徒然なるままに~徒然の書~

心に浮かぶ徒然の書

水の流れのように

2020-02-29 13:43:58 | 随想

~森の中を流れるせせらぎのように~

 

深山幽谷とまではいかなくても、深い森を思わせる緑のなかに清らかなせせらぎがあった。

どのようなせせらぎであっても、水の流れの音を聞き、流れる様を見ていると、なぜか心が和んでくる。

この清らかな、水の流れを見ていると、遙か遠い子供の頃を思い出すのが、東京という化け物の住むところへ出てきて以来の常である。

老子の言葉に、上善は水の如し、というのがある。

この言葉がとても好きなんである。

この老子の言葉は、上善如水、などという酒の銘柄が出来て、以来ずいぶんと知られるようになったものだが、その内容を知る人は、

あるいは、とても少ないのではなかろうか。

老子や荘子の言葉は、人間の人生行路の人間学としても、是非とも収めておきたい言葉が多い。

この水に関する老子の言葉を引用すると・・・・・

上善は水の如し。水は能く万物を利して而も争わず。

衆人の悪むところに処る。

故に道に幾し、居には地を善しとし、心には淵なるを善しとし、与りには仁を善しとし、言には信を善しとし、正には治を善しとし、事には能を善しとし、動には時を善しとす。

と読み下すのであるが、その後、夫れ唯だ争わず、故に尤めなしと続く。

要は人と争うなと言うのであるが、長い歴史を振り返ってみると、人間の歴史は争いの歴史と言っていい。

それは現代においても、我らの生き様そのものを示している。

水の性質に範を取った言葉は老子の中には他にもあるが、水は人が嫌がる低い方へと流れていき、

従順柔弱で争わないところに、人間人生の範となるのであると老子は言う。

この様な環境のせせらぎのそばで、ゆったりとした時を過ごしていると、人間社会の喧噪が嘘のように消え去っていく。

人間時には、この様な己の心を休めてくれるところで、ゆったりと過ごす時間が欲しいものである。

夫れ故にこそ老子の言う、不争の徳は重要な意義を発揮するのだろう。

何もこの様に考えるのは老子一人ではない。荘子なども同じようなものであるが 、荘子は老子の処世哲学を、濡弱謙下、などと評している。

水を理想とするのは老子だけのことではないのだが、その老子の中にその特色が見えるのであろう。

数十年も前、アメリカの宇宙船が月に到達したと言われたことがあった。

それが本当のことだとすると、月から眺めた地球の姿は中空に浮かんだ、小さな天体に過ぎなかったであろう。

ニューヨークだ、ワシントンDCだと圧倒的な存在感を示したものも芥子粒ほどの存在感もない。

そんな中で人間という生き物が、目の色変えて争っていた、馬鹿馬鹿しさと空しさに打ち拉がれたことであろう。

人生観が変わった。

その彼らが感じたことは老荘が言う道なるものと一体化したかも知れないし、禅で言う悟りの境地に達したのかも知れない。

人間の賢しらにたって、浅はかな知を働かせ、是だ非だ、善だ悪だと争っていたのがなんとも馬鹿らしく思えてくる。

天空から眺めた地球の姿を見て、あらゆるものに惑わされることもなく、すべてのものをあるがままに受け入れることが出来るような、

自在の境地に立ったかも知れない。

すべてのものをあるがままに受け入れて、この世に生を受けたからと言って、悦ぶこともないし、この世から去るからと言って悲しむこともない。

生きていることも、自然のままを受け入れ、死についいても何も煩うこともない。

人間の死に、二度遭遇したことがあるが、いずれも赤子が眠るが如く、眠りに入っていった。

唯だ、穏やかな眠りに入っていった、それが人間という生き物の死というものであろうと、つくづくと思ったものである。

その眠りに入るとき、何も思い煩いあるいは何も考えない、頭の中を去来するものは何もなかったろう、無心のままに眠りに入っていった。

ただ普通の眠りと違うのは、眠りに入ると、永久に目覚めることがないという点だけであろう。

人間自由自在な境地に達するすというのはこのことであろうかと思ったものだ。

 

