源を発している。

その富くじが当たる、当たらないは占いに起源を発する。

古代から占いは中国あたりでも、あらゆる場面に現れていたが、庶民の間に普及してくると、

占断の目的は多くの場合金銭、出世、男女の間の事、その他日常の出来事の問題であったろう。

その中でも金銭的なものが最も多かったのではなかろうか。

すなわち、儲かるかどうか、それが富くじに発展していった。

金銭的な占断の場合、未来の吉凶の占断を下すより、その場で金銭を与えてしまおうというのが、富くじという方法になって表れた。

神社などで行われているが、外れたとしても神社への寄進と考えれば外れてもあきらめがつく。

富が当たるのは一種の占いの結果であり、神の神託であることを意味したのかもしれない。

だが高額当選した人々の以後の人生に於いて、高額な金銭、分に過ぎた金銭がどのように人生に影響するか。

天が人を釣り上げるための餌であっては、夢を買ったつもりが、その夢で自分をつぶしてしまう結果になりかねない。

そうでないとしても人の世の落し穴に嵌まらないために、きちんと弁える必要がある。

分に過ぎた幸福が不幸に転落するのを防ぐためか、宝くじの高額当選した人には、

その日から読む本、などという小冊子が与えられるという。

いずれにしても分に過ぎた幸福や理由のない授かり物は人の世の落とし穴と考えるのがいいようである。

夢が幸いを奪うという事である。

今コロナについて、様々な金銭的な補償と称するものが言われているが、

これは完全に人の世に設けられた落とし穴と思った方がいい。

以後何十年にもわたってその付けが降りかかってくることは確実と言っていい。

借金まみれの日本という国に、そんな支給を行える金があるはずもない。

政治屋などという生き物は己の金をばらまくのではないから、何の支障もなく公言し、支給はするだろう。

その己の失策はすべて国民の負担となって、責任を押し付けてくる。

この支給が諸外国に比べてけた外れに大きい。

以後何十年にもわたって、その負担で国民は窮乏生活を余儀なくされるだろう。

是、正に人の世の落とし穴以外の何物でもない。

ずいずいずっころばし、茶壷に追われて、とっぴんしゃん、と行けばいいのだが、・・・・

今の国民の政治意識がはっきりと目覚めない限り、未来永劫日本という国の政治は変わることはないであろう。

政治屋の失策の尻拭いはすべて国民に押し付けられてきたし、今後も変わることはなかろう。

国民が如何に困窮しようとも・・・・

 


コロナ対策は方向違い

2020-05-16 21:43:05 | 随想

 

今までの努力が無駄になるといった御仁がいるが、どんな努力をした。

徹底的に感染源を見つけ出すに努力をしたとも思えない。

人出が少なくなれば感染せる対象が無くなるのだから、感染者が少なくなるのは当たり前の事。

感染源を絶たなければコロナは消滅しないのは当然の事。

感染源をなくす努力を放棄して、感染対象者を外出自粛だけで減少させても何の解決にもならない。

いくら外出を制限して感染者が減ったからと言って解決にはなりません。

感染者が減ったといって喜んでいる馬鹿がいると聞いた。

そこがバカな人間にはわからない、いつまでも感染させる対象を少なくする外出制限を続けるわけにはいかないだろう。

感染者の増加を引き起こしている隠れ感染者の発見がコロナ撲滅の必須の条件である。

その本末転倒の根本がわかっていない。

外出制限を続ければ経済が破綻をきたすのは目に見えている。

その責任誰が取る。

責任とって辞職しますだけでは許さない。

これだけ死者が出ているんだ、指揮する行政も命を懸けていただこう。

 