人間修行によって、自他の区別にとらわれない、無心となって、現実の中で生きながらえるなどと言うのは、とても無理だと思うようになった。

折角この世に生を受けたのなら、この世にある限り、最高の生き方をしたい。

それには水に学ぶ事である。

水はどのような器にも合わせて、あらゆるものに利益を与え、常に人の嫌がる低い位置を求める。

それでいて時には激流となり岩も砕きながら流れ下る。

しかし普段はいつも柔軟であり、どんな場合も自由自在だから人と争うなどということはないのである。

 

 

参考文献

老子       金谷治              講談社学術文庫


人間という生き物の薄汚さ

2020-02-28 16:22:10 | 随想

長い間人間をやっていると、その生き物の薄汚さが、あまりにも多く目にし、体験することになる。

日本という国を治めている人間は、何事も世にあるものはすべて使い捨てとばかりに、人間という生き物も長い間生きているものは使い捨てにされている。

昔は人生五十年と言われていたが、還暦や古代希なりという年代まで生きた人も多かった。

還暦は人間六十になったことを祝うものであるが、六十になることは干支が六十年で再び一歳に帰ってきたことを意味し、

赤ん坊に生まれ変わったということである。それがめでたいというのである。

古来希なりと言うまで生きる人もいたが、六十まで生きることがめでたいとされる時代であったのである。

近頃は、人生百年などという言葉がばかりがはやりだして、長生きが賞賛されたり或は賞賛する人もいるには居るが、

日本という国に生きているものについてだけはそれは通用しない。

それは年寄りを大切にし、安定した生活を保障する国での長寿の話であり、人間さえも使い捨てにする、

日本という国においては姥捨てに合わない前に穏やかに、終焉を迎えるのが理想である。

まして杜甫が言うような、古来希なりまで生きながらえては、苦しみが増えるばかりである。

しかしよくよく考えてみるがいい、人は生まれたら必ず死を迎える、これは自然の摂理である。

大統領でも首相でも、市の小役人や肥桶を担ぐ人足でも皆同じ平等である。

人は老いて不幸になるために生きているのだろうか、そんなことあるはずがなかろう。

人生の終着駅に来てその終わりをしっかりと締めくくりたいがために、生きてきたのだ。

だが、ただいまの日本ではそれすら思うままにならない。

年老いて、年寄りは年寄り同士助け合えと、放り出される。

これは、地方自治体の小役人の口から堂々と放言された言葉である。

小役人でさえそうなのだから、国が打ち出してくる様々な法制を見ていると、老人阻害は明らかである。

団塊世代が一挙に後期高齢者の世界になだれ込むからと、老人に対する様々な負担が、一挙に三割、四割の負担増になる。

若い世代は親の介護を放置して、介護を他人に任せるのもその一因であるが、介護保険料の老人負担がいかに増えようと、ほとんど頬かむりをしている。

己は年をとらないと思っているらしい。

今のまま、日本という国が続くとしたら、若者世代が老人になった時どんな仕打ちを受けるのだろう。

はっきり言えば日本には老人論という物が無い、ということである。

そんな国の老人は惨めである。

年老いたものはただただ、搾取され、苦しめられるだけであることをはっきりと自覚する必要がある。

ある宗教では、神が人間という生き物を作ったのだから、悪い人間はいないという。

たとえ間違って悪いことをしても、懺悔すれば、天国へいけるなどという宗教さえある。

当然の如く悪さをする人間を予測しているのであり、その懺悔を受ける神父は大忙しであると言う。