心配だからというのも含めて、検査依頼があった人はすべて無料で検査するぐらいの措置が必要です。

コロナ壊滅のための必須の条件である。

外国では検査所を設けて行けばすべて無料で検査を実施してくれる国もある。

コロナ撲滅にはそれが必須の作業なのである。

健康そうで、何の異常もないものを省くと無症状感染者を見逃すことになろう。

外出制限はあくまで二の次の補助手段であるであることを認識すべきである。

無症状感染者や風邪ぐらいに考えている軽症発病者などコロナを体内に持っているものを根絶しない限り、コロナは根絶できない。

これらが街を徘徊しているから、感染者が続出していることをはっきりと認識すべきである。

こうゆう輩が、スーパーやホームセンターの陳列物を次々に触れてコロナを残している。

外国では検査に随分力を入れているが、それが当然の措置。

日本では、検査を拒否されて泣いていた人がいるというのを聞いて、

日本の対策は本末転倒の感染されるものを少なくして感染者を減少させる消極的施策を行って、感染源の発見を軽視する馬鹿な行政を主力にしている。

しかも莫大な金を使って。全くの方向違い。

いつまでも感染させられるものを少なくするための手段、すなわち外出自粛を継続できるわけないという事、理解はできるだろうね。

症状がなければ検査を受け付けないなどというのは、感染源を徹底的になくする努力の欠如といっていい。

症状が出ない無症状保菌者や、単なる風邪ぐらいに考えている軽症者などの発見が一番重要なのである。もちろん発病者を除いての事であるが・・・

日本の検査人数が0がが一つ足らないと思えるほど少ないと外国では驚いている。

しかも保健所における検査に保険適用ではあっても有料であるなど阿呆のやること。

くだらない保障に外国の数倍の金を使うなら、検査はすべて無料であるべき、ここに金を使うのが有効な金の使い方であるのを認識すべきである。

金をやるから外出自粛しろ、とか今までの努力が無駄になるなどという言葉を聞くと吐き気がする。

そんな馬鹿が日本にはとても多いのが嘆かわしい。

己は何をどんな努力をした、隠れ感染者の発見に真剣に取り組んだか・・・・

くだらないところを猿真似するより、外国が行っている検査機関の充実と検査費用は無料などの猿真似をするがいい。

感染者が拡大し過ぎないうちに徹底的に検査を実施する必要があろう。欧州諸国のようにならないためにも。

無症状感染者などは一人見つけるだけで、何十人もの感染者を防いだことになる。

鼠算式に増えることをはっきりと認識する必要があろう。

くだらない保障に金を使うより、隠れ感染者の確保に金を使う必要があろう。

行政のコロナに対する認識を根本から改めない限り、感染者は増え続け欧州の二の舞いになりうる素地を含んでいる。

馬鹿は馬鹿なりに考えてもそれが道理というもの。

感染させているものをなくしない限りコロナはなくならないという事ぐらい幾等阿呆でもわかると思うのだが。

諸外国のように感染者の数値が高くなりすぎては、この手段はとれなくなってしまう。


大弁は吶なるがごとし~君は舟なり、人は水なり

2020-05-15 22:18:02 | 随想

 