さらに一度や二度ではなく、数限りなく懺悔に現れる輩もいるという。

古代中国の考え方は天が人間をつくったのだから、悪い人間をつくるはずがないとは言うが、

このよい人間の中に入れるのは君主であって普通の小人はそうはいかないらしい。

孟子は人は生まれながらにして、善人であるとはいうが、それは単に可能性を意味するだけで、後に様々な修養を積む必要があるという。

修養を積まない人間は悪へ走る可能性大きいというのであろう。

それは則ち根が悪であるからに他ならないのだが、荀子が言うように性は悪であるが修養を積む事によって悪が影を潜めて、

よいことをするようになると考えた方が素直である。

世の中を見渡してみると、すべてその悪を為すのは銭を得るためであり、人を騙して銭をかすめ取り、

己だけはいい暮らしをしたいという願望が、悪へ走らせるのである。

それは、一人一人の人間がそうであると言うのではなく、一つ一つの企業が銭をえるためにあらゆる手段を講じて、

悪に見えないような、すなわち法に抵触する事のないような巧妙な方法を、則ちこれは悪ではありませんよという方法を、

或は人の錯覚、早計を利用し、錯覚を誘うような方法を講じるのである。

そこいらの街を歩いている人間でさえ、銭が絡むと簡単に悪さをする。

例えば公園で財布を拾って中の数万円を目にすると、迷うことなく紙幣を抜き取って、外形だけを、そこを管理するものに届けたりする。

受け取る方も何の疑問もなく、調査することもなく受け取って放置する。

そうゆう輩は決して交番などへは届けない悪知恵を持っている。

こんなことが日常茶飯事の如く起こっている。

様々な手段を使って、個人は個人で法人は法人で、悪人ではありませんよ、を強調しながら他人から銭を巻き上げる事に専念する、

巧妙な方法を考え出していくことだろう。

ただ、老人の望むことは人生の黄昏も美しくありたい、ただそれだけである、だが今の日本じゃ無理なようである。

人生の終焉間近になってこの様な気持ちにさせられるとは、我の人間業は空しいものに成ってしまったように思う。

始めよければ終わり善しとはいかないようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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老荘と淮南子から学ぶ

2020-02-27 15:08:25 | 随想

私という生き物が生まれるまでに、この天地は途方もない無限の時間を経過している。

私が死んでしまった後でもこの時間の経過は無限に続いていく。

この様に考えると、人間という生き物は無限に続く時間の経過のただの一点に過ぎない。

この人間のわずか数十年の命しかないという生き物が広い天下の乱れを憂うるなどは、実に馬鹿げたことでしかない。

そうならば、天下の乱れなどは憂えず、ひたすら我が身のことだけを考えて生きてこそ、永遠の道を、考える資格がある。

この様に、淮南子に書かれた一文があったと書かれているのを見たことがある。

淮南子に言及するくらいだから、老子、荘子に関する書物を読んだときなのだろうと思う。

だが、淮南子を読んだときに、この様な文章があったとは、どうしても思い出せないのである。

気になるので、淮南子を何冊か引っ張り出して、読み返してみたが見当たらない。

今度はこの文章を載せたものがどれだか気になって、老子と荘子を読んでいるのだが、あった、

まさにこの老子荘子というタイトルの(世界の名著シリーズ)書籍であった。

 

けれども、淮南子の詮言訓に所収されているらしいが、所蔵の淮南子の詮言訓では省かれてしまっている。

人間という生き物の一生、せいぜい長くて百年、悠久の時の流れのなかではただの一点にさえならないような時間である。

そんな中のたった百年の間、天下の乱れを憂えて見てもなんの役にも立たなかろう。

 なまじ、天下を憂えて見ても、ただ嘲笑の対象にしかならないなら、淮南子が言うように ただひたすら、我が身が治まるように、

そのことのみを楽しみに生きる者であってこそ、初めて永遠の道を語る資格があるのかもしれない。

そしてこの淮南子を援用した、老子荘子の著者は、この利己的とも言える個人主義に強い反感を持つことは、

そのものが政治的人間であることを己自ら認めたことになるというのである。

しかし、太古以来、政に携わったものたちが、民衆などほとんど眼中になく、ただの搾取の対象としか見なかった、

己の利益のみを追求してきたことは歴史が証明してくれる。

それならひたすら自己の満足を目指して、己自身の安心立命だけを目指したとて、誰に非難されることもなかろう。

このこと、一個の人間の救いだけを利己主義というなら、世の中にずいぶん多くの利己主義な事柄が罷り通っているといえる。

その利己主義の最たるものが、宗教であることは、誰もが思い当たるであろう。

次に考えられるのは、資本主義経済における資本家はただひたすら己の資本の充実目指して信義などは二の次に思っている様に思える。

我が国の、明治以来、働く者に過酷な条件を強いてきたことは明白であり、低賃金で使えるだけ使って、

賃金が高騰すると、さっさと低賃金を求めて、海外へ流出してしまった。

これは、民衆に対する裏切りと同時に、国家に対する裏切りでもあることは明白であろう。

その結果、下請け業者の苦悩など全く関知しないとばかりに、切り捨てる非情さ。

まさに利己主義の最たるものと言えるだろう。

己たちが、戦後の混乱から、立ち上がって、人並みの企業に成長したのは、民衆の血と汗を搾り取って、膨らんだことを忘れ去ってしまっている。

それがその働くものもたちを切り捨てて海外の低賃金だけを目指して。

それが資本主義なのだと言えばそれまでだが、それでも己を成長させてくれた民衆に後足で砂をかけるがごとき海外への転出は、

将に国を裏切り民衆を裏切り、下請け業者を切り捨てた破廉恥さ以外の何物でも無かろう。

エコノミックアニマルなどと、皮肉られているが、とんでもない動物にさえなれないが鬼畜性である。

自然の摂理から言えばその報いは、今後歴然として出現するであろう。

低賃金で作ったものを持ってくるから買ってさえくれればいいという、

超利己主義を発揮した日本人という生き物の非情さ、えげつなさ、を余すところなく見せてくれた。

それで東南アジアの経済発展は目を見張るばかりであるなどとは抜け抜けとよくも言えるものだとあきれるばかりである。

淮南子が言うように、無限に続いた時間と、これからも無限に続くであろう時間の狭間にある、人間という生き物の生きた時間など、

有って無きが如くのものであるとすれば、その狭間でどの様に足掻いてみてもたかがしれている。

己の関知しないところでこの世に放り出され、何時とも知れずに死を迎える人間という生き物であるならば、せめてその生の間をただひたすら、

我が身が治まるように、そのことのみを楽しみに生きる者であってこそ、この世に生まれた甲斐があるというものであろう。

それが人間という生き物の本性なのである。

 

 

参考文献

 

老子荘子   世界の名著   中央公論社


童話ってなんだろう・・・・

2020-02-26 16:36:17 | 随想

世に有名な童話集っていくつかあるが、その中で子供が読んでためになる、あるいは読んで聞かせて、ためになる話ばかりではない様な気がする。

こんな話を子供の心に植え付けては、後々あまりいい心の人間にはならないなあ~って思う話も随分と見受けられる。

尤も、アンドール・ラングの世界童話全集などと言う高尚なものを読んだわけだはないく、精々アンデルセン童話集とかグリム童話集よくてイソップ物語ぐらいの、ほんの僅かなものでしかないのは、先に言っておいた方がいいだろう。