大弁は吶なるがごとし~~清静は天下の正たりという言葉がある。

知る人ぞ知る、老子の言葉である。

清澄な静けさを守ることこそが世の首長の立場であるという事を解いた言葉である。

訥弁は雄弁に勝ると解することが出来よう。

饒舌がなぜ不味いのか、過去の摂政たちの例はいくらでもある。

まくしたてる割には説得力がない、学生時代は弁論部にいたというから、まくしたてるの得意だろうが、

肝心の頭がついていかないから、人の心に響くものが全くと言っていいほどなかった。

言葉がただ頭の上を素通りしていくだけで、誰も耳にする者はいない。

発言には実行が前提されているという至極簡単なことが、わからないから迂闊な発言などできないのだという事がわからない。

饒舌になればなるほど、主張がくるくると変わって、挙句の果ては失言騒動で追いまくられた阿呆な宰相もいた。

現代では責任を果たすとか、日本を前へ、などと何の意味もない愚にもつかない言葉を並べて得意がってるものもいる。

日本の宰相になぜこのような阿呆が権力を持つのか、これは偏に国民の人を見る目がないことによるのだろう。

ただ、参政権の行使だと、その結果を考えることもなく一山幾等のドングリの中から、適当に投票するからの結果であろう。

現代の日本の政治機構、議院内閣制は形だけで、完全な独裁政治になっていることすらわからない民衆が多い。

議院内閣制の重要な機能が全く作動していない事すら気付いていない、違憲機能を担う最高裁判事の任用についてさえ、

独裁されているのは、違憲立法審査権をさえ無能化する兆しさえ呈している。

憲法を勝手な解釈で憲法違反を逃れようとする態度さえ見える。

恐ろしい国になったものである。

唐の太宗李世民の言行録を編纂したといわれる貞観政要にこんな言葉がある。

君は舟なり、人は水なり

二つの意味があると思う。

ダメな指揮官は平気で部下を殺す、それに対して優れて指揮官は部下を大事にし何とか助けようとする。

わが国にそのような指揮官や宰相が過って居ただろうかと、歴史を通して振り返ってみた。

中には優れたこれ以上ないという指揮官も散見できるがしかし、ほとんどは己さえよければの指揮官がはるかに多い。

この貞観政要の真意はトップの地位は人民の出方一つでたちまちひっくり返ってしまう、という事である。

そうならないように宰相たるもの普段から人民民衆をいたわらなければならないというにある。

己中心、国民無視ではいずれそうなる。

今のコロナの猛威の中、国民に一家たった二枚のマスクを配布するなどと大見得を切ったが、いまだに放置されたまま無しのつぶてである。

マスク一つにしてもこのざまでは日本の将来は見えているようである。

それに引き換え、己らは一日何枚使うかわからぬほどふんだんに使い捨てているのだろう。

国民は罹患しても己らが助かればなどは、部下を犠牲にするダメ指揮官の典型ではないか。

己さえよければの考えが浮かんだとき、宰相の資格は喪失したというべき。

金で釣れば国民は動くと思ったか、金のなる木などあるわけもない、結局は将来の国民にその尻を押し付ける、大盤振る舞いなど有難迷惑。

諸外国の数倍にも及ぶ企業、法人などへの大盤振る舞い、

将来の国民が負担する金であってみればいくらでも出せる、国民の苦悩などわかるわけもない。

戦時中の大本営発表を思いおこさせる。

ダメ指揮官に率いられた日本という国はどうなるのだろうか。

75年前の結果を見るようだ。

日本の政治の典型は政治屋の失敗のしりぬぐいはすべて国民に押し付けられてた。

七十数年前ではあっても、優れた指揮官であってみれば、己の責任を感じて、割腹し自裁している名将も数多くいた。

その最後の言葉は国民の事を思う気持ちが切々と述べられている。

特攻で死んでいった若者たちも、将来の日本を懸念しつつ散っていった。

己よければ国民はどうでもいいでは、宰相は務まらない。

将来の国民をくるしめる大盤振る舞いの金配りはただ無能者の思いつくただ一つの事、

いくら金を出しても国民に負担させればそれでいいという安易な考え。

未練たらしく権力にしがみ付いて、民をくるしめるのが宰相の仕事ではあるまい。

どうやって責任を果たし、どうやって日本を前へ進める、空念仏はお断りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ID19とマスク~人を非難する前に~

2020-05-04 13:44:56 | 随想

マスクの争奪戦がいまだに続いている。

政治屋や官僚役人は何の苦労もなく手に入れているようであるが、手に入れる事さえ困難なのが一般国民である。

それで銭をやるから外出を取りやめろと煽っている、なんともおめでたい政治屋たちである。

もともとマスクは第一義は己を守るためにする、その副次として他人にかける迷惑を回避すること。

だが、現在のコロナ騒動においては、その関係を逆転して考えているものも相当に多い。

という事は街中を歩くものが、発病しないまでもID19に感染していると考えていることになる。

そのID19を体内に秘めた人間が街中にいると考えているが、政治屋はその根源を放置したまま、

ただ効果のはっきりしない外出自粛を国民に強いているという結論になる。

街中を徘徊するID19を持ったものを捜索する手段を放棄するという事は、発病したものだけを対象と考えているという事であり、

病床不足を医療崩壊だと騒ぎ立てるだけである。

いかなる方法を駆使しても、第一にやらなければならないことは、隠れID19を発見することから始まるのではないのかと。

ところが

公共の場でマスクをしない人は、

己がコロナの感染源になるという事を認識できないか、あるいは努力できない人だと、

蔑む言動をする者もあらわれ出した。

非難をする対象が違う。

マスクをしない事によって、被害を受けるものはその当人であり、死へ至る可能性すらある。

それでもマスクをしないのは、マスクを手に入れられない理由があるのだろう。

死をかけてマスクをしない人間などというものはあり得ようもなかろう。

マスクをしない者の状況も分からずに己の論理で、蔑むような非難は的外れだろう。

彼を非難する前に、非難する必要のあるのはID19を体内に秘めたマスクで防がなければならない、隠れコロナを放置して、

実施効果もはっきりしない外出自粛を馬鹿の一つ覚えのごとく叫ぶばかりの猿真似政府なのではないのかと思う。

感染経路のはっきりしない発病者はほとんどがこれであろう。