では童話って何なのだろうと・・・・、グリム童話集 金田鬼一訳 岩波書店の序から少々探ってみようと思う。

ではその序から少しづつ抜粋してみると・・・・

グリム童話集は児童及び家庭おとぎ話で、ドイツの民間で、口から耳へと生きている古い話を時がたつにしたがって変形していく前に、

古老などの口から聞いたままを、内容、形式を忠実に書き下したものだという。

グリム童話は怖いという話をよく聞くが、童話即ち子供向けばかりの話ではない家庭用の話でもあるので、ドイツにも怖い話として伝わっているものもあるのだろう。

我が国のおとぎ話の中には、能々味わってみると実に怖い話もある。

元々、おとぎ話と言うのは御伽の衆の話として、戦国時代の大名などお伽の時に語られたものなのだろう・・・・・

当然大人向けの話であった。

お伽衆の大名の殿様や大王に聞かせる話は千夜一夜物語、すなわちアラビアンナイトなどもその形式を取っており、これは大人専用のおとぎ話である。

千夜一夜物語はあまり性質のよくない大王の夜伽の伽を命じられたシャーラザットとドウニャザットの姉妹が、千と一夜にわたって話し続けた物語である。

とてもエロチックな話の連続、シャーラザットなど千と一夜の話の間に三人の子を産むというとても過酷な面もある。

まさに暴君という大王様である。

この千夜一夜物語は大人の話、童話とは全く異質な話なので、またの機会と言うことにしよう。

山東京伝の異制庭訓にある祖父祖母之物語・・・むかしむかしじじとばばありけり・・・・の決まり文句で始まる・・・・・童の昔話と称え、

約めて童話としるして、ドウワまたはムカシバナシと読ませていたという。

山東京伝は江戸後期の浮世絵師と言うのか、黄表紙作家と言うのか特異な存在の人物である。

出版規制によく引っかかり、手鎖の刑に処せられたり、面白い人物であったようである。

童話と言う成語を使ったのは恐らく彼が最初だろうと書かれている。

グリム童話集だけに限って言えば、児童用おとぎ話と家庭用おとぎ話の合体したもので、京伝の昔話ではあるが、馬琴の童物語ではないという。

黄表紙は江戸の庶民の読み物としてとても人気があった。

京伝はその売れっ子作家であったようである。

いわゆる童話はいまだ純白な心の持ち主であるだけに、大人の汚れた世界の話は読ませたくないのが、親としてはその内容に十分気を使う必要があるだろう。

アンデルセンの童話などによくみられるのであるか、金持ちは皆に敬われ、金のない貧困なものは蔑まれ、いじめられるとか・・・・・

金持ちはいい嫁さんをもらえるとかの、風潮を子供心に植え付けるのは、現代社会そのままの様で、子供にはいい影響を与えない童話と言える。

いじめられて死んでしまう様な物語は童話としては最悪なものであろう。

グリム自身の言葉を借りれば「将来繁栄の可能性を有するものはすべて自然(生まれたまま)なる者であり「我々が教育読本のために求めるものは、

背後に何ら正しからぬものを匿くしておらぬ素直な物語の持つ真の内にある清浄無垢である」鳥が空に棲む如く、

魚が…水の中に呼吸するがごとく、花が大地に根を下ろしているがごとく、人間の児童は真理の国に生活する。

しかるに、意識せずして真理の国に住むこの児童がおのずからにして大自然の教え子あることを思わず、

人間一切の教訓は大自然そのものから来ることを忘れて、成人が意識的ならびに無意識的の越権から生ずる悪魔的ともいうべき行為によって、

刻々に児童の純真な心を損ないつつあるのは、真に情けない伝承と言わざるを得ない。」

と訳者金田鬼一は記している。

まさにその通り、様々な童話から受けることによって、純真無垢の心を捻じ曲げてはなるまい。


日本の伝説

2020-02-25 15:26:53 | 随想

遠野物語で夙に有名な柳田國男がその著書日本の伝説の中で、日本は伝説の驚くほど多い国であると言っている。

色々伝説めいたものは小さなころより聞いてはいるがそれほど多いとは思ってはいなかった。

以前はそれをよく覚えていて話して聞かせるものも、何処の地方でも随分といたのであるが、近頃は色々考えなければならないことが多くなった為か、

そんな話を喜んで聞く人も少なくなった。

その為次第に忘れたり間違えたりして、昔から伝わる伝説とは違った内容のものになったりする。

と柳田は言っているが、これは柳田が生きていた時代、明治から大正にかけての事だから、その頃よりさらに忙しい時代である現代では、

特別な処でない限り伝説の語りなどはほとんど聞くことも出来ないであろうし、伝説などに気を留めるものもほとんど居なかろう。

それで、特別な地方であっても、昔の儘の伝説が残っているとは思えない。

可也変形した形のものであるのかも知れないものが、あるいは伝説として伝わったと思われるものが残っているかもしれない。

その柳田の日本の伝説の中に面白いものがあった。

云われてみればなるほどとうなずける様なことなのだが、それは神争いと言うものだそうだ

神様の喧嘩で、人間はどちらかに味方すると人間にたたりがあるのではと思ったりもする。

ところで伝説と民話の違いって何だろうと、考えた人はそうは多くはなかろう。

多くの人は民話も伝説も同じ様なものと思っているのではなかろうか。

小生もその一人であるが、話を聞いてもどちらかなどと考えたことはない。

話の内容によって勝手に民話だ、伝説だと勝手に思っていただけである。

柳田による民話と伝説の違いと言うものを区別しているので、その一部を抜粋してみよう。

昔話は動物の如く、伝説は植物の様なものであります。昔話は方々を飛び歩くから、何処に行っても同じ姿を見かけることが出来ます。

伝説はある一つの地に根を生やしていて、そうして常に成長していくのであります。

雀や頬白は皆同じ顔をしていますが、梅やつばきは一本々々枝ぶりが変わっているので、見覚えがあります。

可愛い昔話の小鳥は多くは伝説の森、叢の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の趣旨や花粉を、遠くまで運んでいるのも彼らであります。

自然を愛する人々は、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和を面白がりますが、学問はこれを二つに分けて考えてみようとするのがはじめであります

日本の伝説  柳田國男著より抜粋。とても面白い見方です、その通りかもしれません。

伝説の中に神いくさと称されるものがあります。

日本一の富士山でも昔は方々に競争相手がおりました。

土地の人々は自分の土地の山を愛するあまり、山も競争せずにはおれなかったのでしょう。

大昔、御祖神が国を巡っている時、日の暮れに富士に行って一夜の宿を願った。

ところが富士は今日は新嘗で物忌みしているからと断った。

御祖神が筑波へ行って宿を請うと、つくばの方では反対に今日は新嘗だから構いませんと泊めてくれた。

御祖神は大喜びで、この山永く栄え一常に来たり飲食歌舞たゆるときもないように多くの祝い言葉をくれた。

その為か筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しみ多い山となったのはその為で、富士は雪ばかりが多くて、登る人も少なくて食物にも不自由しているのは、

新嘗の夜、大切な客を返した罰だと言っていますが、これはつくばで楽しく遊んだ人ばかりが語り伝えた昔話だろうということのようです。

また富士と浅間山が煙比べをしたなどの話も古くには有った様だけれど、今は残っていない。

山の神の戦いで有名なのは野州日光山と上州の赤城山の戦い。

古い二荒神社の記録に詳しくその合戦の模様が書かれているという。

日光山方が負けそうになったとき、弓の名手の青年が現れ、神に頼まれて加勢をして、赤城の神を追い退けた。

その戦いをした跡が戦場ヶ原と言い、血は流れて赤沼となったとも言っている。

誰が聞いても本当とは思われない話ではあるが、以前は、日光の方でこの話を信じていたものと見えて、

後世になるまで毎年正月の四日に武射祭りと称して神主が山に登って赤城山の方に向かって矢を放つ儀式があったという。

その矢が赤城山に届いて、明神の社の扉に立つと氏子たちがその矢を抜いてお祭りをするのだと言っていた様だが、

果たしてそのような事があったのかどうか・・・・・・

赤城の方の話は分からないという。

赤城山の周辺に於いても、この山と日光山とは仲が悪かったこと、それから大昔神の戦いがあって、

赤城の方が負けて大怪我をしたことなどが語り伝えられているという。

それからまた、赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣でなかったそうである。

神の喧嘩によって、その氏子たちがそれに倣った例は全国にいくつもある。

信州松本の深志の天神様の氏子たちは島内村の人と縁組することは避けたという。

それは天神は菅原道真であり、島内村の氏神武の宮はその競争相手の藤原時平を祀っているからだという。

嫁婿に限らず、奉公に来たものでも長く居ることはなかったと言われている。

時平を祀ったというお社は下野の古江村にもあって、これも隣の村に菅公を祀った鎮守の社があって、

昔からその村との仲が悪くて、この様な想像をしたのではないかと言うのである。

古江村では、この二つの村では男女の縁を結ぶと、必ず末が良くない、

更に庭には梅の木は植えず襖屏風にも梅の画は描かず、衣服の文様にも描かなかったという。

 

この天神と時平の社との関係は全国至る所で見ることが出来る。

人の怨念と言うものはこのような処にも表れるのかと、人間と言う生き物の怨念の荒ましさをつくづくと思い知ることになる。

何か昔から天神を祀ることのできないわけがあって、

村に社があれば藤原時平の様に生前菅原道真と仲の悪かった人の社であったように想像したのではなかろうか。

そこには藤原時平の古塚があって藤原の時平の墓だと言っていたのだろう。

だが、こんなところに墓があるはずもなく、後になって誰かが考え出したものだろうということのようである。

菅公の天神は祟り神であるから、天神に対して不始末や裏切りがあると祟られることは十分にありそうである。

祟り神の恐ろしさは現代に於いても言われることがある。

将門も祟り神で、将門の首塚を動かそうとして、それに携わった者にたたりがあったとはよく耳にする話である。日本でも最大のたたり神は崇徳上皇であろう。

これは明治になって天皇が祟りを治めるための供養をしたといわれている。

こんな伝説はあまり歓迎したくはありませんが・・・・・

 

参考

日本の伝説       柳田國男著       新潮文庫